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― 古稀庵にて ― (山県閥)

「死に支度をしているのか……」
 兄の好古にそう囁かれたとき、ただ笑む以外に、返す言葉とてなかった。
 生まれおちて、秋山家の「淳五郎」として生きる場所を与えてくれたその兄に対し、真之はいつも目に見えても、心の中でも頭を下げ続ける。
 ゆえに今日も兄と二人、縁側で茶を飲みつつも、横目で兄の顔を見て、小さく頭を下げたのも長年の癖でしかなかったのかもしれない。
 だが、兄は違ったものに受け止めたようだ。
 常に泰然として微動だにしない兄の手が、わずかに震えていたのを申し訳なく真之は思う。
 本当ならば、自分が兄の死に水を取らねばならぬというのに、先に逝く愚弟を許しい欲しい、と心から頭を下げて、その日は別れた。
 目を覚ますたびに、思い浮かべるはあの日の兄の顔ばかりだ。
 すでに陸軍大将となり、年相応に渋く貫禄さえ見受けられる兄の横顔に、うっすらと父の面影すら見るようになった今日。
 訳もなく、自分の命はもう長くない、と悟る。
 病んで思うがままにならぬ体と付き合うのも億劫なものだ、と笑いつつ、ここ数日は体の加減も思いのほか良かったため、日課となりつつある散歩に出ることにした。
 小田原にある友人の山下家別邸「対潮閣」で世話になっている身であるが、
 この近辺は各界の重鎮の別邸が実に多く、その庭などは随分と目の保養となるものだった。
 先日兄に「読書三昧の日々も良い」といった手紙を送った。あの兄ならば「淳らしい」とひとつため息を落とす姿が目に浮かぶようである。
 対潮閣より西に一時ほど歩いたところに山縣有朋の邸宅である「古稀庵」が佇む。
 国家第一の権威者であり、元老中の元老と言わしめる山縣が終の棲家として建築したという割には、庭は質実。
 質素な美を讃えるところに、七十を過ぎようとも矍鑠としている老人の風情を思う。
 真之がこの小田原に逗留する目的は、この老人と国家の防衛について意見を交わすことにあった。
 門前より呼び鈴を鳴らすと、たいていは家令でもなく、下男でもなく、なぜか平田東助が出てくる。
「閣下は御庭ですよ」
 案内します、と先に立つ平田に小さく頭を下げる。
 貴族院茶話会を率いる事実上の頭目は、山縣の第一の側近として名高く「怜悧な策士」と各界から畏怖される男だ。
 その物腰の柔らかさと穏やな風体に相反した策略をもって、俗に言う「山縣閥」の牙城を築いてきた。
 その平田は山縣の実の姪の婿である。そのためか……昔よりまるで山縣の執事のようにその傍に仕えているとは聞いてはいたが。
「……今は参拝されているので、少し待ちましょうか」
 庭の東屋に誘われ、茶を入れてきますよ、と気さくな言の葉を残し、平田は館の中に戻って行った。
 平田に会うと、いつも奇妙な違和感にとらわれる。
 第二次西園寺政権が瓦解した折、その後継に望まれながらも辞退した男。
 その後も何度も首相に押されながら、首を横に振り続けたこの男は、首相という最上の地位よりも、山縣の傍にあることを願った。
 どこまでも山縣に忠実で、山縣のことを一に考えるこの男の姿に、誰かが「献身」という言葉が当てはまると言っていたものだ。
 茶と菓子が載ったお盆を持って平田が引き返してきた。
「どうぞ」
 軽く会釈をもって礼とすると、ここ数日通い続けているため、幾ばくか慣れてきたのか柔らかく平田は笑む。
「私はどうも軍人さんは苦手でしたが、秋山さんは……軍人らしくありませんね」
