おさな心




 井上勇吉、現在八歳。
 後の元勲……外務大臣井上馨も、この年は夏より一人の人間に夢中で、毎日のように思い慕う悶々とした日々を過ごしたものだ。後に井上は、この八歳の年の出来事を苦笑でしか語れなくなるが、それでも時が過ぎ行くたびに「美しき思い出」と思うようになり時折思い返しては、
『きれいだったなぁ、俺の最たる理想だった』
 とケラケラ笑って語った。
 周防山口出身の井上は、藩の大部分の機能がある「萩」を訪れるのは、たいていは父の所用に共をしてである。
 その年までは歩いて「萩」まで行くのはなかなかに億劫なこともあったが、萩までの長い道にて父がいろいろな話を快活な顔をして語ってくれることが嬉しく、また九割はこれが理由なのだが……ある人と会えるのが嬉しいのだった。
 萩の呉服町江戸横町にある一軒の診療所を兼ねた邸宅。
 藩公の覚えもめでたく、また大変な財産持ちとして知られる和田家は、百石取りの上士をも上回るほど邸宅の規模は大きい。
 父は和田家当主昌景と馬が合うらしく、萩に来ることがあれば必ず「酒でも飲もう」と和田家を訪れるのだった。
「勇吉、おまえさんはどうしてこうも萩に来たがるんだ」
 父が萩に赴く際、お供は兄幾太郎と勇吉が交代ずつに受け持っていたのだが、このごろは兄を押しのけて勇吉が「お供」と地位を手にしていた。もともと兄は長い道のりを父と二人っきりになろうと、あまり話すことはない、とこの「お供」を極度に嫌がっていたのである。
「……ともだちができたんです」
 少しだけ……その言葉は違った。
 ともだちではない。勇吉はその人を思えば胸が震えるほどに恋しく、胸がつぶれるほどに苦しく……けれど思わずにはいられない「初恋」の相手を見つけてしまったのだ。
「あぁ高杉さんのところの子どもと遊んでいるようだが。……おまえが幼子の相手を楽しむとは思えんかったな」
 当然だ。勇吉は幼子は好きではない。それどころか「高杉春風」……通称晋作という小生意気が鼻につき、ことあるごとに自分の邪魔をする小童が、とてつもなく大嫌いを極めていた。
「おまえさんは誰とでも打ち解けられるという特技がある。ともだちは多いにこしたことはないというものだ。好きなだけ遊んでくるといい」
 父の勘違いを糺すことなく、勇吉はただニヤリと笑う。
 呉服町に差し掛かったときに、父に「夕刻までには和田家に向う」と約束して、近くの神社に勇吉は駆けた。
「いるかなぁ」
 そして鳥居を潜ると、毎日この時刻まではたいていはこの神社で遊んでいる二人の子どもが、今日も例外なく居た。
 神社の境内の石に座し、十歳の一人の人間が膝に四歳の子どもを抱えて本を読んであげている。
「桂さん」
 その人の名を勇吉は呼ぶと、呼ばれた人は顔をあげて穏やかに笑んだ。
「お久しぶりです、井上さん」
「なんだ、またおまえかよ。来るなって言ってるだろう。桂さんは自分のものだ」
 小生意気に高杉晋作が、見るからに瞳に憎悪を込めて桂の胸の襟元をギュッと握り締めた。
 勇吉は……そんな言葉など聞いてはいない。
(今日もキレイだ……前よりもまたきれいになったなぁ)
 今日の桂は髪を肩もとで軽く結うだけで、中秋の季節になり風がかなり冷たくなっているというのに薄着だった。少し寒そうだな、と勇吉は羽織を脱いで桂の肩にかけてやると、
「やめろ。桂さんに触れるな」
 まさに小姑か、と思えるほど高杉は邪魔してくれる。
「井上さん……お気持ちはありがたいのですが……私は寒くは……」
 そこでくしゅんと小さくくしゃみをした桂は、その場で苦笑を漏らした。
 いつも思うのだが、なぜ「女」なのに桂は「袴着」を着用しているのだろうか。きちんと女性用の小袖に身を包み、その烏の色をした艶のある黒髪を結えばどれだけ美しかろう。
(けどな……)
 そんな姿をすると人目を引いてどこからかよからぬ虫が寄り付くと考えられる。今でも「高杉」というよからぬ虫がいるのだ。これ以上増えるのも嫌なことでもあり、逆に袴姿もとてもよく似合うのでこのままの姿でもいい、と思う。
(いずれ俺が……求婚して許婚の仲なぁんかになったら、ちゃんと小袖を着てもらおう)
 いや自分の前でだけ美しく着飾ってくれればいい。美しき桂を誰にも見せたくはない。
 勇吉は……未だに和田家の長男「桂小五郎」を女性と思い疑ってはいないころ。彼は寝ても覚めても桂を思い、どうすれば桂を「妻」にできるのかといろいろと考えている。
 毎回顔を会わせるたびに「求婚しようか」とまで思った。誰にも取られることがないうちに正式に「許婚の仲」となりたい、と本気で思い、随分も前に父にそれとなく話してみたのだが、長男の幾太郎の許婚も決まっておらず、そればかりか次男の勇吉は いずれ他家に養子に行く身として、まだまだ早い、と取り合ってもくれない始末だ。
(せめて桂さんと形だけでも誓いを交わしたい)
