狐が誘う遠き桜

序章

「桂……桂くん、ここはどこだい」
 後から駆けて来る三歳年上の寅次郎をわずかに振り返る。が、そのまま森の中に駆けて行くことにする。
「桂くん。僕はもうひょろひょろだよ」
「寅次郎さんも体力をつけないと」
「僕は根っからの学者。体力などつける暇がなかったのだよ」
「天は人に二物は与えませんね」
 少しだけ立ち止り、寅次郎が追いつくのを待ちながら、数年前まではこの自分も同様に体力などなかったことを思い出す。
 この年、桂小五郎は十四歳。
 近所では「美少年」やら藩侯の前で詞を吟じたことから「神童」などと呼ばれているが、小五郎自身は何にも興味を示せずにいた。
 文武どちらの道に進み、この身を立てるか。
 実家の二階に居候という身だが、小五郎はその年で既に馬廻役桂家の列記とした当主である。
 人は幼くして老成している小五郎に、「子どもでいる時がなかった」と哀れむ。
 八歳のおりに隣家の桂家に末期養子としてもらわれていき、養父の死と同時に当主となった。
 桂家の法要などの行事には「当主」として立ち、人の中でもまれて育った経験が幼さというものを取り除いたのかもしれない。
 もとは和田家という藩医の家の長男として生まれたが、家は既に二十歳年の離れた姉が婿を取って継いでおり、長男でありながらも家を継げぬ小五郎の立場は微妙なものであった。
 父は年老いて授かった小五郎が哀れだったのだろう。
 隣家からの養子の件を承諾し、幼き小五郎に言い渡した。
『武士となるといい、小五郎。道が開ける』
 人の命を救う医者である父を尊敬していた。人の身を傷つけず、医学によって人に役立てる医者という役割は自分にあっているような気がした。
 されど実家より出され、武士の家を継ぐことになり、養父母がなくなり、実家で育てられようとも、小五郎には「医者の家」に確たる居場所というものがなかった。
 武士として、桂当主として「自分」の道を探し続けて、迷いながらも昨年、知人の勧めもあり、その手に「剣」を握った。
 病がちな母を、同じく病気がちな近所の幼馴染を、そして五歳年下の可愛い妹を、
 大切なものを守るために、小五郎はその手に「剣」を握り、剣術の稽古に身を入れることを決した。
「君は剣術に夢中になってから、本当に体力がついたね」
 肩で息をしながら、ようやく寅次郎が追いついてきた。
「私も最初はまったく……稽古についていけませんでしたよ」
 ひょんなことから知り合った吉田家の当主寅次郎は、藩の山鹿流兵学師範を代々司る家柄で、幼くして藩侯の前で教授に立った。
 神童と評されるが、吉田家に養子に入り、幼くして養父が亡くなったため、叔父玉木文之進より苛烈な指南を受けて育っている。
 逃げ出すことも許されず、いっそ実母にすら「死んだ方がまし」とまで言われた指南の末、この吉田寅次郎という男ができあがった。
 無邪気な人だと小五郎は思う。何にも興味を示し、好奇心の権化で、その笑顔は子どものように邪気がない。
 人というものに「恐怖」を感じる小五郎が、こうして他愛もなく付き合える稀な人でもある。
「ここですよ、寅次郎さん。銀狐の森。銀色の狐がいます」
 そう言って寅次郎を誘ったのが二刻前。
 好奇心の権化の寅次郎は二つ返事でついてきたが、深い森の中で道なき道を歩くのは寅次郎の体力では無理だったようである。
「確かに美しい場所だね。ここになら数百年にも生きる狐がいてもおかしくない。桂くんはステキな場所を知っている」
 実家の居心地がよくなく、何度ここに逃げてきたか知れない。
 そしてこの場で、一人の少年と知り合った。
「どうやら先客があるようだよ」
 大木の幹に寄りかかり、一人本を読んでいる少年がいる。
「辰之助。来ていたのかい」
 顔を上げた少年は、わずかに小五郎に向かって会釈をする。
 端正な顔をしている少年だが、その眼光は氷のように冷めており、感情の色を見出すことは適わない。
 伸ばし放題になっている前髪がその目を隠していた。
 また棒のようにひょろ長い背をしており、その体格は栄養がさして行き届いていないことを知らしめるほどに痩せている。
