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― 山縣友子 ― (長州)

 異変は明治十八年ごろより見えていた。
 確たる変化を、おそらく私は知りながら、見たくはなかったのだろう。

「……友子」
 名を呼ぶと、いつものようにゆっくりと振り返る妻の顔に見えた「やつれ」
 内閣発足と同時に初代内務大臣に就任した山縣有朋は、
 ここしばらく妻の顔をじっくりと見ていなかったことにそのときに気づいた。
「どうなされましたか、だんなさま」
 昨年に生まれた子は一歳の年を送れず、死した。
 多くの子を授かりながら、今、この手元に残ったのは次女の松子のみ。
 五歳の松子は、母に甘えたがりでほとんど片時も側を離れようとはしないのだが、山縣が家に戻ると、にこりと笑ってちょこんと山縣の膝に乗る。
「このごろ、服を作らぬな」
「そうでしたか……。もう服を作る気力もないのです」
「松子の服は作らぬのか」
「………」
 裁縫が特技の友子は、自らの着物まで手ずから仕立てる。
 山縣が今着用している背広も数年前に友子が手ずから仕立てたものだ。
 松子が着ている洋服から帽子、小物の類まですべては手作りだった。
 かわいいものを好み、飼い猫の服まで作る時の友子は、いつも朗らかで楽しげで、
 決して口にはしないが、そんな友子を見ていることが山縣の憩いともいえた。
 その友子が数ヶ月前に子を亡くして以来、一切裁縫道具に触れようともしない。
「友子」
「大切に心をこめて産着を縫おうとも……みな、いなくなってしまわれるではありませんか」
 子供が大好きで、「子供がほしい」と散々に迫る友子に手を焼いた時期もあった。
 生まれてくる子供のために一本一本針を通して、産着をうれしげに繕う友子を見て、愛しさを感じたこともあった。
 次男三女を授かり、次女松子以外はすべて夭折した今、
 友子の心には大きな傷とともに、悲しみが住み着いてはなれないようだ。
「もうわが子はいらないのか」
「……だんなさま。友子ももう三十路を超えますよ」
「それがどうした?」
「子供を授かるには友子は……とうが立ちすぎています」
「さしたる問題ではなかろう」
 松子を膝に乗せたまま、山縣はそっと友子の頬に手を伸ばした。
「伊三郎を養子として迎えようとも、私は男子を諦めてはいない」
「だんなさま」
 そっと視線をそらした友子の頬がわずかに朱に染まっているのを山縣はきちんと捕らえている。
「友子が生む子がほしい。……また嬉しげに産着を繕うといい。前のように嬉々として服をつくれ」
 子供がほしいというよりも、山縣はそんな友子をもう一度みたいだけだった。
 明治初期、いつも「子供がほしい」と訴え、またかわいい洋服を活き活きとして繕っていた友子が、
 山縣は……愛しかった。


「……友子は……丈夫な子を生めずに申し訳なく……」
 誕生と同時に亡くした子もいた。一歳を迎えることもなく逝った子もいた。
 かわいい盛りの三歳で逝った長女の事切れた体を抱きとめて、友子は子供はなんと悲しいものか、と泣いた。
 こんな悲しい思いを抱くくらいならば、もう子など生むまい。
 得ても失う定めというなら、もう子供はいらない。残された松子を全身全霊をかけて守っていこう。
 そんな思いを山縣は察していたのだろう。
 だが、この色恋にさして興味のない夫は、外で子を為そうとはしなかった。
 跡取り息子を切望していただろうに、外の女に子を作ろうとはせず、
 仕事で官庁に寝泊りする日以外は、必ず友子のもとに戻ってきてくれた。
「三十路を過ぎた女でもよろしいのですか」
「馬鹿をいうでない。私は友子以外の女など求めはしない」
 こういう堅く融通がきかず、けれど一途な夫だから妻となった。
 他の同僚たちが外に何人も女を持ち、妾宅をつくり、生まれた子供を平然と認知している中で、
「女よりも庭を愛する」などと言われようとも気にすることなく、自宅に必ず戻ってくる夫を、
 友子は誰よりも愛しいと思っている。
「そうですね。生まれてくる子のために産気を……。松子やだんなさまに伊三郎……猫さんたちのために洋服をつくります」
 にこりと笑った友子は、しばらくの間「開かずの間」となっていた繕い物の部屋に久々に入った。
 色とりどりの生地を手にして、声をこらえて泣く。
 この手から生み出される洋服は愛しいもののために。
 この手で編み出される服は、愛しい人を飾るために。
「友子はだんなさまが……誰よりも好きでございます」


