― 聖夜の長州閥 ― (長州)
本日は西洋では「聖夜」という特別な日らしい。
山県有朋陸軍卿は、料亭の座敷を借りきって、どんちゃん騒ぎをする仲間たちに冷たい視線を向ける。
日本には聖夜など全くといって関わり合いがない。いや長崎の隠れキリシタンの里などでは祈りの声が響いていたりするかもしれないが、
少なくとも帝都の十二月二十五日は日々と全くといって変わり映えのない日々といえた。
いや日々よりも、さらに悪い。
「山県……やまがたぁ」
酒を飲み過ぎて泣き上戸と笑い上戸が交互に到来している伊藤博文が、山県の袖を突く。
「山県ぁ。聞いて。今日、僕ね。うめちゃんにまたひとつ浮気がばれちゃって、家に入れてくれないんだよ」
「……自業自得だ」
「土下座したんだよ。ごめんなさいって誠心誠意謝ったのに、家に入れてくれない」
「外で凍死しろ」
「それいやだ。今日泊めてよ。しばらく泊めて」
「凍え死ね」
うわぁんと袖に縋りついて鼻水を垂らす伊藤を、思いっきり足で突き飛ばした山県だった。
音程が狂い過ぎた歌を気持ちよく歌っている井上馨に、
その横で空弾を片っ端らから打ちまくる三浦梧楼。鳥尾小弥太などは剣舞を銃刀でしている。
山田顕義に関しては日本酒の牛乳割を飲みまくり酔いによって、へにゃあとした顔で笑っており、
これらの総帥の木戸孝允に関しては、うとうと船をこいでいた。
「もんちゃん。山県が苛めるよ」
「可哀相にな、俊輔」
井上はにたりと笑い、
「仲間は大事にせにゃいかんぞ、山県」
「ならば貴殿の家に泊めればよかろう」
「それがな……家、売っちまったんだ」
さすがの山県はポカンとした。
「売った?」
「ちょうど家の土地が暴騰してよ。売っちまった。今は渋沢のところに泊めてもらっているんだ」
「売った……貴殿、例え暴騰とはいえ我が家を」
「現在、家探している。今年は借り暮らしだな」
ははは、と豪快に笑う井上はまたしても大声で音程のずれた歌を始めた。
隣室から「うるさか」とどなり声が響いてくる。
さすがにこの井上の歌と、三浦の短銃による空弾はいけなかっただろうと思い、
山県は隣室に一言詫びに出向いたのだが、
「山県さぁ」
左隣はなぜか薩摩出身者による「薩摩兵児慰労会」が行われていた。
顔ぶれを見た瞬間、謝る気もなくなり、いっそ三浦に実弾を隣室に向けて発砲せよ、と言おうかと思った山県である。
そして右隣の座敷の襖を開けるとこちらは佐賀藩出身者による「ほうけもん集会」なるものが行われており、
わずかに開いてすぐに閉めた山県だった。
「井上さん」
山県は大きな声で叫ぶ。
「好きなように歌うがいい。横は気にすることはない。
三浦、横に銃弾を間違って発砲しても仕方ないで済まされる。
鳥尾、剣の舞の最中手元が狂って、横の座敷に乱入してもいいぞ」
「なになに。山県。横の座敷、気にしなくてもいいの」
酔っぱらって千鳥足の山田がにたっと笑った。
「あぁ。だが左隣はよすのだな。黒田がいる」
「く、く、く、黒田ああぁぁぁぁぁ。ここで会ったら百年目。今宵こそは」
「待て、山田。こんな日まで黒田と顔を合わせずとも良かろう」
「まぁそうだね」
山田はその場に座り、また牛乳を飲み始めた。
宴は大騒ぎとなり、
気付いたら、誰もが酔いが回っていて、もはやそれぞれ意味不明を連発。
ようやくうたたねから気付いた木戸は、
「……狂介、どうしたのだい」
その場で浴びるように酒を飲む山県に目をぱちくりさせる。
「飲みたいので」
いつもは一定の酒しか飲まない山県が、やけ酒とばかりに飲みに飲んでいる。