 山縣閥の策士として、その手で陸軍の軍人たちも手玉に取ってきただろう男の言葉とは思えないものだ。
「よくそう言われてきました」
 だが生来の性格やもって生まれた才覚が「軍人」向きであったため、海軍士官学校に入り、今に至るのだ。
 あのまま帝大予備門を卒業し、帝国大学に入学しようと三流の学者にしかなれなかっただろう。
 友人の子規のような生き方は自分には合わない。
 なるべくしてなった軍人稼業。そして死ぬまで自分は軍人でしかない。
「平田さんは……独逸に留学されていたこともあったとお聞きしました」
「昔のことです」
 二十二歳の時、あの岩倉使節団の一員として独逸に渡り、ベルリン大学、ハイデルベルク大学で平田は学んでいる。
 後にハイデルベルク大学で博士号を取得。それは日本人として第一号という栄えある勲章となった。
「私は米沢の生まれです。戊辰の戦も遠いものとなりましたが、政府にとっては敵となった藩の身。生きていくには学問で身を立てるしかなかったのですよ」
「吾は松山です。似たりよったりなものでした」
 そこで山縣が話し声に気付いたのか、邸内に築いた神社よりゆっくりと歩いてくる。
「ようおいでになった、秋山さん」
「お邪魔しております、閣下」
 此処を訪ねたその時、突然の訪問を一切咎めずに相対してくれた山縣は、なぜか真之を「秋山さん」と呼ぶ。
 三十も年下の真之としては恐縮するばかりだが、階級で呼ばれるよりも肩の力は抜けた。
「今日は良い天気だ。雪も溶けた。良ければ散策に付き合ってくれぬか」
「吾でよければ」
「……閣下。この東助はお誘いくださらないのですか」
 すると山縣は小さく吐息をもらし、
「誘わずとも着いてくるものに声をかける必要があるのか」
「確かに」
 全く気にする風情もなく笑う平田は、そっと山縣の手に杖を握らせる。
 いらぬ、というかのように睨みつける山縣を、静かな目で嗜める姿。
 これでは側近というより、家族同様の執事といった方がしっくりと来るものだ。
 古稀庵の主人に庭を案内され、広大な庭をゆっくりと歩く。山縣の歩調があえてゆっくりなのは、おそらく自分に合わせているのだろう、と真之は考えた。
 もうすぐ八十という山縣よりも、真之の方が身体的に弱っているのは顕著に知れる。
 途中で休憩を取り、山縣は庭の話をする傍ら、昨日の秋山の話に対し、一昼夜考えた返答を聞かせてくれる。
 元老中の元老としては気遣いに長けている男だ。たかが陸軍中将の自分と膝を交えて語り合うなど、此処に訪れるまでは考えられないことだった。
 一通り語っていると、つかさず平田が茶を持ってくる。
 時をきちんと見計らった介入だ。
「そろそろ肌寒くなってきました。閣下も秋山さんも座敷にてお話し下さい」
「東助は小姑のように口うるさい」
「そうです。私が言わないと、誰も閣下にはいっては下さらないのですから」
 平田の目は有無を言わさぬと告げており、やれやれ、とばかりに山縣は、
「秋山さん。夕飯を食べていかんかね」
 未だ話も尽きていないので、真之は一礼をもって答えとかえた。
「それは良いことだ。普段は家内とこの東助と一緒でな。いささか口うるさくて耳が痛い」
「閣下」
「この通りだ。実に困った小姑だ」
 口ではこのように憎まれ口だが、心底から山縣は平田を頼りにしているのだろう。
「東助」
 と呼び、心得たかのようにさりげなく傍らに立った平田の腕に、そっと山縣は身を預ける。
 もうすぐ八十となる身だ。いかに矍鑠としていようとも一時以上外を歩いていては疲れもあろう。