 この年、身ごもった子は女の子であったが、あえなく逝った。
 山縣の目にも虚ろに見えていた兆しが色濃くなり、友子の心に巣くう。
 かなしみが狂気に変わろうとする中、その腕に妻を抱きとめて山縣は言い聞かす。
「おまえ以外の女に子を為そうとは思うまい」
 狂気は確たる病となる中、
 山縣は心のどこかで思っていた。
 子が生まれ無事に育てば、昔の友子に戻る。
 せめて子をもう一人。その子を慈しんで無事に育てば、あの活き活きとした友子が見れるだろう。
 山縣にとって友子という妻は、決して口には出さないがどんな宝石よりも大切なたった一つの宝だった。
 明治二十六年に友子が先立つ日まで、その思いは一片も変わらず、胸にありつづける。



― 大久保利通の一途な勘違い続行中 ― (大久保さんシリーズ)

「木戸さん。革靴はお好きではありませんか」
 なぜか廟堂で大蔵卿の大久保利通に捕まり、そのままいささか引きずられるようにして大蔵省に連れ込まれた木戸だった。
「革靴……。好きかどうかはしれませんが……今、履いていますよ」
 茶色の趣味のよい異国製のその靴は、昨年米国に飛んだ伊藤が土産に購入してきてくれたものだった。
「……たまに逆に履いて歩くとか。それも無自覚に」
「放っておいてくださいませんか」
「今も逆ですよ」
 木戸はハッと靴を見つめ、いささかばつの悪い顔をして靴を脱ぐ。
「……私は靴は好みません」
「履いているではありませんか」
「それは貴殿が……。洋行に赴くおつもりならば、洋靴も背広も着こなさねば国際的に日本人は侮りを受けるなど仰ったからですよ。私は和服と草履、下駄がやはり好きです」
「ですが貴公はなにをおつけになろうともよくお似合いです」
 木戸はその言葉に思いっきりため息をついた。
「また私を口説かれるのですか」
「おや? にぶい貴公にも分かりましたか」
「にぶい……。そのお言葉はそのままご貴殿にお返しします。いまだに恋心を勘違いして、私を口説かれるなど笑止」
 わずかに冷笑を浮かばした木戸の手を取り、大久保は満足げにほんのわずか口元を緩めた。
「そういう貴公を私は思っておりますよ」
「はい?」
「貴公は本当に鈍いお方だ。ついでにナーバスで細かく実に情緒的でもある」
「ナーバス?」
「神経質でしょう、木戸参議」
「大久保さんは私の神経を逆なでするのが実にお上手ですね」
「どうして私の言葉にこうネコが毛を逆立てるかのような……反応ばかりをされるのですか」
「それは貴殿がどこまでも私の癇に障る話され方ばかりをされるからでしょう」
「……私は、どういたせば貴公に好かれるか、と日日模索し精進しているつもりなのですがね」
「この私に好かれる?」
「はい、ぜひともに」
 木戸はにっこりと笑う。
「それは天地がさかさまになろうともありえぬことだと思いませんか」
「それはあからさまに私のことは嫌いだとおっしゃりたいということですか」
「はい」
 今度は飛びっきりの笑顔を木戸は見せる。
 大久保は手をこめかみにあて、重い吐息を漏らした。
「いつも思うのですが、どうして貴公は私に嘘を申されるときだけ、そうきれいに笑うのでしょうかね」
「はい? 私は貴殿に嘘をつくときはもっと壮絶に微笑んでみせると思いますが」
「ならば照れ隠しということでしょうか」
「……どうしてそういう反応になるのですか」
