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― 大久保利通の主張? ― (大久保さんシリーズ)

 その日は木戸孝允は休日だった。
 同じ九段内に住む兵部大輔の山県有朋が、「碁を一局」と訪ねてきたので、日日の「鬱」たる思いも封じ込めて碁を打ち、
 お互い一局ずつ勝ちをおさめ、その頃には八つ時を回っていた。
「狂介、私は骨董店を見に行くのだけど」
「では付き合おう」
 と、山県が馬車を出してくれるという。
 こういう小さな気配りができ、そしてさしたる言葉を口にせぬ寡黙たるこの後輩が、木戸はとても好きである。
 骨董店めぐりはたいてい一人で赴くようにしているのだが、考えればよく山県にどこかで捕獲されることが多い。
 ひとつ気になる年代物を見つけると、そこで「買うべきか買わざるべきか」を木戸は店が閉まるまで迷いに迷う。
 気に入った物の前でジッとかたまり、またはその物の前で行ったりきたりをし、ようやくの思いで諦めても、気になって翌日の朝一番でその品物の前を陣取る。
 この性格は幕末の昔からで、よくよく心得ている山県は木戸が何から夢中になった時は「捕獲」することを旨としているようだ。
 そして今日も一服の掛け軸の前で木戸は固まった。
「藤田東湖先生のものは、貴兄、一服所蔵しておられると思うが」
「これはまた違った趣があって実によい書だよ。さすがは藤田先生。戸田先生とともにあの地震でお亡くなりになったのは国の損失であり……」
 山県もその書をジッと見、木戸以上に骨董品に対しては目利きたるその眼の審美眼をもって本物と鑑定した。
「五十円は高い」
「そう……高いのだよ」
 現在の金額に直すと五十万円ほどに値する。
 木戸は政府の重鎮であり、それなりに裕福な家系の出身だったが、人に金銭を証文なしで貸してしまう悪い癖があった。
 そのため明治のこの時期、さして生活には困っていないが、裕福とはいえない身上ではある。
 そればかりか木戸の名に漬け込んで、サインを書かせて売り払う友人までいるほどだ。
 家に帰れば机に色紙が何百枚と置かれ、それを書かねばならないと思うとため息まで出る。
「でもこの書の流麗にして……」
 そして木戸は書に見惚れ、あまりにも見惚れるあまりにふらりとなり、その体を山県が支える。
「いかがされる?」
「ごめんね、つき合わせて」
「それは気にすることはない。私も骨董には興味がある」
 それ以上にこの男の興味は庭造りであり、庭を彩る様々な石などを見ている方が楽しいだろうが。
「……来月の給与で」
 この時代、給与は二ヶ月に一度支払われる。
「貴兄……家には多くの書生という名の居候がいる。給与はあてになるまい」
「では……私の所蔵する……」
「一度手にするとその物に愛着を持ち、手放すことができぬのが貴兄だ」
 その点、木戸の幼馴染の高杉晋作とよく似ている、と山県は思う。
 一度、山県は高杉に愛用の瓢箪を貰ったのだが、後日やはり愛着があったのか「返せ」と奪い返された過去があった。
「そうだね……確かにおまえの言うとおりだよ」
 店の店主が先ほどからジロリとした目を向けてきていた。
 買わぬならば出て行けという目に、商人としての愛想など微塵もない。書に夢中になっている木戸が気付かないようなので、山県はこちらもジロリと睨み据えておいた。
 山県の眼光はその風情そのままに「北国の永久凍土」さながらの勢いを持つ。
 店主はまさにカチンコチンと氷となったかのように動かなくなった。
「でも……でもね、狂介」
 どうしてもこの書を欲しい、という目を向けてくる木戸は実に無邪気だ。
 山県はそっと伸びるままになっている木戸の後ろ髪に触れ、その柔らかさを手で堪能しつつ、
「では来年の貴兄の誕生祝いということで」
 今、ここで山県が購入すれば、この木戸は「賄賂?」と疑う。
 例え仲の良い後輩からでも、何か理由がなければ品物は受け取らない木戸だ。
「それは狂介に悪いし。それならば私はお金をためて購入するし」
 たかが五十円、とは例えどれほどに金銭を溜め込んでいる山県とはいえ口にしなかった。
