― ① ―
その日、今は小石川に診療所を開いている林東吾のもとに、木戸孝允は健診を受けに来た。
医者嫌いの薬嫌いで有名な「医者の息子」たる木戸は、こうして友人の東吾にだけは一年に一度だけ自らの体を診せる。
明治に入り極度に体の衰えが目立つ木戸ゆえに一月に一度の検診を、と東吾は主張しているのだが、
どんなに仲のよい友人でも、自分の体を診せるのは木戸には気が進まないことらしい。
「やはり左半身には障害が残りそうです。専門の医者に診せた方がよろしいですよ」
「私は東吾さん以外の医者に診せるつもりはありません」
その東吾、専門はこの時代としては珍しい「心理」なのだが、ほとんど何でも屋で眼科から外科まで一人でこなす。
「……大切な体なのですからね」
「東吾さん」
「私は木戸さんの主治医のようなものなので……主治医のいうことはお聞き下さい」
「………」
「近いうちに私のような医者ではなく、ちゃんとした専門医に診ていただきます」
それは嫌だな、と苦笑すると、
「まだ死ねないでしょう、木戸さん」
と返され、何もいえなくなった。
「なぁ。体の不自由さよりも気分が面白くなさそうだな」
東吾の義理の甥っ子たる吉法師が、診療台に座り足をバタバタとさせている。
いつ会おうとも十五ほどの年齢にしか見えず、なに一つ移り変わることのない容姿を木戸は全く気にも留めない。
「今の政情からして面白くないことは確かに多そうですね」
「はい。毎日何十回ため息をついているか分かりません」
そして躁か鬱か分からぬ状態となり、政治に対して意欲がわかずふらりと消えたくなることが甚だ多くなってきている。
「じゃあ気分転換が必要だな、そなたも」
ひょいと飛び降り、どこからか吉法師は飴が入っている瓶を持ってきた。
「これを嘗めれば気分転換になるぞ」
渡された瓶の中には空色と同じ……美しく透き通る飴が幾つもはいっている。
「きれいですね」
「さわやかな甘さだ」
木戸は手に取り、なんだか食べてしまうのが惜しいような気がしたが、構わず一つ口の中に入れてみる。
吉法師の言うとおり、一瞬ひんやりとしたが、すぐさまにさわやかな甘味が広がっていった。
「嘗めてしまったのですか」
薬を奥より持ってきた東吾が、木戸の手の中にある瓶を見てわずかに表情を変えた。
「とても美味しい飴ですね」
「落ちついてきいてください。どう吉法師に言われたかは分かりませんが、木戸さん」
「はい」
「それは私がつくった飴です」
「東吾さんが……。本当に東吾さんはなんでも……でき……て」
前にこれに似たことがなかっただろうか。
そう同じく飴だ。それを嘗めた瞬間、自分はどうなったか木戸はよぉく覚えている。
「ま、まさか」
目の前の吉法師はにたりと冷ややかに笑い、
「その飴の実験台に我がされては大変だからな」
実験台という世にも恐ろしい一言に、木戸は目をぱちぱちさせていると、
見るからに目の前の光景が変わっていく。
「気分転換にはなるだろうよ」
同じ目線にあった吉法師の足下しか見えなくなり、木戸は自らの手を見て、思いっきり脱力した。
幕末の時には何度か「ちびちび」という原因不明な現象が起きたこともありなれている。
明治に入ってからは、この目の前の東吾がつくった飴によりかつて四寸ほどに縮んだことすらあった。
それが再び、と木戸は思うと、
「木戸さん。ポンと手を打ってみてください」
「ポン?」
「そう、ポンです」
とりあえずは木戸は両手を打つと、視界がまた変わり、吉法師と目線があう。
「戻った」
心からの喜びに胸が震えたが、
「嬉しそうな現状に水を差しますが、その姿であれるのは毎日半時だけです」
「半時……一時間?」
「そうです。ほとんどは先ほどの四寸の背丈となります」
思いっきり脱力した木戸に、吉法師がクククッと笑った。
「我がこうされるところだった。悪いが、我は小さくなってもなにも特にならない。そなたならばよい気分転換になる」
