― ① ―
「だいじょうぶだよ。ひとりで歩けるから」
四寸の背丈になっている木戸は、必死に前を進もうとしているのだが、
山県の一歩に追いつくために本人はひたすらに走って何十歩。
それを続けていると、はぁはぁと山県が数歩あるいた時点で、木戸は今にもばたんとなりそうだ。
しかも小さくなり、視界の感覚がなれたものではないからか、
「いたい」
すぐにポテッと転ふが、なんとか立ち上がる。
だがまたしても転び、そればかりか何かにぶつかることも多く、
山県は屈んで、木戸の襟首を掴んで持ち上げ、
「ここに入っていていただきたい」
自らの背広のポケットにいれる。
「なれれば大丈夫だから」
「慣れる前にあの医者殿が薬を作ってくれるはずだ」
「でも……」
「ここは御嫌か」
「……きょうすけ」
「はい」
頭をぶつけているのが見えたので、そっとよしよしと頭を撫ぜると、
その人差し指にすがりついて、木戸は涙目で上を向く。
「日常ではなんともなかったのに、小さくなると危険がいっぱいだよ」
「木戸さん」
「……だから……ほんとうはこの中がいい」
すがり付いてくる木戸を片手に乗せ、
「その方が私も安堵する」
いつもの通り無表情で山県は口にした。
「御嫌でないならば、この中におられよ。貴兄は見ていて危ない」
されど木戸は翌日にはまた自分で頑張ろうと歩き出し、
なんとか山県についていこうと歩いてポテッと転ぶ。
生傷は絶えないが、山県は木戸の意志は尊重することにしていた。
たいていは五歩いってとまり、木戸が追いついてくるのを待つ。
必死に汗だくになり走ってくる木戸を掌に乗せ、
ポテッとポケットに入れる。
疲れのあまりにポケットの中で眠っている木戸は、
「……おいて……いかな……いで」
と、うわ言のように繰り返すので、
その頭をやさしく撫でながら、
「置いていくはずがない」
山県はそっとささやく。
― ② ―
それは陸軍省の摩訶不思議現象と言えた。
軍服が引き立つほどに、まさに背筋が若木のように伸び、姿勢正しく謹厳に歩く山県陸軍卿の背後より、
ポテポテといった感じで、本人は到って必死に走る小さな存在がある。
「!」
陸軍省の廊下は、この光景を見るたびに人だかりができるほどだった。
小さな小さな。それは四寸ほどの人間をそのままに縮めたかのような人形が、
必死に走っている。
時にはぽてっと転ぶが、すぐに立ち上がり、必死に前を行く山県を追う。
まるでコガモが親ガモを追う構図にそれは似ていた。
そして山県は、階段を下りる一歩前で止まり、
僅かに背後を振り返る。
遅れること五分。
汗だくになって小さな小さな木戸は、山県のところまでたどり着き、
そのズボンをギュッと握り締める。
「ポケットにおさまればよろしいものを」
一言かけて後に、かがんで左手を木戸の前に差し出すと。
「ただ、おまえの世話になっているのは嫌なんだ。歩くことくらい自分でする」
その手にひょいと飛び乗った木戸は、まだ肩で息を吸っている。
わずかに掌に擦り傷が見えて、山県は吐息を漏らした。
「貴兄が怪我をしたり、鳥などに加えられどこかに連れられていかれるやらがあるたびに私の寿命は縮む」
「………」
「無理にはいわないが、できるだけポケットの中にあるように」
「今日はおまえ、軍服だからポケットがない」
「では襟元に埋もれておられるか」
「きょうすけ」
「はい」
「陸軍卿は気がふれたといわれる」
「私は構わないが」
私が困る、という木戸を掌に乗せたまま山県は階段を降っていく。
一歩降りるたびにぐらぐらと揺れるため、いつしか木戸は山県の軍服にしがみつくありさまだ。
「しばらくは背広にするとする」
「そうしてくれると助かるよ」
陸軍省の摩訶不思議現象。
どう見ても人形としか思えない存在に、
山県陸軍卿がわずかに気を緩めて話しかけていること。
