かげろひ 出会い編

序章

 そうあの人は……
 お日様のようにまぶしい光ではない。木漏れ日のようなちらちらと輝く……
 そんな……かげろひのような人でございました。


 あまり同年代の子供たちと遊ぶことはなくなっていた。
 小五郎の遊び場は近くの森である。近所では「大狐の森」と呼ばれ、多くの狐が出現するということで煙たがられている。毎日雨の日以外は通っているが、一度として狐を見たことはない。
 現在小五郎は九歳。
 私塾に通いはするものの、比較的何事にも縛られず自由奔放に過ごしていられる時である。
 だが九歳と言えども桂家の当主であることに変わりはない。当主としての「躾」や「教養」はきちんと受けており、八歳までは近所でも「腕白」で知られた小五郎だったが、当主としての自覚が一挙に大人びいた風情に変貌させてしまっている。
 そのため仲の良かった近所の友人とも距離を感じるようになり、自然と一人森で一時を過ごすのを好むようになった。
 今日もお気に入りの大木に身を預け、懐に偲ばせて来た医学書にそっと目を通す。
 小五郎はもともとは藩医和田昌景の長男として生を受けた。母は後妻の清子で小五郎を出産したときには、すでに和田家は先妻の娘捨子に婿文譲を迎えて跡取りとしていたのである。
 幼きながらも母と自らの微妙な立場をよく小五郎は心得ていた。
 和田家の嫡子にして、初めての男の子の小五郎を父昌景は溺愛し……それが異母姉の不安につながったのだろう。
『おまえさえ生まれてこなければ』
 と、時折姉は小五郎に冷めた目を送ってきた。
 だが末弟を憎もうとも……憎みきれないのが血の絆であろうか。
「姉上さま」
 母清子が病弱なため、姉は自らの子供たちと同様に小五郎の面倒をよく見た。
 清子に良く似て繊細で華奢で、よく容姿が整い女の子のような風情の小五郎を、姉は憎みながらも慈しみをも見せた。
 小五郎さん、と二コリと微笑む姉がとても小五郎は好きだった。
 そして冷めた憎しみを込める姉が怖く、そんな姉を見ないために小五郎は日中は家にいないことが多い。
 大好きな姉の心の逡巡を小五郎は見たくはないのだった。
 木漏れ日を浴びて、ポカポカとした春の暖かな風に身を任せゆっくりと目を閉じてみる。
 風の音を聞くのが好きだ。
 風に身が包まれ……温かさを感じるときが好きだ。
 小五郎は「音」にとりわけ敏感な耳をしている。些細な音にも過敏に反応し、それを母清子が不可思議に思っているようなのだが、自然の音には過敏になることもなく、とりわけ雨音が好きだった。
 森の中で一人佇むと……なにか大自然に「自分」という人間が取り込まれたようで……いっそこのまま自然の一部に埋もれてしまいたいと時折思ってしまう。
 独りでいるのを小五郎は好んだ。
 誰にも邪魔されず、誰にも振り回されず……そんな時がいとおしい。
 風の奏でる音色に耳を澄ませて、いつもならばほんの僅かなときだが自然の中で眠りを楽しんだだろう。だが、今日は違った。
 ガサガサとして明らかに自然な音とは違う「音」が聴覚を捉え、小五郎は気付いた時にはその音の方に歩いている。
 ついに……狐が目にできるかもしれない。
 そんな好奇心が小五郎の足を進ませた。
 音は随分と遠い森の奥からだった。姉に「森の奥に入ってはなりませんよ」と言い聞かされていたが、小五郎は構わずに入っていく。
 和田家の近所に馬廻役を勤める「桂家」という名門の家があった。その家の当主九郎兵衛が、自らの死期を悟り世継ぎがない現状に苦慮した。死を前にして養子を取るのは 「末期養子」と言い家禄は減らされるが、それでも「桂」家は存続できる。
「和田の長男は神童となかなかに評判だが、婿を取っているため家督は継げないと聞いた。いっそその子を養子にして家督を継がそう」
 九郎兵衛は近所の「小五郎」の噂を良く耳にしていたようだ。
 急遽養子の話が八歳の小五郎のもとに舞い込んできた。
『こんな幼い子を養子など……私は小五郎を手放したくはありません』
 母は猛反対したが、姉捨子もその婿の文譲もこのまま小五郎を和田家においていては、必ず「家督」問題が起きる、と この養子の話をことさらに進めた。
『八歳といえども小五郎には分別はある。どうする小五郎。桂家に行くか、このまま和田の末弟として医学を修めるか』
 父は養子になど出したくはない、という顔をしている。
 泣いて母は小五郎を抱きしめる。
『おまえさえ生まれてこなければ』
 そんな目をした姉が哀れだった。あの優しい姉をそこまで追い詰めた自分という存在が、この家に居なければ全て丸く収まるならば。
