額田の恋語り一夜

3夜

 その人の名をふひとという。
 藤原京遷都の立役者であり、朝廷においてその自らの実力で権力を手にしつつある青年に、額田王が久方ぶりに再会したのも月光の灯りの下だった。
「おひさしゅう」
 もはや月明かりの下を一人散歩をするのが癖となりつつある額田王を見て、女がこんな深夜に一人歩きとは、と驚いただろうに、 眉一つ動かすことなく涼やかな表情のまま、史は会釈とともに「お久しぶりです」とかえし、
「ご婦人がこのようなときに一人歩きとは関心いたしません。私がお送りいたしますゆえ、館にお戻りを」
 その淡々としつつも、どことなく柔らかさを浮かべる物言いは、史の父によく似ている。
 懐かしさと愛おしさに額田の心は感傷に浸ったが、同時に悲しみをも抱くのだった。
「こんなおばぁちゃんをご婦人とは、史殿はほんに女性の扱い方をよくご存知で」
 すると史は、今宵の三日月の月光の如し鋭さの表情のまま、フッと冷たく笑む。
「額田王は男たるもの皆の憧れ。変わられぬ美しさのまま、貴方は伝説であり続ける」
「伝説……それは、今となっては貴方の父君のことを指すのではなくて」
「父……ですか」
「時は人よりいとおしきものを奪い、また時がいとおしいものの片鱗を一握たりとも返してくれる。史殿、いまの貴方様のお声、その立ち居振る舞い。良く似ておいでになる、父君に」
 すると史は月光の下で無表情の中にも、どこか苦しみを瞳に浮かばせたかと思うと、強引に額田を抱いて馬に乗せた。
「私の館にご招待します。月見でも致しましょう」
「まぁ……史殿にこのような強引さがあられるとは思いもよらないこと」
「私も女性を、このように馬に乗せたのははじめてです」
「あらあら」
「あの父ならば、決して致しますまい。額田殿、今日は私にお時間を。久方ぶりに父のことを誰かと話したいと思っていましたので」
 額田が静かに頷くと、史はそっと緩やかに馬を進めた。
 ひとり、史の胸の中でその鼓動と温かさを感じながら、額田は一人目を閉じる。
 こうして、史の父に抱かれた日々が、今では夢のような、そんな感覚が哀しかった。思いは過去に戻っていく。