小さな人形が陸軍省を走り回るよりも、このことの方が摩訶不思議なのだ。此処では。
― ③ ―
「外に出てくる。貴兄はここを動かぬように」
井上馨により陸軍卿室には、まさに人形道具が運び込まれ、
人形の家から小道具まで、ありとあらゆる道具がそろっており、人形となっている木戸としては不自由はない。
「私もいくよ」
木戸は両手を広げて、山県の足下に飛びついた。そこからよじよじとのぼっていく。
「いや、貴兄は今日は残るように」
「……どうして?」
「いろいろと小難しい話になる」
「黙ってポケットの中にいるよ」
「……残られよ」
ネクタイまで登りつめた木戸を、山県はひょいと掴み取り、そのまま人形の家に戻す。
ゆり椅子に強引に座らされた木戸は、ジーッと山県を見た。
そこに扉がノックされ、顔を出したのは陸軍卿副官の乃木と、その乃木の友人の児玉源太郎だ。
「私が呼んだのは乃木だけだが、なにゆえに児玉がいる」
二人ともが長州の支藩出身で、山県としては目をかけている。
「乃木に用事があってきたんだ。せっかくだから陸軍卿にも顔を見せてやろうと思ってきてやったのによ」
この児玉の才を誰よりもかっている山県であるが、
才と性格というものは別である。
例え先輩だろうが、陸軍を牛耳っている法王だろうが、お構いなし。誰にでも毒舌をふるうこの後輩を、山県はいたく苦手にしている。
「顔は見た。出て行け」
「なんという人だ。せっかくこの児玉が顔を出してやったのに、出ていけだと」
こうなるから、山県は児玉が苦手なのである。
意地でも居座ってやるという児玉にため息が漏れる。
「乃木、私が戻るまでこの方の世話を頼む」
おっとりとした育ちの良さが際立つ折り目正しい風情の乃木は、山県の副官である。
陸軍卿室のテーブル一帯を占領している人形の家をにこにこ笑いながら見つめ、
その人形の家で固まっている木戸に、
「了解いたしました、陸軍卿。この方のお世話は私が責任をもっていたします」
そしてただ山県をジーッと見ている木戸を見て、
「お人形さま、お好きな飲み物はなんでしょうか」
「えっ……」
「お喋りになっても大丈夫ですよ。私はよく心得ていますから」
にこにこにこにこ。乃木の清廉とした笑顔に木戸はどう対応してよいのか分からない顔をしている。
「山田少将よりクッキーをいただきましたので、それを用意しますね」
乃木はどことなくいつもより軽やかな足取りで隣室に向かった。
「乃木という男は、頭の線が一本切れているのではないかと思われる男ゆえに気になさらずとも良いが」
人形の家を興味深げな顔をして見ている児玉を見て、山県は吐息をまたしても漏らした。
「へえぇ。陸軍卿、この児玉も陸軍省の摩訶不思議な噂っていうのは知っているんだよ。動く喋る人形」
「児玉」
木戸をジーッと見ている児玉の視線に、木戸は冷や汗ものらしい。
「人形さん。これを食べるか。キャンディっていうやつなんだ」
木戸の前に差し出されたまん丸な飴に、仕方なくおずおずと手を伸ばすと、
「かわいい」
児玉、自分より小さなものが大好きな男だ。
思わず木戸を片手で掴み、自らの掌に乗せてジーっと見ている。
そこへ乃木が戻り、
「児玉、ご丁重に接してくださいね」
人形用のカップに紅茶をちょろりと入れて、人形の家のテーブルに置く乃木は、
「少しだけ砂糖が入っています。お口にあうと宜しいのですが」
乃木はいざ戦略になると細かいことや、小さなことを見落とさず、無視できない……まさに将官ではなく副官や参謀タイプの男だが、
私生活になると一転する。
そう細かいことを全く気にしないのだ。
そのため木戸の世話をさせようと思ったのだが、思わぬ邪魔者までついてきた。
児玉はそっとゆり椅子に木戸を戻し、
「丁重に扱っているぞ、乃木」
木戸は戸惑った顔でジーッと山県を見ている。
「かわいいな、かわいいぞ」