怪訝に思いつつも、木戸は山県の杯に何度も酌をしていたが、
そこで歌をやめた井上が、
「桂さん、いかんぞ。山県に酒を飲まし続けると毒舌になる」
「そうだったね……」
だがすでに一定の量は超えに超えていた。顔色ひとつ変えない山県はその場にスッと立ちあがる。
「薩摩の者に説教してくる」
などと言いだす。
「狂介……それはやめた方がいい。ここで心地よく酒を飲んでね」
「いや、行ってくる」
と、左隣になだれ込み、その場に居並ぶ薩摩の幹部に山県は毒を混ぜた説教を始めた。
日ごろ寡黙な男がこれでもか、と言うほど喋り続ける異常事態に薩摩連中は目が点。
「山県さぁも飲みやんせ」
と小西郷と大山巌が宥めるが、それすらも聞かず、ついには酒乱黒田が頭に血がのぼって、山県に挑みかかる。
「……黒田くん」
木戸が山県を救出に走った。
すると「酒乱の黒田を止めえるものはなし」と言わしめた黒田清隆が、ピタリと動きを止める。
そしてその場でわなわなと震えだし、ガクリと膝を崩した。
「お楽しみ中、申し訳ありません。山県はこちらで引きとりますので」
黒田は前に一度、木戸にす巻きにされ放り投げられたことがある。それ以来、酔っ払おうとも木戸が前にいると途端に酔いが醒めるらしい。
「ほら、狂介。飲み過ぎだよ」
「……木戸さん」
山県はまだ言いたりないようだが、木戸には逆らわずに大人しく隣室に取って返した。
と、なぜか佐賀藩の大隈の顔が座敷にあり、井上と酒を飲んでいる。その横で伊藤がぶつくさ文句を言い続けていた。
この二人は政敵であったはずなのだが、意外と仲が良いのだ。
「いっそ襖を開けて、みんなで宴を楽しもうか」
木戸は笑った。
「僕は黒田と一緒なんて絶対に嫌だ」
とは山田。
木戸は少し困った顔をする。
「これ以上、介抱する人間が増えるのはごめんだ。泣き上戸の伊藤だけでも苦労する」
それでも、いつも伊藤を捨てはせず最後まで介抱する山県には関心する。
「狂介」
木戸は笑った。
「いつも介抱をしてくれてありがとう。今日は私がもう飲まないから、みんなの介抱をするよ。
おまえも飲むだけ飲んでいいから」
「ダメだよ、木戸さん。ガタが飲んだら毒ぜちゅが止まらない」
「そうであるよ。山県は日ごろ言いたいことを我慢しているのだなぁ。酒が日ごろの鬱憤を毒をもって吐き散らすであるよ」
ちゃっかりこの場に居座っている大隈も止めに入った。
「俺など毒舌山県に流され侍と散々に揶揄されるんだぞ」
とは、井上。
「狂介もたまには酔うのもよいと思うのだよ。そぁお飲み、狂介」
木戸は手ずから酌を続け、この半時後には後悔することになる。
「そこに座られよ。貴兄には言いたいことが百も二百もある」
今宵の山県の標的は木戸に定まり、その場に木戸はうなだれ説教を聞く羽目に陥った。
十二月二十四日。
長州の人間はいつもと変わらずに、いつも通りに、楽しんでいる。
― 内務省の豆まき ― (長州)
「今日は節分ですよ。ここは景気よく豆まきしましょう」
といって千葉県の名産の落花生を大量に伊藤は持ってきた。
「………節分なんだね」
木戸はその豆をじっと見つめる。
「そうです。日頃の鬱憤や苛立ちはこの豆で吹き飛ばしてしまいましょうよ」
「………鬱憤ね」
そこで木戸はにんまりと笑ったので、あぁきっと悪巧みを浮かべていると伊藤はほんの少し警戒する。
「俊輔。豆まきをする以上、鬼は必要だよね」
「それはそうですが」
「古来より豆まきの際の鬼は一家の父親がなすべきものと決まっている。
この政府において父と呼ばれるのはただ一人。さぁ俊輔。同士を募って内務省に乗り込もう」