 宝女帝の命で、采女の額田が異国渡りの菓子を持ち、丘の上の葛城皇子邸を訪ねたのは十三歳の春。
 額田は手足がガタガタと震え、預けられた菓子籠を落としてしまうのではないか、と気が気でならなかった。
(ここにあのお方が……)
 昨年、五年ぶりに思い人の顔と声を聞いた額田は、はじめてその人の名を知ることができた。
 中臣鎌足。
 若き中臣家の主にして、当代一の俊才の名を蘇我入鹿と争う切れ者と名高き人。その才色兼備なところと、女帝には昔馴染みということもあり、葛城皇子の教育係に抜擢されているという。
 宮殿では密かな噂ともなっていた。
 ………女帝は我が子葛城皇子よりも、中臣鎌足の方を可愛がっている、と。
 館を守る衛士に要件を告げると簡単に通された。額田の胸のドキドキさが高鳴っていく。
 単に菓子を渡すだけだというのに、会えないかも知れないのに、もしかしたら会えるかもしれないという期待が心をしめ、 会えたらなんといおうかという不安が微かに胸をチクチクと痛ませる。
 会いたい……けれど、六年も前の一瞬のことを鎌足は覚えてくれているのか。
「何を震えている」
 ぼんやりと歩いていたからか、いつのまにか案内の衛士とはぐれてしまい、まったく此処がどこか分からない場所を額田は歩いていたのだ。
「えっ……」
 声をかけてきたのは、大王の館で何度も顔を合わせているというのに、一度たりとも言葉を交わしたことがない人。今、黒猫を抱いて素っ気無く声をかけ佇んでいるのは、館の主、葛城皇子だった。
 不意に声が飛んできたので、額田は驚いて挨拶も忘れ、その場にぼう然と立ち尽くした。
「具合でも悪いか。身体全身が震えている。……どうでもいいが、この場で倒れられるのは迷惑極まりない」
 何の感情も込められてはいない声。
 額田はビクッと身体が動き、この人に何一つ興味がないという顔をしている美麗な少年を、ただの一言で憎らしく思ってしまった。
 それにしても人には冷酷なほどに冷たく、刃を思わせるほど鋭く切りつけるというのに、手に抱いている黒猫は優しく宝物のように抱いている。
(この男の前で倒れたくはない)
 巫女としての直感ともいえる。自分は生涯この男を好ましく思いはしない。
 それどころか生涯この男と友好的な関係を築くことはなかろう。
 背に走った寒気を伴う直感は、一度たりともはずれたことはないのだ。
 額田は無意識に葛城を睨み吸え、葛城はまったく気にならないのか黒猫の頭を撫でていた。
「皇子」
 額田にしてみれば重苦しい雰囲気のこの場所に、現れたのは一人の青年。
「女性には、一定の労りをとお願いしたと思いますが」
 今日は軽装で冠をつげずに髪を軽くとめただけの中臣鎌足が、こちらも無表情に近いが、葛城に比べれば若干は人らしさが見られる表情で、額田の背後より歩み寄ってきた。
「俺は人が嫌いだ。女は特に好かない」
「皇子」
「女など……おまえに石川麻呂と手を結ぶために娘を一人あてがわれたが、あの娘とて義務ゆえにだ。女などおぞましい」
 鎌足は少し吐息をはきかけたが、それを留めて苦笑をし、葛城の腕の中にある黒猫にそっと触れる。
「皇子が心を許すのは、いつまでも君一人ということか」
 黒猫は鎌足に頭を撫でられようと、その目は葛城に向けられたままだ。
「それは少し違う……」
 そっと葛城の目が鎌足に向けられ、信じられないことがおきた。
 瞬きするまでの間でしかなかったが、鉄面皮といえるほどの無表情な葛城が、その面に穏やかな色をつけたのだ。
「少しだけだが違う」
(この人は……葛城皇子は)
 人嫌いで有名で、母の女帝であろうと表情を緩めることなく無表情を崩さない葛城が、ひとり鎌足に向けた一瞬の表情。
 それが物語る感情は、額田には明々白々だった。
(鎌足さまが好きなのね。……人として唯一人だけの特別)
 自分が心を許す人間は唯一人。その人間であるおまえだけは、決して誰にも渡さない。そんな声が額田の耳には聞えたような気がした。
「鎌足さま」
 額田は無意識に声を放っていた。
「私……私は」
(この皇子に負けたくはない)
 そんな感情が胸に到来し、意地でも鎌足の視線を向けさせたくて、だが続く言葉が額田にはなかった。
「小さな天女殿」
 ハッと額田は……六年前のはじめて鎌足に会ったときの言葉が頭に鮮明に蘇る。
「鎌足さま……」
「私の意識では二度目だが、はじめましての方が良いか」
『ここで私と会ったことを内緒にして。永遠に内緒にして』
 あの六年前の一方的な嘆願を鎌足は覚えているというのか。そして、それを守ってくれているというのか。
 涙がでるほどに嬉しく、自分という存在をその頭の片隅であろうと刻んでくれていたことが額田にとっての最たる喜びとなった。
「宝大王にお仕えしていると聞いていた。姫が鏡の里を出られようとは思いもよらないことだったが」
「私も……」
 里を出られようとは思いもよらなかった。その言葉は一つの鋭い視線を感じて、言葉にはならなかった。
 冷酷なほどに冷たく、殺気までをはらんでいるひとつの視線。
 恐る恐る振り返った額田の視線を捉えたのは、葛城の氷を含んだ冷ややか過ぎる瞳だった。
(やはり………)
 額田の勘は、一度たりともはずれないことを、今、またしても思い知る。
 葛城皇子にとっての唯一特別たる鎌足に、私は思いを寄せ続ける女。
 鎌足の顔を見れば喜びと、なんともしれない胸の甘さで自然と顔も緩み、女としての恋の表情が面に出てしまうのだろう。それを葛城が面白く思うはずがない。
(鎌足に近づくものは……容赦はしない)
 それを冷酷な瞳が告げている。
 この瞳に怖気ついてはならない。この冷たすぎる……人を人とも思わない顔をした葛城に、額田は心底より負けたくはないと思った。
 今は睨み返すことしかできない。
 この冷酷さに負けはしないと自分に言い聞かせて、額田は決して葛城から瞳を逸らそうとはしなかった。
「姫……皇子よ」
 鎌足が吐息交じりの言葉をかけてきても、二人は視線は外しはしない。
 そう鎌足がどこか優しさと、二人を面白いというかのように唇に冷笑を浮かべたことも二人は知るまい。
 この日、二人は互いを敵と認識した。
 いずれ排除しなければならない、生涯を通してつきまとう敵、と。
 この後三十年もの長き間、額田の一番の敵はこの後に中大兄皇子と呼ばれる葛城皇子であり続けたのである。