「仕事……あぁ山のような書類が」
「いいか。そういうものはな。あのそなたの同僚ににっこりと笑って押し付けてやりな。それで少しは気分がスッとするぞ」
それからな、と吉法師はなにやら部屋から持ってきた。
「四寸の背丈だと本当に物事すべてが巨大で、自分が小さすぎて何かによく当たる。ぶつかる。我はよぉくそれを体験したゆえに知っている」
頭は特に気をつけないとならないぞ、と吉法師が小さな人形の洋服のようなものを木戸に渡してくれた。
「これは?」
「縮んだらつけるといいぞ。この男がつくった。ウサギ耳帽子だ。よく似合うはずだ」
吉法師はきっとからかっているのか、楽しんでいるのか。
とりあえず、木戸は縋るような思いで東吾を見ると、
「これから元に戻す薬をつくりますので……しばらくは」
その言葉に、また四寸の背丈で……と思うものも、
一度は免疫がある。ましてや井上が人形が住まう家まで持ってきてくれた。
「山県陸軍卿のもとでまた世話にでもなってください」
そして前に縮んだときと同様、また山県の背広のポケットの中か、と木戸は一挙に疲れが体に押し寄せてきた。
― ② ―
一日半時(一時間)以外は、四寸ほどの見るからに人形等しく縮んでしまう体になってしまった木戸は、
とりあえずこの元に戻っている間に、為すべきことはすべてせねば、と廟堂に向かい、
「貴公は……また萩に戻りたいと私に困らせに来たのですか」
今の今、自分が抱えていた書類一式すべてを同僚の大久保利通に押し付けに内務卿室を赴いた。
「いえ……少しばかり所用ができまして、幾日か廟堂を空けねばならなくなり」
「国家の参議たる身以外の所用が貴公にはおありになるのですかね」
「……申し訳ありませんが、この全てをお願いします」
「その所用とは何ですか」
「えっ……あの」
「理由もなく、貴公の書類をすべて肩代わりすることはできませんので」
さすがにあと小半時も経たずして四寸ほどに縮むと言うことはできない。
「あの……そう、病気です。この頃体調が宜しくなくて」
木戸としては最もな答えだったが、大久保は重い吐息を漏らした。
「いつもより顔色はよろしいようで」
「……左半身が少し」
「では専門の医者に診せるお気持ちになりましたか」
「あの……それは……」
「ではなんなのです」
木戸は内務卿室の壁にかけられている時計を見る。
非常に宜しくない……時間は刻々と進んでいく。
「とにもかくにも病気です。お願いします」
木戸は頭を下げてそのまま内務卿室を後にしようとすると、
その木戸の手を大久保はすげなく掴んだ。
「理由をまだお聞きしておりませんが」
今この時ほど、大久保という男を「意地が悪い」と思ったことはない。
扉に手をかけた木戸の手を握り締め、強引に扉元より引き離し、
「私が納得する理由をおっしゃらない限り、この場から退くことは許しません」
時計の音が聞こえる。
カチカチと時を刻み、木戸の今のままの「身」たる時を奪い去るその音。
「離してください」
全力をもって大久保の手より逃れ、
その凄まじさに大久保は驚きを現すように眉を寄せた。
「私には時間がないのです」
「何の時間ですか」
「それは……今、此処で大久保さんと堂々巡りをしている暇はないのです。失礼します」
扉に手をかけ、ようやく木戸はこの場から離れられると安堵した瞬間、
ポン、という音がどこからか聞こえてきた。
見事にタイムリミット。
目に映るのは巨大な家具ばかり。恐る恐る振り返り、見上げた先には、
「……貴公という方は実に……私を困らせるお方のようですね」
表情は何一つ変わらないが、その身を包む気が「あきれ返っている」のは分かる。
体が縮むとともに、服も同じく縮んでしまったようである。
木戸は天を仰ぐようにして大久保を見つめていると、
大久保はゆっくりと屈んで、右手を木戸の前に差し出した。
