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― ちびちびになってしまった市 ― (長州)

 それは悪夢のはじまりといえた。
「ガタ、ヤマガタ。山県有朋!」
 唐突にどこからか名を呼ばれた。己に「ガタ」と呼びかける男など、この狭い日本と言えでも一人しか思い至らない。
 だが周囲を見回そうとも、あの軍服が七五三にしか見えぬ男はどこにも見当たらず。
(幻聴か)
 と思って歩を進めたが。
「無視するなよ、ガタ。ここにいる」
 なにやら足下におかしな感触があり、何事か、と視線を下に下げれば、
 己の左足に引っ付いている人形の如し存在が目に入った。
「ガタ!」
 その人形の如し存在と目があい、瞬間山県は足を振り上げ、何かを蹴るような動きを知る。
「やめろ~ガタ。振り落とされる」
「振り落とされたくなければ、どこぞに消えろ」
「馬鹿いうな。こんなに小さくなった僕だよ。どこぞの大きな奴らに踏み潰されるだけじゃないか。
 おまえこの陸軍省の頂点の陸軍卿だろう。哀れな部下一人、ちゃあんと保護しろ」
「断る」
「ガタ!」
「なぜ私が……厄介極まりないおまえを保護しなくてはならないのだ」
「古い付き合いだろう」
「義父の井上さんのところか、木戸さんのところに行け」
「じゃあ連れて行ってよ。僕が歩けば、そこらの背丈だけは大きな巨漢の奴らに踏み潰されるだけじゃないか」
 山県はその場に屈み、いかにも厄介極まりない存在を指につまんだ。
「なぜおまえがこんな姿になったのだ」
「知らないよ」
「木戸さんならばまだしも……なぜ、おまえが」
「知るか」
 つまんだ四寸ほどの……誰が見ても人形にしか見えぬ存在は、
 ギャーギャ騒いでいるこのわずかに目が釣りあがった男は、
 長州の同僚の陸軍少将山田顕義に他ならなかった。


 仕方なくつまみあげた存在を、いささか迷った挙句山県は自らの胸ポケットの中にいれた。
 顔だけ出した山田はぶつくさ言いながらも、そこがそれなりに気に入ったらしい。
「ふーーん。別に悪くない。踏み潰されることもないしさ」
「これから……木戸さんにでも」
「木戸さん、今日いないよ。またあの大久保が怒らせたらしくおこもりさ」
「……井上さんの家まで連れて行かなければならないのか」
「それでもいいけど。あの井上の義父が家にいるとは思えないけど」
「伊藤か」
「僕、伊藤さんのところはいやだ。どうせ女のところばかりで、僕のことは放っておくだろうし」
「鳥尾か三浦に押し付けてくれる」
「……二人とも出張だからさぁ」
「児玉は」
「大阪」
「………奥方に渡そう」
「……嫌だ。こんな姿を滝に見せたくない。それだけはぜっっっっったいに、いやだ」
「山田」
「なにヤマガタ」
「誰もいないゆえに私のところに来たか」
「当然」
 ニタリと笑ったこの後輩を、今すぐ窓から放り投げたい気分となったが、
 例え四寸に縮んでいようとも山田は山田だ。預けている仕事も山のようにあるため、それは辛うじて押し留めた。
「それに木戸さんがちびちびになった時にさ、いろいろと用具をおまえのところにそろえたよね。
 ちょうどいい。これから……僕はちょいと厄介になるからさ。あっ……飲み物は牛乳。温かくしてよ」
「私のところに居座るつもりか」
「誰もいないしさ」
「迷惑至極なのだが」
「別にいいじゃないか。おまえのところは客が少ないし、おかしな四寸くらいの生き物が住み着いてもだぁれも気にしないさ」
 陸軍卿室に戻り、来客用に用意してある菓子籠より和菓子を取り、そこに拭いを敷いて即席のベッドを作る。
「そこで寝ていろ」
「ヤマガタってさ」
 ふわぁぁと欠伸をした山田は、その即席ベッドでごろりと横になり、
「こういう時はそれなりに優しいよね」
 と、ニタリと笑って、すやすやと寝てしまった。

 厄介な生き物を一匹、捕獲してしまった。
 ドッと疲れた山県だが、こういう異常現象には嫌というほどなれている。
(またあの……医者殿か)
 女ならば傾国の美女になりし、あの絶世の麗人の姿を思い出し、
 今度こそ重いため息を吐いた。



