幼なじみ




「晋作」
 そうやさしく……そして穏やかに。
 きっとこの人がいちばんに「優しげに」自分の名を呼ぶ。
 いつからこの人の声を聞いているだろうか。
 どのくらいの時分から、自分はこの人を知っているのだろうか。
「自分、いつから桂さんって追っかけるようになったんだったか」
 と、傍らでなにやら誰かから借りてきたらしい小判を一枚一枚数えている井上聞多に、ポツリと尋ねて見た。
「な、なんだ。高杉、どうしたんだ。そんなこと、だぁれも知らんことじゃないか」
「なぁんもおぼえとらん」
「桂さん言っていたぞ。高杉が生まれてすぐに会いに行って、それ以来赤ん坊のおまえをよく背負って子守までしてきたとな。自然の成り行きというやつじゃないのか」
「………そうじゃったかな」
 高杉晋作としては珍しく考え込みはじめた。井上は横で「なんだろうなぁ」と思いつつ、今度は小判を磨き始める。
 二人でお気に入りの芸者のもとに訪れたのだが、先客がおり待ちぼうけをさせられていたりする。
 井上はこの行きつけの店に散々に借金があったため、桂と周布に拝みこんで金を借り、すべて借金を返済できる、と上機嫌だが、小判に愛着を持つ彼としては、手放すのがかなり惜しいと見える。
「なぁ聞多」
「なんだ」
「このごろ桂さん。自分にどことなぁく冷たいんじゃ」
 はぁ?と井上はまじまじと高杉の顔を見てしまった。
「冷たいというかつれないというか。……今日も桂さんを連れ出そうと袖を引っ張ったんじゃ。いつもなら、仕方ない、と桂さん自分にはなんでも付き合ってくれるのじゃが。今日はだめじゃった。突き放した」
「おいおい高杉よ」
 井上は呆れつつも、半ばかなぁり動揺していたりする。
「おまえ……ついに桂さんを心から怒らせたんじゃないのか。今のうちに謝っていた方がいいぞ」
「なにもしとらん」
「いいか、高杉。おまえが船を勝手に購入してもあの人は笑って仕方ないね、といったものだ。脱藩しようと休暇にしよう、と苦笑で済ます、このごろおまえのことについてはかなり一本線が抜けている。危機感がまったくない。その桂さんがじゃぞ。おまえにつれないなんて……はじめて聞いたぞ」
「なにか……したのか、自分」
「そうとしか考えられんことだぞ」
「なんだろう……じゃがなにを怒ってる? 自分がなにをしようと桂さんは怒らんのじゃ。昔からずっとじゃぞ」
「そうだな。俺もいろいろと見てきたが、桂さんが高杉のことを本気で怒っているのは見たことがない。なんかとんでもないことをしたんじゃな。それも桂さんが怒ることを、だ」
「自分……桂さんが怒ることだけはせんという自信があるのじゃが」
「その自信が粉砕することもあるということだな。高杉が自信をなくす姿というものはぜひとも拝みたいものだ」
「聞多ぁ」
「なんだ」
 高杉はこの悪友も同然の井上聞多という男が、遠き昔から気に食わないのは変わらない。
「お、おい。なにをするんだ、高杉」
「この小判。桂さんに聞多はいらなくなったといってつきかえしてきちゃる」
「よ……よせ。これはようやく借りたものだ。これで借金はチャラなんじゃ。俺をこの色町から出入り禁止にさせるつもりか」
「自業自得じゃ」
「この……」
 まさに大人気なく高杉と井上は取っ組み合いの喧嘩をはじめ、二人ともが顔やら手に傷をつくりはじめたときに、「騒々しい」と女主人に怒鳴られ、 ポイッと店外に追いやられたのだった。
 二人してため息をつき、互いの顔を見て、さらに深いため息をつく。
 思えば幼い頃、高杉はこうして井上と取っ組み合いの喧嘩をよくしたものだ。桂の傍に近寄る男はこうして追い払ってきた。誰かが自分以上に桂と親しいことを、 どうしても高杉は許せなかったのだ。
「久しぶりだったな」
 かすり傷ゆえ血がすこし流れる程度だったが、井上は手の無数の傷をぺロリと舐めて渋い顔をした。
「桂さんが知ったら、また大人気ない、といって呆れるな。ついでにここの今日の破損代金、また政治堂まわしだ。桂さん……行きだな」
「聞多」
「なんだよ」
「桂さんに呆れられるのは自分はいやじゃ」
「当然だな」
「今日の一件は自分は知らん」
「な、何だと」
「聞多が勝手に起こしたことにする。自分はなぁんも知らん」
「こ、この……高杉が屏風も障子も壊したんだろうが」
「自分はなぁんも知らん」
「おい」
 高杉は軽やかに歩を進ませ、軽く振り向いてニヤリと笑う。
「桂さんに嫌われるのはいやじゃ」
 こういう天上天下唯我独尊といったところが高杉晋作の魅力だということは井上は十分に承知だが、誰も一人でこの料亭一室破壊の責任を取るつもりはない。
「言うからな、桂さんに。ちゃんと」
「そうなったら……聞多。覚悟はできているよな」
 奇兵隊総督高杉晋作は、あくまでも「自分勝手」の男であった。