 書を前にして迷って悩みぬいている木戸を見ているのは山県としては、実に楽しかったが、
 その店の前に黒塗りの馬車が止まったときに、なにか底知れぬ「嫌な予感」が全身を包んだ。
 がらりと引き戸が開き、現れた男を振り返らずとも山県は気配で察する。
「木戸さん」
 そしてその声で確信した。
 木戸は書に夢中のあまり男の声すら聞こえていない。
 男は均衡が取れた歩調で木戸の傍らに寄り、山県にわずかに一瞥を投げ寄こして後、
「私は浮気がちな伴侶は好みません」
 その耳元でそう呟いたのだ。
 はい?と木戸は振り向き、「大久保さん」と少しばかり怪訝な顔をした。
 耳が非常によい山県は大久保の声をすべてとらえ、「まだ勘違い中か」とため息をつく。
「よろしいですかな。私は伴侶たるものに望むのは第一に貞淑たる……」
「なにをおっしゃっておりますか」
 木戸は目をぱちくりとさせた。
「洋行のおりに教会で正式に結婚式をと思っておられる貴公が、こうして私ではない男とですね。真昼間から逢引など……松子さんより話しを聞き追ってまいりましたが」
 大久保利通は淡々と告げる。
「あの……大久保さん? 浮気やら貞淑とはどういう? それに結婚? 誰と誰が?」
「私と貴公に決まっておりましょう」
 その場でふらりとなり力が抜けたまたしても倒れかけた木戸を、山県は寸前のところで片腕で支えた。
「政府の父と母と呼ばれていることから周囲には事実婚が認められておりますが、こういうことはきちんとした形が必要であり……」
「狂介!」
 山県の腕の中で木戸が叫んだ。
「刀を貸しておくれ。この男の性根とどこかで相当うったらしい頭を元通りにする」
 廃刀令がまだ公布されていない世の中。また軍人たる山県は刀を携帯している。
「ほどほどに」
 と、山県は小さく呟き躊躇なく刀を差し出すと、木戸はゾッとするほどに鮮やかに笑って見せた。
 大久保、さすがにこの木戸との付き合いはそこそこになっているこの明治四年。
 美しいまでにおぞましい微笑に、我が身の危険を察し、サッと身を引いて店から出た。
 まさに賢明なる判断力だ。
「待ちなさい、大久保さん」
 刀をもってその大久保を追いかける木戸。
 山県は店から出、その「追いかけっこ」をする二人を遠くから眺めていた。
(大久保さんは実に勇気がある)
 刀を持たせれば、木戸は昔の桂小五郎に戻るのだ。あの練兵館の塾頭であったころの桂に。
 賢明なる男ならば、木戸に刀を持たせたときに、捕るもの捕らずに逃げ出すだろう。そう店前に停車してある馬車にでも飛び乗ってそのまま一目散に。
 だが、少しは体力はあるらしい大久保は見事な脚力を披露し、また病気がちな木戸もすこぶる健康男児の如し勢いで大久保を追う。
 周囲を巡察していた羅卒に「これは大久保閣下と木戸公の交流だ」と山県は押しとどめ、場には見物人の人垣ができ始めた。
 そして最期はお決まりのパターン。
 木戸に襟首をつかまれ、観念した大久保だった。
 木戸はというと「女ではないので顔でよろしいですね」とにこりと笑う。
 すでに体力も気力もない大久保は逃げることもできず、ただ木戸を見つめ、フッと笑い、
「お怒りになっている貴公は実に美しいですね」
 振り上げられた木戸の右手がわずかに震えた。
「そして照れておられる貴公はまた実に可愛らしい」
 ぱちーん。
 今日は両頬に一発ずつ平手が飛んだ。
 大久保はすでに慣れてしまったのか。その平手打ちに痛みすら感じていないのだろうか。
「貴公の愛の表現はいつもながら……強烈です」
 などというものだから、頭に血が上った木戸はその手にある刀で、鞘ごと「ぱこーん」と大久保の頭を打ったのだった。
 大隈重信などこの光景を見ていたら「政府の夫婦の痴話喧嘩かな」とにたりと笑っただろうか、
 山県としては「実に懲りない男だ」という目つきで大久保を見つめる。
 最期の一発は容赦がなかったらしく、その場で倒れた大久保を茫然としている羅卒に「大蔵省にお届けしろ」と命じ、
 気が高ぶっている木戸をどうにか捕獲して、
「あの藤田東湖の書はいかがされる」
 と、耳に囁いてやった。
 途端に木戸は我に戻り、大久保のことなど忘れ、また骨董店に駆け込んでいった。


