前触れもなく大久保が訪ねてきて、開口一番にこう言った。
「夕にうな丼でも食べに参りませんか」
その瞬間、条件反射で手近にあった文珍を投げつけてしまったことについては、いささか反省している。
だが木戸にはうなぎと聞くだけで、つい背筋に悪寒が駆けめぐってしまうほどの嫌な記憶があった。
「………申し訳ありません」
文鎮を胸に受け、その場で前のめりになってしまった大久保に対し、素直に木戸はあやまった。
「うなぎは私にとって苦手なもので………名前を聞くだけでも寒気が走るのです」
顔をあげた大久保の目はいつも通りに無機質だったが、その中にどうも「苦手」な理由を知りたがっている色が見て取れた。
木戸はひとつため息をつき、とりあえず大久保をソファーに誘い、お詫びがてらに自ら紅茶を入れて差し出すことにした。
愛用の茶器でいれた紅茶を大久保に差し出すと、
「この頃、見るからに貴公はやつれている。内務省でも噂になっているほどです」
という淡々とした声が耳に届いた。
「………夏は痩せる方なので」
「尋常でない痩せ方です。それでうなぎでもと思ったのですが………」
まさか文鎮が飛んでこようとは大久保とはいえ予想もしていなかったようだ。
普段の頭が腐ったような愛の告白と比較すれば、今回の誘いはまともではあった。文鎮を投げつけるなどなんと大人げないことをしてしまったのか。
猛省しつつも、それでも木戸は頭の中で「日ごろの大久保さんの行いが悪いからだ」と思っていたりする。
「うなぎでなければお誘いをお受けいたします」
ほんのわずかな良心の呵責から木戸はそう言った。
「山縣付きですが」
現に本日は山縣と食事をする予定にはなってはいる。
この大久保と二人だけでの会食などろくなことがないに決まっている。どこぞの宿泊付きの料亭で組み敷かれたならば、木戸はにっこりと笑って大久保の首でもしめてやろうと日ごろから考えているほどだ。
廃刀令はまだ出ていないが、政府の役人が帯刀することはなくなっている昨今。木戸も愛刀は自宅に保管したが、短刀だけは密かに懐におさめていた。
すべてはこの男。大久保対策としての心がけだ。
「それほどにうなぎは苦手ということでしょうか」
「えぇ。ひつまぶしならだいぶ苦手さは薄らぎますが」
「ひつまぶしとは?」
「あぁ………。まだ世間には広まってはいませんか。山口にいたころに作ってもらったことがあるのです。なんでも名古屋のうなぎ屋の賄いだったとのことで」
「………」
「………とにかく苦手なのです」
「………」
「土用の丑の日にうなぎを食すようにと広めた平賀源内が憎らしくなるほどに」
ジーっと大久保の無機質の目に見つめられ、木戸は居心地が悪くなってきた。
どうやらこれだけでは大久保は「うな丼誘い」から引きさがらないようだ。
「小さいころから苦手でしたが、私が悪寒が走るようになったのは山口の政治堂に詰めるようになったころで」
そのときにわずかに無機質な目に興味の色が走り、どうやら大久保は自分の思い出話というものを聞きたいのだと木戸は察した。
あまり人に話したくはないが、文鎮を投げつけてしまった負い目がわずかにある。
「面白くはない話ですよ」
と断って、木戸はおおまかな理由を話すことにした。
そうあれは慶応元年の六月のこと。
木戸は出石より萩に戻り藩の用談役として政務所に迎えられていた。先の長州藩の内紛もようやく片が付き、ほんのりと静けさを取り戻し始めたそんなころ。
奇兵隊の総管となった山県狂介が、政務所の木戸のもとに顔を出した。
「うな丼を食べに参ろう」
と山縣はいった。
「こんな暑い日にうなぎ? 私はどうもあの食感が好まなくて」
「本日はうなぎと決めている」
「私の意見は聞いてくれないのかい」
山縣はコクリと頷いたとき、こんな事後承諾はない、と木戸は拳を握りしめてしまった。
政務所にこもるようになりほとんど衣食住を放棄した生活となった木戸を心配して、幼なじみの高杉晋作がこの山縣を「護衛」として付けた。
お江戸三大道場の塾頭に立つほどの剣豪であった木戸に護衛など必要はない。
高杉の目的は食事をほとんど取らずに仕事に熱中する自分の身体を思ってのことだろう。
その心遣いは嬉しかったが、よりによって奇兵隊の総管の山縣を付けようとは常人には考えられないことといえる。いや高杉の人選は完璧ともいえた。そうこの山縣は木戸に食事を取らせる名人として名を馳せていたのだから。
木戸がいつものように「食したくはない」と言えば、この山縣という男、
『ならば口移しとしよう』
と無表情で告げ、実際に本気でこれをやろうとするので木戸としてはたまったものではない。
山縣という男は口にだしたならば必ず実行する。どんな無茶苦茶も無表情でやり遂げてしまうそんな男だ。