 藤原史という青年には、一つの噂が付きまとうことを額田はよく知っていた。
 それが彼という輝かしき青年の、ひとつのしこりであることも承知の上である。
 その日、月光に包まれた庭で深夜まで語り合った額田は、柔らかく笑いながらも、史に喜びと哀しみの両面の感情を持ち続けていた。
 生存する唯一人の鎌足の子息。
 鎌足と再会したときと、さして年のころは変わらない……いや、史の方が幾許か年上か。
 涼やかな無表情も、優雅な立ち居振る舞いも、時折見せる表情もよく似ている。
 されど……だ。
 史には一つの疑惑があり続ける。
 その母車持与志古が、もとは中大兄皇子の妻の一人であったこと。それがある時、鎌足に突然下げ渡され、すぐに誕生したのが史という存在だった。
 当時から内臣鎌足の次男は誰の子、と囁かれたものだ。
「言いたいものには言わせておくといい」、という風情で、まったく鎌足という人は気にもしていなかったが、それでも噂は消えることはない。いや、今、史が権力の座に上り始めたからか、その出世の早さはかつての帝の落としだねで、 実質姉にあたる讃良女帝はすべてを知っているゆえに取り立てている、とヒソヒソと囁かれている。
 もはや、かつての中大兄皇子の姿も、中臣鎌足の姿を思い浮かべられる人間はさして、ない。
(鎌足さま……)
「額田殿。私は父の若かりしころに少しは似てきただろうか」
 史は月を見つめながら、小さく呟いた。
「十一歳のときに父が亡くなり、もう父の姿をほとんど覚えてはいない。父は私を可愛がってくれたが、私には鎌足という父は、栄光であり苦しみの対象であり続けた」
「偉大なる父をもたれると子どもは大変ですわね」
「それでも父は私の最大の栄光です。少しでも追いつきたい。額田殿を見るといつも思い知らされる。貴方の目は、いつも私に叩きつける。……それほど私は父に似ていないのか」
 ハッと額田は想像もしていなかった言葉に身構えたが、すぐにいつもの柔らかさに戻っていく。
「……似ていますよ」
 ただ一言。史は誰にとは尋ねはしない。今、それを突きつけられれば、自分の中で培ってきたすべてが崩れるかもしれないと危惧したからか。それとも、はじめより聞くつもりはないのか。
 史にとっての父は中臣鎌足でしかない。
 誰が何を口にしようとも、だ。それを史はよく心得ているだろう。
「また月を愛でましょう額田殿。父の話ができるのも貴方だけになりましたゆえ」
「えぇ。……ときおり鎌足さまのことを誰かと語れるのはうれしき事」
 例え、かつては憎み身を奮わせ……羨望した与志古の息子たる史であろうとも。
 史を見ると、思い出す。
 少女の如し可憐で柔らかく、女としての美しさ、女らしさを身に纏い続けた与志古。史はその姿によく似ているではないか。 そして物腰は、史自身の目標たる鎌足に。
 その姿は……
 そう今日の月は知っていようか。
 史の姿はいったい誰に似ているのか。どちらに似たのか。
 額田はフッと微笑を月に与えた。
 今はまだ語るときではない。ただ……史の姿がもう少しあの方に似ていれば、この胸の中の苦しみは、時が経てばもっと安らぎを与えてくれたのではないか。
 時は人よりいとおしきものを奪い、また時がいとおしいものの片鱗を一握たりとも返してくれる。
 そして残酷な仕打ちも、時に下すこともあるのだ。
 額田は史を見つめ続ける。
 その目は哀しみと、喜びに満ち、憎しみすらも含みつつも、安らぎを持つ。
 それは何故なのか、今は月だけしか知らないこと。
 かつての思いは、もう時が埋没し、額田の心にしか残ってはいない。思い出の名のみで……生き続けるしかない。

額田の恋語り一夜-3-1

額田の恋語り一夜 3夜

  • 【初出】 2006年ごろ / 3夜まで。続き更新未定
  • 【改訂版1】 2012年11月21日(水)
  • 【備考】 輝けるものの外伝
  • 晩年の額田王が若き時の思いを語る話。現在3夜まで。1話完結話
  • 期間未定ですが、いつか続きを書きたいです。