 現在の木戸公の大久保閣下に対する愛情レベル
 竹田の絵 > 藤田東湖先生の書 > 普通の骨董品 > 大久保閣下
 つまりは物と同じレベルらしい……。



― 大久保利通と木戸公の思惑?① ― (大久保さんシリーズ)

「大久保や。そろそろおかしな遊びはやめんか」
 その日、右大臣岩倉具視に呼び出しを受けた大久保は、いかにも心外という顔をした。
「岩倉公。この大久保は遊びは不得手と自認していますよ」
「遊びじゃあないならなんだと言うんだ。いいか、まろの耳まで届いているぞ。毎日毎日木戸を追いかけ、しまいには木戸のことをすきやら、結婚を迫っているやら。長州から苦情がきている」
「なにをおおせられます?」
「それともこの長州からの訴えは事実無根か」
「無根ですね」
「そうか、そうか」
 いくばくか岩倉はホッとした顔で茶をすすり始めたが、
 この後の大久保の発言でその茶はすべて噴出されることになった。
「木戸さんは私の伴侶たる人。未だ結婚式というものをあげてはおりませんが、事実上はすでに……」
 岩倉が噴出した茶を、ひょいと避けた大久保だった。
「なにをいうているのだ、おぬし。き、木戸といつからそういう仲になった」
「政府では私を父、木戸さんを母とお呼びしているということで」
「それは単に……この維新政府を作り動かす働きをしているからだ。お主が父的働きで、木戸が母的役割ということだけだろうが」
「私のことを好きだとおっしゃいました」
「木戸が? そりゃあ相当無理をして顔を引きつらせていったのだろうのう。あれはお主が大嫌いじゃて」
「岩倉公の目は節穴でござるか」
「お主の目の方が節穴じゃ。木戸に一握でも好かれていると本気で思っているのか」
「はい」
「薩長は犬猿の仲じゃぞい」
「私と木戸さんは違います」
「木戸は、お主や西郷の顔を見ると顔をひくひくとさせる」
「それは気のせいです」
「大久保……お主」
「私は木戸さんに今、恋をしています。洋行のおり教会で正式に結婚式をと考えていますが、このごろは邪魔も増えましてね。 これはやはり既成事実というものを早急に、と」
「大久保」
 岩倉は立ち上がり、大久保の肩をぽんぽんと叩いた。
「お主な。木戸のどういうところが好きか」
「あの絵に描いたかのような美しい理想でしょうかね」
「そうかそうか」
「美しすぎて、むしろ実現不可能でありつつも、私はその理想どおりの国を見てみたいと思いますよ」
「……そうか」
「あの主義が徹底しているところもよい。私ににこりと笑う時は、隙なく糾弾してくる姿も実にそそる。また……」
「すべて政治家としての木戸じゃな。それで大久保よ。政治家以外の木戸のどこが好きじゃな」
 そこで大久保の思考が一時停止された。頭を必死に動かそうとするが、まったく動きはしない。
 その後、それでもどうにか頭を動かし、政治家以外の木戸を思い浮かべようとした。
(考えたこともない……ことだ)
「言うならば政府の父は、単に政府の母に政治上で恋をしているだけということだろうのう。 おかしな勘違いをしているでないよ。お主はたんに政府の母が好きで、その母を通して長州を操縦したいだけだろうて」
「違いますよ」
 思いのほかはっきりと大久保は言った。
「あのきれいな容姿も、やさしい声も、後輩には甘い性格も、私を見るたび壮絶な笑みを浮かべるあの顔も。私は木戸さんを好いているようです」
「お、大久保よ」
「それゆえに、あの木戸さんがかわいがる後輩たちは実に邪魔と思う次第です」
 そこで大久保の脳裏には昨日、木戸のお供をして骨董店に付き添っていた兵部大輔山県有朋が浮かんだ。
 自らには政治上での壮絶な寒気がする笑みしか見せてくれない木戸が、あの山県には無邪気に笑いかける。
 狂介、と呼ぶくったくのないその表情を見るたびに、大久保の胸にはちくりとした痛みが走るのだ。
「大人になってからの恋というもんは手に負えんというが、これもまたしかりじゃな」
 岩倉は何かを悟り、何かを諦めるような顔をして「哀れみ」に似た表情を大久保に向けた。
「大久保よ。お主、恋など今まで一度もしたことがないじゃろう?」