 ひとり帰路を辿りながら、高杉は昔のことを思い出していた。
 近所に住まう六歳年上の桂小五郎という人は、高杉にとってはいちばん大切な人と公言して憚らない幼馴染である。
 高杉が生まれて三日後、お祝いに訪ねてくれた桂の腕に首も据わらない赤ん坊だった高杉がそっと抱きとめられた。
 それからの付き合いと言える。
 幼い頃から癇癪持ちでなおかつ人嫌い。人見知りも激しい高杉は、外に出て同い年の子供と遊ぶということができず、いつも母の後ろに隠れてしまうそんな子供だった。
 物心つく前から人に抱かれるのがひどくキライだったという。母以外が腕に抱くと、まさに泣き喚いたという。三人の姉たちは頭を抱える中で、近所に住む物静かな少年がそっと腕に抱くと、高杉はにこりと笑ったという。
 その少年桂小五郎が、家に訪ねてくるのが楽しみでならなかった。顔をあわせると離れたくなくなり、袖を掴んで離さなかった。
 人見知りで誰にも懐かぬことを気にかけた父が、桂に「子守」を頼んだのもそれが理由だったのかもしれない。
 ……カツラさん。
 と、呼んで、毎日顔を合わせるその人の傍にあった。
 桂を自分から奪う人間には、必死に高杉は追い払うのに努力したものだ。竹刀を持ち追い払い、そんな自分に桂はやさしく笑んだ。
『晋作はほんに仕方がない』
 大切という言葉では言い表せない。
 生涯をともにする女はいる。恋に似た感情を抱く女もある。だが桂に対する思いは「恋」などとは計り知れない。幼いときに自分は決めてしまったのだろうか。
 生涯をともに歩く人間を……傍らを歩く人間を。
 軽く石を蹴飛ばし、桂に会いに行こう、と道を引き返す。今日はいつもより冷たかったその理由を手早く聞いた方がいい。気になったままでは、いつまでも悶々とした思いは付きまとう。
 夕暮れ時。政治堂に駆け込んだ高杉は、そのまま桂の私室に向う。まだほのかな灯りがついている。桂は中にいるはずだ。
「桂さん」
 いつもどおりにバンと乱暴に襖を開けると、そこには思わぬ男があった。
「……山県……」
 村塾以来の付き合いであり、ましてや高杉が創設した奇兵隊の軍監という幹部の座にあるこの男は、いつもと変わらぬ冷え切った風情であり怜悧な無表情で高杉を見据える。
「おまえさんがなんでここにいる」
「私が呼んだんだよ」
 机に向っていた桂がゆるりと振り返り、高杉と視線を合わせたと思うと、まさに苦笑を漏らした。
「また派手にやってくれたね、晋作。これが今回の請求書だよ」
「………」
「聞多とおまえが派手な喧嘩をしたという報告はあがっているよ。早々と領収書もね」
 その領収書の束がひらひらと桂に見せられ、その場にばたりと高杉は座り込んだ。
(あの店には二度と通うものか)
 早々と手を打たれ、「魔王」と称される高杉とは言え見るからに落ち込んだ。
「そういうことで山県。これが主な書類だから署名を頼むね。それから……明日、一緒に行くよ」
 桂に渡された書類を受け取り、山県は軽く頭を下げた。
「では翌日に」
 ちらりと山県の冷え切った目が高杉を見据えてくる。
 この男は昔から何を考えているか知れないところがあった。きわめて有能ではあるがなにかに際立った才があるわけでもなく、人に好かれる性格でもない。 慎重すぎるほど慎重で、堅実すぎるほど堅実。そういう硬い男は高杉には「面白み」がまったくないが、そういう男をからかうのは楽しいとは思うが。
 山県により閉められた襖の音が軽く響いて、同時に桂が立ち上がった。
「また……おまえはどうして……こう私の手を煩わせるのだろうね」
 どこからか救急箱を取り出し、桂は高杉の傷の消毒をはじめる。
「桂さん……」
「なんだい?」
 消毒液が染みると顔をひそめたが、桂は手早く顔や腕の傷を手当てしていった。さすがは実家は医者の家系である。手当ても慣れている。
「自分、桂さんを怒らせるなにかした?」
「なにを今更。いつも私を怒らせることをしているだろうに」
「それはそうかもしれんが、けどいつも以上に今日の朝は冷たかったから……」
「私が? 晋作に?」
 桂はクスクスと笑っている。
「冷たかった。袖を取ると突き放したんじゃ」
「……あぁごめんね。左腕、気付かなかったかい。少しばかり古傷が痛んで触れられるのがだめでね。ついつい突き飛ばしてしまって……」
「傷。大丈夫か、桂さん。自分、なぁんも知らんで」
「雨の日に少しばかり疼くくらいだけど、なぜか今日は痛んでね。だから気にしないでおくれ」