「……貴方が一人ではないのは珍しい」
 名は山県辰之助。士族とはいえ、最下級の中間出身である。
 この人に忌み嫌われる銀狐の森で、二人ともが顔を合わせ、共に過ごすようになったのは、互いに家に居場所がなかったからと言えた。
 小五郎は実家が息苦しく、辰之助に到っては父の後添いと折り合いが悪くこの場に「居場所」を見出した。
「この人は吉田寅次郎さん。藩の山鹿流兵学師範です」
 辰之助はその冷えた目を寅次郎に向け、すぐに興味がないようにそらし、
「山県辰之助です」
 素っ気無い一言だった。
 寅次郎は、辰之助の前方に立ち、目線を合わせるために屈む。
「吉田寅次郎です。よろしく」
 辰之助はといえば、一瞬だが茫然とし、続いて一息吐息を漏らした。
「あなたといい、この人といい、とんだ……変人だ」
 中間の自分と同じ視線で会話をするのが、今までの辰之助の理屈からは遠く離れたところにあり、不思議に思ったのだろう。
 寅次郎は人に「順位」をつけない。優劣が頭の中にない男である。
 そんな人だから此処に連れてこられた。今、小五郎は寅次郎と辰之助を見ながら、微笑んでいられる。
「山県君は銀狐を見たことがあるのかい。桂くんは何度も見たことがあるというのだけど」
 寅次郎の好奇心は今、その一点に集中している。
 辰之助は吐息をつき、ゆっくりと頭を振った。
「この人の前には狐だろうが栗鼠だろうが現れるようだが、俺の前にはトンと近寄らぬ」
 その視線は手に持つ本にゆっくりと戻っていくその時、
「!」
 風が凪いだ。
 先ほど耳に聞こえていた葉のささやきも、鳥の囀りも、唐突に止まる。
 優しい木漏れ日が、不意に雲により隠され、その場は薄暗い闇が覆う。
「か……かつらくん」
 小五郎は辰之助の傍らにちょんと座り、その手にある本をのぞき見ていた。
 四書の文面を目で追っている辰之助の横顔をこうしてみているのが、いつもの小五郎であり、この静かな一時が好きでもある。
「どうしましたか、寅次郎さん」
「どうしたって……み……みなさい……そこだよ」
 珍しく寅次郎の声が上ずっている。
 何事か、とようやく顔をあげた小五郎の目を、まばゆいばかりの銀色の光が染めた。
 この森が通称銀狐の森と呼ばれるその曰くは、数百年も生きる銀色の狐がこの森に住み着いているという伝説からである。
 一人になりたくて、人が近寄らぬこの場に逃げ込んだ。
 辰之助と出会い、時に安らぎを得たこの場で、小五郎はまばゆいばかりに美しい銀色の狐と出会い、触れた。
「本当にいるのだね、銀色の……。八尾の狐。伝説……の……なんと美しい」
 銀狐に見惚れている寅次郎は、その目は恍惚として夢見心地だ。
 小五郎は立ち上がる。同時に辰之助が立った。歩き出す小五郎の傍らを歩き、何かあれば身を挺して守る、とする思いが伝わる。
『いつか俺があなたの剣となろう。……それまであなたは強くあるといい』
 そう誓ってくれた辰之助だ。
 大丈夫。この狐さんは私を傷つけはしないと口にしようとしたが、傍らにある辰之助の存在が優しくて、つい並んで歩いた。
「かつらくん」
「銀狐さん」
 ……わらわはそなたの近くにいる。わらわの名を呼べば姿を現す。
「コショウ……孤松」
 小五郎の背丈と同様の大きさの狐は、そっと小五郎に寄る。
 ……カツラよ。
 辰之助がそっと小五郎の袖を握る。制するような動きだ。
 ……たまには憂さ晴らしをせよ。良い、今宵は満月。そちに一興をしんぜようぞ。
 狐よりまばゆいばかりの銀色の光が放出し、それが小五郎と辰之助の身を包み込んだ。
 ……楽しい興ぞ。楽しんでまいれ。
 光に飲まれると思った瞬間、辰之助が小五郎の傍らにしがみつく。
「辰之助……」
「心配されるな。貴方は俺が守る」
 辰之助にそういわれると、どんなことがあっても大丈夫、と思える。
 優しい心持になり、小五郎はつい微笑んでしまった。
 目を開けてもいられない閃光に包まれ、「小五郎くん!」という寅次郎の叫び声も薄らいでいく中、
