「内臣」
長柄豊崎宮。政務所の一室。ここには「内臣」という地位にある皇太子中大兄皇子の補佐たる青年が一人在る。
「国博士が呼んでいる……鎌足」
「……耳元で叫ばなくとも聞こえている」
巻物を広げてジッと見ていた青年は、その黒曜石の瞳を不意に向けてくる。
黒よりも濃く、闇よりも深い瞳。
始めて会ったときよりも、さらに瞳の濃さが増しているように感じるのは気のせいだろうか。
「何の用だ? 海人」
空いている椅子に座し、ふーと海人は吐息を漏らした。
「この烏帽子さ。なんか……面倒だよ。一々……髪を結ってさ」
帽子みたいに深々と被れればよいのだが、この烏帽子はどうもピッタリとせず、いつ落ちるか気になってならない。
「ならば付けなければよい」
「それで通じるのは鎌足くらいだ」
「……そうか。私は公的な場以外は、髪を括っているだけだ」
伸びるがままにされている瞳同様の黒さの髪は、ピンと真っ直ぐで、首元で紐で結ばれているだけである。
髷を結うのが大キライで、また美豆羅結いも好まないこの青年……名は中臣鎌足。
先の蘇我総本家を滅亡に追い込んだ乙巳の乱の功労者の一人だが、彼が乱後に望んだのはただ一つ。
『閑職をいただきとうございます』
これには片割れに等しい中大兄皇子の方が唖然となった。
共に蘇我本家を滅亡させ、国家を中央集権体制へ生まれ変わらせるために夢を語り合った同士が、
蘇我家滅亡とともに、全ての国政に対する意欲を失い、たゆたうように存在感が稀薄になってしまったのである。
公地公民の布令を敷く。それために戸籍を作らねばならない。また唐を見習った律令国家を目指すために、法をまとめる必要性がある。
あえて大王にならず、動きやすい皇太子のまま国政を担うことにした中大兄皇子が、一番に頼りにした同士にして補佐たる鎌足が、世捨て人同様の風体では、あの傲慢な皇子と言えども心細げな顔をするのだ。
「……いつまでそうしているつもりだよ、鎌足」
あの皇太子にいつもグチグチ愚痴を言われる自分の身にもなって欲しい。
すると鎌足は、わずかに口元に微笑みを刻む。
「やらねばならぬことが多い。今後の国の在り方など、歴史のまま進めばよいのだ」
「……鎌足?」
ふと海人は不安になり、鎌足の目をジッと見据える。
「国のあり方を、国の行く道を……それが鎌足の一番に気にすべきことだったんじゃないのかよ」
「……皇太子はこう言ってはいなかったか。まるで醒めて悟り諦めたようだと」
その通りである。
熱より冷め、何かを諦めたかのように、今の鎌足には何一つ執着もなく、時にたゆたう存在となってしまった。
皇太子はイライラしている。
一番に補佐が必要なときだというのに、鎌足はこの政務所を一切出ようとしないのだ。
「あまり皇太子を困らせるなよ。……結局はあの葛城は鎌足がいないと、ただの駄々っ子の子どもなんだからさ」
絶大なる権力を持ち、未だ二十二歳という年齢ながら国の先頭に立ち、日日政を取りしきる皇太子だが、
ふと海人に見せる表情は、ただ一人頼りとする保護者を見失った子どものように、寂しげな顔。
「私は皇太子には必要ない」
「なんでそういいきるんだ」
「皇太子は自らが赴くままに、国博士や帰国した留学生たちの言を取り入れながら進めばよい。私には現在の国政などどうでもいい」
「けどさ。みんな……皇太子の政策に不満だらけだろう? 強行ずきるやら早すぎるやら。説明をしないやら」
「それは皇太子がおうべきこと。私の知ったことではない」
「鎌足! おまえはどうしてそんな……冷たくなったんだ」
前々から中大兄皇子に対する鎌足の態度には、少しばかり思うところはあった。
ふと甘さを見せたかと思うと、冷酷な刃の如し冷たさで切り裂く。
二人の間には明確な一本の線があり、その境界から決して踏み入ることは、許さない。皇太子はそれがもどかしくて、時折やりきれなさが爆発することはあった。
誰彼ともなく当り散らし、感情が制御できないときは、刀でよく柳を払っていたのを海人は覚えている。
それでも全面的に突き放すことは、鎌足はしなかった。