「俊輔、大久保さんは今日は遅いね」
 ちらりと扉に視線を向ける木戸に、伊藤は一瞬だけびくりと肩を浮かした。
「き、木戸さん? ま、まさかとは思いますが、大久保さんが来るのを待っているのですか」
 毎日毎日訪れる大久保を邪険にし、あまつさえあの大久保をピシャリと平手打ちする木戸が、まさか大久保を待っている?などということは、伊藤にとってはありえないことだった。
「昨日、白昼堂々と大久保さんを追いまわし、ぱこーんと刀で頭を叩いたのだけど」
 怒り心頭となった木戸の白昼の惨劇を、伊藤は山県からそれとなく聞いている。
「は、はい」
 その有様を実に見たかったと思うものだ。
「私はその時に気付いたのだよ。あの憎くて憎くて鉄面皮の面の皮をいつか剥がしたいと思う」
「はい」
「正当なる理由をもって平手打ちできる今は格好の機会ではないかい」
 さも優雅に紅茶を飲みながら語る内容とは思えない。
 伊藤は目をぱちくりさせ、「き、木戸さん?」と不可解な目をして木戸を見つめるが、
「いっそしばらく言わせておこうではないかい。本人もいつかは気付くだろうし、もしも気付かぬというならば、打つ手をまた考えればいいし」
 紅茶カップをコトンとテーブルに置き、木戸はにっこりと微笑む。
「この数年に大久保さんへの憎悪や苛立ちというものを、ここで少しでも返しておくのも良いとおもうのだけど、どうだい? 俊輔」



― 大久保利通と木戸公の思惑?② ― (大久保さんシリーズ)

