「ハルちゃんが見舞いとはめずらしいな」
 高杉晋作は寝床に横になったまま、気軽く傍らにある女性に声をかけた。
「……兄のかわりですの」
 女性は高杉の枕元で桃の花を花瓶にいけた。
 先ほどまでは妻雅がこの女性と話しをしていたのだが、いつもにまして思いつめた様子を感じとったのか。
 不自然にならない程度の理由をつけて、この病室を後にしている。
 高杉はちらりちらりと女性の横顔を覗き見していた。
 角度によってはその実兄を思い浮かばせる面影が、この女性にはある。
 あの人は椿のような凛とした風情と儚さを同時に思わせる人だが、その妹たるこの人は同じ椿でも白椿か。愛らしさと潔さを常に身に宿す。だが兄妹ともに、その背に「覚悟」という二字が見えるのが、一瞬だけ高杉は哀しかった。
「……あぁきれいな花だ」
「高杉さまは梅の花がお好きなようですが。桃も可愛らしく、あなたさまには似合うと思いまして」
「皮肉かい」
「……えぇ」
 女性の名は来原治子。数年前に攘夷か開国論かで長州がもめた際に、その犠牲となり自刃した来原良蔵の妻たる人である。
 だがこの女性を語る上では、来原の妻というよりも、現長州の用談役にして首相格として立つ桂小五郎の妹という方が話しとしては通る。
 女性としてはスラリと背が高い治子。その柔らかなきれいな面差しは「美形兄妹」と名を馳せただけはある。二十代後半という年齢になろうとも衰えることはない。
 ただその兄は穏やかで柔らかな印象を第一に与えるが、この治子は快活さと時に母としての強さを全面に表に出す。
「高杉さま」
「よしてくれ。ハルちゃんにそう呼ばれると虫唾が走るんじゃ」
 物心つく前より近所に住まう桂に家族以上に懐いていた高杉だった。それは一種の独占欲にも似た執着に等しい感情だったが、桂に対しては一生涯「すき」という感情を決して隠さずに通してきた。
 ……桂さんが好きじゃ。いっとうすきじゃ。
 幼いときより繰り返し繰り返し告げてきた告白を、桂はどんな思いで聞いていたのか。
 この治子ことハルは、高杉より一歳だけ年上で、桂にピタリと引っ付いている高杉を、よく「はるの兄様よ」と追い払ったものだ。
 遠き昔からの付き合いであり、幼い頃は桂を挟んで、あとは久坂をいれてよく遊んだ仲だというのに、
 いつ頃からなのだろうか。……ハルがこんなにきれいになったのは。不覚にも高杉は知らずにいた。
「では晋作さん」
 にこりと笑ったハルを見て、「あぁ似ている」と高杉は嬉しくなった。
 数日前に「最期の別れ」をしたこの手が唯一欲した人間に、こうも面影を似通わせているハル。
 ハルを見ていられることは嬉しい。
 ハルを見ていても、あの人が傍にはないことが……せつない。
「私の顔を見られて、うれしい?」
「そうじゃな」
「兄さまではなくて、かなしい?」
「……そうじゃな……」
「晋作さん」
「なんじゃ」
「私、昔からあなたが大嫌いです」
 幼い頃、よく言われた言葉だ、と高杉は苦笑した。
 よくこのハルが桂の腕にしがみついて、自分に対して「大嫌い」を連発したな、と。
 ハルにとっては大好きな実兄を自分に奪われるのではないか、という危機感を如実に抱いていたのだろう。そして自分も、実の妹という誰にも切り離せない間柄により、桂に優しげな笑顔を向けてもらえるハルが「大嫌い」だった。
 どうやったらハルや久坂などから桂を遠ざけて、自分が独占していられるだろうか。
 そんなことを幼いころから高杉は真剣に考えていたのだ。
「自分もハルちゃんが大嫌いじゃった」
「私の兄さまを……我が物顔をして傍らにあるあなたさまがいつも憎かった」
「ただ妹という理由だけで、桂さんの傍にいられるアンタが恨めしかった」
 二人とも顔を合わせ、そして高杉はニヤリ、と。ハルはニコッと笑う。
「大嫌いで大嫌いで、でもあなたの横にいる兄さまはいつも楽しげで……幸せそうだったのです。あなたが兄様の光で、兄様の体を温める日差しでした」