― 過保護な山県 ― (長州)

 陸軍卿室にていつも通り書類に目を通している山県有朋だが、
 ふと顔をあげ、一つ吐息を落とし、また書類を見ようとして、ハッとした顔で背広の内ポケットより懐中時計を取り出した。
「陸軍卿」
 副官のひょろりとした男が、山県の前に立った。
「こちらの書類にございますが」
「乃木」
 長州支藩出身の乃木希典は、その場で姿勢をただし敬礼を取って後に、はい、と答えた。
「書類の内容が頭に入らぬ状況だ」
 カタリと筆を置き、山県はその場から立ち上がった。
「まだ三時か」
 五分置きほどに時計を見、重いため息を漏らしたかと思うと、途端に冷めた目をするこの上司は、
 今、どのようなことを脳裏で思い謀っているのか。
 あるものは「どこぞで戦争か」と気をもみ、ある者は「謀略では」と肝を冷やしている。
 端正な顔をし、どこからどう見ても軍人とは見えず、一介の風流人や学者といった職業が似合いそうな若き将校乃木は、
 とりあえずは茶を入れ、山県のもとに出した。
「……今ごろ……」
 山県は小さく呟き、また懐中時計を見る。
「陸軍卿」
 乃木の声が耳から耳へと通り抜けていく中、
 誰もが戦々恐々として見守る中で、この山県の考えていることはといえば、
(今ごろ……箱根に療養に赴いている木戸さんは何をしておられるか)
 で、ある。
 あの箱根にはネコが多い。ネコにかまけるあまり、あの渓谷から転げ落ちることはないか。
 雨が降っている時でも傘をささずに歩く人ゆえ、風邪などひいていないか。
 あの食が細い人は、己が口うるさく言わねば数日間何も食さずに過ごす。紅茶だけすするのが関の山だ。
「……箱根か」
 馬車を飛ばせば今日中につくやもしれぬ。
「その書類、山田清国特命全権公使にでも回しておけ。仕事もなく腐っておろうゆえ」
 こういう時こそ役に立て、と山県は心の中で呟いた。
「山県いるか」
 だがその心の呟きは、見事に別の意味で通じてしまったようである。
 荒々しくドアをバンと開け、顔を出したのは当の山田顕義であった。
「清国なんかいかないからな。絶対に赴任しないぞ。僕を追い出すどういう謀略だぁぁぁ」
「よいところにきた山田」
 台風の目としか思えぬ山田に、山県は机の上に置いてある書類を抱えて手渡した。
「陸軍卿代行を命じる。暇であろう。仕事でもしていろ。私は……これから行くところがある」
 副官たちが目を点にしている中、山田はくわぁぁぁぁと叫んで書類を天に放り投げた。
「なにが代行だ。この……過保護! 木戸さんが心配だから箱根に見に行くつもりだろうが。おまえは木戸さんの母親か」
 思わず山県は目を見開いた。
 見事だ、と心の中で拍手を打ちたいという気分だ。
 わずかな情報だけで、山県の心を全て言い当てた。さすがは「小ナポレオン」 その眼力と力量をこんなことで思い知った山県である。
「山田、おまえは心配ではないのか。あの人は一人で箱根に行ったのだ。今ごろネコと戯れ、その毛が身に入り咳き込んでいないか。
 そればかりではない。雨に打たれ風邪でもひいたならば一大事。考えてみたならば食事も満足に取らぬ人だ。……私がついていなければ」
「あのさ、山県。寡黙なおまえがそれほど喋るほどに木戸さんのことが心配でならないのは分かるけどさ」
 少しばかり悪いと思ってか山田は自分が放った書類を拾い始めた。
「木戸さん、子どもじゃないよ」
「子どもより始末に負えん。その書類、頼む」
「陸軍卿代行などだぁれがやるか。それに……横見ろよ。怖い顔……している」
 ふふふふ……と不気味に冷めた笑みをもらした乃木が、その場の書類を全て拾い集め、
「陸軍卿」
 ドサッと山県の腕の中にその書類を置いた。
「今日中の決裁をお願いいたします。あくまでも陸軍卿の御名で」
「…………」
「その書類が仕上がるまで、この部屋を出しは致しません」
 なんだか恐ろしい剣幕だ、と心の中で「ざまぁみろ」と思いつつも、いそいそと部屋を出ようとした山田の襟首をも、乃木は掴んだ。
「陸軍卿代行にはこちらの書類をお願いします」
「僕は……陸軍卿代行なんかじゃないぞ。陸軍卿がいるんだからいいじゃないか」
「こちらの書類をお仕上げ下さるまでは、ここからおだししません」
「僕は一応……特命全権公使で」
「聞こえません」
「だぁから僕は……」
「山田、黙って仕事しろ」
「おまえ……箱根に行かなくていいのかよ」
 山田は用意された椅子に座らされ、その手に羽ペンを握らされ、また「ふがあぁぁぁ」と叫んでいる。
「早く仕事をしろ。私は終わらせて箱根に行く」
「おまえぇぇ」
「お前が休んでいる間に、木戸さんが風邪を引いているかも知れぬ。さっさと仕事をしろ」
「なにをいう。これだって……これもアレも全て陸軍卿のおまえの」
「特命全権公使など暇であろうが」
「ふがあぁぁぁぁ!」
「早くしろ」
「この木戸さん過保護病」
「それの何が悪い」
「開き直るかあぁぁ」
「小ナポレオンと称されるおまえだ。これだけの仕事など軽いだろう。早く終わらせ、私を箱根に行かせろ」
「なんだその言いようは。ガタ!」
「なんとでも言え。手を動かせ、早くしろ」
「このガタあぁぁぁぁぁぁ」
 乃木が書類を一枚一枚を机に差し出し、それを山田と山県は無言で仕上げていく。
 山県は一刻も早く箱根に向かうために……そのためだけに働いていた。