 それも高杉がピッタリと桂に寄り添い、我が物顔で桂の胸元に顔を埋めている以上、その憎らしさと羨ましさが頭に来るばかりで、いつも「求婚」をすることは適わなかった。
 井上勇吉は八歳。桂は十歳。
 まだ何の力も地位もない勇吉でありしかも年下だ。これでは桂も将来に不安を思い受けてくれないのではないか、と勇吉は考える。もう少し時を重ねて親しみも沸き、ついでに明倫館に通うようになり地位を得てから、男として女を護れるようになったら、
 その時に求婚しよう。
 そう決意している。それまで高杉が桂に引っ付いていれば、きっと高杉が寄ってくる男たちをすべて退散してくれるだろうから、周防と萩と離れていて、滅多に顔をあわすことはできない勇吉としては、高杉という小童に憎しみは九割だが、一割ほど有難いという気持ちがあった。
「……井上さんは寒くありませんか」
 桂は肩にかけられた羽織を申し訳なさそうな顔をして勇吉を見てくる。
「俺は全然平気。桂さん体あまり丈夫そうじゃないから羽織っていなよ」
 男たるもの……女を守護するのは当然というものだ。
「……ありがとう」
 そう楚々として決して目立たず奥ゆかしい点が、なんと言おうか勇吉の好みだ。容姿もとてつもないほど理想な「キレイさ」だが、なによりも身より漂うような「優しさ」と「奥ゆかしさ」優雅にして気品のあるところが、勇吉は好きである。
「桂さん、寒い?」
 高杉が桂の胸元にしがみつきながら、そう小さくたずねた。
「少しね。けれど……今は温かいよ」
「じゃあ自分がもっとあたためちゃる」
(こ……このガキ)
 勇吉の顔を蒼白にさせるほど、高杉はギュッと桂を包み込もうとするように幼い両腕を桂の身体に回したのだ。
(よりにもよって……桂さんに)
「あたたかい?」
 桂は優しく優しく微笑を漏らす。
「とても温かいよ。晋作の身体は温かいから……」
 見ようによっては仲が良い姉と弟なのだが、高杉はおそらく「姉」として桂を慕っているわけではない。
 ……桂さんは自分のもの。
 と、宣言するほどだ。たとえ四歳という幼子といえども侮ることはできない。初めて顔を合わせたときから勇吉も高杉も互いを「敵」として認識している。
「寒くなったら自分が桂さんをあたためる。絶対に自分が」
 キッと高杉は振り向いて勇吉に鋭い視線を送ってきた。
 敵対心むき出しだ。
(小生意気なチビ。桂さんより六歳年下なんだから、おまえに分などないさ)
 二歳年下というだけでも、勇吉はかなり気にしているほどである。
 せめて今、自分が十五歳ならば、誰がなんと言おうとも桂に求婚した。この手で桂を守護して、自分だけが護っていきたいと思った。
 なんで俺は八歳なんだ。
 その年だけは神仏に祈ろうとどうにもならないものなので、勇吉は歯がゆくてならない。
(もっと強い男になりたい)
「井上さん、これから晋作と栗でも拾いにいこうと思っています。一緒に如何です?」
 年下にも自然で穏やかな敬語が身についている桂。
 その声が柔らかくて、勇吉は耳にするたびに幸せな気分に包まれる。
 春風のように優しく……耳に語りかけるように柔らかな。
 それで「弱さ」を感じさせない声の響きは、桂という人間を物語るようである。
「イヤだよ。自分はイヤ。桂さんと二人で行く。……二人がいい」
 しがみつき「駄々」をこねるようにイヤイヤをする高杉の、頭をよしよしと撫でて両腕に抱いたまま桂は立ち上がった。
 そして高杉を下に降ろし、肩もとにかかっている羽織に両腕を通していく。
(その羽織……宝物にしよう)
 勇吉はつい頬が緩んでいくのを必死に押し留めて、桂の右足にしがみついた高杉を見据えた。
(おまえは一生、たぶん弟で終わるんだよ)
 そこからどれだけ抜け出したくとも、どれだけ足掻こうとも、弟という認識を転換させるには……まだまだ時を有する。その前に自分が「桂」をいただく。
 裏山に栗を拾いに、桂は高杉の手を引いて歩き出した。
 その後ろから勇吉は二人の姿を見つめる。
 桂は十歳の女性としてはいささか背が高い。そろそろ五尺に近いのではないか。
 まずは背を伸ばさないと、と勇吉は右手を握り締めて決意する。
 桂より背が低いと……並んだときに桂が哀しい思いをするのではないか。それに勇吉の性格的にも、自分が好いた女よりも背が低いのは矜持にかけてイヤだった。
(絶対に背を高くしてやるからな)
 そんなことを必死に考えている井上勇吉、八歳。
 彼が思い慕う「桂」が実は「男」たることを知るのは、この年の冬のことである。
 それまでは……まだ悶々とした恋い慕う日々を送りそうだ。


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おさな心

おさな心

  • 【初出】 2007年ごろ
  • 【修正版】 2012年12月10日(月)
  • 【備考】