「私の伴侶に正式になっていただきたいのですが」
 岩倉に「諦めが付くまで好きにせい」といわれた大久保は、万に一つも諦めるつもりもなく、木戸に迫る。
「貴殿も意外としつこい人ですね」
 木戸は伊藤が入れた紅茶を優雅に飲み、その視線すら目の前の大久保に向けようとはしない。
「忍耐力は誰よりもあると思いますよ」
「そうですか」
「長州の貴公を相手としているのですから」
 木戸の眉間が明らかにピクリと寄るのを見てみぬ振りをし、コチラは伊藤が入れた緑茶を飲む。
「それにしても私が大久保さんに落ちるとでもお思いですか」
「えぇ」
「どこをどういう基準で」
「貴公は私に惚れられておりますので」
 そこで木戸は拳を握り締め、まさに爪が肌に食いこむほど、何かを耐えるように握りこんだのだが、これには大久保は気づかなかった。
「き、木戸さん。僕、ちょっと工部省にいってきます」
 逃げるように伊藤が部屋を去って後、大久保は立ち上がった。
「紅茶を入れて差し上げます」
 木戸はほとんど残っていない紅茶カップを目にし、それを大久保に差し出す。
「お願いします」
「私の入れる紅茶は貴公は実にお好きですね」
「えぇ。貴殿のいれるお茶だけは好きですよ」
 伊藤が備え付けている紅茶容器を手に、大久保はお湯を沸かし紅茶を入れ始める。
「木戸さん」
「なんでしょうか」
「私のことを好いておられましょう?」
 すると木戸はその握り締めている拳をふるふるとさせ、今すぐにも大久保を殴りつけたい衝動を必死にこらえた。
「よくお考えなさい。私の伴侶となれば、薩摩を手玉に取ることも可能になります」
 一瞬。ほんの一瞬だけ木戸の気が緩み、目がきらりと輝いた。
「貴公が手を焼いている薩摩閥を私の手を借りて、どうにでもできるのですよ」
「……そして貴殿は長州を好き勝手に操縦するのでしょう。その手にはのりません」
「一瞬、それも悪くないとお考えになられたと思いますがね」
「……そのようなことはありません」
「そうでしょうか。この話、悪くはありませんでしょう。我らはもとよりこの政府の父と母といわれるもの」
「そしてこういわれていますよ、大久保さん。父は母の意見はちゃんと聞くが、それだけだと」
「母は父の意見をすべて聞き真っ向から反対ばかりをされますね」
「私はこの政府の父と母、あるいは夫婦という言葉からして腹が立つというのに」
「今更です。どうぞ」
「ありがとうございます」
 大久保が英国大使付きに習った紅茶を、木戸は一番に好む。この紅茶を入れれば木戸はご機嫌たることを大久保は承知していた。
「木戸さん」
「はい」
「私の伴侶になりませんか」
「妻に子供に妾までおられる方がおっしゃる言葉ではありませんね」
「この政府では我々はまさに父母ではありませんかな」
「それはそれです」
「確かに家族はありますが、貴公を大切にします」
「遠慮しておきます」
「貴公を法律的に縛ることのない政治により結ばれた夫婦はいろいろとお得だと思いますが」
「たとえば」
「大切な伴侶のお望みとあれば、国家の大事でなければそれなりに薩摩を押さえます」
「………」
「木戸孝允を必ず大切にしますよ」
 木戸はあからさまにため息をついた。
「もう少し男というものを磨いて出直してきてください。それに私は男の伴侶になるつもりなどさらさらありません」
「薩摩ではこういわれています」
「はい?」
「男たるもの妻と男の恋人を持ってこそようやく一人前」
 その言葉をいい終わらぬ間に、少しばかり冷めた紅茶を木戸は大久保にぶっ掛けた。
 大久保はなれたもので、こういうことにはひょいと避ける。
 それが気に喰わぬか、それともたまりにたまった苛立ちを木戸はぶつけようと手を振り上げたが、悪いことにこれも大久保は避け、振り上げられた手を掴んだ。
「永遠に愛して差し上げます。私の木戸参議」
 大久保をすぐさま振り払い、部屋の隅にかけてある刀をその手に取った木戸だった。
「愛してくださらなくてけっこう。私に切り刻まれたくなければ、お引きください」
「激しい愛の告白ですね」
「貴殿……その腐った頭を元に戻りなさい」
「私は貴公を愛しておりますよ」
 ここまでくればただの勘違いではなく、もはや堂々とした愛のささやきである。
 木戸は鞘ごと大久保に向けたので、危険を察した大久保はその場から立ち上がる。
 だがここで大久保は一目散に逃げるべきだったのだ。
 刀を握り、それを愛しげに見つめた木戸は、にっこりと壮絶に笑った。
 逃げを打ち廟堂の廊下を駆け抜ける大久保を、ひたすらに木戸は追う。
「待ちなさい、大久保大蔵卿。潔く私に打ちのめされるといい」
「遠慮します」
 木戸と大久保の追いかけっこは廟堂でまで始まった。
 それを見つめる官吏たちはなんともいえぬ顔をし、肥前の大隈重信は、
「単なる痴話げんか」
 とにたりと笑うのだった。

 追いかけっこは長らく続き、ついに追い詰められた大久保は、
「伴侶となられた暁は、夜をすごすのは十のうち五日でよいですよ」
「嫌です」
 鞘ごと今すぐ大久保を叩きのめそうとしている木戸を前にしても、
 大久保は鉄面皮のまま、まったく表情を崩さない。
「では三日で」
「貴殿の伴侶になどつもりはありません」
「私の特技たる按摩を丁寧にご披露しますよ」
「えっ」
「お疲れでしょう、木戸参議も」
 そこでわずかに逡巡して後、木戸は鞘で大久保の頭をぱこーんと叩いた。
 心持ち昨日よりは手加減をしているため、大久保は倒れることはない。
「……貴殿に借りを作ることはしません」
「木戸さん」
「私を口説くなら最高の男になって参りなさい」
 そうして身を翻した木戸だったが、ふと何かに後ろ髪を引かれるかのように大久保のもとに戻り、
「忘れていました」
 にっこりと笑った。
 その場にはばちーんという乾いた音がわずかに響いた。



― 大久保利通と木戸公の思惑?③ ― (大久保さんシリーズ)