 思いっきり木戸がきっちりと「拒絶」しようとも、大久保はその反応を好意的に受け取り「照れ隠し」となる。
 どうすれば、と木戸はほんの少しだが悩んでいたりもした。
 どうすればこの「嫌悪感」を大久保に認識させることができるのだろうか。
「木戸参議」
「はい」
「……髪が少し乱れていますよ」
 長くなった木戸のふわりとした柔らかい前髪を、大久保の手がそっと触れ整える。
「ありがとうございます」
「美しい髪ですね」
「そうでしょうか? 昔に比較すると随分と痛んだと思いますが」
「さらりとして癖のないきれいな髪です」
「………」
「貴公は実にきれいだ。心も体も……」
「大久保さん。そのような言葉、男にいわれて私が喜ぶと思いますが」
「そこらの芸子にいわれようとも何一つ喜びますまいに」
「そうですが……」
「男に言われると嫌ですか。たとえばあなたのお付の親衛隊隊長に等しい山田君。彼に木戸さんはきれいです、と言われてもうれしくありませんか」
 木戸はきょとんとなり、数回瞬きさせて後に、
「市にならば嬉しいですね」
「伊藤や井上といった長州の後輩はどうですか」
「……ありかどう、と笑うと思いますよ」
「ならば陸軍卿」
「……狂介? 狂介は人前でそのようなことはいいません」
「二人きりの時に言われたら……どのような反応を致しますか」
「……狂介にですか? そうですね……やはりありがとう、というと思います」
「後輩たちにはそろってそのような反応だというのに、私には……今のような対応というわけですか」
「大久保さんですから」
 木戸はあえて笑っておく。
「このような反応は私以外にはしないのですか」
 ここで木戸は一拍、考える振りをしておいた。
 毎日、素っ気無く煙に巻くような反応しか返さず、ついでに相手に棘を刺していく対応をすることからして、よほど「面白からず」の相性が悪い相手だろう。
 薩摩の人間しかり。あぁもしかすると昔から苛められた勝海舟にも同等かもしれない。
「おそらく……大久保さんにしか見せないと思いますが」
 そこで大久保は木戸の両腕を握り締め、
「やはり貴公のその態度は照れ隠しだと認識することができ、嬉しく思いますよ」
「はぁ?」
「嬉しい限りです。洋行でさらに我々の仲の進展を」
「……あの、大久保さん」
「貴公の素直な顔を私に見せてくださいますね」
「???」
「寝物語の中でもよろしいですが」
 瞬間、木戸は条件反射で振り上げようとした手は大久保がしっかりと握っている。
 これはもしかしたら自分の行動を止めるために先手を打たれたか。
 そう勘ぐった木戸は手が駄目ならば足である。
 勢いよく足を振り上げ、大久保の足を容赦なく蹴り上げた。
「き……貴公は」
 膝蹴りを受けた大久保はその場に沈み、木戸は見事なまでの優美な笑みを見せる。
「そんな意地っ張りな貴公は実に可愛らしい」
「お邪魔さまでした」
「木戸さん……私は貴公と異国に参れることを幸せと思っておるのですよ」
「私は最たる不幸と存じております。では」
 そのまま大久保を顧みることなく大蔵卿室を木戸は出た。
 そのまま一目散にこの大蔵省を後にしたい気分なのだが、一呼吸ついて、今いささか乱暴に閉めた扉にそっと寄りかかる。
 重い吐息がもれた。
「私は大久保さんに呪われているのではないでしょうか」
 この呪いはいつになったらとけてくれるのやら。



― 木戸さんに食事をさせよう? ― (長州)

