少年のころ



「沖田惣次郎です」
 そう……つい一時前まで、試衛館に近き小川の河原に座って一人涙をポロポロ流していた幼子が、今は涙の跡など一切見せずに、二コリと笑ってみせる。
 ただ「あぁ」と答え、簡単に名乗った土方歳造だった。
「おい歳。惣次郎はこんなに幼いのに一人親元から離れて、道場に住み込んでいるんだよ」
 土方にとって幼馴染の島崎勝太……今は、試衛館の養子となり近藤勇と名を改めた……が、よしよしとまるで弟を可愛がるかのように惣次郎の頭を撫でると。
「若先生。僕、寂しくなんかないよ」
 と、惣次郎はニコッと邪気のない笑みを見せるので、さらに哀れになったらしい。
「可愛いなあ、惣次郎」
 まるで溺愛を隠そうともしない近藤を横目にし、土方は惣次郎の目をギロリと睨み据えて、ひとり勝手知った道場の中に入っていった。
(寂しくないなど、よく笑っていえる)
 河原で「姉上、母上」と小さな声で涙をポトポトと落とし、ついには嗚咽をこらえられず泣き声をあげて、驚いて河原で寝そべっていた土方は目を覚ましたのだ。
 まるで太鼓を連打しているかのような泣き声だった。
 人の心地よい睡眠を妨害しやがって、と睨み据えたら、幼子は殺気でも感じ取ったのか。
 唐突に振り返り、土方を大きな瞳で見据えてきた。
 それでも涙は止まることはない。一切隠すことなくポタポタと落とし、泣き顔を見られたという羞恥もなく、幼子は土方に近寄ってきた。
『おにいさん』
 そう呼びかけられ、なんだ、と視線を合わせれば、幼子は不意に涙を流しつつニコッと笑った。
『涙をどれだけ流しても寂しさは消えないの。どうすれば、消すことができるの』
 奇妙な風景だった。
 笑いながら、ポタポタと涙を落とし続けている。
 まるで哀しい顔を人には見せず、それでも哀しい気持ちを抑えられずに滴になってあふれてくるというかのように。
 土方はその幼子を見据えたまま、しばらくの間沈黙を守った。
 生まれる前に父が死し、六歳の時に母を亡くしている土方は、次兄夫婦のもとで育てられた。姉は我が子以上に土方を慈しみ、義兄も可愛がってくれたが、父母がいないというわびしさは幼心に拭えぬ傷となって留まり続けた。
 この幼子同様に幼かった自分は、どのようにしてわびしさをごまかしたのだろう。
 それを考えていると、あぁと思い至った。
『好きなことをするんだな。楽しいことに熱中する』
 そう答えを返した。
 幼きときより土方は喧嘩をよくした。強くなることが楽しく、強くなろうとする心が一種のわびしさを消していったのだ。
 すると幼子はきょとんとして、涙が不意に止まった。
『好きなこと……僕は、なにもないや』
 十歳前の幼子は「夢」というものを持ち、貪欲に楽しいことをもとめる時期だと思うが、その楽しさ、好きなことがないと幼子は小さく告げる。
『楽しいなんてこと、ない。好きなこともない』
『………』
『ねぇ楽しいことを教えて。僕、毎日竹刀を振って剣術の稽古をして、道場を掃除して……なにも楽しくない。竹刀を振っていたっておもしろくない』
『それは、単に竹刀を振っているから楽しくないのだろう』
 土方はおもしろくなげに、空を見上げた。
『強くなりたい、と思って振ればいいんじゃないか』
『強く……強くなるの』
『そう、剣術で一番になるとか。心を強くしたいとか思って稽古をすれば、少しは楽しさというものが沸くんじゃないか』
 少なくとも土方は喧嘩も竹刀をふるうときも、そう思っている。
 誰よりも強くなろう。心身ともに強くありたい、と。
『わかった。僕、やってみる。強くなろうと竹刀を振ってみる。……ありがとう、おにいさん。僕、がんばるね』
 そういって涙跡をつけたまま走り去った幼子と、数刻と経たぬうちにまた再会するとは思いもよらなかった。
 よく居候として住み着いている試衛館が、一人の内弟子を引き取ったということを聞いていたが、まさかあの幼子だったとは。
 沖田惣次郎。
 土方とは違い武士の子供だというが、どことなく同じ種別の人間という匂いがした。
(ガキなど俺は嫌いだがな)
 といって土方とて十七歳。まだ大人と正面より言いきれるほど大人ではなかった。
「おにいさん」
 ヒョイと居候部屋に惣次郎が顔を出したのは、すでに夕刻間近だった。
 薄暗い闇が部屋を染めている。
「若先生の幼馴染だったんだぁ。こんなに早く会えるなんて、とっても嬉しいよ」
「泣き虫惣次郎」
 そう呼ぶと、惣次郎は一瞬きつく瞳を細め強い感情が全身を漲らせた。
(いい目をする)
 土方がフッと笑みを刻むと、惣次郎の目も自然ともとに戻り、何を思ったのか土方の胸元に飛び込んでくるのだった。
「おい……」
 戸惑った土方に、その惣次郎はニコニコとしてこういった。
「良かった。若先生や老先生の前じゃ寂しいってあまえることも泣くこともできないから。これからはおにいさんに甘えられるね」
「おい!」
「もちろん二人の先生には内緒にしてね。ねぇおにいさん」
 微笑んだかと思えば、ギロリと瞳を細めて睨み据えてくる惣次郎だった。
 明るいかと思えば、暗い感情を漲らせてくる。
(おかしな子どもだな)
 いつしか胸元でスリスリと甘える惣次郎に好き勝手にさせながら、なぜか突き放すこともせず、両腕を背中にまわしてその背をさすっている自分が、なによりも土方にはおかしかった。
 惣次郎同様に末っ子だったが、土方にはこうして手放しに人に甘えた記憶はない。
 だからか、一種の甘い感情が心に到来し、それが惣次郎に少しの優しさを降らせたのかもしれない。
 九歳で親元を離れ、一人道場に住み込んでいる惣次郎に憐憫の情というのが知らずに訪れたのかもしれない。
「竹刀をふり、それでも寂しければ、無理に顔を作らずに悲しいという顔をして泣け。老先生にも、かっちゃんにも内緒にしていてやる」
 あえて笑って泣くのは、ふと誰にも心配をかけたくないためだろう、と土方は察した。
「秘密の共有者だね。やっぱりおにいさんは優しい。僕の思ったとおりに……これから、おにいさんが近くにいてくれたらきっと僕、寂しくないよ。きっとね」
 そこでゾッとするほど冷たく笑った惣次郎の思惑など、何一つ知らず、なにか背中によくあたるイヤな予感というものが走ったが、気にせずに土方は惣次郎を抱きしめていた。
 そう、これからの月日。この可愛い顔をした無邪気の悪魔に、散々に振り回されていく月日のことなど想像もしておらず、なにか弟がいたならぱこんな感じかと思いつつ、土方は夕刻の薄暗さが、徐々に真の暗闇に染まっていくのを、ただ見ていた。
「おにいさんではない。これからは土方さんと呼べ」
 惣次郎は素直に頷き、この後一番に多く呼び続けることになる名を小さく呟く。
「土方さん」
 その声音はどこか優しく、甘えが含まれたものだったが、すぐに風に乗って消えていった。


少年のころ

少年のころ

  • 【初出】 2007年ごろ
  • 【修正版】 2012年12月9日(日)
  • 【備考】