「お乗りなさい。そこではお顔が見えません」
はい、と大久保の手に乗る。
大久保は机に戻り、書類に埋め尽くされた書類を僅かに退け、木戸が座る場所をつくった。
「一度、そのお姿になった時を見ていますので、それほど驚きはありませんよ」
「……そうですか」
「ビスケットをどうぞ」
えっ? と木戸は首をかしげると、一枚のビスケットを菓子籠から取りだし渡された。
それを両腕で抱きかかえるようとして持ち、大久保は何を考えているのだろう、と目をぱちくりさせる。
「木戸さん、この警視庁の体制ですが」
「はい?」
「この内務省の管轄にと思います。司法の中に入れては、幕府の時代と同様となる」
「それがよろしいと思います。司法はあくまでも法律を司り、お江戸の番屋制では警察と司法権は同様となっていましたが、今は分離していることを世に知らしめねばなりません」
大久保は木戸の小さくなった姿を見据え、僅かに風情を和らげた。
「では、この書類ですが」
「はい」
机の下に置かれた書類を木戸はジーッと見つめ、
「この陳情は放置するしかないでしょうね。まだ早い」
「私も同意です」
二人して目を合わせ、大久保は書類一枚一枚について木戸の意見を聞きながら、進めていくと、
「貴公は、そうして小さくなられると実に素直に私に協力してくださる」
「……それではまるでいつもは私が大久保さんに協力していないみたいではありませんか」
「貴公が仰るのは、萩に戻りたい。この政府から解き放って欲しい、という鬱に入った言葉ばかりです」
「そうでしょうか」
「そして辞表で私を脅される」
木戸は苦笑し、大きなビスケットを少しだけ食べた。
「小さい方が役に立ってくださるならば、それでもよろしいです。ここで仕事はしていただきます」
「大久保さん。内務卿室には大勢の人がいらつしゃいますし……」
トントントンと扉が叩かれる音が聞こえ、ビシッと木戸の動きがとまった。
「入られよ」
大久保の声で扉が開かれ、顔を出したのは警視庁の川路利良である。
川路は無駄な話をせず、持参した書類を説明し、そしてふと小さくなった木戸に目を向け、
「内務卿。このお人形は」
大久保はわずかに木戸に目をむけ、あぁと素っ気無い声で、
「とある小人国よりわが国に親善を目的に派遣された大使である。粗相がないように」
はぁぁぁぁぁ? という顔をした川路はじろじろと木戸を見つめ、
そして、大久保の顔を見据える。
わずかの間の後、何かを得心したらしく、
「よしなにお願いしもんそ」
川路は敬礼をして後、その場を去った。
小人国親善大使? この男が無表情でそんなことを口にしたことに木戸は驚き、
「正気ですか、大久保さん」
「この一件ですが、木戸さん」
「小人国親善大使というのは……」
「今の貴公にはよく合う肩書きだと思いますが」
「誰が信じますか」
「今、川路は受け入れたと思いますが」
「それは……薩摩人だからですよ」
薩摩は上下の規律が見事に統率されている。頂点の大久保が「白」といえば、黒のものも「白」なのだ。
「長州は受け入れませんか」
そこで木戸は頭を抱え……
「長州は非現実に慣れていますから」
遠き昔に「ちびちび」化という現象がぼっ発したほどである。
その時の再現が今の木戸に訪れたとしても、誰もが「またか」としか思わないだろう。
「それでは大丈夫でしょう」
「他の国の人間も政府には多いです」
「小人国親善大使でよろしい」
「……大久保さん」
げんなりとした木戸は疲れもあり、大久保の目をジーッと見つめて、
「紅茶が飲みたいです」
といった。
大久保は立ち上がり、木戸のために紅茶をいれ、木戸が飲みやすいようにスプーンをつける。
「そのお姿で、仕事が終わればいかがされますか」
「大丈夫ですよ」
スプーンで紅茶をすくい、ふぅふぅと冷ましながら、
「私が退庁時刻までに戻らないと、山県が迎えに来るはずですから」