 長州の首魁木戸孝允は、昔から極度に食が細い男だった。
 一日二食が主流だった明治までの月日において、たとえば朝食だ。
 山口の政治堂では藩士たちが徹夜で仕事を行うことも多く、当時の木戸もほとんど自宅に戻らず仕事に専念していた。
 当然朝には食事が出されるのだが、
 多くの藩士に囲まれた席で木戸は茶しか飲まず、
「私は朝は食べないのだよ」
 と、にこりと笑った。
 これが何日も続く。夜もほとんど食べ物を口にしておらず、ある藩士などは、
「桂さんがあそこまで華奢なのは食べ物を口にしないからではないか」などと言い出した。
 だが木戸は神道無念流練兵館の塾頭にまで立った剣士である。
 食が細く、見かけからして華奢な木戸が、超一流の剣士であることは……木戸の七不思議のひとつに数えられている。
 さて明治に入り、さらに木戸の食は細くなった。
 好んで飲む紅茶以外は、一日何も口にしないといった現状に伊藤博文がピキッとなる。
「木戸さん、お願いです。何か一口でいいですから、食べてください」
 毎日繰り返される「口癖」になってしまった言葉。
 返される言葉も一言一句変わりはない。
「俊輔。私は今、何も食べたくないのだよ」
 木戸はそういって甘さ控えめの紅茶を優雅に飲む。伊藤はガクリと肩を落とすのだが、すぐに立ち直る図太さが伊藤にはあった。
「食べないとあの大久保と評議で対決する力が沸きませんよ」
 その言葉に少しだけ木戸の眉が動いたが、紅茶をコトリとテーブルに置き、
「食べたらどことなく眠くなってさらに戦う力がわかないと思わないかい?」
 敵もさるものである。伊藤は拳を握り締めた。
「じゃあ今のうちに食べて一眠りしてから評議にいきましょうよ」
「俊輔。私は食べたくもないし、この山のような書類を目にして眠る気にはとてもならないと思うのだけど」
 天高く……天井に迫る勢いで重ねられる書類を見て、今度こそ伊藤はガクリと肩を落とした。
 本日も伊藤は見事なまでに敗北し、ため息をつきながら仕事にかかる。

 山田顕義はこの頃、木戸の体がさらに華奢になっていることを気にしていた。
「木戸さん、また食べなくなったの? 伊藤さんがわんわん泣いているよ」
 木戸の傍らにピッタリと寄り付いて、山田はジッと僅かにやつれた木戸の顔を見る。
「市。私はどうも夏が弱くてね。……ほとんど食欲がわかないのだよ。だから秋になるとやつれたように見えるだけで……」
「食べないと駄目だよ、木戸さん。紅茶ばかりでは栄養にならないよ」
「……そうだね」
「そうだ。僕が妻にいっていっぱいいっぱい美味しいものをつくってもらうよ」
 山田の頭を良い子良い子となぜながら、木戸はにこりと笑い、
「ごめんね、市。本当に食べたくはないのだよ」
 木戸はわずかに視線を落として語る内容に、山田はそれでも食い下がる。
「木戸さんにはずっとずっと元気でいてほしいし。食べないと……風邪とか引いたとき体力落ちていてひどくなるよ」
「そうだね」
「だからいっぱい食べよう。僕、木戸さんと一緒なら、美味しい店とか探しておくから」
「ありがとう、市」
 優しく微笑まれ、山田は頬に触れてくれる木戸の温かな手にすっかり気分が高揚してしまい、
 やはり木戸に食べ物を食べさせる目的が、頭より消えてしまっている。
 山田顕義見事に懐柔される。
 木戸にどうにか食事をさせるように、と全長州閥に司令を出した伊藤は「チッ」と舌を鳴らした。