こうなっては木戸は、山縣の「食事の誘い」はむげにもできず断ることもできず、事後承諾も受け入れるしかない状態となってしまっている。
「う……うなぎ以外ならいいよ。そうだ、なにか冷たいものでも。ところてんとか……」
「うなぎだ」
山縣は譲らない。
「……どうしてもうなぎなのかい」
「はい」
「うなぎ以外の選択肢はないということだね」
「ありません」
そのとき、木戸は目の前にある硯をこの男に向けて投げつけたいと本気で思ったが、なんとも子どもっぽい衝動だと思い耐えた。
ましてこの無表情男と言葉で言い合おうとも、結局はいつも最後は自分が負ける。寡黙な男だけにさして話さないが、言葉にすると重く響くのが要因といえようか。
「あと小半時ほどで出るので支度をしていただきたい」
言葉を返す気力もなくなり、木戸は言われるままに支度をしきっちり小半時後に政務所を出た。
山縣の話しでは名古屋に修業に出ていた男がのれん分けをされ山口にうなぎ屋を開き、その評判もうなぎ登りのように良いというのだ。
まぁ木戸はその話を耳から耳に流している。
どれほどに評判が良かろうとも、うなぎであることに違いなく、うな丼を食さねばならないことに変わりはない。前に付き合いで高級店でうなぎのかば焼きを食したが、さして変わらなかった。
馬でそのうなぎ屋に向ったが、見るからに消沈している顔に山縣は何度ため息をついたか知れない。
店前につくと何人か並んでいた。うなぎ独特の匂いが鼻につき、思わずうっと木戸は口をおさえる。
「並んでいるようだし……ねぇ狂介。今日は……」
相手もさるもの耳を貸しはしない。
(この男は……)
長い付き合いではある。
木戸はこの男の融通の利かなさは、その師である吉田松陰と似たりよったりだと思っていたりする。
といっても山縣が松陰に学んだのはほんのわずかな期間で、実際に師と言えるほどの間柄ではないのだが、弟子というものはどことなく師匠の面影があるものといえる。
小半時も経たずに店の中に案内をされた。付け台と小上がりを合わせて十席ほどの小じんまりとした店で、店内は満員の暑苦しさと熱気に満ちている。
(………無理かも……)
すでに木戸は諦め気味だった。
山縣と話しをする気力もなく、運ばれてきたうな丼を見ると……なぜか涙がポロリとこぼれた。
「それほどにお嫌か」
これには山縣も驚いた様子だ。
「人が並ぶほどのお店のうな丼を私はきっと少ししか食せない。申し訳ない……」
「無理をしてでも食していただく」
「無理をしたら倒れるから」
「背負ってまいるので気になさることもない」
「私が気にする」
この男と話していると、たまにうまく会話がかみ合わなくなるが、それは今はどうでもいい。
時にこの山縣には、世間一般の常識というものがないのではないかと思うところがあるのだ。いや常識というよりは情緒だろうか。
「お客さん」
うなぎを焼きながら店の主人が声をかけてきた。
「うなぎが苦手かい」
話しが耳に入っていたのだろう。木戸は素直にコクリと頷いた。
「うなぎが苦手な人間がうな丼を食いにきたってかい」
「この人には栄養のあるものが必要だ。この顔を見ると一目瞭然ではある」
「無理やり連れてこられたっていう口かい。確かに顔色は悪いなぁ」
「口を割ってでも食べさせるゆえ……」
「それはお店に迷惑だから」
と木戸がさえぎると、主人は苦笑いしつつ、付け台より手を伸ばして木戸のうな丼を手に取った。
「うちはよ。うまいうなぎを食ってほしいのさ。一口食うだけで顔がほころぶようなうなぎをな。今のお客さんの様子じゃかば焼きはくどくてはいらんだろう」
これにも素直に頷いたので、山縣にジロリと睨まれた。
主人はかば焼きをぶつ切りに切り、それを白米の上に乗せてから、冷えた出汁をかけた。
「これで食ってみな。うな重よりは口に入るだろう」
木戸は見たことがない料理に茫然としたが、言われるままに口に入れてみた。
驚いたことにスッと喉を通った。熱い白米とうなぎのかば焼きの冷たい出汁はよく合う。
「……おいしい」
ポツリとつぶやくと、山縣が驚いた顔をする。
「狂介も一口どうだい。うな丼は私には重たいけど、これならばすんなりと喉を通るよ。冷えた出汁がよくあっていてね」
山縣は小皿に分けてその料理を食し、確かに、と頷いた。
「主人。これはなんという料理なのか」
「料理というか。修行していた店でまかないとしてだされたものでね。ひつまぶしって呼んではいたけどな」
「美味なものだ。賄いだけとは実におしい」
「うなぎ屋はやはりかば焼きにうな丼さ。これはお客さんがあまりにも食えそうにないから作っただけの……」
「これを出前で運んでくれないか」
山縣が主人に食いついた。
「手が空いたときでいい。政治堂にだ」
「政治堂だって」
主人は飛びあがった。