 この古稀庵を訪ねるようになり十日余り。
 ほとんど山縣の傍らには平田があり、世話女房さながらの献身さで世話をしている。
 気さくに真之の話に付き合う山縣だが、東京より訪ねてくる各界の人間からは……よく逃げる。
 昨日、清浦奎吾が訪ねてきたのだが、「顔を見たくない」といって平田を困らせていた。
 どこにでもいる老人にしか見えず、いつしか真之は親しみをもってこの古稀庵に通う。
 おそらく余命はわずかしか残されていない自分だが、
 この小田原にて散歩がてら、あの老人とその小姑に付き合う時は、なぜか楽しくなりつつあった。



― 廟堂の豆まき ― (長州)

「俊輔……」
 木戸が小さく呼びかけるのは、ひとつには制止の意味もあったのだが、伊藤博文は構わずにふふんと笑った。
「本日は節分ですよ、木戸さん。立春の前日。豆をまいて運気を回復しないと」
 伊藤は同じような理由で、立秋の前日にも豆を盛大にまいていた。
 節分というのは、もともと各季節の始まりの前日に邪気払いをする儀式に由来する。
 古には立春、立夏、立秋、立冬の前日に豆をまく風習がこの国には存在していたが、明治となったこの時分。豆まきは節分の一度というのが定着していた。
 だが、気晴らしと運気を良くするために、伊藤は古来通り四度はしないものの、年に二度から三度は豆をまくのだ。
 そしてこの伊藤。豆まきの風習を利用して、木戸の部屋を訪れる人間に必ず豆をぶつける。
「豆を投げつけるなら、人に断ってからの方が良くないかい」
 提案という形で伊藤の暴挙を制御しようとした木戸だが、
「それじゃあ面白くないじゃないですか」
 もはや伊藤は「豆まき」を楽しんでいる。
 そこに扉の叩音が響く。木戸が応じると「山県です」と低き声音が帰り、それと同時に扉が開かれた。
 伊藤が今までより豆を多く掴み、山県の姿が見えると同時に、
「鬼は外」
 と、投げつけた。
 すると慣れたもの。山県は扉を盾として防ぐ。
「邪気払いだよ。豆にあたった方がいい」
「おまえの場合は豆まきではなく、豆で憂さ晴らしをしているだけだ」
 面白くない、と頬を膨らませた伊藤は、豆を投げつけるのを諦めたらしい。
 不機嫌顔で散らばった豆をいそいそと拾いだしている。
 どうやら次の来客に備えるらしい。
「俊輔は朝からこうなのだよ。困ったものだけど……」
 毎年の風物詩に等しいので、それほど木戸としても重要視はしていなかった。
 続いて、半開きの扉よりちょいと顔を覗かせるのは、駐清国特別公使に任命された山田顕義である。
「鬼は外」
 ニタリと笑った伊藤は山田に豆を投げつける。
「い、痛いなぁ」
 山田は投げつけられた豆を拾って、それを伊藤に投げつける。
「うわぁぁ」
 反撃を予想していなかった伊藤は、豆より逃げ惑うが、それを山田はニヤニヤ笑いながら追いかけた。
「ちょうどいいや。邪気払いだよね。それで僕の散々な邪気を祓ってよ。清国なんて行く気、ないんだから」
 と、その場で地団駄を踏む山田は、公使として清国に赴く気は皆無に等しい。
 こうして木戸の部屋を訪ねるたびに、どうやったら「解任」されるか、その相談ばかりと言えた。
 山県が慣れた手つきで全員分のお茶を入れ始める。
 山田は険呑な目で山県を睨むのは、その公使の件には、徴兵令などで山県に反発する山田を遠くに飛ばす意図があると考えているからであろう。
 事実、陸軍省においてのこの山田と山県の「徴兵令」
をめぐる意見の相違は、派閥闘争にもなっている。
 政界でも重要視され、「兵は凶器なり」という論文において徴兵令の早期実施を時期尚早とした山田と、徴兵令を断行する山県。
 長州閥の陸軍ツートップに等しいこの二人の闘争は、陸軍にさらなる暗雲しか与えはしない。
 どちらかを陸軍より外すしかないとは木戸は考えていたが、
 どちらも昔よりの仲間であり、可愛い後輩と言える。
 ましてや実質的に陸軍を預かる立場である山県を外せば、陸軍は大混乱になるのは必定。
『私にお任せいただきたい』
 と、助け舟を出してくれたのが、内務卿の大久保利通だった。
 大久保の決断は早く、すぐさま兵部大丞兼東京鎮台司令長官の山田顕義に「駐清国駐在公使」という外交官に近い立場を任じた。
 当然、あまりにも畑違いのこの地位に、山田は不服でしかない。
 かの高杉晋作が後継者にと指名するほど、その才をかわれた山田だ。人には「小ナポレオン」と呼ばれるほど、奇抜な戦略で数々の戦局を有利に運んできた。
 その山田をあえて陸軍から外すのは、木戸としてはあまりにも痛いことに思われる。
 思いは視線に乗り、山県にくりかかる山田に注がれる。
 対立している二人なのだが、職場を外れると妙にじゃれているとしか思えない部分もある。