夜は山県邸で世話になるつもりで、既に木戸はいる。
― ③ ―
退庁時刻は当に過ぎた。
大久保は本日の仕事も明日の書類の整理も終わっていたが、その場から立ち上がることなく、
その無機質な瞳はただ目の前の机に座して、ビスケットを両手に抱えてはむはむと食べている木戸を見据えている。
こう見えて大久保は小さいものが好きだ。
家には大勢の子どもがおり、毎日のように「遊んで」と駆け寄ってくる我が子と遊んでいるうちに、子どもに対して免疫と忍耐がついたと自負する。
こどもと遊ぶことですら、この男は鍛錬と考えていた。
だが目の前の小さな存在は小さな子どもでもなければ、我が子でもない。
見かけ四寸だが、正真正銘の大人のしかも国家の政治家としては最たる地位「参議」にある大久保にとっては同僚。そして天敵。
それがビスケットをはむはむ食べる姿に「可愛い」と思う自らはなんぞや、と思ったりしないこともない内務卿である。
「そろそろ日も落ちた。自宅に戻れぬならば、我が家に参られますか」
大久保としては、こんな小さな木戸を連れて行けば我が家の子供の餌食だとも考えたが、一人此処に残していくわけにも行かない。
すると木戸は紅茶を小さなスプーンですくいつつ飲みはじめたが、
「山県が迎えに来ます」
邪気なくにこりと木戸は笑った。
ふと大久保は一種の狼狽というものを味わう。
今のにこり、はなんだ。この邪気のない笑顔と無自覚の信頼の強さに眩暈すら覚える。
「陸軍卿は貴公がこのようなお姿になられたことを、知っているのですか」
「知りません」
「……迎えにくると、言い切れるのですか」
すると木戸はクスクスと笑った。
「伊藤君が私が貴殿を訪ねたことを承知しています。山県はよほどのことがない限り、退庁時刻に私を迎えに参りますので……部屋に私がいなければ伊藤君に聞いてここに参ると思うのですが」
「前よりお聞きしたいと思っていたのですが、なぜ陸軍卿は貴公を迎えに参るのでしょうかね」
「長州のみなと松子の総意だそうです」
そこで木戸は少しばかりいいにくそうに……自分は食が細いこと。一日二日紅茶だけで過ごし、誰に厳しく言われようとも流して食事をしないことを話した。
「それがおかしいですね。昔から山県は……私に食事をさせることができる。それも昔、食べねば口移しと言われそれを一度実戦されてから……私は山県と食事をするときはなるべく抗わないことにしているのです」
「ほぉ……口移し」
大久保はその一点に興味を持ったが、木戸としては当時のことを思い出しとてつもなく重い吐息をこぼした。
「なぜか山県は私の食事面については本当に過保護で、しかも……容赦がないのです」
困ったものです、と苦笑顔だというのに、それがどことなく嬉しげな声の響きに聞こえ、大久保はその一点のみで木戸の山県にむける親愛を読み取れた。
そして木戸が意識せずに信頼していた通り、規則正しすぎる等間隔の歩調をとり、靴音をわずかに響かせ、山県有朋は内務卿室の前に立つ。
扉を四度叩く音。「山県です」と何一つ抑揚を感じさせない声音。入ることを促すと丁寧に扉が開けられ、山県はスッとその無感動な瞳を机の上に向け、
「木戸さん」
冷めた声音にわずかに感情らしいものが乗った。
「伊藤がお戻りが遅いと騒いでいたが、またそのような姿に」
木戸のもとに近寄り、ゆっくりと右手を山県は木戸の前に差し出した。
「うん……また東吾先生のところでね」
「あの医者殿か」
「でも今度は、すごいのだよ山県。一日で半時だけ元に戻れるのだから」
「………一時しか戻れぬところが問題だと思うが」
木戸は半分ほど食べたビスケットを抱えたまま、山県の掌に乗った。
「戻ったときに急いで書類とか整備できるし……それから大久保さんが小さくてもいいといってくれたから」
山県の瞳が大久保を見据え、
「縮んだ木戸さんまでも使うおつもりか」