― 終わりまでの日日 = 木戸孝允命日追悼 = ― (長州)

 明治十年皐月上旬。京都近衛別邸にて、木戸は病床の身にある。
 毎日のように知人友人らが見舞に駆けつけるが、それを妻松子に丁重に門前払いをさせ、
 木戸は体調が少しばかり良い時は、こうして縁に座り、庭を見つめていた。
 桜の大木は今は葉桜香る美しい時期。
 風が吹くたびにゆさゆさと動く葉の音を聞き、木戸の目は大木の幹に絶えず注がれている。
「晋作……」
 小さく囁く。
 松子ですらこの木戸の囁きに目をそむけるが、
 今、木戸の目には大木の下に佇む幼馴染の姿がしっかりと刻まれているのだ。
 これは幻想か。真昼の白昼夢だろうか。
 木戸の目しかとらえぬ、もしやすると木戸の心の願いそのものが描かれているのかもしれない。
「桂さん」
 わずかにうすぼけてはいるが、しっかりとした声で幼馴染は自分を呼ぶ。
 思えば最初から最後まで「桂さん」としか呼ばれなかった。
 あの長州征伐のおり姓を木戸に改めた時も、幼馴染は変わらずに「桂さん」と屈託なく呼んだものだ。
『自分にとって桂さんは桂さんじゃ』
 桂しか知らずに幼馴染は逝った。
 本当の意味で「桂小五郎」しか知らずに、高杉晋作は逝ってしまった。
 それは考えようによっては一番に幸福なことかもしれない。
「晋作……毎日、俊輔が門前で泣くのだよ。私に一目会いたいって……」
「しゃあないじゃないか。桂さんがもう今生ではあわん。病んで狂うかも知れぬ姿をあいつには見せたくないと思ったんじゃからな」
 伊藤に決別を決めた理由は、それだけのことだった。
 この後「政治家」として生きていく伊藤に、この自分の病みきった姿は見せたくはない。
 今際の際に何を言うかしれない。もしかするとそれが伊藤を傷つけたならば、死んでも死にきれないではないか。
「決めたのだけど……辛いね。あの声は辛い」
「そう悲しまないで欲しい。……あいつもちゃあんとそのうちわかってくれるじゃろう」
「……晋作」
 手を差し出すと、いつものように幼馴染は首を横に振った。
「まだじゃ、桂さん」
「……晋作」
「あんたの残された命までは自分は奪えんから。……最後の最後までこうしているけど、まだつれてはいけん」
 さびしくないように傍にいる。
 苦しくても、この自分の姿を見れば、少しは楽じゃろう、なぁ桂さん。
「おまえは……変わらずに自信家でうぬぼれで……でもね」
 確かに幼馴染の姿を見ていられるそれだけで、この心は随分と救われる。
「ずっとおまえの傍に行くのが、私の願いだった。私は……おまえを……」
「ずっと傍にいたんじゃ」
「知っているよ」
「自分は桂さんをすいちょるから、誰よりも誰よりもすいちょるから。ずっと……そばにいる」
「……うん」
「これからもずっとじゃ」
 大木の幹に寄りかかり、腕を組んで、木戸の部屋を見つめる幼馴染。
 話かければ変わらずの声で答えてくれる。
 その響きに癒され、安心し、この後の終わりも幼馴染の姿が傍にあるならば、と安心すら抱ける。
「晋作……」
 それは私の心が描きだすひとつの幻かもしれない。
 それとも私の願いを天が敵えてくれ、幼馴染をつかわしてくれたのだろうか。
 人は生まれ落ちた時より一人であり、死するときも一人でしかないが。
 今、木戸は孤独とも悟りとも無縁の境地にある。
 心穏やかに、心静かに。
 この手を差しのばしたその時に、幼馴染が触れてくれる日を待っている。
『好きじゃよ、桂さん』
 私もおまえが誰よりも好きなのだよ、晋作。



