時空の彼方から ―古の家刀自編― 一ノ章

13章

 穏やかな小春日和のこの日。
 涼風が吹く池辺宮の東の縁では、朝より文字が記された木簡に目を通す時雨の姿がある。その傍らにちょこんと来目皇子が座っていた。
「もみじ……」
 来目がそっと手を伸ばす。
 青空に伸ばされるその手は、まさに「紅葉」の如しちいさな手のひら。
 可愛らしい幼き手を、時雨はぼんやりと見つめる。
「しぐれ」
 当年四歳の池辺宮第二皇子の来目は、その兄たる厩戸皇子が幼くして大人びてしまったことに反比例するかの如く、愛らしい幼さが包んでいる。
 未だ片言しか喋らないのを、その母穴穂部間人皇女は、「幼くてよい」と気にする素振りも見せはしない。穴穂部としては、早くして老成してしまった長男に寂しさを感じているらしく、来目に関してはできうる限り傍で慈しみたいと思っているようだ。
「来目さま」
 コトンと右腕に頭を預けてくる来目の、愛らしいつぶらな瞳。陽の光によりわずかに茶色くかげるのは、おそらく祖母より受け継がれる「蘇我」の血ゆえだろう。
 同じ血を有する厩戸は、不可思議なことに、身に宿る「蘇我」の血がなぜか浄化されており、時雨は不快に思ったことはない。
 だが来目にも、その両親ともども「蘇我」の血が身に眠る。

時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 13-1

 ほんの微量であるのだがその血に、時に時雨はドクリと身の血が逆流するかのような気分に襲われ、目眩に立ちくらむ。
 蘇我の血に、上宮は何かしらの因果があるのだろうか。
 古文書にも記されてはおらず、巫女である祖母斎子よりも語られたことはなかった。
 上宮家は「上宮王」と呼ばれし聖徳太子を「聖王君」として奉ってきている一族と言える。遠き祖は上宮王より直接血を引いており、その血ゆえに数々の「聖力」を授かってきた、と教えられてきた。
 上宮王からして蘇我の血を引き、その第一子となる山背大兄王の母は、蘇我馬子の娘たる刀自古娘と伝わっている。
 上宮王亡き後、決別の道をたどる上宮家と蘇我家だが、実に似通った血を抱いているのだ。だが時雨の血は、決して蘇我を受け入れはしない。頑なに拒み、その血は「仇」と知らしめている。
 その意図が時雨には知れない。上宮家にて時雨が目にしてきた古文書はわずかなもので、本質は本家の蔵の奥に秘められていたのかもしれない。
 思い当たることと言えば、これは史実通りのことと言える。
 上宮家滅亡の引き金を引いた蘇我入鹿をはじめとした蘇我家に対する憎悪が血に凝り固まっているのだろうか。
 いや、そうなれば、あの襲撃は蘇我家ばかりではなく、大王家も大きく関わっていたと言える。
 蘇我に対する異常なほどの嫌悪の訳を、時雨は知りたい、と考えるようになっていた。
「もみじ、きれい。きれい」
 来目が手をパチパチと叩く。
 合せるかのように時雨が微笑むと、にこりと笑った。

時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 13-2

 情緒が実に豊かで、愛らしく、その父母が目に入れても痛くないというほどに可愛がるのが時雨にも分かる。
 豊日皇子も、穴穂部間人皇女も、嫡子厩戸に対するのは、愛情よりも誇りが多くみられ、その度に時雨は哀しくなるのだ。
「あっ……あに」
 立ちあがり、嬉しそうな顔で来目皇子は駆けていく。
 そしてポテッと胸元に抱きついたのは、その兄にあたる厩戸皇子だ。
「あに、もみじがひらひら……。きれい」
「そうか」
 よしよしと厩戸が頭を撫ぜると、来目はとびっきりの笑顔を見せる。
 この頃は母穴穂部より離れ、兄の後を必死に追い始めた来目だ。感情をさして現わさぬ兄を、来目はとても好いている。
 来目を横抱きにし、厩戸は時雨の傍らに座した。
「何か面白いことはあったか、時雨」
 静かに頭を振ると、そうか、と厩戸は呟いた。
「摂津国に三島という地である。そこに中臣の最も血を濃く持つ一族が今も棲んでいる。中央にある中臣は傍流に過ぎず、天児屋命以来の血統は、三島の宗家と本家が守っていると聞く」
 コクリと時雨が頷けば、一瞬のみ厩戸は哀しげな色合いを瞳に浮かべた。
「皇子?」
「人と神をも繋ぐ秘められた一族であり、中央とて詳しくは知れぬ。それでも……逢わねばならぬのか、時雨」
 厩戸の哀しみは、おそらく時雨の身を案じてのことだろう。
 そっとその膝に来目を抱きしめる腕が、震えている。