 昔より寡黙な山県は、いまいちよく分からない可愛がり方で山田に接していたものだ。
 言葉ではなく、時折山田の頭にポンと置かれるその手が、
 山県なりの山田に対する思いなのだ、と木戸は考えている。
「僕は絶対に清国になどいかないから。行かないぞ。いくものか」
 これは最初から大久保は予期していたらしく、いずれ、良きように計らうとのことだった。
 陸軍卿としての山県の手腕を評価している大久保は、山田の才も十二分に評価している。
 ……この稀代の天才にしかるべき地位と場所を与えるだろうが、陸軍よりは遠ざけることになるだろう。
「でも、木戸さんを困らせるつもりはないんだ」
 山田がしゅんとうなだれるのを見て、思わず木戸は良い子良い子と頭を撫ぜたくなった。
 いつまでも子ども扱いはしてはならないとは思うのだが、
 山田は木戸には実の弟のように可愛い存在と言える。
「それにいつまでもガタともめていても仕方ないしさ。でも清国は嫌だ」
 駐在清国特別公使という地位には、とてつもなく嫌悪感を見せている。
 清国も今は欧米列強に侵略され、大いに揺れている時期でもあった。
 危険地帯ゆえにあえて陸軍武官を公使としてあてるということに意味もある。
「おーーい。不服な声が外にまで聞こえてきているぞ」
 今度は政界より離れ、現在「先収会社」を設立し、社長におさまっている井上馨が顔を出した。
 お神酒徳利の片割れである伊藤が、これぞ我が物顔で井上に豆を投げつける。
「なにするんじゃ、俊輔」
「豆まきで聞多の邪気を祓っているんだよ。ほら、鬼は外」
「僕もやる。伊藤さん。鬼は外……」
 伊藤と山田に豆をもって追いかけられ、ついでに投げつけられ、井上としては「なんでこうなる」と叫びたいのも当然だろう。
 豆もつきたところで、「くわっ」と伊藤に襲いかかり、いつも通りのお神酒徳利の取っ組み合いの喧嘩が始まった。
 静観している山県は、呆れた顔をしているが、なぜか豆を拾い始める。
「どうしたのだい、狂介」
「今、拾っておかねば、次に訪れる人間に伊藤が豆を投げつけられまい」
 おかしなことが起きるものだ。
 山県が伊藤のために何かをする、ということが、あまりに意外で木戸はきょとんとしてしまう。
 お神酒徳利の掴みあいの喧嘩は、双方頬や腕などに引っかき傷を負って、本日の喧嘩は終了した。
 相も変わらず「喧嘩するほど仲が良い」と言うにしろ、よくやりあうものだ。
 山県がこの部屋に備え付けられている救急箱を取り出し、伊藤の必殺の「猫の爪」攻撃を受けた井上の頬の手当てを始める。
 井上の場合、闇討ちの際の傷が如実に残っており、傷などさして珍しくないのだが、
 この廟堂を血を流して歩く姿はいただけないようだ。
 幾ばくかシーンとなった部屋に、開け広げられた扉よりその男は入ってきた。
「失礼します」
 条件反射で伊藤は、先ほど山県が集めた豆を「鬼は外」と投げつけてしまった。
 冷たい沈黙がその場を支配する。
「し、しまった」
 蒼白となる伊藤に、
「僕もやろう」
 山田など我関せずの顔で、豆を掴み、その男に向かって投げつけるのだ。
 内務卿大久保利通は、何の「いやがらせか」とばかりに眉間に皺を刻んだ。
「本日は節分です、大久保さん。なのでここを訪れる人の邪気を祓おうと思って……はははは……」
 伊藤の笑顔は見事に引きつっていたが、
 ふと、なぜ山県が豆を拾い集めたのか。その理由が木戸には理解できた。
「長州のお人は、この多忙な時期に行事を行うほどに手があいておられるのか」
 その一言にわずかにカチンと来た木戸は、
 伊藤より豆を奪って、大久保に投げつける。
「鬼は外と、決まっていますよ、大久保さん」
 あえてにっこりと笑っておいた。
「そうだよ。鬼は外。福は内~~」
 山田が続けて豆を投げつけ、
「そういうことなら俺様も」
 こういうことには必ず便乗する井上も豆をまく。
 ならば、と伊藤までも豆を投げつけ始め、四人によりの攻撃に茫然事実となった大久保は、
「おまんら、よか加減にせんか」
 珍しいことに大久保としては怒りの限界が超えたらしく、薩摩弁で声をあげた。
 まるで子供のように豆まきを楽しんでいた四人は、はた、と我に帰る。
「そけ(そこに)座れ」
 と、床を差され、その静かな迫力に怖れをなして、四人ともに座ると、
 珍しいことに、ここから半時ほど大久保の説教が始まった。
 ひとり茶を飲んで状況を静観するのは山県のみ。
 淡々と説教を続ける大久保に、四人ともがしゅんとうなだれる。
 節分の恒例の行事とはいえ、はしゃぎすぎて我を忘れるとろくなことがおきない。
 今年の節分は鬼をはらうどころが、
 逆に鬼に居座られる最悪の結果に終わった。