― 鬼が島の小鬼? ― (長州)

「いつになれば、首魁殿が出てまいるのだ」
 薩摩の長にて政府の参議が一人大久保利通は、長州の伊藤・井上といったお神酒徳利コンビに、低く言った。
「……はははは」
 伊藤は乾いた笑い声を立て、
「さてな」
 井上などはパイプを咥え、丸い煙の行き先を辿っている。
「さてな、ではない」
「そう怒るなよ、大久保さん。あの人は桂小五郎なんだ。雲のように風のように捕まらずにたゆたい……」
「私は比喩を聞いているのではない」
 長州の首魁にして参議木戸孝允のたまりにたまった仕事の量を横目で見て、大久保は重い吐息をついた。
「私が木戸さんを呼べば、なにゆえに君たちが現れる」
 この一月、使い番に「木戸参議を呼びたまえ」といえば、現れるのは長州の人間。
 求める相手の姿すらみれず、仕事はたまっていくばかり。
 さすがに大久保も徐々にイライラと憤懣がたまっていった。
「木戸さんはな……俺たちの……言うならば大事な大事な人間なんだな」
「そうそう。もう僕たちは木戸さんに傷ついて欲しくないというか」
「それは言外に、この私が木戸さんを傷つけると言っているのかね」
 はははは……と今度はばつの悪い顔をした伊藤が、ちらりちらりと相棒の井上を見る。
「はっきりと言外の意図を掴んでくれてありがとさん」
 だがその井上が、まさに火に油を注ぐ言葉を放った。
(……も……聞多……)
「そこまできっぱりといってくれれば小気味よいくらいだ」
「さすがは大久保さん。心に広さが違うね」
(こいつら……)
 伊藤はこの日悟った。
 井上はこの大久保が十割の確率で嫌いだ。
 同様にこの大久保もほぼ十割の確率で井上がキライなようだ。
「君たちと話をしている暇はない。小鬼ではなく、首魁を出してもらおう」
「小鬼?」
「君たちを現す表現に一番適していると思うが……」
 そこで井上が手をぱちぱちと叩いた。
「なんだその表現は。小鬼だと。それは俺らを馬鹿にしているのか」
 机を両手でバンと叩きつけ、井上は立ち上がった。
 思わず伊藤がおよよよ? となるほどの凄まじい勢いだ。
「何か訂正があるかね、井上君」
「その最悪な表現はやめてくれよな」
「失敬。一人一人を小鬼など面倒な表現ではなく、長州閥をまとめ鬼が島とでもいえば良いのかね」
 平然と言ってのけた大久保は、茶を飲む。
「鬼が島?」
「僕たちは鬼が島の小鬼? なんだか笑えないなぁ」
「俊輔。おまえは赤鬼で俺が青鬼。山県などは黒鬼だろうな」
「聞多、それ笑えない。あの男が黒の鬼衣装つけている姿なんか、まさに興ざめって奴じゃない」
「でもよ、市などは小鬼って表現まさに的を射ているよな」
「そんなこというと足蹴がくるよ」
「義父は敬えって言ってやるさ。いやいや……鬼が島はなかなかにいいな」
 お神酒徳利の会話を頭を抱えて聞いていた大久保が、湯の身茶碗をいささか乱暴に飯台に置いた。
「君たちの首魁を出していただこう」
「鬼が島の棟梁をか」
 井上はにたりと笑った。
「そういう時は鬼が島のボスとかいう方が格好よくない?」
「異国かぶれが」
「いいじゃない。異国にも良いことはいっぱいあるじゃないか」
「あぁ? 確かにそうだがな。アイス、冷たくて美味しかったな」
「でしょでしょ?」
 この二人に付き合っていたならば、日が暮れると判じた大久保はスッと立ち上がり、木戸を自ら探しに出ることにした。
「あっ大久保さん。鬼が島の首領さんは廟堂にはいないと思いますよ」
「鬼が島にでも帰ったんじゃないか」
「でも聞多。鬼が島ってどこにあるの」
「邪馬台国なみに分からんな」
「見つけたら……新聞にネタを売ってかせげるかも」
「良い考えだ、俊輔。邪馬台国も鬼が島も俺様が探してやるよ」
「聞多、一攫千金」
「おうよ」
 大久保は軽く手を握り締め、
(鬼退治をしてくれようかね)
 とせつせつと思ったものである。
 この後、大久保は鬼が島という表現を訂正し、長州閥を「廟堂の動物園」と言い直した。
 そして彼らには「言葉は通じぬ」ということを身を持って知った大久保は、
 自ら彼らの首魁を捕まえるのが一番の早道とよくよく実感し、行動に移す。