時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 13-3

「私はこの我が身が何者なのか知りとうございます。知らねば……皇子のお役には立てません」
「皇子は……」
「皇子……時雨はこの身が怖いのでございます」
「………」
「生まれながらにして何一つとして時雨は望まずに、願わずに生きて参りました。生きるも厭われ、死すことも厭われ……思いは、戦争の空襲が爆弾がこの身に落ち、この命を失わせてくれることでございました。望んではならず、願ってもならない。そう言い聞かされ……生きて、この身が何者なのかも知ることも許されずに参りました。けれど今、私は知ることが許されるのです。 皇子……時雨はこの身を知りとうございます。この身を、この聖鏡の由来を。その真実がいつか我が皇子に役立てると信じとうございます」
 知りたいと望むこと。心から知りたいと願うこと。
 生まれて初めて得た心情を、時雨は大切にしたいと考えた。
 彦人大兄皇子が聖鏡が八咫鏡と双子鏡であったと告げた。中臣一族がそのことについて詳しいということも。
 時に時空を繋ぎ、かの昭和の御世を映し出すこの「聖鏡」
 時雨が生まれた時には、上宮家には「まふつの鏡」と言われ、二鏡がそろっていた。
「皇子はそなたを……遠くになど旅立たせたくはない」
「摂津国はそれほど遠くはございません。皇子、私は大丈夫でございます」
「……時雨」
「この聖鏡は、その輝きは天地を照らし、その光は「真」を映し出すと言われております。この後の皇子の役に立つものと……」

時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 13-4

「皇子はそのような鏡など……皇子は」
「聖王君。どうか……この時雨の願いでございます」
 いつになく強く願い時雨はその場で深々と頭を下げた。
 今、厩戸がその表情に滅多に見せぬほどの哀しみを乗せていることを時雨は気付かず、ただ顔をあげた来目だけが「あに……」といって頬に手をあてる。
「あに……どこかイタイ。イタイ? くめがなぜなぜしてあげる」
「………」
 温かな来目の身体をギュっと抱きしめ、厩戸は決死の覚悟で告げた。
「先日、皇子は時雨の望むがままに……と言った。いたしかたない」
「……申し訳ございません」
「だが、三島はやはり遠い。出発は春にすると約束せよ。それまでに三島に使者を送り、迎えの使者をよこさせる」
「……はい」
「三島の本家の者が出てきてくれれば一番に良かったが、あの地のものは大王の要請がなければ梃子でも先祖代々の地を動かぬ。もどかしい限りだ」
「私が知りたいのでございます。私から詣でなければ、三島の中臣家に非礼となりましょう」
「だが中臣。あの中臣鎌足というものは、おそらく三島の本宗家よりいでし者と思える。何か中臣には多くの秘事がありそうで……心配だ」
「皇子。後のことよりとやかくは申せませぬが、中臣鎌足は大王家の忠臣と言わしめたお方でございました」

時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 13-5

「忠臣? アレが忠臣か。皇子はあの者にこの大王家を根こそぎ滅ぼす凶の星が見えたぞ」
 小さく笑った厩戸は、来目をそっと時雨の腕に抱き渡す。
「いや……この皇子も禍々しさでは同様かもしれぬ」
「……皇子」
「皇子とてこの御力、この目、時に視る夢がいかに恐ろしいか……皇子も怖いのだ」
 おそらく厩戸自身も、己が身は「何者なのか」という恐怖を常に抱いているのだろう。
「時雨がいれば皇子は……救われる気がする。光の方に導いてくれると思う。この闇が巣くう泥沼から……時雨だけが……」
「皇子」
 無自覚に時雨の右手が、厩戸の左手を強く掴んだ。
「……皇子」
 怯える形相は、ゆっくりと解かれ、時雨を一心に見据えてくる。
「私の聖王君」
 時雨が微笑めば、厩戸も微笑む。時雨が穏やかに頷けば、不思議と厩戸の心も穏やかさが広がるという。
 今、時雨は慈愛を込めて厩戸を見つめ、その手を握り締め続けた。
「いつまでも時雨は、皇子と共におりますゆえ」
「春になれば行ってしまうのであろう」
「すぐに戻ります」
「……摂津国は遠い、いっそ皇子も一緒に……参りたい」
 六歳の子どもらしいわずかな「駄々」に、思わず時雨は優しい思いがこみ上げてくる。