 扉前に立ち、さて扉を叩こうとしたときに聞こえてきた会話が、大久保に面白くないという感情をもたらせた。
 ……かわいい。
 それは大久保利通大蔵卿自身には、随分とかけ離れた言葉ではあるが、
 自らが伴侶と定めた木戸が、後輩たちにその言葉を連発するのは気に食わない。
 つい先日、木戸はかわいがっている山田顕義を人目をはばかることなく「市はかわいいね」と抱きとめていたのを見た。
 その前には、三浦悟楼にギュっと抱きつかれ、危うく口付けされるところを、偶然とおりかかった山県がため息を付きつつ押しとどめていたのを見た。
 その前は……思い出せば出すほどきりかない。木戸は後輩たちがかわいくて仕方がないのか、長州閥はこうして異国風に言えばスキンシップが激しすぎるのか。
「木戸さん」
 部屋に入った大久保を見て、わずかに瞳を落とした木戸だった。
「少しばかり、かわいいを連発しすぎますよ」
「はぁぁぁ?」
 木戸は目をきょとんとさせ、ようやく視線を大久保にと向けてくる。
「私は貞淑な伴侶を求めます。さして貴公が後輩たちをかわいがることには干渉しないつもりですが、行きすぎは私としても容認はできかねません」
 こめかみに手を当て、木戸は重い重い吐息を漏らす。
「私が誰をかわいがり、誰を行き過ぎるほどにかわいがろうとも大久保さんには関係ないのでは」
「それが誓い合った伴侶にいう言葉ですかな」
 木戸はその場にある異国の高価な辞書を思わず掴んでしまったが、どうにか必死に思いとどめて呼吸を整える。
「いつ、誓い合ったのですか、大久保さん」
「政府では事実そうではありませんか」
「私は認めてなどいない」
「往生際が悪いですね」
「貴殿にだけは言われたくはない台詞です」
 木戸は辞書を持つ手をふるふるとさせ、今にも辞書を投げつけたい気持ちを必死に耐えている。
「貴公には私以上に大切な存在はおられないはずですよ」
 そこで木戸はついに我慢の限界を超えたらしく、辞書を大久保に向けて投げつけた。
 慣れたもので大久保はひょいと首を横に向けそれを避け、「木戸さん」とやさしく呼ぶ。
「貴公のその愛の表現は少しばかり痛すぎますが」
「あ、愛だと」
「私にしかされないと聞きました」
「それは貴殿がものを投げつけたいほど憎らしく……」
「貴公は実に素直ではない方だ」
 あからさまにため息をつく大久保に、木戸の手はゆっくりと引き出しに閉まってある短刀に伸びる。
「そういう素直ではないところも可愛らしいが」
「大蔵卿」
 木戸は引き出しより短刀を突き出し、大久保に向けた。
「き、木戸さん。それは鞘を抜かないでくださいね。暴力はだめですよ」
 ようやく伊藤は一応は制止をかけることにしたようだが、木戸の目がすでに血走っているのを見て、一人そっと壁際に避難した。
 木戸が血走っているときに近寄ったならば、大変だ。
「相変わらず可愛らしい方だ」
 吐息を漏らし、自ら短刀のもとに進んだ大久保は、
「では愛しい木戸さん。こんな問いにお答えを。
 もし断崖絶壁に私と陸軍卿が今にも落ちそうになっていた場合どうなさいます」
「なんですか。そのわざとらしい話の転換は」
「どちらを助けますか」
 一度は聞きたかった問いが、大久保の頭をしめた。
 木戸は鞘を愛しげに撫ぜ、
「山県を助けますよ」
 きっぱりと言い切った。
「また素直ではありませんね」
「私は後輩の山県がかわいいですし、なおかつ付き合いの長さも親愛度からして貴殿より山県の方が格段と上です」
「私を失っては政治的に困りませんかね」
 鞘にかかる手がピタリと止まった。
「この大久保がいなければ、誰が薩摩閥を率いますか。長州の首魁殿」
 そこで伊藤の目から見ても木戸は考える顔となった。
 これは政治での話しとなるときの顔だ。
 木戸は「私的」と「公的」は完璧に線を引く男で、いざ政治上と求められれば政治の目で考える。
 そして、
「山県を助けます」
 今度は真摯な目で答えた。
「私が貴殿がいなくなろうとも、世の中にはかわりというものは必ず出てきます。政治的にそう考え、私情においても私はきっぱりと山県を助けると宣言します」
 きっぱりはっきりといわれ、さすがの大久保も二の句が告げられなくなった。
 木戸はにこにこと笑う。
 大久保が今、自らの敵リストの一番頂上に「山県有朋」と名を刻んだことなど知らずに、さらににこにこと笑う。
「そういうつれない貴公もまたそそりますね」
 あえて木戸の鞘にかかる手を上から握り締めた大久保は、
「いつか私を助けると即答で言わせて差し上げます」
「謹んで辞退いたしましょう」
 そうして二人は伊藤いわくの「にらみ合い」だが、大久保いわくの「見つめあい」をしばらく続け、自然と仕事に戻っていった。
 大久保にはこの「断崖絶壁」の問いは、なにやら思惑があったようで、
 返した木戸も木戸で、思惑がある。
「これで大久保さん、おかしな勘違いを是正してくれるといいのだけどね」
 伊藤は「それは無理」と思いながらも、声には出さなかった。
 単なる勘違いだったはずのこの問題が、いつしか本気になっていく過程を今は無視する。