 小五郎はギュッと辰之助の手を握り締めた。


「桂殿」
 名を呼ばれ、頬を軽くピシャリと叩く痛みに目を開けた小五郎は、夢現の目で辰之助の顔を見る。
「辰之助」
「目が覚められたか」
「うん……私は気絶していたのかな。あれ? 寅次郎さんは?」
「知らん。周りをよく見られよ」
 そこは「銀狐の森」のはず。深く生い茂る草。葉の隙間よりチカチカと輝く木漏れ日にやさしさを思う……あの……。
「あれ……?」
「気付かれたか」
「……どうして? 桜が咲いている」
 今は真夏で葉桜が美しく映える時期である。
「俺の記憶が正しければ今は夏だ。桜はとうに散った」
「私の記憶でもそうだよ」
 すると辰之助はわずかに声を出して笑った。珍しいことだ。始めて辰之助の笑い声を聞く。それが自嘲を含んだものだとしても笑いは笑いだ。
「銀狐の次は時期でもない桜。貴方といると不可思議なことばかりで面白い」
「なっなっ……何を言っているのだよ。桜だよ、桜」
「桜見ができると思えばそれもよろしかろう」
 さして物事に頓着しない辰之助は、桜を仰ぎ見、ひらひらと舞う花びらに手を差し出す。
「辰之助……」
「貴方には桜が似合う」
 老成した話し方をするが、辰之助は九歳である。五歳も年下だというのに、時折小五郎は自分よりも年上のように錯覚するほどだ。
「そうだね。桜見ができるのはなんだか嬉しい」
 そして物事をかなり深刻に考えるが、大の花好きの小五郎である。桜の鮮やかさに目を奪われ、にこにこと笑い、
「願うなら、花の下にて春死なむ その望月の 弥生のころに……かの西行が読んだのも頷けるよ」
「桜に捕まってはならぬ」
「おかしな比喩をするね」
「ばあさまが言っていた。桜はある意味、魔物の花だと」
 血のつながりはない祖母を、辰之助はことのほか尊敬しているらしい。
 家族のことはさして話さないのだが、よく「ばあさま」とは耳にする。
「捕まってもよいくらいに……美しい」
 辰之助の傍らに立ち、同じように花びらに手を差し出そうとする。
 そこへ馬の蹄が聞こえ、ハッと咄嗟に手を引きこめてしまった。
 この「銀狐の森」はほぼ封鎖された地で、人は近寄らない。そこに馬で乗りつける人がいるというのか。
 わずかな警戒が表に出、肩が小刻みに震える中、辰之助が落ち着かせるかのように手を握り締めてきた。
「………?」
「大丈夫だ」
 不思議である。いつも辰之助にそういわれると、なぜか心が落ち着く。
 蹄とともに、遠くより馬が駆けてくる。馬上の人は、凛々しき少年という表現が正しいのか……十代の若者であった。
「ここは広良と広澄のネグラだと思っていたがな……」
 低き声音が宙を揺らした。
 フッと精悍な顔立ちを際立たせる笑い方をするが、その笑みからは誠実さと同様の「陰」が色濃くにじみ出る。そこに嫌味はない。
 不思議な好感を得る。小五郎のこの手の勘は外れたことはない。人に近寄るか避けるかは初対面に判じられる能力ともいえた。
「知っているか。ここには平家の亡霊がでると言われているのだぞ」
「……亡霊ですか」
 話に乗ってみると、少年は下馬し、二人によってくる。
 辰之助は猜疑心を漲らすかのようにその男を睨んだが、自然と警戒は緩んでいった。
 辰之助の人の見る目は優れている。悪しきものは決して傍に寄せない。
「平家の清盛が夜な夜な亡霊を引きつれて彷徨う。この森でそれを見たというものが多くいるが、残念だ。わしはまだ見たことはない」
「ここは銀の狐が出るという伝説があるのではないのですか」
「狐? 銀だと」
「はい」
「面白い子どもだ。よからぬ噂があるゆえ、誰も近寄らぬこの場はわしにとって考えこむには適度な場所としていた。わしも幼い頃、広良に連れてきてもらったのだがな。多治比の地の中でも絶景の桜が見れる」
 多治比……小五郎はその名にわずかに反応した。
 それは安芸国の地名になかったか。
 かつてかの関ヶ原により周防・長門の二カ国に減俸される前は、毛利家は中国地方全てを所領としていたことがあった。
 一代の英雄が安芸国高田郡吉田庄という小さな領土より出現した。