時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 13-6

 この数か月、夏から秋に移ろった季節の中で、厩戸が駄々をこねるなどおそらくこれが初めてではないだろうか。
 異常なまでに老成し、大人顔負けの頭脳と識見を誇る「仏より預かりし皇子」と言われる厩戸皇子。
 子どもと侮られることを厭い、苦しいまでに大人であろう、とする……池辺宮第一皇子。
 両親までもがその識見に敬意と誇りを抱き、また宮殿では大人同様の扱いを受けて、それを淡々と受け入れる中、どこか厩戸の心も歪んだのかもしれない。
「ご無礼を」
 と、告げて後、時雨は自らの意思で、来目共々厩戸を抱きとめた。
「時雨?」
 ……心静かにして、心尊く、心虚しく 心悲しき皇子。
 時空の狭間で聞きし声音は、おそらくこの厩戸のことを意図している。
「いつまでも時雨がお傍におります。この度は一時お傍を離れることをお許しくださいませ」
 時雨の胸の中で厩戸は微動だに動かずにいたが、しばし後に「許す」とか細い声音を漏らした。
「時雨がおらぬ間、来目に手習いを教えていよう。いや母君にお子が生まれる。その相手もせねばならぬ」
「……はい」
「時雨がおらぬ時期など、あっという間に過ぎ去ればいい」
「……はい」
 庭を彩る紅葉が散りゆく。もう幾ばくかで厳しい冬が始まるだろう。

時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 13-7

 温暖な飛鳥の地と言え、冬は雪に覆われる時とてある。
 その冬も過ぎ、桜の花びらが舞うころ、時雨はこの飛鳥より旅立ち、摂津国三島という地に赴く。
 心が浮き立つような楽しみをこの身に負うのは初めてで、その感情を心なしか時雨は持て余していた。
 自らの「思い」を言葉にし、感情のままに願う。
 人としての当然の道理が、生まれて後十八年、一度として許されなかった身としては、今、途方もない「願い」を身に宿してしまったのではないか。
 それは恐怖にも畏怖にも繋がり、ひそかに右手が震えるのを、厩戸には隠した。


「しぐれ。あに、こわいかお」
 本日も古き木簡や、蘇我家よりもたらされたというす異国よりの経典を追っていた時雨のもとに、来目が飛び込んできた。
「いかがされましたか、来目さま」
 よほど慌てて走ってきたのだろう。勢いのまま時雨の胸元に飛び込み、そのまま息を必死に整えている。
 小さな身体を優しく抱きとめると、にこっと笑った来目は、身体を起こし、たどたどしく言葉をつなぐ。
「おきゃく……きた。あに、こわいかお。さちたまみやの一の姫」
 幸玉宮の一の姫と来目は確かに告げた。
 訳語田大王が住まう幸玉宮の第一皇女と言えば、坂登皇女を意味する。かの健康的で、やんちゃを絵にしたじゃじゃ馬皇女の姿を思い出し、時雨はわずかに微笑んだ。

時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 13-8

 だが、来目は慌てて、時雨の袖を引っ張る。
「あに、こわい。こわい」
 何か怯えている風情もあり来目に引っ張られるまま、時雨は表に出向くと、馬の手綱を引く凛々しき姿が目に飛び込んできた。
「あら、時雨。よかったわ、出てきてくれて。時雨を遠乗りに誘いに来たのですが、厩戸殿が良い顔をしてくださらないの」
 朗らかに笑う坂登を、確かに厩戸は鋭い目で睨んでいる。
 来目が怖いといったのは、この厩戸の烏色の瞳のことだろう。
 大人をも黙らせる厩戸の鋭い視線を受けてなお、坂登は平然としている。なんとも度胸の座った皇女だ。その兄の彦人大兄皇子には洗練された優雅さと品位が備わっているが、わずかに彦人との血筋を伺える端整な顔立ちは、日焼けされ濃く、実に健康的だ。むしろ彦人よりも少年の風情を思わせる。
「遠乗りでもいかが。少しばかり北東の三輪山に参ろうと思いまして」
「幸玉宮の一の姫は、共をもつけず、遠乗りに参られるか」
 と、冷ややかに厩戸が言えば、
「供など巻いてまいりましたわ。煩くて適いませぬもの」
 幸玉宮の第一皇女は、飛鳥中に鳴り響く「じゃじゃ馬姫」
 父たる訳語田大王は、はじめは伊勢の斎王として、この坂登を立てようとも考えたが、あまりのはねっかえりのじゃじゃ馬ぶりに手を焼き、その下の娘菟道皇女を斎王としたと言われている。
 確かに深窓の皇女ならば、こうして馬になど乗らぬだろう。ましてや化粧もせず、健康的に肌を焼けるままにさせ、野山を駆け巡る。
 近来の野の者と間違われかねない形相に、男物の単を着用しているところからして、少年の方がしっくりと来るほどだ。