「陸軍卿。間違ってもらっては困る。その方はどんな姿であれ木戸参議であるはず。私に仕事を押し付けるよりは、此処で小さいなりに私の手伝いをしていただきたいと思うのはおかしなことかね」
「……山県」
いつしか木戸が不安げな目で山県を見ている。
「貴兄は承諾されたのか」
「……最初は大久保さんに肩代わりを頼むつもりだったのだけど、やはりそれは申し訳なく、それに縮んだのを知れてしまったから……」
「そのようなことしなくてもよいはずだ」
「いいのだよ。それに……おまえもいるし」
その言葉に気を良くしたことは、山県を包んだ北国の永久凍土の気が緩んだことだけで知れた。
「だから明日から午後の一時はこの内務卿室にいて、あとは前に聞多が購入してくれた人形のお家に住むよ。まだ陸軍省においてあるよね」
前に木戸は同様の現象になった際、山県の傍でほとんどの時を過ごしている。
その時に井上がからかい半分で、横浜より異国製の人形の家を購入し置いていったのだ。
山県はポンと木戸の頭をなぜ、そして背広のポケットに木戸をいれた。
「では大久保さん。明日参ります」
山県のポケットの中が慣れに慣れたという顔で、木戸は顔を出し手を出し、小さくなったビスケットを片手でもっている。
「木戸さん」
大久保はつい口にしてしまった。
「貴公、その現象に慣れすぎて……この現象がいかに非現実か分からなくなっているようですね」
木戸はきょとんと目を丸くした。
「たとえば陸軍卿のポケット。その中にいるのが……慣れすぎているように拝見できます」
「前に縮んだときも此処だったし……此処は一人でないと分かるので安心できるのです」
山県はよく心得ていますから大丈夫ですよ。
木戸はそのまま山県のポケットに入れられ、内務卿室を去っていった。
見るからに長州閥の、決して入ってはいけない長州の中の砦を見た気がする。
「……ポケットか」
さて明日はポケットのある背広を着込み、木戸をポケットに入れてみようか。
凄まじく抗う姿が想像でき、あの陸軍卿との差はなんなのか、と思わずにはいられないが。
嫌がる顔もまた一興か、と大久保は思い直した。
― ④ ―
山県のポケットの中に入りしばらくして後、コクコクと木戸は船をこぎ始めた。
このポケットの中は温かく、みょうに安心する。小さくなったときからやはり自分は緊張していたのだろう。
「木戸さん」
頭を人差し指で撫ぜられ、木戸は眠い目をこすり上を向く。
山県が木戸をジッと見つめながら、声を潜めて口にする。
「我が家には友子がいることをお忘れなきことを」
いわれてハッとした。山県の妻友子の「趣味」を思い出し、木戸は思わずグッタリとなったのだ。
かつて同じく四寸ほどに縮んだとき、危うく友子の趣味に犠牲になるところだった経緯がある。
「狂介。私は友子さんの着せ替え人間にはなりたくはないのだけど」
「まず間違いなく、家に戻れば貴兄は友子の趣味の犠牲となる。如何する?」
そこで木戸は幾ばくか考えたが、ポケットからひょいと抜け出し山県の肩までよじのぼった。
「狂介」
「はい」
「……いっしょにいく」
わずかに耳元にかかる山県の髪を一房つかんで、木戸は力なくそう口にした。
「陸軍省の人形の家に、夜、ひとりでいるのは嫌なんだ」
すると山県は木戸の頭を中指の腹をつかってなぜ、
「もとより貴兄をひとりするつもりなどない。私が言いたかったのは家には戻らずどこかの料亭にでも参られるかということだ」
「……料亭?」
「行き着けの料亭はいくらでも在る。宿泊機能がついた常盤亭ならば、貴兄もなれていて過ごしやすいかと……いかがされた?」
木戸は頭を必死に左右に振る。
「もし使用人たちに小さな私が見つかったら……私はどうなると思う? おまえや聞多、友子さんは全く気にしていないようだけど私は今、四寸の摩訶不思議の生き物なのだよ」
「どんな姿でも貴兄は貴兄だが」