 もともと毛利家は、かの鎌倉幕府の政所執事大江広元より始まる。広元の四男毛利季光の子孫が安芸国高田郡吉田庄に渡り国人領主として土着したという。
 多治比という名は、安芸国多治比のことではないか。
 関ヶ原により二カ国に国が減らされ、萩に泣く泣く向かった先祖たち。子孫たちはその時のことをよく悔しさを混ぜて語る。まるで自分たちが味わったかのように。この悔しさを子々孫々まで忘却せぬよう、 いつまでも伝え続ける。
 昔話の中で、小五郎も父から何度も聞かされた。
「桂殿?」
 辰之助がわずかに心配げな視線を向けてくる。
「桂? そなたの姓は桂というか」
 小五郎という名に目の前の少年が過敏に反応した。
「えぇ……桂小五郎です」
「広澄の親類か。そなたくらいの年の子どもがいるとは聞いていないな。嫡子の元澄とて未だ十一だ」
「いえ……その桂さまとは縁はないかと」
「そうか。桂という姓はこのあたりでは桂村から来ているからな。その周囲のものか」
「はぁ?」
 ますますわけが分からなくなってきた。
「まぁ良い。面白い子どもだ。おまえら、わしについてこないか。その銀狐の話を聞かせてくれ」
 ニッと笑い、男はなぜかヒョイと辰之助の体を抱き上げる。
「なにをする」
「わしは子どもは好きだ。だがこのように痩せた子どもを見ると、心配でならない。わしの領内で未だに食に不自由している子がいると思うとな」
「……俺は食が細いだけだ」
「ならば食が太くなるほどうまいものを喰わせよう。銀狐の話の礼にな。だが親が心配するといけないな。家はどこだ」
「長門の城下町の中です」
 萩という地名を出してよいかどうか。
 小五郎は心の中で何かを警戒している。
「長門だと。おいおい冗談はよせ。長門からどうやってこの安芸に来たんだ」
「安芸……私たちは確かに先ほどまで長門にいました。長門の萩です」
 わずかな動揺が「萩」の地名を口に出させる。
「萩? それは、かの大内家の家臣吉見家の所領の」
 嫌な予感がした。先ほどからドクリと胸に感じていた「不思議」さの理由を、体全身で感じ始めている。
「不可思議な子どもたちだ。萩の子どもたちがこの多治比にあるのもおかしい。ましてや子どもだろう?」
「……あの……ここは」
「安芸国多治比だ」
「安芸……安芸ですか」
「なんだ、かどわかされてつれてこられたとか、そういう理由か。それとも地を捨てたか。よくあることだが……」
 ジーッと少年は小五郎の目を見、続いて抱き上げている辰之助の目を覗き込む。
「世の中は縁。広良はよくそういい、子どもや猫など拾ってくる。これも縁というものか」
 なんだか軽いノリである。
「よし、萩には少々理由があってな。戻せるか分からんが、子どもに罪はないからな。ついでに長門の話を聞かせてくれ。 しかも桂という姓にも縁を感じる。一緒にこいよ」
「あなたは……」
 それは尋ねてはならない問いだったかもしれない。
 だが尋ねねばならぬ問いとも言えた。
 腕の中で嫌がる辰之助を抱きしめながら、少年はまたフッと笑う。
「わしか? わしは多治比猿掛城主毛利少輔次郎」
「毛利……猿掛……」
 この少年が偽りを語っているのではないのならば、小五郎が導き出せる答えなどもはや一つしかない。
「堅苦しい名だろう。元服したばかりなんだ。単に毛利元就で良いのだがな」
 毛利元就。
 その名を長州のもので知らぬのは、まだ口も聞けぬ赤子くらいなものだろう。
「あなたが毛利元就というなら、今、今はいつですか」
「おかしなことを言うよな。今は永正九年春だろう」
 小五郎は愕然とする。
 それは間違いなく「戦国」の時代の年号であった。


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狐が誘う遠き桜 1-0

狐が誘う遠き桜 0

  • 【初出】 2009年4月12日
  • 【修正版】 2012年12月11日(火)
  • 【備考】―幕末長州登場人物紹介
  • タイムスリップ話。桂と山県2人は戦国毛利家話