最後の最後で手を差し伸ばすことを忘れはしない。
触れ合った手が、皇太子にとっては最後の「心の砦」となっていた。
「葛城は、なぁんにも変わってないよ。あのあまったれたガキは、本当はこの国なんてどうでもいい。鎌足さえ傍にいるなら、何にもいらないんだ」
「そうであっては困る」
「なら何とかしろよ」
「海人は何を見ているのだ」
きょとんとした海人に鎌足はコツンとその額を叩く。
「私は何のためにここにある? 国政などどうにでもなれと冷めている私が、だ」
「それは……ここにいると色々と唐の資料とか読めるし」
「違うな」
「じゃあなんだよ」
鎌足は巻物をスルスルと畳み、スッと立ち上がる。
「鎌足?」
「私が国政より完全に離れたならば、皇太子は暴走する」
「当たり前だろう」
「故にここにいるのだうが。閑職でも居れば……皇太子とつながりが在る。そのつながりが……あの方を留める」
そして当然のように、鎌足ほど皇太子のことを分かっているものはいない。
赤子の手をひねるように容易に、皇太子の心を察せられる。
「葛城は赤ん坊より手がかかるだろう」
「そうだな」
「本当は鎌足にずっと傍にいて欲しいだけ。心配でならないみたいだ。目の見える位置で、その手を伸ばせば届く位置にいないと」
「知っているよ」
「それでも離れているのか」
「今の距離が適度。傍に居すぎれば、あの甘えをときに許してしまうゆえ」
父母に愛された記憶のない皇太子は、教育係であった鎌足に、独占欲に近い執着を抱いている。
それこそ鎌足が自分以上に誰かに興味を抱けば、その人間を殺しかねない凄まじき思いだ。
思い思い続け、思い焦がれて、けれど望むものは、決して皇太子の思うがままになりはしない。
子が親を思うように必死に、親に離されぬように縋りつくかのような、そんな愛情は……見ている方が苦しい。
「葛城と鎌足は共犯者なんだからさ。……傍にいて支えてやれよ」
時に海人は名ばかりの「実兄」となっている皇太子が哀れでならなかった。
自分にはそれなりに優しく、決して突き放すことをしない鎌足が、何ゆえに皇太子にだけはあぁも残酷に突き放すのか。
「王者とは孤独が憑き物だ。かの上宮王とて皇太子の立場で一手に政治を動かした。大臣蘇我馬子を推し留め……」
「その上宮王と皇太子は違うだろうが。あの超我儘で自分勝手で唯我独尊で……けど寂しがりやの甘えたがりの皇太子とは」
フッと小さく笑い、今度は海人の頭をポンポンと叩く鎌足は、
「何一つ違わぬはずだ」
と、小さく呟くのだ。
「……なんだよ。鎌足が言うと全部そうだなって思えるんだよ」
あぁぁぁ~と海人は背伸びをして、扇で身を扇ぎ始めた。
猛暑は過ぎ去ったとはいえ、未だ初秋の風は熱を含む。
「クーラーが欲しい。贅沢は言わないからせめて扇風機……。あっ!こうくるくると回ってさ。風を作る機械のことだよ」
「そうか。便利だな」
これが他の飛鳥人と鎌足の相違であり、海人の最たる違和感である。
平成の世について誰に語ろうとも、笑うばかりだ。妄想の極致やら、時には頭がおかしいのではないか、と哀れみの目を向けてくるものもいた。
だが鎌足だけは違う。
誰もが知らぬモノを、それを知っているかのように当然のような軽い返答をするのだ。
始めは自分を思いやってあわせてくれていると思っていたが、このごろは違和感が先に立つ。
だがそれも「鎌足だからな」で打ち消してしまう海人でもあった。
「それより海人。ここには何をしにきた? この頃は皇太子に色々任されて大変なのではないか」
鎌足の黒曜石の瞳は、棚にある違う巻物をジッと見据える。
『鎌足殿は不思議なお人。そのお姿は時雨殿に生き写しだというに、風情はあの……斑鳩の兄上そのもの』
何よりも瞳は……その暗闇の瞳は、斑鳩の法王よりもさらに黒い。
上宮王の異母妹佐富女王がぼんやりと口にした一言が海人の頭より離れたことはない。
大王家において、祖神たるアマテラスのその血と力を純粋に受け継ぐ者には「御力」が宿る。
時の家刀自「手白香皇后」以来その御力は、上宮王厩戸皇太子に受け継がれ、山背大兄王に引き継がれたと見られていた。