(自分はいらない子供だから……)
『小五郎は桂家に行きます』
 桂家に入ってすぐに養父となった九郎兵衛が死去し、家禄百五十石のうち九十石を小五郎が相続した。
 今年になり養母も亡くなり、小五郎は桂家を相続したまま実家で育てられることになり今に至っているが。
 舞い戻ってきた長男の存在を、未だに捨子は不安と……愛憎で満ちた目で見つめる。
 たとえ和田家の家督を脅かす存在でなくとも、父が溺愛する異母弟に向ける瞳は複雑に染まっていた。
『おまえさえいなければ……』
 と、未だにそんな思いを瞳に乗せてくることもあれば、
『可愛い小五郎さん』
 機嫌がよいときは、優しく頭を撫でてくれる。
 そんな捨子もこのごろは咳き込むことが多く、また病からか情緒不安定になることがあった。
 人は感情に支配される動物と言うが、捨子の感情は小五郎に一心に向き……病からある言葉を言わせたのだ。
『おまえはいらない子。いらないから養子に出されたの。今……ここにいるのも本当は邪魔なのよ』
 母に代わって自分の面倒を見てくれる姉を、小五郎は敬愛している。
 好かれたい、という想いがあった。思慕は……けれど、小五郎という存在が家にあるだけで姉の心が乱れる。日中はできるだけ家をあけ、夜も小五郎は部屋にこもることにしていた。
 小五郎から「腕白」と言われた幼少時代を奪ったのは、桂家の当主としての自覚というよりも姉の捨子の言葉が大きく影響している。
 ……おまえはいらない子。
 どれだけ父母に溺愛されても、自らが養子の話を決めたといっても、自分は「いらない子」であるのは確かなような気がして、また誰にも愛されていないように思え小五郎の多感な心は……ゆっくりと醒めて行っている。
(自分は必要のない子供ならば……)
 誰からも愛されないのならば、せめて人の役に立てる人間になりたい。
 姉や兄に隠れて医学書を小五郎は森で読む。家で見ていたら「何を考えているの」と捨子の形相が変わるのを知っていた。
 上士の家を継いだ小五郎が、医学を学べば、いずれこの家を奪われると警戒しているのも知っている。
 病の姉を心配させたくはないが、小五郎も代々「藩医」の和田家の血を引く子供だ。やはり医学に関心が十分にあった。
 だからか足が動物用の仕掛けの罠にかかり血を流す銀狐を目にした時、小五郎はまず「銀色の狐」の珍しさに驚くよりも、足の血に目がいってしまった。
「痛いね……大丈夫だよ、待っていて」
 急いで仕掛けを外し、そのまま逃げようと足を引きずる狐に……自らの衣を剥いで血止めをまず行う。
 一通り血が止まったのを見てから、小五郎はようやく狐の姿に目を向けた。
「……銀色」
 呆然としてしまう小五郎の目には、全身が木漏れ日を浴びて銀色に輝く大狐……尻尾など八本に分かれていて……その目にしたことがない姿に魅入られているのか瞬きひとつできない。
 ……おかしな子供だのう。
 どこからか低い声音が響いた。
 ……その年で心は孤独に満ち、寂しさに包まれてか。名は……小五郎というか。桂小五郎。
 ようやく小五郎はハッと顔をあげた。その声は目前の銀狐から放たれていることに、気付いたのである。
 ……賢い目をしている。よい、これも何かの縁というもの。そなたにしよう。
 銀狐は罠にかかった足を引きずりながら、小五郎の目前に近寄った。
 その光り輝く姿は神々しく、そして妖しく小五郎には映る。
 ……わらわが守護する百人目の人間は、そなたにしよう。よい、決めた。このわらわとしたことが人の罠になどかかるのも屈辱ながら、 それを助けられた恩は返さねばならない。
「なに、なにを言っているの」
 ……それになかなかに危険に満ちた星を持っている。危険を匂わせる生涯を送るようじゃ。ここまで危険と隣り合わせの人生を 宿命づけられた子も珍しい。幼子よ……これからわらわが守護しよう。誓いじゃ、右手を出すといい。
 得も知れぬ恐怖に小五郎は、その場より一歩二歩とあとずさっていく。
 ……怖がることはない。それにわらわは決めた。
「………」
 ……止まれ!
 凄まじき声音にびくリと体が強張り、その場で足を止まった。
 ……ゆっくりと後ろを見てみるといい。
 言われるままに背後を振り向いた瞬間に、確かに小五郎の息は止まった。
 小石がカラカラと音を立てて崖下に落ちていっている。
 もしももう一歩進んでいたならば、小五郎の身は暗闇の深淵しか見えない崖下に確実に落ちていただろう。
 恐怖による乱れた呼吸を小五郎は精一杯整える。
 ……その身は危険という言葉に彩られている。わらわはおおよその先々を見る目があるが、その危険により命危ういそなたのわらわが守護してくれよう。この九百五十年生きたわらわがな。
