時空の彼方から 外伝2 遠き日の誓い




「生まれたときから、おまえは特別だったさ、鎌子」
 長く伸ばされた鎌足の髪を一房つかみ、その目の美しき黒曜石の瞳と同様の髪に中臣金は見惚れる。
「金はよくそんな言葉をいう。私の存在からしてとんでもないやら……いったいなにを意味しているのか」
 フッと金は冷めた笑みを漏らし、その手から髪を解き放って、
「まだ知らなくていいさ」
 小さく呟く。


 飛鳥という我が国の政治の中央より少しばかり離れた閑散とした摂津三島の地に、中臣本宗家はあった。
 分家が中央に接近し、連という地位を得て、大連物部氏と手を組み、皇位継承や神仏闘争という国事に携わろうとも、本宗家はなにも関与しない。昔ながらにこの国の神々に仕えるのが「中臣」という「神と人の仲介者」と定められた家のとるべき道と考えていた。
「金、おまえの従弟ですよ」
 その三島の中臣家は二家に分かれている。
 神事をとり行う宗家中臣家と、地方豪族としてその地の行政を担当する本家のニ家に、だ。
 二家は遠き昔は一つであり、いつごろに分離したのかも定かではないが、何世代の昔から婚姻を繰り返しているため、今では「ひとつの家」同様である。
「豊人おじにこどもが生まれたのか」
 本家跡取の立場にある中臣金はこの時三歳。
 隣家の中臣宗家当主豊人に、はじめて子供が生まれた。親戚の中でいちばん年下だった金に、その子どもは「兄」気分を持たせた。
 宗家当主豊人はこの時、二十八歳。
 数代前より宗家には娘しか生まれぬ現象がおきており、豊人は跡取娘渡乃に迎えられた入り婿といえる立場だ。
 連れ添って十数年経ちながらも渡乃との間に子どもが恵まれず、そろそろ子宝を諦めようとした頃合にひょっこりと生まれて来たのがこの子どもだ。
「母上。男の子か。女の子か?」
 抱かせて、と手を差し出すと、赤子を抱いていた母美久は頭を横に振り、
「この子はおまえの従弟であるけれど、同時におまえが生涯守らねばならない子」
「母上?」
「本家を継ぐ跡取たる金。この子は中臣家の至宝。決して外に出してはならない神がかった子。おまえのもてる力をもってこの従弟を守り通すと誓いなさい」
 もとは宗家の双子の跡取娘であった母。今は本家の正妻として厳然たるところがある母だったが、その日に関しては身は厳粛に染めて、金に挑むような目を向けた。
 わずか三歳。すでに本家の当主を継ぐものとしての教えを受けてはいるが、それでも分別すら定かならない幼子には、今の母の言葉は難しすぎた。
 誓いという言葉の正確な意味すら知らぬというのに、
 その時の母の気が、幼い金に確たる意味も知れずに「誓い」を口にさせた。
「誓う」
「よろしい。では金、この子をその腕に抱きなさい。この子の名は鎌子。長じての名は鎌足。中臣鎌足です」
 楽しみにしていた従弟を、ようやく腕に抱くことが許された。
 両腕で丁寧に、やさしく抱きしめて、
 そのぬくもりが愛しく思わぬことなどないというのに、
「今日から金は鎌子の兄であり師。そして生涯傍らにあり、その身を慈しみ助けること。この子は中臣の特別。中臣の聖を一心に受け継ぐ子」
 腕の中でパッチリと目を開き、金を見てにこにこと笑う赤子を、
 母の言いつけではないが、金は生涯この手で守り通そうと誓った。