時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 13-9

「それとも厩戸殿も時雨も馬には乗れませんの」
 誇り高い厩戸には、負けず嫌いの性質も見られる。
 すぐに下男に厩より馬を引いてくるように命じるのを見て、こういうところをふと可愛いと時雨は思うのだ。
「残念ながら皇子。時雨は馬には乗れません」
 生まれ育った上宮本家の離れに幽閉され続けた十八年。ほとんど外に出ることを許されずに生きてきた。
 馬を目にするのは、この飛鳥の地が初めてのことだったと言える。
「……そうか。では時雨は厩戸と乗ろう。心配するでない。皇子は……馬には慣れているゆえ」
「それとも時雨、この坂登と共に乗りますか」
 二人よりの申し出に、困ったように時雨は首をひねるしかない。
「くめもいく。三輪山にいく」
 来目がその場で飛び跳ねて主張するので、厩戸が困った顔をした。
 そこに一人の舎人が、厩戸たちのみで遠乗りには行かせられない。共を付ける、と譲らないのだ。
「まぁ供など煩わしいことですこと。ですが、この坂登だけならばまだしも、池辺の厩戸殿では供をつけずの遠乗りはお許しくださいませんね」
 残念なこと。お兄様でも連れてくれば良かった、と坂登がため息をつく。
 結局は舎人が数名警護につくことになった。
 来目はその舎人に抱きかかえられ、馬に嬉しそうに乗っている。

時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 13-10

 時雨は、厩戸を抱きかかえる形で馬に乗った。手綱は厩戸が握っているため、幼い厩戸に軽くしがみつく形になってしまう。
「時雨も馬を練習なさい。そして……今度は坂登と共に山をかけましょう」
 大らかな声音に確かに馬くらいには単身乗れなくては、と思うのだが、
「馬になど乗れなくて良い」
 対抗するかのように厩戸が口にするので、思わず時雨は笑ってしまった。
「何が楽しいの、時雨」
 厩戸の傍らを坂登は駆ける。
「いえ……皇子が楽しそうですので」
「厩戸は楽しくなどないぞ」
「あら……厩戸殿はこの坂登との遠駆けはお嫌」
 四歳ほど年上の坂登に問い返され、瞬時に二の句が告げられず、厩戸はそっぽを向いた。
 坂登の父訳語田大王と、厩戸の父母は異母兄弟にあたるため、この二人従姉弟ということになる。
 といっても訳語田大王が、息長系の傍系皇族である大后広姫との間に生まれた坂登は、生粋の皇族のみの血を引く皇女だ。蘇我家などの諸豪族の血は一切入っていない。
 清々しいまでに洗練され、尊いまでの棲み切った直系のその血。
 その兄たる彦人大兄皇子同様、時雨には安心感すら与えるほど澄んでいる。
「宮殿でやれ髪の結い方や、衣装。化粧の仕方を考えている皇女よりは、坂登殿は数段とましだな」

時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 13-11

「それは褒め言葉ですの? ひねくれた言葉ですけど、確かにそうですの。私はそんな女としての身だしなみが身についていないじゃじゃ馬姫。この年になっても許嫁の一人も決まらず、一の姫であるというのに、と父君を悩ませてばかり。残念ですよ。男でしたら、東に赴き蝦夷を退治して見せましょうに」
 不意に厩戸がわずかに笑んだのが、身体越しに時雨にも分かった。
「実に残念だ。坂登殿ならば、さぞや勇ましい総大将になられたであろう。蝦夷もすくみあがるほどに」
 受ける坂登もにっこりと笑った。
「そのように言ってくださる方は、初めてです」
 そのまま風を切るように馬は駆ける。
 風を受け、伸びた髪が流されるかのように、風になびく。
 やはり馬には一人で乗れなくてはなるまい、と時雨は決意した。
 春を迎える前に、これから乗馬の練習をしよう。そうすれば摂津国三島に馬で迎えるかもしれない、と。

時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 13-12

古の家刀自編一ノ章 13章

  • 【初出】 2011年3月17日
  • 【修正版1】 2011年11月28日(水)
  • 【備考】 外伝扱いでしたが本編とし「時雨編」としました。
  • 登場人物紹介