だが佐富女王は首を振る。
『斑鳩の兄上も、また山背殿の力も完全ではありません。兄上の御力は凄まじかったのですが、それは仏の聖力をもあってこそ。
大王家の秘力とは少しばかり違う。家刀自の力は……国を左右し、また時に自由に介在し、時を渡ることもできる御力』
上宮王には時を渡る力は備わらず、もう一方の力「時を視る力」が強力に宿っていたとのことだ。
それはあまりに強く、時に人の心も人の歴史すら無自覚に脳裏に入ってきたため、精神の防御を図った上宮王自身が封じたという。
成人して後はその力を「国のため」だけに用い、人々を助け、国をよくおさめた。
その嫡子たる山背王には、わずかに時に戻す力と「先を視る力」が宿されたが、それもごくわずかなものであった。
「なぁ鎌足」
幾分、癖になっているが、座しながら足をバタバタと海人は動かす。
「鎌足は不思議だよ。いつも思う。まるで知っているかのように俺が言っていることを受け入れる。視てきたように……鎌足」
「何を言っているのだ」
「鎌足は未来を見る力があるんじゃないか。……鎌足は……」
「……そうだな。そんな力が早くからあれば事はもう少し早かったのだが」
「鎌足?」
「海人の持つ聖鏡で見た未来というものは、面白い」
鎌足と二人でいると、聖鏡が反応する。
鏡を通し未来の「ふるさと」につながり、彩乃や祖母、または両親と語ることもできる。
そして鏡は同時に遠い過去をも映し出すのだ。上宮王とその傍らに儚げに微笑むかの上宮時雨、と。
「私は一度、海人のふるさとというものに行ってみたいと思う」
「……そうだな。俺も鎌足を連れて行きたいよ」
あの文明が発達した平成の世を、この黒曜石の瞳はいかに見るか……いかに感じるか。
「けどさ。鎌足が居なくなると葛城が……泣くよ」
「海人。前から言っているか、皇太子が本当に欲しいものは私ではないのだよ」
そしてスッと瞳を細め、鎌足は巻物に集中し始める。
何者にも侵しがたい完璧に自分だけの場を作るこの鎌足に、今はいえない一言。
この身に流れる血が……上宮の血が鎌足に反応している。
数年前までは分からなかったが、この飛鳥に来て五年。神聖なる飛鳥の地が、海人の眠れる上宮の血をわずかに覚醒させた。
……なぁ鎌足。
おまえは何者なんだよ。
思えば「中臣鎌足」という名以外、さして海人は鎌足を知らぬ。
おまえの身に流れる血と、自分の血が共鳴する。その共鳴が時をつなぎ、かの聖鏡も反応する。
今の海人の力では聖鏡は望むことを映さず、声も届きはしない。
だが鎌足が鏡を見据えれば、それは幾万彼方望むべき場所を映し出すのだ。
それは真実に等しい答えではないだろうか。
(鎌足には上宮の血が流れている)
それは上宮王に近しい血であり、また海人の血が騒ぐほどに近くて……近すぎて。
鎌足の傍にいると無条件に安心し、その血が「清清しい」までに澄みきっているのが、時に怖い。
「鎌足。一番に葛城を分かっているのはおまえなのに、いちばんに分かっていないのもおまえだな」
皇太子中大兄皇子。旧名葛城皇子が、何を失ってもただ一つだけ欲するのが内臣たる中臣鎌足。
だがその手をどれほどに伸ばしても、決して鎌足の心は皇太子に向かうことはない。
「……そうやもしれないな」
両親に愛情を受けなかった皇太子。
未だに家族に対する思いは複雑で、その葛藤は時に戦慄すら走らせる。
母宝皇女に対する愛憎は特に深く、皇太子に対して家族の話題は禁句に等しい。
鎌足はよく身内の代わり、というが、皇太子の目は、あの時に茶色の色合いが見えるあの目は……鎌足に対して絶対の思慕を隠すことはしない。
焦がれて思い焦がれて、ただ一人を思って、その思いは報われることはないのだろうか。
「でもなんにでも完璧だとやはり面白くないから、鎌足は今のままの鎌足でいいと思うよ」
そしていつか自分は聞くことができるだろうか。
おまえに流れる血は「上宮」のものか。
もし上宮に関わりがあり、御力を宿すならば、鎌足。
……この自分を時に戻すことができるのではないか、今のおまえなら。
時空の彼方らか 未知を繋ぐその時