 親友の伊藤に「聞多なんとかしてよ」と泣きつかれた井上は、しゃあなく廟堂に顔を出した。
 政府を離れても、一時は江藤新平に逮捕寸前にまで至ったという経過があろうとも、井上は我が物顔で廟堂に顔を出す。
 要職になくとも彼が長州閥の大物であることに、誰一人として疑いを持たないのであった。
「よっ桂さん。久々だな」
 書類に目を通していた木戸は、ゆっくりと顔をあげる。
「聞多。久々の定義はどこにあるのだい。二日前に君に引っ張られて……料亭に赴いたと思うのだけど」
「なにいってんだい。昔は毎日顔をあわせていたんだ。一日顔を合わさねば久々のような気にもなるというものさ」
「聞多らしいね」
 クスクスと笑った木戸に、井上は懐からきれいに包装された小さな包みを取り出す。
「桂さん。これな、山県に言われて横浜に特注したもんだけどよ」
「えっ?」
「この頃、アイツ出張ばかりで忙しいだろう? だから俺様がかわってもってきたんだ」
 井上は包みを無造作に破り、そこから取り出したものをそっと翳す。
 異国製の銀縁の洒落ためがねだった。
「聞多?」
「山県がこういうんだ。この頃、あんたは書物とか見るとき無意識に目に近づけたりしているってな。視力が間違いなく落ちたに違いない」
「そんなことはないと思うのだけど」
「普段は気付かないさ。日常生活に困るほどではないのだろう? だけどな。細かい書類などを見ていると疲れた目をしているってよ。 だからアイツ……これを用意させた。あわないようなら……違うレンズにかえてもらうからよ」
 そういった井上はにたりと笑い、有無を言わさず木戸の目にめがねをかけた。
「聞多」
「どうだいよく見えないか」
 突然のめがねの出現に驚いた木戸は、眼にレンズをあわせようと必死に瞬きを繰り返した後、
 わずかに涙目になりつつ、「あぁ」と小さな声をあげた。
「よく見えるよ、聞多。今の今まで私は見えていなかったのだね。気付かなかった」
「そんなに苦労するほど視力がないってわけじゃないのさ。弱視といった感じでもない。たんに昔と比べたら視力が落ちただけといったところだろう」
 木戸は書類を見つめ、よく見えることに感動したのか、嬉しげな顔をしている。
「気付いたのは山県だぞ」
「滅多に私が書類を見ている姿など……見ては居ないのにね」
「それだけアイツは注意深くあんたを見ているってことじゃないのか」
「……感謝はしている」
「そして俺様にもっていけといったのは出張ばかりが理由ではないぞ。……あまりこういうことを煩くいうと……アンタに煙たがられるとでも思ったんだろう」
「そんなことはないよ」
「あぁ。そうだろうよ。けどな、食事のことも、睡眠のことも、休みのことも。薬のことも……ついでに杖。アンタにいちばんに過保護なのは山県だ」
 井上は伊藤や山田などとは違いズバリと正論を言うことはない。遠まわしに牙城をまずは固める。
 奔放で思いつきで走る性格からは考えられないほど、友人に対する際は井上は冷静で隙を見せない。
「また食べなくなっているだろう? アンタ……みんなを心配させていることを分かっているか」
「………」
「みなはアンタのにこりに負けて結局はあんたを甘やかす。けどな……俺は違うぞ。いいか、誰もいえないから俺が言うんだ」
「聞多」
「いいか桂さん」
 そこで木戸はなにを思ってか表情を転換させ、ふわりと微笑んだ。
「今日は私に借金の支払いをしにきたのではないのかい? 今日までだと思っていたけど」
 瞬間、井上馨。その場で思わずあとずさる。
「聞多? どうしたのだい」
「いや、桂さん。実はそれの反対でな。少しばかり……アンタにサインを書いてもらって……」
「聞多!」
 立場が見事に逆転した。
「いやそのな。俺様も先収会社を益田と……いろいろな。資金繰りというものを。まぁ三井がついているけどよ。それでもな……」
「聞多の借用書はどの引き出しにあったかな」
「わっわぁぁぁぁぁ。桂さん……今日はこれで帰る。日が悪い。……俺様もいろいろと多忙でな。じゃあな」
 井上馨、見事に撃沈。
 どんなに牙城を固め、正論を吐こうとも、この男には一つ何にも勝てはしない「弱味」がある。
 木戸に対する多額の借金と、また頼みこんでサインを書かせそれを売り払ったという過去が燦燦と輝く。
 こうして井上は最期には見事に木戸に追い払われるのだった。