― 事実は小説より奇なり? ― (長州)

「山県。陸軍関係の機密費の行方が分からないと言われている。また貴方がやったのか」
 三浦梧楼のその一言に、陸軍の法王と呼ばれる山県有朋はピクリと眉をあげた。
「貴方には昔から金の疑惑が多すぎる。汚職大臣とまで言われる井上さんだが、あの人は金に嫌らしさはない。だが貴方は」
「三浦」
 山県は椅子より立ち上がり、その暗闇の瞳を長州の後輩であり共に奇兵隊として戦ったものに向けた。
「……奇兵隊時代のことを言いたいのか」
「軍監として全て統括していた貴方だ。政治堂の財務関係者がいつも頭をひねっていたのを俺は覚えている」
「ほぉ」
「消えた機密費は全てあなたの懐の中に入っているのではないか。奇兵隊時代の金も裏金とし、いったいどこに流した」
 山県は杖代わりにしていたサーベルを床にトンと打ちつけた。
「よくもぬかす」
 さして気分を害している声ではなかった。
「三浦。あの頃をよく思い返せ」
「………」
「あぁ……おまえには無理か」
 一昨日の夕飯を何を食べたか、という問いに一日中悩む三浦だ。昨日のこともあやふやである。
 人はこの三浦に「回顧録」だけは記さぬように口を酸っぱくして言い続けている。
「馬鹿にしないで欲しい。俺は昔のことをよく覚えている」
「ほぉ」
 山県はサーベルをまた床に打ちつける。
「では毎夜のように高杉総督をはじめ隊員は馴染みの料亭に赴いていたことを覚えているな」
「む……無論」
「飲めや歌えはの大宴会。酔っては血気盛んなものばかり。料亭の装飾品や小道具を勢いのままに壊していたのは覚えているな」
 三浦は、みるみると顔色を青くしていった。
「よく覚えているようだな。しかも高杉さんという人は総督を辞任してからも、下のものたちまで連れどれだけ騒いだか」
「や……山県」
「よぉく覚えていよう。あの人が一日一軒の料亭を半壊させるほどに騒いでいたことを。ならば三浦。この料亭での費用、どこから出ていたと思う?」
 この時点で三浦は山県の言い分をよぉく理解していた。
「政治堂の人間が出してくれると思うか。桂さんに頼み込んだが、困りきった顔をされるばかりだった。ならば……奇兵隊の軍費からどうにか出すしかない。だが料亭での費用などは大まかに記せるはずがなかう。……私が流用した疑惑があるのは知っている。 あの時代、軍事費を料亭の費用にまわしているなどと公言すれば奇兵隊全員の首が飛んでいただろう」
「……山県」
「たんと覚えがあろう」
 三浦はコクリと頷く。
 あの時代、まだまだ少年の域を出ていなかった自分は、どれだけ上の人間たちにつれられ座敷にあがったか知れない。
「奇兵隊のおりの金を使って洋行したといわれているのを知っているか」
「知っている。あれは恩賜の金だが……流用したという金があればいま少し豪奢な洋行だっただろうな」
「考えたら、おまえが流用するなら今のように庭に使うよな」
「今……だと」
「陸軍の法王。今の陸軍の機密費は表に出ないが、散々に流用されていると聞いている。貴方はそれを承知のはずだ」
「知っている」
 軽く山県は答えた。
「庭に使っているのか」
「馬鹿を言うな。私はどれだけ役職を兼ねていると思う? 毎日黙って座っているだけで財界の献金もあわせればどれだけ金が入ってくるか知れない。 あの伊藤のように女にすべて落とすというヘマをせねば手元に残る金を……数えたこともないぞ」