山県は木戸の体をそっと右手の中につかみ、左手の掌に降ろした。
「では家に戻るとしよう。友子は可愛いものならばそれ以外は気にしない人間ゆえに貴兄も気軽といえば気軽」
「でも着せ替え人間は嫌だよ」
「できるだけ押し留めるよう努力はするが、私は友子の趣味の独走ばかりは止めることはできぬのでそれだけは頭にいれておいていただきたい」
山県としても自らの軍服以外の衣は、すべて友子お手製のものである。
妻は繕いが趣味であり、和服ばかりか海外の衣服や民族衣装にも目を向け、異国より取り寄せた本を片手に裁縫を毎日のように続けている。
一見大人しく、人呼んで才色兼備のいつかは良妻賢母となるだろう友子は、いったん趣味が行き詰る(可愛いものが目の前よりなくなる)と暴走をはじめ、
キラリとした視線を山県に送り、にっこりと笑って「七色の背広をお作りいたしましょうか。きっとお似合いになりますことよ、だんなさま」と世にも恐ろしい一言を呟くのだ。
山県は自らが犠牲にならぬように、または夫の義務として妻に趣味が行き詰らないように「かわいいもの」を進呈しなければならない。
今は、山県邸には一匹の黒猫が飼われ、そのネコのお洋服つくりで友子は上機嫌だ。黒猫は山県になぜか従順で、「衣をつくってもらえ」と命じれば黙って友子に寸法をとられている。
朝には帽子と上着を来た黒猫「三鷹」が、山県を見送っていた。
「きょうすけ……また迷惑をかけてすまない」
木戸はわずかにシュンとした顔を山県に見せると、
「貴兄は非現実の申し子であり、あの医者が関っているなら致し方ないことだ。それに迷惑などとは思っていない」
むしろ例え一時であろうと内務卿のもとに、この小さな木戸が仕事をしにいかねばならないそのことの方が山県には頭が痛かった。
九段の自宅に戻ると、玄関先に出迎えに出た友子が、目敏く山県の背広のポケットの中の木戸を発見した。
「まぁいつぞやの可愛らしいお人形さま。いらっしゃいませ」
目を輝かせた友子に木戸はビクリとなり、
「怯えている。前にもいったが、おまえの趣味をこの人に押し付けないように」
「お人形さま。前のお洋服が残っていましてよ。それから、あら可愛らしいウサギ耳帽子」
吉法師が小さくなったならば、よく何かと体を物にぶつけやすくなるので、せめて頭だけは保護するために渡してくれた帽子を木戸は大切に抱えて持っていた。
山県もその帽子をジーッと見つめ、なにを思ったのか手に取り、そして木戸に被せてみる。
「きょうすけ!」
「なんてお可愛らしいこと。ひとつの耳が垂れる感じになって。まぁ可愛らしい。どうしましょう。ウサギ耳の帽子をつくりたくなりましたわ」
「友子……」
「だんなさま、食事は食台に用意してありますのでお召し上がりくださいませ。私はこれからお人形さんの帽子をつくらねばなりませんので、お先に部屋に下がらせていただきます」
そして友子は怒涛のような勢いで奥に下がってしまったので、木戸は茫然となった。
「あのきょうすけ……」
「確かに貴兄のウサギ耳は可愛いものがある」
と、山県はしげしげと木戸のウサギ耳帽子をかぶった姿を見つめ、
「だが覚悟しておかれるといい。あの友子のはしゃぎようからいけば、明日は様々な動物の帽子が並ぶだろう」
「やはり私は着せ替え人間になるのだね」
「帽子ですむだけまだ良かろうが」
すると今日一日友子のいけにえとなっていた黒猫三鷹が、山県の足下に「にゃあ」とじゃれてくる。
山県はその頭をわずかになぜ、
「食事にしよう」
といった。
余談だが、山県家にはかつて四寸ほどの背丈になっていた木戸のためにおままごとミニセットが置かれてある。
そのため木戸は普段と変わらぬ感じで山県に用意された食事を食べることができたのだが、大久保いわくこれが慣れというものかとことここにおよんでようやく理解した。
― ⑤ ―
山県が用意した菓子籠にふわふわの布を入れた急設えの寝床で木戸は眠った。
