時空の彼方から 外伝4 桜が誘う時の扉

序章

 幼い頃からよく夢に見た。
 その人の姿は見えなくとも、声は……伝わる。
 なぜか懐かしく……妙に落ち着くその声を。
 誰とも知らぬというに、自分は確かに知っていた。
「海人……今は忘れるといい」
 時が経てば、必ず、おまえは私を思い出す。
 それまで……記憶を封じておくとしよう。


「海人……海人や」
 神木の桜に必死に手を差し伸ばしている孫の名を呼ぶ。
 けれど孫は声にこたえず、真上より降り注ぐ「桜」の花びらに夢中になっていた。
「これ海人や」
 祖母の両腕に包まれて、ようやく海人は花びらより視線を外し、
「おばばさま」
 にっこりと笑って、
「さくらがきれい。お空からふってくる」
 当年四歳の上宮海人は、桜の花びらが一番のお気に入りだった。
 それも雲一つない真青な空より、ゆっくりと花びらが風に舞ってくるそのはかなくて綺麗な姿を好む。
 未だ海人が言葉も知らぬ赤子のころより変わらぬ。庭に咲く桜を見ては「きゃきゃ」とはしゃぎ、動けぬ身でどうにか近寄ろうと手を伸ばしていた。
 それは桜というより、桜に彩られた幼き記憶が……桜を介して頭によぎるのかもしれない。
「海人。さくらはおよしなされ。この古より続く花は、時に人をさらう」
「さらう? おばばさま……なに?」
「……ばばの独り言です。海人よ」
 腕にヒョイと抱き上げると、海人はにこにこと嬉しげに笑う。
 桜の花びらがヒラヒラと舞い、海人は必死に花びらに手を伸ばして触れようとした。
「海人!」
 唐突な祖母の厳しき声に驚いたかのように、海人はビクリと肩を震わす。
「ごめんなさいな、海人。急に大きな声を出して」
 少しだけ強く力を込めて抱きとめると、海人は「おばばさま、いたい」とわずかに抗うが、すぐに大人しくなった。
 桜は清き花。美しく儚き花。かの上宮王もこの桜を愛で、心より慈しまれたという。
 されど、だ。
 初音にとって桜の花は、「誘う花」でしかない。
(桜にこの海人を渡したくはない……渡したくは!)
 先代の上宮の巫女であり祖母の斎子の言葉が、初音の頭によぎる。
『初音、良いか。時期、巫女たるそなたゆえに言い置こう。
 我らが大切な恵し子が、そなたの代に生まれ来る。その子は桜に愛され、桜に愛でられし子』
 いずれ桜の証がその身に現れ、時至れば、桜がその子を時に導き渡らせよう。大切な恵し子。心して育てよ。
 上宮家にとって至宝の宝といえし「恵し子」は、時満ちれば、時に呼ばれ、時に渡るを宿命づけられている。
 遠き昔に、初音には叔父にあたる「時雨」が、時を渡り、時に捕らわれ、ついにこの上宮に戻ることはなかった。
 時雨は「上宮王」の傍にて生きることを宿命付けられ、生涯を上宮王に捧げた、と祖母は誇らしげに語っていたが、
 あの儚いまでにきれいな存在だった叔父が、誰一人として知人のない「飛鳥」の地に導かれ、果たして幸福だったのか、と疑問視する。
 宿命と片付けられるが、時空の恵し子は、誰一人として知る物ない時に飛ばされ、その場で生きることを架され、果たして……哀しくなかったのだろうか。寂しくはなかったのだろうか。
「海人や……海人。桜の花びらに誘われてはなりません」
 桜の花びらが舞うのをジッと見ている孫。
 それは……あの日の記憶を鮮明に思い浮かばせる。
 そう……あの日。海人が生まれし日、秋というのに上宮の神木たる桜がいっせいに狂い咲きを見せた。
 それは先代の恵し子たる「時雨」の誕生の時と同じ予兆で、上宮宗家のものは生まれし子の運命を否応なく悟った。
『この子は……恵し子とはせぬ』
 本来ならば、「恵し子」の誕生と同時に、その母たる器は命を断たねばならない。聖なるモノたる「恵し子」は、身に宿す聖があまりに強すぎるため、魔に見出される確率が高い。その聖を隠すため、母の「死に血」を大量に浴びさせ、聖を一時のみ穢し、俗物とさせた。
 だが明治の後は、子にとって母の死と同時の誕生は不憫とされ、人にとって最も大切な「名」に穢れを負わせ、幽閉し育て、その幽閉場所には強力な結界を張ることで、魔より恵し子を守るという処置が取られている。
 現に上宮時雨も、生まれながらに「逆縁の子」という穢れを負わせ、忌み子として幽閉して育てられている。
 だが時雨の場合は、その生まれの特異性ゆえに、さらなる穢れを負わせ、親戚一同、父母にすらも「恵し子」たることは秘せられた。
『見てみよ。時雨さまとは違い、聖たる証がなく、聖力もなし。この子は……恵し子としての証は何も有しはせぬ』
 海人は、必ず恵し子が有すと言われる光り輝くほどの聖力を何一つ身に備えず、いたって普通の上宮の子どもと変わらない。
 そればかりか、宗家にとって何よりも大切な、上宮王よりの正当なる血が皆無といえるほどに宿されてはいなかったのである。
 ただ……秋というに桜が咲き誇った。それだけの予兆があったのみ。
『恵し子の予兆が見られぬゆえ、十五になるその年まで恵し子の如何は保留とする』
 心は「恵し子」であってくれるな、と叫んでいた。
 可愛い初孫を時空にさらわれる、ということは耐えられぬ哀しみである。