― 逢いたいね ― (長州)

 ふと、何かに誘われるかのように、振り向いた先には、桜があった。
 この時期は出来る限り、窓の外を見ぬようにしていたというのに、本日はいかがしたのか。
 小さく吐息を落とし、視線を戻そうとしても、金縛りにあったかのように動きはしない。
 風に吹かれ、ひらひらと舞う小さな花びら。
 昔は春の代名詞のこの花が好きだった。
 幼いころから桜が咲けば、よく幼馴染と花見をしたものだ。
 ……自分より頭分背が低かった幼馴染……。
 わずかに背伸びをして、自分を見つめてくるその切れ長の瞳には、変わらぬ一途さが色濃く刻まれていた。
(………!)
 痛みという表現では柔らかいこの胸に去来する思い。
 引きずられぬように噛んだ唇が、じわりとした鈍い痛みを与える。
 春の花は総じて、この心に感傷と痛みしか与えず、心を浚うかのように押し寄せるは、懐かしい思い出。
『春になったら思いだしてほしいんじゃ』
 どんなに苦しくても、楽しい思い出はいっぱいあったじゃろう。
 だから春になったら、花を見たら、自分のことを思い出してほしい。
 誰でもない……桂さんだけに。
 なぁ……桂さん。
 忘れんといて……。
 それは別れの半月ほど前であったか。
 これを最期とする、と言外に決めたかのように、幼馴染は桜の下で残酷な言葉を囁いた。
 あの時、自分は嫌だ、と拒否すれば良かったのだろうか。
 すでに骨と皮になりつつある弱り切った幼馴染の身体を支え、
 桜を毅然とした顔で見据えるその顔に、罵詈雑言を浴びせれば良かったのか。
 死が近づきつつある幼馴染に、ただ曖昧に笑って頷いた自分。
「思い出せば……思い知る」
 幾歳も春は必ずめぐりくるというのに、
 傍らにあった笑顔の喪失を、嫌と言うほど知らしめる。
 それでも思い出せと言うのか。
 それでも、あの日々を思い出してくれ、と言うのか。
「おまえは……本当に残酷な願いを言ったものだね」
 思い出さずにはいられないから、桜を見るのを避け続ける。
 ほら、一瞬だけ見ただけというのに、
 思い出が駆け巡り、心は押しつぶされるかのように痛み、
 だと言うのに、
 笑っている幼馴染の姿が、たえまないほどに愛しく感じる。
 まだ幼き頃の姿も、少し大人びてきた姿も、青年の顔つきになったその顔も。
 すべてが思い浮かび、いつしか自分は、涙をポタリと落としつつ、
 笑っているのだ。
「嫌なものだね」
 思い出したくはない。けれど思い出せば、これほどに痛く、愛しい。
 困ったこの感情は、しばし落ち着く先を求めて彷徨い続けよう。
 ひらひらと舞う桜の花びら。
 追うようにして視線を向ければ、一瞬強く吹いた風により花の乱舞が起きた。
 ……春になったら思いだしてほしいんじゃ。
 あの日、この手で抱きとめた幼馴染の身体を……包みこむかのように桜はいっせいに散った。
 鮮烈な光景に、悲壮な覚悟をもって立ちあがった幼馴染は、どこまでも苛烈さと厳しさを宿して、
 哀願するように、自分を見ていた。
「春にならなくとも思い出す」
 ふとした瞬間に思い浮かばすことは、いつもおまえのことばかりだよ。
 いつでも、どこでも……。
「……逢いたいね」
 いつかの春。また二人で桜を見ようか。
 今度は笑い合って、互いに手を取り合って、二度とは離れぬ永遠をその桜に見る。
 その日まで、自分は桜を避け続ける。
 これ以上、幼馴染を思い出さぬように。
「逢いたいよ、……晋作」