「……どれだけ温められたか知らん」
「今の兄はまるで月。冴え冴えとほのかに輝き、陽の強烈な日差しを一切望まない静寂」
「ハルちゃん」
「ねぇ晋作さん。私、これでも怒っているのよ。あんな兄は二度と見たくはなかったのに……またしても私に見せるの? 何一つ希望を感じられず、ただ役目と義務のために走らねばならない兄を、感情を殺してただ息だけを吸っている兄を、見せるの」
 もうたくさん、とハルはお盆に載っている湯飲み茶碗の中の水をばしゃりと高杉の顔にかけた。
「……おい、ハルちゃん」
「うそつき」
 耳に木霊するその言葉。
 ……うそつき。
 それは桂と最期に会った日。確実にあの黒曜の瞳が突きつけていた一つの言葉。
 始終穏やかにやさしく、そして「いつまでも共に在る」と誓ってくれた桂の、偽りのない心情の一言。
「……桂さんは言わなかったんじゃ、その言葉」
「兄は優しすぎるから、私が言うの。うそつき。ずっと兄の傍にいるといったのに。うそつき。ずっと兄と一緒に生きるといったのに」
「自分もそのつもりじゃったんだがな」
「うそつき、うそつき。あなたもあの人もみんな……兄を置いていく。兄を……あんな静寂な哀しい男にする」
「ハルちゃん」
「今の兄の重荷は……あなたと私の夫のせいですね。来原良蔵という男がいたら、まだ兄はあれほどの重荷を負わなかった。あなたが傍らにいるならば、どんな重荷でも兄は重荷と思わない。……兄をあのようにした要因の半分はあなたよ」
「……来原さんがいたら……桂さんはあぁはならん」
「えぇ。ただ男の意地のために。死に所を間違わないために死んだ来原良蔵は大馬鹿者だわ。残されるものの痛みも知らずに……兄はあのとき、おかしくなったのよ、晋作さん」
「きいちょる」
 周布が散々に頭を抱え、苦労した、と言っていた。
「それでも兄には藩のために精神を病んでいる暇がなかった。心を殺して藩のために働いて、心は蝕まれていった。ねぇ晋作さん。兄は絶対に言いませんから、代わりに私が言いましょう。兄が壊れたら、それはあなたのせいよ」
 ハルの目にはギラギラとした鋭さと、憎悪の感情がありありと浮かんでいた。
「もう誰も兄を止められない。あの蝕まれた心をどうにもできない。これからの日々、兄は心の病に取り付かれるの。そんな兄を見捨てていくの。ねぇ、大好きでしょう。昔からいっていたでしょう。桂さんがいっとうすきじゃ、と。だから……ねぇ、お願い。兄を一人にしないで」
 慟哭の叫びはどこまでも響き渡り、高杉の心の中にストンとおちた。
 いつしか涙を溜めて自分を睨みつけるハルに、高杉は自らの手を伸ばす。
「ハルちゃん」
「そんな弱弱しい手を私に見せないで。私が知っている晋作さんの手は小さいけど、逞しい男の手よ」
「……ハルちゃん」
「長州の魔王が何をこんなところで寝そべっているのよ。さっさと立って兄さまを手伝いなさい。兄様を……私の兄さまを」
 高杉は手でハルの頬に触れ、力なくその頬に流れる水滴をぬぐう。
「ごめんな」
「そんな言葉は聞きたくはないの」
「すまない」
「……言う人間が違うわよ」
「言えんから、自分は。面と向かって桂さんに言えんから。だから……すまない。すまない……ハルちゃん。桂さんに言えん言葉を代わりにアンタに言うしかない。すまない、ごめん。自分は桂さんを置いて逝く」
「馬鹿」
 らしくなく高杉は笑った。
「どうして自分はハルちゃんを好きにならんかったのかのう。桂さんによく似ているし、性格も十二分にすきじゃのに、どうしてかのう」
「それは晋作さんの目にはいつまでも兄しか映っていなかったからよ。私が夫に選んだ人同様に」
 来原良蔵という研ぎ澄まされた非凡な人間も、桂の前だけは穏やかに笑い、よく面倒を見ていた。
 過保護ですね、良蔵さんは、と桂は苦笑しつつも、頬に触れる来原の手を心から受け入れていた。
 来原が手にしたのは、ハルを通しての桂の家族という立場。そして、選んだのは無二の親友に我が子と妻を託しての自刃という道だった。
