3章
伊藤からの急ぎの電文を受けた時、木戸はまたいつものことかと思った。
書状、電文、突撃訪問。
伊藤博文という男は、どうしても自分が萩にあることを許したくないらしい。
木戸は放って置いてくれない後輩に、時に苛立ち、そして気にかけてくれているということは、やはりどことなく安心する。おかしなものだ、人の心とは。二つの心に逡巡し、二つの心に彷徨う。
伊藤さまなよりの電文です、と渡された時は、いつもの定時報告くらいだろうと思い、二つ折りされた紙を開いた。
だが、その電文の言葉に次の瞬間、木戸は我を失う。
ヤマガタ、キトク スグニ戻ラレタシ
手にしていたはずの電文が、はらりと宙を舞った。
「帝都へ戻る!」
木戸はそう叫ぶと、無意識のうちに身にまとっていた着物の帯を解いた。
前よりもずっと細くなった体が露わになる。
だが今はそんな事を気にしている場合ではない。愛しい恋人が己を待っているはずだから。
家のものたちは突然の事に戸惑っている様子である。しかし木戸にはそれを顧みる余裕すら無かった。
「狂介が危篤なんだ。逢いにいかなくちゃ」
玄関端で心配そうに佇む妻にそれだけ言うと、青い顔をしたまま迎えに来ていた馬車へと跳ぶように乗った。
そう。伊藤から送られた電文の内容の真否を微塵も疑うことはなく。
まんまと伊藤の策略にのってしまったことなど露とも考えず、
木戸は帝都への道を、胸が押しつぶされるほどの痛みと不安と焦燥を抱えて急いでいた。
昨今、帝都は不平士族などが暴漢となり跋扈し、政府高官が闇討ちされる事態になっていることは木戸の耳にも届いていた。
日ごろより山県は健康には人一倍気をつけている男だ。また規則正しい生活を旨とし、時のその過ぎる健康志向に木戸は茫然としてしまうこともしばしばだ。
『狂介はきっと長生きするね』
と、笑ったのはいつだったか。
風邪も滅多に引くこともなく、体調不良もほとんど見たことがない。
木戸の頭には山県が体のことで「危篤」になることは考えられず、
もしも危篤になる事態があるならば、「闇討ち」しかないと心のどこかで思っていた。
「……きょうすけ」
どうか無事でありますように。
木戸は祈ることしかできない自分が苦しくて、痛かった。
「フフフフッ・・今頃木戸さんは顔を真っ青にしてこっちに来ているだろう」
「お前なぁ・・・」
「あの人のことだし・・来ないはずがない」
人の良心を利用し、こうやって不敵に笑っている伊藤を、山県はあきれながら見ていた。
いつもより青く見える顔は、いやいやながらつけさせられた化粧のせいだ。
伊藤の横で、によによと笑んでいる井上と山田は今や遅しと、「特設病室」で、山口から数日前出た木戸を待っていた。
扉のほうから、荒々しい靴音が聞こえる。
とうとう、木戸が来たのだろうか。
木戸登場を緊張しながら見守る「長州閥」の人間たちだが、
ふと山県はため息をついて、
「木戸さんではない」
と、緊張を解いた。
「足音が全く違う。あの人は、いかなる時もきちんとした歩調を取る人だ。またこの足音は二人……」
「へえぇさすが山県。耳だけはめちゃくちゃいいよね」
と伊藤がニヤリとしたときに、遠くから「閣下~」となんだか間延びした声が聞こえてくる。
見るからに逃げ出したくなった山県の袖を掴んで、伊藤は離してはやらない。
「伊藤」
「おまえは危篤の重病人。誰にでもそういう体勢で望むと決めたばかりじゃないか」
さぁ横になってちゃんと寝ていてよ。
伊藤に無理やり蒲団に押し付けられ、掛け布団をかけられた山県はうんざりとした。
「閣下~閣下。この太郎……いてもたってもおられず看病にまかりこしました~」
桂太郎の声にさらにうんざりとなった。
部屋に飛び込んできた桂は、涙をポロポロと流して山県に抱きついてきた。
「閣下。山県閣下。この太郎は、太郎は」
と、力のままに抱きつかれ、山県は内心ぐったりである。
また桂の後ろにはニタニタ顔の小男、あだ名の「木鼠」に相応しい顔をした児玉源太郎の姿なども見え、山県は本当に病人になりそうな気分に陥った。