 鎌子が最初に予言をしたのは三歳のときだ。
 金と一緒に川遊びをしていたときに、唐突に川の流れを見ながら、
「金、嵐が来る」
 といった。
「人が水に飲み込まれて、倒れている」
 川の水面が人の血に染まっている、と鎌子は指をさして、
「こわい」
 その身をガタガタと震わすので、異常に気付いた金は川に入って鎌子を強引に川辺に引きずり出し、
「大丈夫さ」
 両腕で愛しいものにするようにやさしい抱きしめ方をして、あやす。
「幻を見たんだよ、鎌子。こんないい天気だ。嵐などこないさ。川も氾濫しない。人も死なない。明日も一緒に川遊びに来ような」
 それども震えがおさまらない鎌子を背負って館に戻った。
 その晩、鎌子は高熱に苛まれ、うわ言のように「川の水が血に染まる」と喚いたという。実際、その晩より天候が急転し、鎌子のいうが通りの暴風を伴った嵐が三島を襲った。
 家という家を吹き飛ばし、穏やかな川は暴風に抗うように氾濫の一途を辿った。どれだけの民家が川に流されたかも知れない。
 翌朝、金が付近の様子を見に訪れたとき、昨日まであった集落一帯がきれいに消えているといった現実があった。後ろ髪を引かれるかのように川を見に行くと、川下には人の遺体や家屋の残骸などが満ち溢れ、異臭と鎌子が表現したとおり、一帯は川の水すらも血が染めている。
 おぞましさと共に吐き気が体を襲った。人の心を麻痺させるほどの光景が目の前に広がっていた。
(鎌子はこの様子を見たんだ)
 いまだに熱が下がらないという従弟を、どうにか元気付けようと金は丘で花を摘んで戻ると、
「金、鎌子のところにいってはなりません」
 母が宗家に赴こうとした金をとめた。
「鎌子には神がついたのです」
「神?」
「あの子はまさに中臣を継ぐ子。神の言を聞く代弁者。……昨日の予見をおまえも知ったでしょう」
「………」
「神がかった身は両親以外は触れてはならぬものと決められています。熱が引くまで鎌子とは合ってはなりません」
 金には「神」に対する意識は希薄である。
 一族が鎌子を生き神のように崇めるのが怪訝でならなかった。
「母上……鎌子はなんなんだ。そんなに特別か。中臣の至宝って」
「おまえが大人になったら教えます。それまで必死に鎌子を守りなさい」
 中臣家の至宝。特別。
 そうして一族が鎌子を崇め敬い、それは三歳の子どもにはどこまでも異常なものでしかなく、鎌子が時折寂しげな顔をするのも、この「至宝」が原因なのだ、と金は思った。
 金以外、鎌子と仲良くするものもいない。従兄たちはむしろ鎌子の力を畏怖し、その存在を崇拝している。
(おかしい)
 鎌子はわずか三歳の、少しばかりひ弱で寂しがりやの子どもでしかないのに。
 理不尽、という言葉を金は思った。
 どうして一族は自分や他の従兄たちにあたるような近しい親しみを鎌子には与えないのか。
 至宝の意味を、特別という意味を……。
 金が知ったのは燃えさかる炎の中でのこと。
 蘇我家の唐突な襲来により三島の中臣家は滅亡の道をたどる中、
 中臣本家、宗家の一族は、炎の中で神に祝詞を捧げながら、
「金、おまえは鎌子を守るためにある。鎌子を守るために生まれた」
 すでに自刃を覚悟している一族は、悟りきった目をして祝詞を一心に奉る。
 だが、金と鎌子のみ近来の農家の子と同様の衣を着せられた。
「中臣の血を繋ぐためにいきなさい。そしていずれは私たちの死を弔ってください」
 最期に母に抱きしめられ、厳しかった母にこうして抱きとめられたのはいつ以来だろうか、と金は思った。
 鎌子は父母の袖を握っていたが、秦律詞はた のりとがその手を離させ、鎌子の体を抱きあげる。
「無事、逃げおおせなさい。そして命をつなぎなさい。それが定め。おまえたちの運命」
 宜しいか、金。
 父、中臣本家当主旅史が、代々中臣家に受け継がれてきた守り刀を金に渡し、その手を握り締めながらいったのだ。
「わが中臣の再興はそなたに託す。いかなる時も鎌子の言に逆らわず、また鎌子を守りつくすように」
 よいか、鎌子はかの斑鳩の聖王と我が中臣の血を受け継いだ子。
 長じてはその血のままに、その血が行く末を照らす。
「長じて後、律詞に詳しいことを聞くといい」
 六歳の金には「斑鳩の聖王」という言葉など知れない。
 それが如何様に特別かなど理解できない。
 どこまでも異常な光景だ。
 生まれ育った館を焼く炎の中で、その熱など身に感じていないというかのように祖神天児屋命に一心に祝詞を捧げる一族たち。
 律詞に強引に手を引かれ、鎌子と共に抜け道から中臣の館を脱出したとき、
 丘の上から見たのは、蘇我の軍勢の異様なまでの熱気と威圧だった。
 中臣の館を時がゆっくりと藻屑としていくのを、高台から鎌子を抱きとめて金は見ていた。
 あの炎が父や焼き、母を焼き、兄弟、従兄弟たちを焼き、
 今、天にのぼる煙は、一族たちの魂のようにゆらゆらと、たゆたう。
 現実感がないゆえに涙も出ない。
 六歳の自分からしてこんな状況ならば、三歳の鎌子などさらに実感がなかっただろう。
「覚えておかれるといい」
 律詞は、鎌子を金の腕より抱き取り、その両手を合わせさせ、
「中臣宗家の血を恐れた蘇我軍の暴挙」
 ……蘇我があなた方よりすべてを取り上げた。
 生まれ育った家も、中臣という姓の一族すべてを、庇護してくれる両親も。幸福だった生活も。
 あの軍勢が奪ったということだけは金も理解していた。
「許さない」
 きょとんとしている鎌子の黒曜石の如し瞳を見つめて、
「おまえだけは俺が守る。そして二人で復讐を、蘇我に」
 手を合わせた鎌子は、その目に今の金を映すのが苦痛というかのように、目はゆっくりと閉じられた。