「これを四人前。月に一度……十五日がよい。それと土用の丑の日のたびにお願いしたい」
「きょ……きょうけすけ……」
木戸は驚いて山縣の袖を引っ張ったが、
「貴兄は大切な身だ。栄養あるものを適度に取らねばいずれ倒れる。主人、繁盛時期でなくてよい。奇兵隊の山縣からの注文と言えば政治堂の門は通れるはずだ」
「き……奇兵隊!」
泣く子も黙る奇兵隊は山口の街では英雄であり、畏怖の対象といえる存在といえた。
これも山縣の作戦だろう。奇兵隊の名を出せばこの主人は断れまい、と考えたのだ。
とりあえず、わずかに食欲が出てきた木戸はその「ひつまぶし」をゆっくりと味わって食し、どうにか完食した。
主人の気遣いに感謝しつつも、出前については「無理はしないように」と声をかけたが、すでに主人は「奇兵隊」の名にわずかに怯えていたので、間違いなく出前を運ぶだろう。
毎月、自分はうなぎを食さねばならないらしい。
まぁうな丼よりは食べやすくはあるが、あの主人はどうひつまぶしを出前するのだろうか。やはりだしは別にして、提供するときにかけねばうなぎの風味が落ちるに違いない。
そんなことを思いつつも、これから毎月必ずうなぎと対面となることにため息が漏れてしまった。
「なぜ四人前なのだい」
帰り道で山縣に尋ねてみると、
「高杉さんも貴兄と一緒ならば食すだろう。もうひとつは伊藤だ。あれは貴兄の側にいるのが多い。一人だけのけ者にすれば喚く」
「……それはそうだろうけど、晋作もうなぎは苦手だよ」
「貴兄が食したのだ。間違いなくあの男も食うだろう」
その日からうなぎ屋の主人は必ず十五日と土用の丑の日には政治堂に「ひつまぶし」を運んだ。
その味がいつしか政治堂に広がって、十五日には二十人分の「ひつまぶし」を運ぶようになり、うなぎ屋は「政治堂御用達」と呼ばれるようになった。
だが、だ。
さらに食が細くなる真夏になると木戸にとってはこの「ひつまぶし」は拷問に等しかった。
出前の日は必ず山縣がおり、目で「口移しでも」と脅され、木戸は泣きながら食したこともある。
「うなぎはもう見たくもない」
喚いたその日の夕方に、さらにうなぎ屋に連れて行かれた日には、この長い付き合いの後輩を本気で憎くなったほどだった。
長州はその後、怒涛の日々となり「うなぎ」どころではなくなったが、維新がなって後も山縣は月に一度は深川のうなぎ屋に木戸を連れ込む。
ひつまぶしではないうな丼は拷問以上であったため、うなぎという言葉に知らず知らずに過敏に反応するようになってしまったのだ。
「ということです。私にはうなぎは拷問なので、できれば違うものでお願いします」
簡単に事のいきさつを話すと、大久保は軽く頷いてこんなことを言った。
「西郷は甘いものが好きで、特にカステラを好みます」
木戸はちょいと首を傾げつつ、「そうなんですか」とつぶやいた。
「健康に良いものを食すようにとカステラを奪いとり、栄養があり腹もちがよいものを勧めるとそれは哀しい顔をする」
「好物ならそうでしょうね」
「だが私はそれでも西郷の身体には変えられぬと厳しくする。……今の話の山縣くんの気持ちが私にはよく分かる」
「はあぁぁ」
「そして良い参考になりました。口移しでも……か。そう言えば西郷も私の言うことを聞いてくれるやもしれん」
「どうでしょうね」
トントントンと扉を叩く音がし「どうぞ」と言うと、初夏だと言うのに暑苦しい黒の背広をきっちりと着用した山縣が現れた。
「狂介。もうそんな時間かい。今日の夕餉は大久保さんも一緒するよ。今日はなににするのだい」
「うなぎだが」
「う……うなぎ! 私は遠慮するよ、うなぎは」
「貴兄のこの頃のやつれはいささか見過ごせぬ。これからは栄養がつくところに限定する」
「けれどうなぎは……」
「ひつまぶしを出す店を見つけたので、貴兄の喉も通るはず。その顔のやつれを克服するまでは貴兄にはうなぎ攻めだ」
「うっうぅぅぅぅぅ」
木戸が首を横に降ろうとも、山縣は一切気にかけはしない。
「うなぎだがよろしいか」
と大久保に尋ね。大久保はただコクリと頷く。
山縣は木戸の袖を取った。
「逃がしはしない」
あの数年前のように、また本日も泣きながらうなぎを食す羽目になりそうだ。
過保護と言えるほどに世話焼きの後輩がいると、先輩というものは苦労をするのかもしれない。
いや気遣ってくれることにありがたいと思わないとならないのだが、ここまでくると「やりすぎ」と思うのは気のせいか。
「ひつまぶし、実に楽しみだ」
大久保の目は興味津津となっており、気が重い木戸はわずかに睨みつけてしまった。
その宵、深川のうなぎ屋で「ひつまぶし」を食した。
木戸は予想通り嫌々の涙を流したので、山縣が半分ほど食してくれた。
持つべきものは後輩だ、と少しだけ思った。
世話焼きの後輩
世話焼きの後輩