菓子籠の中で眠ることを経験した人間など、きっと自分くらいだろう。
そう思うとクスクス笑いたくなったが、山県が目を開けていることに気付き、
「おはよう、狂介」
と、トコトコと山県のもとに歩み寄る。
「よく眠られたか」
「うん……慣れたようだよ」
「笑えない言葉だ」
寝巻きの山県が右手を差し伸べてくるので、木戸はにこりと笑ってその手に乗り、導かれるままに肩に乗った。
肩にのっている方が声が届く。四寸に縮んでしまったため、体型にあわせて木戸の声も小さくなってしまっているのだ。
「……狂介」
「廟堂にお行きになるか」
「大久保さんばかりに、私の仕事を任せるわけいかないからね。それに一時間はポンて戻れるし」
「戻れる時を廟堂にあてられるか」
いささか山県が不満なことに気付き、木戸は首を傾げる。
「どうしたのだい? 狂介」
「あの大久保のために一時を使われることは、実に……面白くはない」
「?? 狂介?」
「貴兄がこの姿となってしまった以上、国家の重鎮として大久保が貴兄の仕事を為すのは当然至極。貴兄がそれを恩義に感じることもない」
昔から山県はおかしな対抗意識を大久保に抱いている。
木戸はついおかしくなって、クスクスと笑う。
「……仕事を少しでも片付ければ、私の肩にある大久保さんへの恩義も軽くなるとは思わないかい」
「貴兄は生真面目すぎる」
「でも私は、おまえの傍にいるよ。おまえはこの姿の私にまったく驚かず、世話を焼いてくれるから」
山県の肩に届く髪に捕まってみた。
「痛い?」
「さすがに髪に下がるのは、よしていただきたい」
ごめん、と木戸は肩に戻り、にこにこと笑う。
「なんだか本当に小人なんだよね、私は」
木戸の頭をよしよしと人差し指で撫ぜ、山県は立ち上がる。
「内ポケットがある背広にしよう」
木戸は「うん」と笑った。
まさに山県夫人友子は夜鍋をして作り上げた「動物耳お帽子」が、洋式テーブルの上を「所狭し」と覆い尽くしている。
「だんなさま、見てください。兎耳でもいろいろとつくってみましたの」
目を真赤にしながらも、友子は満足そうである。
山県は小さな帽子を手に持ちながら、木戸の頭に両耳がピンと立っている兎耳帽子を被せてみた。
「狂介」
木戸の非難に満ちた目を受けながらも、「なるほど」と山県は思う。
確かにこうして色鮮やかな帽子や衣服を着せ替えるのは、なかなかに楽しい。山県の場合は木戸限定ではあるようだが。
そこににゃあと現れたのは黒猫である。名前は「三鷹」という。牝猫で旦那様は木戸が飼っている「廟堂の守護猫」と称されるミケの「崇月」だ。
三鷹は今日は白の衣服に猫用の白帽子をつけていた。
黒に白はよく映える。
「三鷹、今日は廟堂にこの人の共をするように」
山県の言葉が分かっているのではないかと思うほど、三鷹は「にゃあ」と鳴き、木戸をジーっ見る。
従順で人間の要望が分かる猫は、まさに希少だ。
「狂介、私は一人でも」
「三鷹と守護猫を連れて行けば、大久保も滅多にことはできまい」
「滅多なことって……」
「木戸さん」
「うん」
「今は貴兄は四寸の小人に等しい。何かあったでは遅いのだ。……万が一だが机より振り落とされる。または放り投げられる。風に吹き飛ばされる……気が気でならない」
「きょうすけが過保護なのは知っているけど、こんなに心配性とは」
「私は昔から貴兄に対しては過保護で心配性です」
ウサギ帽子をかぶったまま、木戸は山県の背広のポケットに入った。
「軍服でなくてよいのかい」
「陸軍卿は政治家だ。構うことはない」
「軍服のおまえも似合うけど、背広もよく似合う」
わずかに山県は気を緩め、自然と目がいったテーブルを見てピクリと眉間を動かした。
「……友子」
「はい」
「これは何だ」
小さな帽子の横には、大人用の黒猫耳やら垂れた犬耳。狼耳の帽子から狐耳まである。