 言われればその通りだ。
 山県の道楽は庭と時折能を舞うくらいなもので、それ以外で金のかかるものは皆無に等しい。
 一介の武弁という言葉を好む男は、驚くほど慎ましい質素な生活を旨としている。
「流用していないというのか」
「その前に流用する金などない」
「……陸軍の機密費だ。どれだけの金額か」
「それも毎年、お騒がせな人間たちがすり減らし、年末には皆無となる」
「はい?」
「おまえはさして陸軍の内部に潜り込んだことがないゆえに知らぬのだ。機密費とは名ばかり。これはお騒がせ費用だ」
「なっ……」
 そこで山県は渋々だが機密費の内訳を語った。
「なんだって。借金している軍人の利子の立替? 陸軍省の体面を汚されぬためにだと。夜食? 宴会? 特に忘年会は金がかかる? なによりも妻の来てがない軍人の見合い費用から……そんなのに機密費が」
「意外とかかるのだ。特に児玉は……借金の利子だけでも小さな庭も立つ」
「山県……」
「機密費について調査したいならばすればよい。調べれば調べるほど頭が痛くなる」
 だがよぉく考えると、陸軍で夜遅くまで働くと必ず夜食が出た。アレはどこから金が出されたのか。
 また軍人という従順を求められる仕事をしていると、忘年会くらいはウサ晴らしということで……盛大に騒いだ記憶が蘇る。
「軍人など戦がなければ費用が抑えられる。残業費など出るはずがない。また仕事柄女性と出会う機会もなく独身年齢はあがるばかりだ。 そういうところに費用を使ってやらねば、いつかは爆発する」
「……今、俺はあなたがかなり苦労していると思い始めているところだ」
「苦労しているに決まっていよう。何が陸軍の法王だ。機密費のことで散々に疑惑がもたれているが、いっそ三浦。変わるつもりがあるならば変わってやろう」
「その椅子の権力をあなたが捨てられるとは思わない」
「私は庭を見て暮らす。喧騒からも逃げられ、あの児玉のイタズラともさらばできる。ましてや……」
 そこへ「カッカ~」という甘ったれた声が聞こえてくる。
「いつでも変わるぞ、三浦」
「嫌ですね。ごめんです。桂太郎は俺ではなく貴方だからあんな甘ったれた声を出すんですよ」
 端麗な顔に苦笑をのせて、三浦は此処に入ってきたときの意気込みなど皆無になり、ましてや山県に同情まで抱くようになった。
「回顧録に書いておこうか。貴方の苦労話を」
「よせ。惚けている三浦が書けばますます信憑性がなくなる。私の疑惑にしておく方が闇から闇だ」
「見合い費用などと書くのは確かに哀しい。山県一人悪人になっている方がずっとらしいですし」
 回顧録では散々に「陸軍の法王」を罵倒することにしよう、と三浦は決心した。
 それも意気揚々と書いてやれば、まさに疑惑は「真実」となり、真実がどこぞに消えていくだろう。
 機密費は法王山県の流用となれば、人は納得する。
 お見合い費用となれば……人は唖然とし、まさに「聞かなかった方が良かった」になるに違いない。
「ついでに山田の牛乳やチーズ代もここから出している。伊藤に出す菓子代や……」
「もういいです、山県。なんだか疲れてきましたから」
 そんなこと、きっと後生の人間は決して知りたくはあるまい。
 事実は小説より奇なり、とはよく言ったものだ。
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  • 【まとめ】 2013年1月16日
  • 【備考】 5話収録