 出張から戻った山県有朋は、その足で廟堂の木戸のもとに顔を出した。
「おかえり、山県。めがね、ありがとう。とてもよく見えるよ」
「それはよろしかった。だが……仕事だけにしておかれるといい。日常では不便はないと思われる」
「そうしているよ」
 にこにこと笑う木戸を見ながら、今回の日常品の贈り物は役に立っていると山県は結論づけた。
 木戸の前に立ち、その顔を見る。
 眼鏡は木戸に似合うものを用意するよう井上に頼んだが、あの男のセンスというものを一切信用していなかったために山県は気になっていた。
 洒落た流行の眼鏡は、よく木戸にあっている。
 だが……と、山県は気分を一瞬にして変換した。風情がわずかに冷たくなる。
「貴兄、私の留守中は、また食事をさしてとっていないと思われるが」
「えっ……ちゃんと食べているよ。五日前には市とそばを食べにね……」
「一日二食とっておられるか」
「……食べている」
「紅茶だけだと思うが」
「……どうして狂介は、こう私に過保護なのだい」
「それが私の役割だからだ。……本日、退庁時刻にお迎えに参ります」
「………」
「さして食べられておられぬようなので軽いものでも。雑炊などでも食べられる店に案内しよう」
「……食べたくはない」
「今、食べたくはないと言われたか」
「私とて食事をしたくないときもあるのだよ」
 木戸としては精一杯の抗いを見せた。何を言おうとも最期は山県の「伝家の宝刀」に負けることは承知の上での抗いだろう。
「承知した」
 思わず木戸はパッと顔をあげる。
 その顎を掴み、山県は持参していた風呂敷を片手で手繰り寄せ、
「大阪土産で饅頭をいかほどか求めてきた。口移しでよろしいな」
「…………!」
「食べぬといわれるならば無理やり口移しで食べさせねばならない。どれほどやつれているか鏡を見て確認されているか」
 山県という男は、一度口にしたならばそれは確実に有言実行する。
 木戸は何度もそれを目の当たりにしているため、この言葉を決して冗談とは受け取らず……脅しと認識している。
「……食べるよ」
「この饅頭をですか」
「おまえと……今日一緒に雑炊を食べに行くよ」
 木戸孝允、ようやくこの地点にて白旗をあげるに至る。
 山県は顎より手を引き、風呂敷より饅頭を取り出し、
「では夜までは、まずは饅頭でも食べていただきたい」
「………」
「甘いものは疲れているときにはちょうどよいものだ」
 ジッと山県の暗闇の瞳に見据えられると、嫌でも木戸はコクリと頷かざるを得ないのだ。
 食べぬといえば「口移しで」と鸚鵡返しのように返してくる男には、対処ができない。
 ましてや山県は木戸に対しての弱味などほとんどない。
 山県が差し出す饅頭を渋々受け取ろうとして、おずおずと手を差し出すと、
 少しだけ口元に柔らかなものを刻んで、その饅頭を山県は半分に割った。
「これだけは食べられよ」
 一口で食べられる大きさに、木戸はホッとして微笑む。
「狂介は本当に飴と鞭の使い方が上手だよ」
「私がこれだけ過保護にあたるのは貴兄だけだと承知していただきたい」
「……知っているよ」
「過保護が嫌だと仰るならば、私が過保護にせずともよろしいように衣食住を正しく過ごされるように」
 一日を規則正しく、また健康的に過ごしているらしい山県には説得力がある言葉といえる。
 うな垂れた木戸は、それでも饅頭を一口口にいれて、
「……美味しい」
「疲れているときは甘いものが特に美味しく感じるものだ。それに……甘いものが苦手なものでも食べられるものだと聞いている」
 その言葉を実戦するように、甘いものが極度に苦手だというのに、山県はその残りの饅頭を口の中にいれた。
「……あまい」
 木戸はようやく微笑むことができる。
 紅茶を飲み、やはり甘さが残るらしい山県に茶を入れるために立ち上がると、今までより体が軽くなっているように錯覚をもたらした。
「狂介」
「はい」
「……出張ごくろうさまでした。おかえり」
 もう一度「おかえり」と呟いたとき、木戸は本日の山県との晩餐が少しだけ楽しみになりはじめている。
 見事に懐柔されていることは……気にはならない。



― 桂さんの苦手なもの? ― (幕末長州)