「一蔵」
 その日、前触れもなく西郷吉之助が顔を出した。
 幼少のころより三歳年長のこの友を「親友」と思っている大久保は、訪問を歓迎したのだが、
「一蔵、おはん、木戸さぁにおかしかことをしていると聞いたが」
「吉之助さん。それは誤解ですよ。私はおかしなことなどしていません」
「毎日、木戸さぁを追いかけとうとか」
「それは私の思いをわかってほしいだけです」
「そいを木戸さぁは本当に嫌がっとうちゅう」
「照れているだけです」
「一蔵。長州からおいのもとに訴えがこれだけきとう」
 西郷は風呂敷いっぱいになったいる直訴状を大久保に見せ、わずかにため息をついた。
「木戸さぁは長州の宝だ。あまいいかがわしかちゅうこつはせんといた方がよか」
「なにを言います。私と木戸さんはまだ清い仲です。たとえ政府では夫婦といわれようとも、私は手も出しておりもはん」
「……一蔵」
「私はあの人を本気で伴侶と思っております」
 西郷は頭を思いっきり抱えた。
 昔から思い込むと真っ正直に一直線に突き進むことをたまにする男ではあった。
 だがそれはあくまでも「私情」のことで、「公的」なことでは彼の囲碁のとおり慎重すぎる男ではあった。
「年とってからの恋は、はしかよっかなお重い」
 西郷はそれだけを口にして、大久保の妻満寿が持ってきた茶を飲む。
「長州を敵とすうこたあよすごと」
「ご心配なく、洋行で私は木戸さんを正式に伴侶とします」
 勘違いもここまで進めば見事なものだ、と西郷は思い、
 勘違いながらも、ここまで「恋」に真剣に猪突猛進をしている大久保が、わずかに少年に返ったようで面白く思った。
 思えば少年のころから、大人びた子供だった。
 そして青年期のあの薩摩のお家騒動……お由羅騒動により父が遠島になって以来、大久保より気さくさが消えた。
「まがいものの恋でもよか」
 小さく呟かれた声は、大久保のもとには届かず。
 そして大久保はというと、
「正攻法ではあのつれない人は素直にはなりません。これからは裏よりせめることにしましょう」
 将を射ようとするならばまず馬から。
 敵リストの一人をとりあえずは、こちら側に引き込もう。
 狙うは木戸の補佐を自認する伊藤博文。


 あの「断崖絶壁」のたとえ話から大久保は姿を現すことがなくなり、木戸はあからさまにホッとしていたのだが、
 かわりに到来したのは、薩摩の人間たちだ。
「木戸さぁがあん断崖絶壁で山県を助けうなどといわれうからですよ」
 それ以来、目に見えて落ち込んだらしい大久保の不機嫌さに、薩摩の人間たちが苦情をここに持ち込む。
 木戸は「私は真実をのべたまで」と一刀両断とするが、毎日毎日苦情が持ち込まれてはため息ではすまない。
 また長州人が「大久保」の迷惑さを訴えにいくのは、彼の盟友の西郷と決まっていた。
 伊藤をはじめあらゆる人間が、おそらく薩摩でただ一人大久保を制御できる西郷のもとに駆け込む。
「いいかげんにあの大久保の目を覚まさせてください」
 薩摩、長州の長は苦情だらけの日常に思いっきり頭を抱えていた。


 大久保さん【敵】順位
 山県有朋 > 伊藤博文 > 山田顕義 > その他の長州閥
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  • 【まとめ】 2013年1月16日
  • 【備考】 4話収録