「九百五十年?」
 ……あぁ、ある陰陽師に千年生きろといわれてな。千年生きれば人の大切なことが分かるなどぬかした。あれ以来九百五十年、面白くもなく生きてきたぞ。
「……そんな長いことを生きるなんて……寂しくないの」
 ……おかしな子ぞ、寂しい? そんな感情は知らん。
 銀狐はクスクスと声を立てて笑った。
 ……わらわはこの森で神同様に崇められている。まぁ千年生きれば神になるがな。それまでの間、人間の守護をせねばならなくてな。 暇を紛らわすのには良いが。おまえで百人目だ、桂小五郎。
 小五郎は思わず下を向いてしまった。
 あと一歩下がれば崖下なので、安全な場所に移動する。
 ……ほぅ、その名がキライか。桂家に養子に入ったのか、いらない子? くだらない。
 まるで小五郎の心を読むかのように、銀狐は言葉を綴っていく。
 ……寂しい、愛されたい? 誰かに傍にいて欲しい? 人間らしい欲張りな感情だ。よいよ、わらわが傍にいる。 おまえが死すまで、一番の傍にいておまえを守ってくれよう。
「エッ」
 小五郎は思わず何度も瞬きをしてしまった。今まで欲しても誰も言ってはくれなかった望む言葉を、この銀狐が口にしたのだ。
 ……傍にいよう。わらわにはおまえはいらない子ではない。わらわには大切な守護を決めた子ゆえな。
 目前に銀狐が迫ろうと、小五郎はもう逃れようとはしなかった。
 ……生涯、傍にいる。もう、おまえは寂しくあるまい。
 その美しき銀狐の暗闇の瞳に引き込まれるように、目が離せなくなっていた。
(傍にいる? 寂しくない……)
 あぁ自分は寂しかったのか、と小五郎はふと思った。
 いらない子といわれて、心は皹が入ったかのようにボロボロになっていた。誰かに守って欲しい、誰かに無償の手を差し出され 守護されたい、と子供の心は悲鳴をあげていたのかもしれない。
「この小五郎……桂小五郎を独りにしない?」
 ……あぁ、せぬ。誓約しよう。右手を差し出すといい。
 銀狐の言うがままに右手を差し出すと、その人差し指に噛み付いた。
「……ツゥ」
 血がポタポタと流れていく。
 痛みに目を閉じると、その血を狐は舐め続け……血が止まるまでその血を吸い続けた。
「?」
 するとゆっくりと銀狐の体が薄れていき、透けて見えるようになったときに。
 ……血の誓約はすんだ。これでわらわはおまえにしか見えない。おまえにしか声は聞こえはしない。わらわはおまえから 離れることができぬ。それだけは覚えておけ。
 銀狐はそっと大木に体を預けた小五郎の足元に擦り寄った。
 ……わらわは必ずおまえを守護しようぞ。死すまでそれは変わらぬ。
 これは白昼夢か、それとも夢の中なのだろうか。
 とうてい現実とは思えなかったが、足に擦り寄る感覚がぞわりと背筋に戦慄を走らせ……小五郎は現を自覚する。
「なんて呼べばいいの」
 銀狐はまたさも楽しげにクスクスと笑った。
 ……はじめに尋ねるのが呼び名とは。名など遠き昔あったが忘れた。前の守護した人間のほとんどは名など知ろうともせずに「狐」と だけ呼んだというに。おかしな子供だ。
「これが夢でないなら、ずっと一緒にいるなら名がなければ不便だから」
 ……ならば付けてくれるといい。小五郎が、好きな名を。
「つけていいの?」
 ……九百五十年の長き時を生きているわらわに相応しき名をのう。もうすぐ神に列せられるわらわに合う名ぞ。
 少しばかり小五郎は迷ったが、子供らしい無邪気な顔をして一つの名を答えた。
 目には一本の松の木が映っている。
「孤松」
 ……言霊から感じるは、孤独な松のようじゃが。コショウ、か。ふざけた名だがまぁ良い。
 銀狐も少なからず気に入ったようである。
「孤松と呼ぶよ、長い付き合いになるなら」
 ……死すまでイヤだといっても血の誓約がなされた以上は、見守るのがわらわの責務。あの陰陽師に人の守護など命じられなければ、 千年もの間、人間などの守護はしなかったものを。小五郎、おまえは珍しい類の子ぞ。怯えぬ、受け入れる柔軟さがある。
 銀狐……孤松はニヤリと笑った。
 ……いつまでの付き合いか知れぬが、よろしく頼む。
 おかしな相棒として、九百五十年も生きる狐がその身に憑いたその日。
 まさかその四十五年の生涯において、この狐が自らに憑き、「桂小五郎」という男を生かす役割を果たそうとは小五郎 は思ってもいなかっただろう。
 桂小五郎、このとき九歳。
 これが運命の出会いだった。


▼ かげろひ 出会い編 1章へ

かげろひ 出会い編 1-0

かげろひ 出会い編 序