児玉も人差し指で木戸の頭をなぜなぜしている。
「山県」
戸惑いがさらに色濃くなる木戸を見て、
「乃木、しっかりお世話をするように」
「了解しました」
「悪戯はよすように、児玉」
「この児玉は陸軍卿にしか悪戯はしないし、俺より背が小さいものはとかく労わるぞ」
確かに……と、慎重五尺ほどの児玉をジッと見、大丈夫だろう、と身を翻したとき、
「山県」
悲痛な木戸の声とともに、
「お人形さま、このクッキーはどうですか」
「こっちの飴は美味しいぞ」
などと木戸に夢中な二人の声に後ろ髪が引かれ、
「いっそ俺や乃木のところにくればいいよ。陸軍卿のところにいるよりいいぞ」
「大切にお世話させていただきます」
そして、
「狂介。置いていくなら、私は乃木君の世話になるよ」
というこれもまた悲痛な声が背に響き、
今日何度目か知れぬため息とともに振り返った山縣は、
若干なみだ目の木戸を見て、ため息を吐いた。
児玉が撫ぜ撫ぜする木戸を掴み、ポイッと背広のポケットにいれ、
「いってくる」
木戸はようやくホッとしたらしく、指定席になっている山県のポケットの中で、
「狂介」
と小さく声を出して、微笑んだ。
「それにしてもあのお人形さま、とても木戸さまに似ていますね」
のほほんと口にする乃木に、おいおい、とあきれるのは児玉。
「どう見ても木戸さんだろう。そうじゃなければあの陸軍卿があんなに気にかけるはずがない」
「児玉はおかしなことをいいますね。木戸さまがあんな小さいはずありませんよ」
「ってな。乃木、人形がちまちま動いて喋っているよりも、木戸さんが縮んだと考える方が早いと思わないか」
「人形も喋ったり動いたりするものもあるのですよ、きっと」
「……おまえって乃木」
「児玉もおかしなことをいいますね」
誰がどう見ても、木戸が縮んだとしか思えない状況だと思うのだが……と児玉は苦笑しながら乃木を見る。
本当に私生活にいたっては細かいことをきにしない奴。
そんな乃木だからこそ、一階級上ということも気にせずに付き合っていられる。
「なぁ乃木」
「はい児玉」
「俺、いまとっても楽しい悪戯を思いついたぞ」
「あまり閣下を困らせないようにお願いしますね」
この頃、山県陸軍卿はこの児玉の些細な悪戯に頭を抱えていたりした。
― ④ ―
時折、ポケットの中に入ることを木戸は拒む。
「私は歩く」
といってどれだけポケットの中に入るように勧めても首を振るばかりだ。
仕方なく下に降ろすと、木戸はポテポテといった感じで歩く。
山県が歩くと、それに必死についていこうと一生懸命駆ける。
背後を気にしながら歩く山県は、木戸の気配に過敏になりすぎていた。
背後で転ぶ音。何かとぶつかる音。その全てを気にしながらも、
(あまり過保護すぎては、また機嫌を損ねる)
と、気にしつつも、先を行く。
どこまでも必死に追いかけてくる気配がある。
そして、追いかけてくる気配が止まると、山県はゆっくりと振り向き、
尽かさず後戻りし、倒れている木戸を捕獲。
「怪我はないか」
隅々まで点検し、木戸の頭をよしよしと撫で、ポケットに入れる。
疲れきっている木戸はポケットの内側はギュッと握り締めて、
「ちゃんと歩く……歩くよ」
と言いつつも、限界らしくグッタリとしている。
こうしてポケットの中に入れると、
妙に安心するのか、たいていはうとうとと寝ている。
人差し指で頭を撫ぜれば、
こうされるのがすきなのか、にこにこと笑うほどだ。
なのに、どうしてポケットの中に入るのを嫌がるのだろうか。
(いや……厭うてはいないのかもしれぬ)
そうだ、陸軍省より出るときは、
ゆり椅子でクタクタとしていた木戸が、
「狂介」
ポケットの中に入れて、と両腕を広げてくる。
なんとも掴みにくい。なんとも分かりづらい性格だ。
その日は陸軍卿室にある「人形の家」で昼寝をしていた木戸だ。