「桂がさ。閣下が病と聞いて、もう仕事がまったく手につかないんだよ。いいね、山県閣下。こんなにも桂に愛されてさ」
児玉の言葉に、その場の人間の視線が集中する。
「僕ほど閣下を愛している人間っていないですよ」
満更ではない桂の顔に、一番最初に反応したのはなんと伊藤だ。
「桂君。君ね。節度というものを少し守ったらどう。それにいつまでも抱きつきすぎ」
「もしかして伊藤さま。妬いているのですかぁ」
「誰が」
桂に向けて扇子を繰り出した姿など妬いているとしか思えず、その場のものは桂に抱きつかれグッタリとしている山県を忘れて、桂と伊藤のにらみ合いに注目した。
そんな中、障子戸の外に一人中を見守る姿があった。
桂太郎の姿に気を捕らわれて誰も気付かぬ中、その影はグッタリとしている山県にだけ注がれる。
わずかな気を捕らえ、恐る恐る視線を障子戸に向けたのは山県だった。
「木戸さん……」
うめくようにもれたその声に、全員の視線が瞬時に障子戸に注がれた。
「……狂介。顔色はよくないようだけど……体の調子は……」
唐突の来訪にその場の全員が演技を忘れて、ただ茫然となった。
「うわぁぁん、木戸さんだぁ。久しぶりだよ」
瞬時に覚醒した山田顕義は、木戸の体にギュッと抱きついてしまう。
「……狂介……」
そんな山田に気をやらず、木戸の目は山県の安否だけを気遣っていた。
「木戸さん。そんな心配そうな顔をしないで下さい。なにこの男は、たかが暴漢にあったくらいでは死にませんよ。ついでに厄介な病に倒れたりしましたけど、もう動けるほどにいいんですから」
どうにか取り繕うように発した伊藤の言葉に、木戸はその場にへなへなと倒れるかのように身を沈めてしまった。
「本当に……狂介…そんな青白い顔で。危篤状態と聞いたけど……」
「運が悪いことに風邪が悪化して唸っているときに出仕して、暴漢に襲われこの始末なんですよ、木戸さん」
伊藤がとりあえずつじつまを合わせるために語りだす。
「僕が木戸さんに電報を打ってからここしばらく、ずっと山県は安静にしていたからもう大丈夫なんです。ねぇ山県」
そこで井上がにやりとして、山県の背中をつねった。うぅぅと冷や汗が流れる山県を見た木戸は、さらに心配げな顔をして部屋に飛び込んだ。
「きょうすけ……大丈夫なのかい。狂介」
さらに井上に背中をつねられ、山県は二の句も告げずにその場で目を閉じる。
「なんだかけっこうやばい状態なの、こう見えて山県はよ。桂さん、付っきりで看病してやってくれよ。俺たちはみんな看病疲れで疲れてしまってさぁ」
井上の言葉に深く頷いて、木戸は山県の手を取った。
「私が看病するよ。大丈夫。仕事があるみんなと違って無役の私はとても暇だし。狂介、ずっと看病するよ」
してやったり、の井上は軽く茶目っ気を見せて伊藤に片目をつぶってみせる。
木戸に手を握られ、山県はどうにか言葉を発そうとするが、井上ばかりか伊藤にまで背を抓られ、半分涙ぐみながら二人を睨みすえてしまった。
「大丈夫なの、狂介」
そのさまを木戸はさらに心配となり、山県の体を抱きとめる。
「木戸さんがいればガタは大丈夫だよ」
山田がにんまりしして言い、
「快方となればどこかの日本庭園で宴をしたいといっていたからさ。木戸さんと一緒ならこいつも喜ぶと思うし」
「宴……狂介は宴をしたいのかい。承知した。だから早くよくなって。早く……狂介」
ギュッと山県に抱きつく姿を見て、伊藤が静かに言う。
「木戸さんがいなくなってからこいつおかしかったんですよ。なんだか視線も虚ろで。きっと木戸さんがいなくて寂しかったんでしょうね。木戸さん……こいつのためにももうどこにもいかないでください」
ここぞとばかりの言葉に、木戸は現在山県の状況が心配のあまりうんうん、と強く頷くのだ。
「どこにもいかないよ。狂介の看病をずっとしているからね」
得たり、と伊藤はこれ見よがしに人知れずにんまりと笑った。