「お人形さまとおそろいの旦那さまのお帽子ですわ」
ピクリとまた山県の眉間は動いた。
「かわいい。狂介つけてみて」
木戸がにっこりと笑い、ついに山県は眉間に皺を刻んだ。
「貴兄までなにをいう。私は……」
「おそろい。この黒猫さんの耳がいい。狂介……つけて」
山県有朋。地位は陸軍中将。役職は陸軍卿。
最大の厄日がこの日の朝、まさに訪れた。
― ⑥ ―
目の前の猫耳帽子を睨みつけ、
木戸の期待に満ちた目と、友子のキラキラと好奇に満ちる目をも無視し、
山県は身を翻した。
「狂介、つけてくれないの」
「お人形さまとおそろいなのですよ、だんなさま」
山県は肩越しに振り返り、「食事は」と友子に尋ねる。
「用意してあります。人形さまにも」
「そうか」
「だんなさま……猫耳が御嫌ならばここに犬耳や……」
「友子……私はそういうものは好かない」
すると木戸が見るからにシュンと頭を垂れた。
ピンと立っている兎耳も、心持か垂れて見える。
「狂介に似合うのに。その黒猫耳帽子可愛いのに」
「お人形さまを悲しませるなんて、旦那様も罪なお方ですこと」
悲しまないで、と四寸に縮んでいる木戸を掌に乗せ、
友子はよしよしと指で頭を撫でつつも、少しばかり責めるような視線を山県に向けてきた。
「……ほんの一瞬でも構いませんのにね」
「友子さんがこんな可愛い帽子をつくってくれたのに」
「まぁお人形さま。この可愛らしさを理解してくれますか。そこの木石の旦那様とは雲泥の差でございます」
妙に意気投合している二人の視線が山県には痛い。
「だんなさま」
「きょうすけ……」
「一瞬でも構いません」
山県にとって大切にする人間は、この片手の指ほどの数しかいない。
その中の二人が、ジッと猫耳帽子を山県がかぶることを望んでいる。
わずかに逡巡した。
一瞬だけならば……という思いもなくはない。
されど山県は己の妻たる友子の性格はよぉく理解していた。
一度かぶれば最期。明日から色とりどりの動物耳帽子が並べられ、頭痛の日日が始まるに決まっている。
「食事にする」
振り切るように居間に向かえば、
友子はそこで人形の如し木戸を掌で抱きとめたまま、
「負けませぬわ、だんなさま」
これは友子のある意味戦いでもあるようだった。
午前中は陸軍省の一室陸軍卿室で、山県が用意してくれた小さな菓子籠にふわふわの布が敷き詰められた中で、木戸はいろいろなことを考えていた。
お昼は友子手製のミニミニサイズのお弁当を食べ、
午後からは山県が職務に没頭している間、廟堂の守護猫「崇月」と陸軍省の災厄を呼ぶ猫「三鷹」の背に乗って遊び、
少し疲れたといって菓子籠の中でお昼寝。
そして目覚めたときに、あまりにものどかで穏やかな一日に木戸は軽く違和感を感じ、
トテトテと歩いて山県が書類を書く机にのぼり、
なにやら事案を熟考中の山県のネクタイによじのぼる。
「いかがされた」
「そろそろ内務省に行く。大久保さんに借りは作りたくはないから」
山県は僅かに眉をひそめたが、木戸がジッと見ていれば、吐息ひとつ漏らし、
「致し方ない」
と、木戸をポケットの中に入れて、立ち上がった。
「三鷹、崇月。この人より目を離さぬように」
山県は二匹の猫を引き連れて、内務省に向かう。
従順よろしく猫たちは、ピッタリと山県の背後につき従い、
内務省、内務卿室前で、木戸は床に降ろされ、
自ら「ポン」と手を叩くと、一瞬にして視界が揺らぎ、今までの視界が徐々に小さくなっていき、
「戻った」
山県の目を真っ直ぐ見れる位置。
「一時が経てば迎えに参ります」
それだけをつげ身を翻した山県に、
「ありがとう狂介。私を忘れて帰らないでね」
切実な思いを込めて告げる。
「……忘れるはずがない」
振り返りもせずに告げてくる後輩が、木戸はいつもいつも大好きだ。
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