― 大久保利通の呪いの手紙 ― (大久保さんシリーズ)

 大久保利通は、その手紙に気を緩め、わずかに口元に笑みらしきものを刻む。
 内務卿室に本日もその手紙は舞い込んだ。
 毎日毎日きっかり八つ時に、机に置かれるこの手紙。
 それも半月の間、一日として欠かさずに、だ。
 大久保の側近たる川路利良などは、その手紙を「呪いの手紙」と呼ぶ。
 いわくその手紙には変わらずにこの一文のみが記される。

 ……大久保さんなんか、死ねば良い。

 送り主の名は、当然の如くない。
 手紙の受け取り主たる内務卿の大久保は、手紙の一文を見てその無表情が崩れそうになる。
 手紙の送り主は、なんと可愛い人なのだろう。
 天の邪鬼の気まぐれ屋で、ついでに照れ屋だ。
 本音を記せぬゆえに、正反対のことを、こうして書いてきているのに違いない。
 ……そう思い込んでいた。頑ななまでに。
 大久保は、送られてくる書状を大切に保管している。
 彼にとってはこの手紙は「恋文」と同様で、
 その線が一本切れていると思われる頭には、「愛の告白」としか思えずにいるようだ。
「それは間違いなく呪いの手紙でごはす」
 と川路が何百度断言しようとも、大久保の思いこみは訂正されることはない。
 毎日のようにその手紙は、大久保にわずかに気配を緩ませ、
 同郷の人間しか分からない「微笑み」を顔面に乗せる。
 川路に言わせれば、身の毛がよだつほどに恐ろしい微笑とも言えた。
 そして、本日はこの川路を驚かせることを大久保は口にする。
「返信をしたためた。長州の首魁殿に届けてくるように」
 半月目にしてついに大久保は、正体は分かりきっている手紙の送り主に返事をしたためた。
 川路は渡された手紙を恐る恐る受け取り、届けに赴く。
 俗に長州の首魁と呼ばれる木戸孝允に、川路は無言でその手紙を届けた。
 その手紙に、なんと記されているか川路は知らぬ。
 そうその手紙には、まさに呪い返しとも言える一言が記されていた。

 ……実に貴公は可愛らしい。

 手紙を読んだ木戸が、愛刀を手に内務省に乗りこんできたことは言うまでもない。
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  • 【まとめ】 2013年1月18日
  • 【備考】 5話収録