 この子は恵し子ではない。上宮の宗家を継ぐ嫡流。それだけのこと。
 それゆえに予兆をあえて初音は無視し、名に穢れを負わさず、また幽閉して育てることも見送った。
 占により赤子は名を「海人」と見出された。その名は宗家には秘事なる名。嫌な予感がさらに深まった。
 そして、初音に宿命と決定付けるその日は訪れる。
「ばばさま……」
 不思議そうに顔を覗いてくる孫をぎゅっと抱きしめ、初音はあの日のことを思い出す。
 冬だというのに、不意に神木の桜が咲き誇り、その花が雪と共に舞い始めると同時に現れた一人の青年。
 古の装束を身にまとい、姿勢正しく立つ、その端正な顔立ちをした三十を前にした一人の男は、上宮の正当なる純血を示す黒曜の瞳を宿し、冷たく冷たく初音を見据えた。
『時雨さま……時雨さまですか』
 声にしながらも、「違う」ということは初音には分かりすぎていた。
 姿はあの叔父たる時雨に瓜二つながら、その身を包みこむ冷えた風情はあの儚すぎた叔父がまとうものでは決してない。
『時の上宮の巫女よ。血がそなたに報せていよう。私が何者であるか』
 知らず知らずにその場に平伏した初音の胸は、ドクリドクリと早まり鎮まることはない。
 言うが通り「血」が知らしめる。
 目の前にある青年は「時の家刀自」たる力を有し、なおかつ歴代家刀自の中でただ一人が有したという自ら時空を渡る「時渡り」の力を使った。
 初音が思いつく「家刀自」の名は、ただの一つのみ。
『そこにある赤子は時の恵し子である。大切に育てられよ。何一つ力がなくとも稀代の子。その子なくして上宮は時の歴史を作り出すことは出来ぬ』
 桜が舞う。
 今まで中庭に面した部屋で眠っていたはずの海人が不意に目を覚まし、何かに導かれるかのように、この青年に向けて手を差し出す。
『あうあう……あぁぁ』
 青年はわずかにその冷たき眼差しを細めたが、何かの思いを打ち切るように、目を閉ざした。
 あぁよく似ている。似すぎている。そうして目を閉ざした姿など、瓜二つと言えるほどにあの叔父に。
『時に誘われたならば、この私がしかと預かる。気にかけることはない』
『例えあんずることがなくとも、それでも孫を時に奪われ二度とあいまみえることがない心を、御身さまはおわかりになられましょうや』
 かの叔父の場合は、生まれながらにして幽閉され、逆縁の子と誰からも疎まれて成長した。
 母たる大叔母藤子すら「忌まわしき子」と呪い、忌み子を産んでしまったという自責の念から心を壊したため、時雨を慈しむことはなかったという。
 隔離され一族より疎まれ、されど初音と今は亡き夫の真人は、よく時雨を訪ねて、傍で過ごした。
 命の灯火を感じさせないほどに稀薄で儚い……あの叔父は、とてもやさしい人だった。
 二度と現世に戻らぬと聞かされ、どれほどに泣いたか。
 今でも、もう一度、あのやさしい声で歌う「おぼろ月」を聞きたいと。
『すべては宿世。私がここにあるのも、もとは時雨が時を渡ったためである』
 青年は今の初音の思いを全て読むかのように淡々と言葉を綴る。
 優しい叔父とは相容れぬ冷え切った声音で、全てを拒絶するかのように話すその青年。六十という年まで生きてきた初音ですら、その声にて身がすくむほどに……冷たい。
 時の家刀自として先祖帰りに等しい輝かしい聖力を有しながらも、青年の風情は氷そのものであり、何一つ光を抱きはしない。
 せめて優しく語ってくれたならば、初音は少しは安らぎを抱けただろうに。
『あう……』
 されど海人は何一つ臆することもなく、青年にむけて必死に手を伸ばすのだ。その人を「導き手」と判じてなのか。幼き小さな手は、求めて、伸ばされている。
『……海人』
 そっと海人に寄り、差し伸ばされる小さな手を握った青年は、
 一瞬だけ、あの叔父を思い出させるやさしい顔で微笑んだ。
 眼の錯覚としか思えぬほどのほんの一瞬の白昼夢。
 こたえるかのように、海人はにっこりと笑う。
 ……宿世。
 生まれる前より定められたこれが二人の……運命か。
『いずれ時が廻るその日まで、無事に育て』
 風一陣に桜が舞い、桜とともに消えた青年は、あとに何一つ香すら残しはしなかった。
 ただ、滅多に泣くことのない海人が狂ったように泣き出した。
 青年が消えた場所に手を差し伸べ、いつまでもいつまでも泣いて、疲れきって眠った。
 あの日から「宿世」が初音には現実味を帯びて刻まれている。
 いつの日か時に誘われるだろう愛しき孫。
 できれば、その時が遅れるよう。願わくば、その時が一生廻らぬよう。
 願ってやまぬ祖母の心情を、時は決して許しはしないはず。
「海人や。桜がそれほどに好きかえ」
 するときょとんと大きな瞳をさせたかと思えば、にこりと笑って、
「すき。すき……ゆめにでてくるあの人のおはな」
 抗うことが出来ぬ「宿世」は、すでに海人に手を伸ばしていた。


→桜が誘う時の扉 1章 へ続く

時空の彼方らか 桜が誘う時の扉1-0

時空外伝4-桜が誘う時の扉序-

  • 【初出】 2010年01月16日
  • 【改訂版】 2012年11月22日(木)
  • 【備考】 本編で話には出てくる海人の最初のタイムスリップ話。