居間にはお菓子がたんと用意され、紅茶や茶など乃木が用意してくれた。
暇を見つけては顔を出してくれる児玉が、人形用の本を持ってきてくれるが……さすがにすぐに読んでしまう。
四寸ほどに縮んでいるときは、どうも歩くだけで相当の体力消耗になるらしく、木戸は眠っていることが多くなってしまった。
「う……ん」
目覚めると、辺りは薄い闇が包み込んでいる。そろそろランプの灯火が必要な時刻だというのに、どうしたのだろう。
ベッドより起き上がり、陸軍卿室をキョロキョロ見回そうとも、木戸が探す人間の姿はない。
「狂介……狂介」
名を呼びつつ、木戸は山県が使用している机によじ登った。
そこには一枚の紙が置かれていて、夕方には戻る、と綴られている。
沈黙だけが広がる部屋。外よりは烏の鳴き声しか聞こえない。
途端にわびしさと、一人という不安が木戸の体を包み込んだ。
「起こしてくれれば……いいのに」
ポケットの中で眠っていたのに。
邪魔にならないように、ただポケットの中で眠っているだけなのに。
山県は木戸を背広のポケットに入れて連れ歩くのを好まないことは知っている。
それでも強引に着いて行くのは、この部屋に一人にされるのがとても嫌だったからだ。
声を出せば、それが響き渡る部屋。
返してくれる声すらない……部屋。
縮んでしまった特異な存在という恐怖や不安が、
いつ誰かに見つかって見世物にされるか知れないという怯えが、
ひたすらに「縮んでしまった自分」に普段通り接してくれる山県の傍に引っ付かせる。
山県も山県の妻の友子も、木戸を全く奇異として見ない。
それが嬉しくて、安心できて、だから山県の傍にいるのだ。
「きょうすけ……」
置いていかれたらどうしよう。
ここにいることを忘れられ、取り残されたらどうしよう。
本当は此処で一人過ごすのが良いのは分かっている。
人形の家にはそれなりに機能が備わっており、何一つ不便はない。
でも……この陶器の冷たい感触が好きではなかった。
冷たさが自分という存在を拒否しているようで、
一人でいるとさらに追い討ちをかけるように寂しくなっていく。
机の上で山県が使っている万年筆を持ち上げ、
体ごと支えながら文字を書く。
……わすれていかないで。
夕方には戻る、とある。おそらく自分を気にして書置きをしていったのだろうが、それでも不安だった。
そこにガチャリと音が聞こえた。
開かれた扉にドキリと胸が跳ねる。知らない人なら人形の振りをしなければならない。
「お目覚めだったか」
なにやら多くの書類を抱えている山県が、木戸の姿を捉えた。
「狂介」
木戸の目の前にドサリと書類が置かれる。
山県は椅子に座したので、そのネクタイにヒョイと木戸は飛び乗った。
「急に内務卿に呼びつけられた。何かと思えばこの書類だ」
飛び乗った反動でネクタイはわずかに揺れ、ぶらりぶらりとした状態になっている。
「いかがされた」
書置きに置いていった紙を目にし、
山県はわずかに目を見張ったが、
「忘れるはずがなかろう」
ネクタイにギュッとしている木戸を、とりあえずポケットに入れてくれる。
「……一人は嫌なんだ」
「今日は内務省に参ったゆえ……貴兄を連れてはいけぬ」
「ちゃんと人形の振りをしているよ」
「内務卿は貴兄のこの状態を心得ていよう。ならば……参議分の仕事はせよ、と内務省に捕獲されるが目に見えている」
「………」
「心配されなくともよい。貴兄を置いていくことも、忘れることもない」
ポケットの内側をギュッと掴んで、
やはりここが一番に安心する、と木戸は思った。
「ちゃんと人形の振りをするから……大久保さんに捕まったりしないから。だから外に出るときは一緒がいい」
山県は木戸の頭をよしよしと撫ぜつつ、
「考慮はする」
とだけ答えた。
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