 長州の首魁たる桂小五郎にもいろいろと苦手なものがある。
 薬草のような極度に苦いものは苦手である。そのため薬は飲みたくはない、とよく逃げて、伊藤俊輔などが頭を抱える。
 子犬は大好きだが、大きな犬となると苦手のようだ。
 道端を「お犬さま」よろしく、大きな犬が通るとくるりと回って今来た道を引き返したり、万座の前で明らかに「犬恐怖」を印象付ける避け方をする。
 そしてこの桂が一番に苦手としているモノはというと、
「桂さんじゃきに」
 目の前で「桂さん」と手を振っている長身の男がいる。
 桂はここで一目散にくるりと回転してこの男から遠ざかろうと思ったが、ズンズンズンズン早足で近づいているこの男。
「奇遇やかな。桂さん」
 男の名は坂本竜馬。土佐藩の郷士の出で、桂とは剣術を通して親しくなった知人である。
 ……あえて友とは呼びたくない理由は多々ある。
「坂本君こそ……このような場所にどうしたのだい」
「おまえさんをさなぐ(探して)しよったがぜよ」
 それを奇遇と人は言うのだろうか。
 桂は今すぐさっさと坂本と会話を打ち切って、長州藩邸に帰りたくなった。
「私になにか用件でもありましたか」
「勝先生が、今日は浅草の祭りがあるきに一緒に参ろうって」
「嫌です」
 きっぱりと桂は言い切った。
 坂本だけでも現在頭が痛いのに、坂本と同様。もしかするとそれ以上に苦手な勝と祭り見物など……ろくなことがおきん。
「桂さん、その袋。なんちゃーじゃっちゅうのだい(なにを持っているのだい)」
 坂本が目敏く桂が手に持つ手提げ袋に目をつけた。
 土佐弁に幾ばくか頭を抱えながらも、桂はなんとなく検討をつけて判断をする。
「知人に饅頭をもらってね。そうだ、坂本君。食べるかい」
「食べる」
 と、今度は桂の了承もなく勝手に手を引き、気付いたら軽く座ることができる椅子がしつらえられている場所に手を引かれていた。
 いつものことだ。どうも桂の周りには強引な男が多い。
 袋より木箱を取り出し、そこから出てきたのは饅頭と聞いていたのだがおはぎであった。
「うまそうじゃき」
「どうぞ」
 手づかみでむしゃむしゃ食べ始める坂本を咎めはしない。皿も箸もないのだ。しかも丁寧におはぎ一個ずつには下に笹の葉がついている。
「うまいきに」
「それは良かった」
「桂さんも食べたらえいがじゃ」
「私は……」
 あまり食が進む方ではない桂は、好んで食べ物を口にしたいとはさして思わない。
 むしろ一日食事をするのも忘れ、よく周布や来原にコツコツと説教をされたものだ。
「うまかよ」
 邪気のないにっこりについ気持がグラリと揺れ、
 桂はおはぎに手を差し出そうとした。
「桂さん」
 その手を坂本が掴む。
「坂本君? どうかしたかい」
「きれえな手じゃ」
 坂本は桂の手をジッと見つめ、それからなにを思ったのかおはぎを箱に戻し、
「勝先生がいっちょったがよ」
「はい?」
「異国じゃー親愛の情をこうしめすという」
 そして木戸の手に、口の周りにおはぎの餡子がつけたままチュッと口付けたのだ。
「うわぁぁぁ」
 驚きのあまり飛びのいた桂の悲鳴は、通行人の足をも止めた。
 何事かという何十もの視線にも気付かず、呼吸を必死に整えながら桂は言葉を紡ぐ。
「さ、坂本君。そういうことは……」
「知っちゅうよ。こういうことは晋作君以外はせられんがだ。じゃきに、めっそう桂さんが可愛いからついつい」
「ついついなんですか」
「親愛を示したくなった」
 桂はこめかみに手をやった。
「誰が男に親愛の情を示されて嬉しいと思いますか」
「自分、嬉しいきに」
「坂本君と私は違います」
「桂さん、この自分がきらいきに」
「そういう問題でもありません」
「つれんね、桂さん」
「けっこうです」
 しょぼんとなった坂本が、まるで子犬が耳を垂れている様子に似ていて、ついつい桂は言いすぎたかという気分となり、
「坂本君。このおはぎをお食べね」
 と、木箱に置いてある食べかけのおはぎを差し出すと、すぐに機嫌を直したのかにっこりと笑った。
「このおはぎ美味しいきに。桂さんも食べな」
「食べるよ」
 桂には苦手なものはそれなりにある。
 その中でもこの坂本竜馬は飛びっきり苦手だ。ましてやこの坂本に勝海舟がついてきたらさらに胃が痛くなるほどに苦手となる。
 されど、桂自身もよぉく知っている。
 この坂本も勝も、とても好きだということを。そして二人とも桂の「好き」にきちんと熨斗をつけて好意を返してきてくれていることを。
 食べ物を美味しげににこにこと食べる人間を見ているのはとても好きな桂にとって、
 坂本は食べるときは無心で無邪気で、
 見ていると楽しく、ほだされる。
「坂本君。お祭りに同行するよ」
 ほだされ、また痛い目にあうのを十分に承知で、桂は二人と付き合う。
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  • 【まとめ】 2013年1月16日
  • 【備考】 4話収録