「鎌足は変わっているよ」
 館内の荒れ放題となっている庭を見るに見かね、一人手入れを始めた上宮海人がポツリといった。
 海人は意外に几帳面できれい好きであるようだ。
 鎌足が荒れるがままにさせている館を、一人人知れず修理をはじめている。屋根にのぼりカンカントントンと木屑をあてがって雨漏りを防ごうとしている姿には、金は「面白い奴」と人知れず思ったものだ。
「上宮家は伝承で伝わっているから、時渡りやら未来やらを理解しているかもしれないけど、神道の家に育った鎌足がどうして理解するのかな。おかしいよ、金さん。千年後といっても鎌足は全然違和感を持たない。未来といっても、そうか、と平然と……当たり前のように受け入れるんだ」
 香具衣にいっても、頭を傾げるばかりで、ほとんど聞き流される。
 海人は自らが特異たることを自覚するようになり、ほぼ万人に理解されない自らという未来からの「時渡り人」を、容易に「理解する」鎌足がふと不思議になったのだろう。
「鎌子は昔からとんでもない奴さ。中臣の至宝だからな」
 久しぶりに「至宝」という言葉を口にし、改めて金自身もその言葉の重りに気付かされた。
「至宝? 鎌足は鎌足だよ。そりゃあ頭はとてつもなく良いようだけど、宝とかじゃなくて……意味がわからないけど鎌足は鎌足だ」
 金は思わず声をあげて笑い出し、鎌足が拾ったも同然の海人の柔らかな髪を掴み、
「血が教えるのだろうよ」
 小さく言葉を紡いだ。
「なんだよ」
「上宮の血が鎌足に教えるのさ。アレの血は上宮が濃い」
 きょとんとなった海人の頭をポンポンと叩いて、金は身を翻した。
 いまだこの胸には鎌足すら知らぬ秘密が眠る。
 その秘密を明かすのは、おそらく「復讐」が達成したとき、
 自らの館を焼き放った蘇我に、同様の思いをさせるその時だ。

時空の彼方らか 遠き日の誓い

時空外伝2-遠き日の誓い-

  • 【初出】 2009年ごろ
  • 【改訂版】 2012年11月22日(木)
  • 【備考】 本編で語られている鎌足と金の始まりの物語。