「……自分は来原さんより数段、桂さんのことを好きじゃよ」
「さぁどうでしょう。あの人の兄思いも異常と思うほどでしたよ。何かあるといつもいつも兄のことばかり」
 だから私は来原良蔵の妻となることにしたの。
 兄が欲した家族を……心から信頼できる家族を兄に与えるがために。
「けど、ハルちゃんが子どもを生んでくれて安心したんじゃ。その子どもがきっと桂さんに笑顔を与えてくれる」
「まぁ……自分がしなければならないことを私の子供たちに押し付ける気?」
「彦は来原さんに似て理知的で賢く、けれど激しさを理性で必死に制御する忍耐強さがある。あの子を見れば来原さんを思い出すじゃろう。 正は、逆に桂さんによく似て凛とあるのに妙に寂しがりやじゃな。よく似ている……似ていて安心するじゃろう」
「でもあの子たちは私の子供。兄にとっては単に甥なだけよ」
「いずれ知るじゃろう。子どもという存在がどれだけの制御になるか。どれだけのぬくもりになるか」
 自分も長男梅之進をこの腕に抱くまでは、その気持を知らなかった。
「ハルちゃんに子どもたち。それから松子がいれば……少しは安心じゃ。自分はな。桂さんが……この世で少しでも安穏を手に入れられることを願う。 自分がいない世界で幸せになってくれとは言えんから、ただ安穏を願う」
「卑怯よ。幸せになって、といわないなんて」
「自分は桂さんが好きじゃ」
「知っています」
「自分以外が桂さんを幸せにするのを望めないくらいすきなんじゃ」
「……晋作さん」
「だから……せめて安穏を。自分は桂さんの傍にいてずっといのっちょる。ずっとずっと願う。それで……勘弁してほしい」
「誰が勘弁しますか。私の願いは兄の幸せ。これから……良蔵さんも晋作さんもいない中で兄を幸せにしてくれる人が現れることを、私は祈るわ」
 ハルはキッと高杉を睨みつけてくる。
 活き活きとした憎悪に染まりつつも、芯は優しさを多分に含んだ自愛なる瞳。
 桂とは違うその瞳は、やはり桂に似ている。
 ハルはどこまでも、高杉にとっては「桂の妹」でしかなく、ゆえにいつも何かと気にした。いや、気になってならなかったのだ。
「しあわせに、ハルちゃん」
 それは心からの思いだったと思う。
「それこそどんな皮肉ですこと。私のしあわせは兄さまの近くにあるのよ。兄さまが幸せになれずして、私がどう幸せになれるの」
 ハルはもう一つお盆に載っている湯飲み茶碗を手に取り、もう一度ばしゃりと高杉の顔にかけた。
 高杉は前髪にしみこんだ水滴を、袖で拭き取る。
「お邪魔さまでした。晋作さん」
 ただハルの願いは一つだけ。
 兄たる桂が幸せになってくれること。偽りのない笑顔を見せ、声をあげて笑ってくれること。
 その姿を見れることが、桂の妹たるハルのしあわせ。
「ハルちゃん、笑ってくれないか」
「嫌ですわ」
「自分に桂さん最期は悲しげな笑みしか見せてくれなかったんじゃ」
「お気の毒様。それが……あなたに対する唯一の報復です」
「なぁハルちゃん」
「さようなら、晋作さん。どうぞ地獄に堕ちて、良蔵さんと語り合ってください」
 背を向けたハルに、高杉は手を合わせて「すまない」ともう一言呟いた。
 ピシャリと締められる障子戸に、追いかけたい、という心は封じられる。
 障子戸の前に立ち止ったハルは、
「……うそつき」
 と、もう一度だけ呟いて、去りゆく足音を響かした。
 高杉はわずかに呼吸を乱し、その場で目を閉じる。
 暗闇の中に白くほのかに浮かぶ桂が、高杉にかなしげな目をしてやはり「うそつき」といった。
 その面差しにごめん、と呟き、高杉は涙をこぼす。
 ……一緒に生きてやれなくて、ごめん。
 毎年の桜の花見を、自分はもうできんようじゃ。


  • 幕末長州
  • 全1幕
  • 【初出】 2007年10月2日
  • 【修正版】 2012年12月11日(火)
  • 【備考】