 なら良かった、と高杉は心底から安堵した。桂に嫌われたのではない、と思うだけでホッとする。
「では行こうか、晋作」
「どこに」
 すると桂はとても意外な顔をした。
「料亭に美味しいものを食べに行こう。いつもおまえは言っていたではないかい。この日は一緒に過ごそう、と」
「なんで?」
「忘れているのかい。晋作らしくない。今日はおまえの誕生日だよ」
 そこで高杉は日にちを辿り、あぁ!と叫んだ。
 葉月二十日。高杉の生まれた日であり、四歳の時にこう桂と約束したのだ。
『この日はカツラさんにいっとう祝ってほしい。カツラさんと二人でいたい』
 それを桂はなにかしら至急のことがない限り守り続けているのだ。
「おめでとう、晋作」
 にこやかに、やさしく、穏やかに。
 自分の名を呼ぶこの人の声が、とても好きだ。
 しあわせ、と思えてならず、このまま時が止まれば良い、とまで思う。
 この人の傍らにあれる。この人の傍らを歩いていける。
 今の自分はなんと恵まれているのだろうか。
 誰にも渡すつもりはない。この人の傍らを歩くのは自分だけでありたい。それが高杉晋作の願いであり、そのために努力し歩き続けてきた。
「いつまでも大好きじゃ、桂さん」
 すると照れているのか、桂は軽く頬を染めて、知っているよ、と微苦笑をする。
「来年もその次もそれから先もこの日を祝ってほしい。ずっと一緒に、ずっとずっと歩いて行きたい」
「そうだね」
 二人は並んで政治堂を後にし、月明かりの中でそっと高杉は桂の袖を引っ張った。
 袖を掴んで、離さずに、ともに歩いていく。
 幼い頃から変わらずに、ただ時だけが過ぎ去っただけの、それだけの違い。
「来年はもう少し時勢が落ち着いていたら温泉でもいこうか」
「休みとれるの? 桂さんが」
「おまえが面倒事を起こさなかったらね」
 それはとてもできそうにない、と高杉は笑う。
 見上げる先にはほのかな月。傍らには月のようにきれいで毅然とした姿の大切な人がある。
 今年もこの日は「しあわせ」な気分を味わえると思ったのだが、
「なぁ桂さん。明日、山県とどこに一緒するんだ」
 少しばかり気になったので聞いてみた。
「それを聞きたいかい、晋作」
「聞きたい」
「おまえがこの一月迷惑をかけた人間のもとにお詫びにいくのだよ。それから聞多の多額の借金に……」
「いい。聞きたくない」
 クスクスと桂は笑い、ふと立ちどまったかと思うと、高杉と視線を合わせてこういった。
「私がともに歩くのはおまえと決めているから安心しなさい」
「当然じゃ」
 ふたりが二人であれること。
 幼い日、桂がいると嬉しかった。桂が傍に在るだけでそれだけでよかった。
 あの日から決めている。
 この手で守り、この手が追い、この手がもとめる存在はただ一人しかいない。
「桂さん」
「なんだい」
「桂さんは自分が好きか」
「なっ………そんなこと晋作はよく知っているだろうに」
「けど聞きたい。今日は自分が生まれた日じゃ。贈り物でその言葉がほしい」
「……仕方ないね」
 頬に触れてくれる桂のその手はやさしく、暖かい。
「誰よりも大切におもう。幼い時から変わらずに……誰よりも好きだよ」
「自分以外に言わんといてほしいな」
「……私は晋作にしか素直に言葉を言える人間ではないからね」
「桂さんらしいや」
 そうして月の明かりの中をふたりはともに歩く。
 来年を再来年を……この時が続いてくれることを当然のように願いのように。
「あまり桂さんに迷惑をかけなてように、気にかけておくさ」
「言葉半分に受け止めておくよ」
 いついつまでも……
 この幸なる日々が続いていくほどに、この動乱の時は甘くはない。
 それを痛いほど知る二人ゆえに、
 このときを大切に慈しもうとするのやもしれない。
 六歳違いの一風変わった幼馴染二人は、幼い時と変わらずに互いの傍らを今は歩いている。


 ……ねぇ、カツラさん。
 自分はよぉ分からんが、今日は自分が生まれた日と同じ日じゃ。
 人が生まれた日っていうは特別って母さまがいっていたんじゃ。
 だから、カツラさん。
 この日はカツラさんにいっとう祝ってほしい。カツラさんと二人でいたい。
 いいカツラさん? カツラさんの誕生日も自分がいっとういってう祝うから。
 じゃあ約束じゃ。
 ずっとずっとこの日は一緒じゃ。


幼なじみ

幼なじみ

  • 幕末長州
  • 全1幕
  • 【初出】 2007年ごろ
  • 【修正版】 2012年12月10日(月)
  • 【備考】