珍しくも嬉嬉としている木戸の横顔を見て、あぁこれは止めても無駄だ、と伊藤は思った。
昨今は鬱憤や憂鬱さで病にまで陥る木戸である。ここは好きなようにさせることに限る。それがきっと気分転換になり、病も改善されるに違いない。きっとそうだ。そうに違いない、と伊藤は何度も自分に言い聞かせる。
廟堂より各省庁に伝言板がまわり、ついには大久保内務卿に豆をぶつける会が発足。木戸を先頭になんと百数十人の人間が豆まき行列となり一路内務省に向かった。
「くわばらくわばら」
関わりたくはない伊藤だったが、あの鉄面皮が豆を投げつけられどういう顔をするか。それには興味がある。行列には加わらなかったか一足先に内務省に入り、特等席でこの一件を楽しむことに決めた。
唐突に夥しい人間が内務省におしかけてきた。これにはさすがの大久保も目を見開いた。
「何事だ」
対応に出た官吏が戻り、ことのいきさつを大久保に告げる。
「豆まきにおいでになったそうです」
大久保は唖然とした。確かに本日は節分ではあるが、未だ仕事時間中であるというのに豆まきなど何を考えているのか。時間の無駄を厭う大久保はすぐさま「追い返せ」と命じた。
「ですが………発起人は木戸参議とのことで」
わずかに大久保の目がつり上がる。
「私たちには木戸参議を追い払うことは無理でございます」
「分かった」
大久保はその官吏にここに案内しろと言いつけた。当然、木戸だけを案内してくるはずだ、と大久保は考えたのだが、内務卿室には次から次へと人が押し入ってくる。
「大久保さん」
木戸が人畜無害な思わず見ほれる笑顔を顔に浮かべた。
「お仕事も大事ですが、行事もまた大切。豆をまいて今年一年の厄を落とし福を呼び込みましょう。そこで」
木戸が続ける。
「豆まきには鬼というものが必要です。政府においては誰もが大久保さんを父親と思っておりますし、仕事の鬼でもありますから………。
これはほめ言葉ですよ。ここは鬼役を事後承諾でお引き受け願います」
はっきりと木戸は事後承諾と言った。もとより大久保の意志など無視するつもりだ。
さらにうっとりするかのような微笑をにじませて木戸は続ける。
「有志を募ったところなんと百三十二人もの人がぜひとも大久保さんに豆を投げたいとのことです。
さすがは大久保さん、その人望の高さがこの一件でも伺い知ることができますね」
その場にすっと大久保は立ち上がった。木戸一人ならば如何ともしがたいと諦めるが、百三十二人もの人間に豆を投げつけられるのはごめんだ。
「私は用事がありますので」
「大久保さん」
にっこりと木戸は笑った。
「私は言ったはずです。これは事後承諾だと。………では失礼して、鬼は外、鬼は外」
嬉嬉とした顔でマスの中に入っている大盛りの豆をつかみ、大久保に投げつける。
その木戸に続けとばかりに部屋に入っていた他の人間も豆を投げつけそこは豆の雨と化した。
はっきりと言って痛い。
大久保は伝家の宝刀に等しいにらみの一撃で応戦したが、本日の高揚しきった雰囲気がその一撃を打破し、豆の雨は降り続ける。
こうなったら百策考えようとも意味がない。逃げるが勝ちだ。
大久保は方々の体でどうか内務卿室を抜け出した。だがすぐさまに木戸を先頭に百人を超える人間が追いかけてくる。背中に投げつけられる豆の感触に、大久保はげんなりした。
(なんという厄日か)
間違いなく本日は仏滅に違いない。大久保は逃げる。ひたすらに逃げる。背後からは嬉嬉とした木戸の声が響く。
「待ちなさい大久保さん。今日は潔く豆にあたりなさい」
「………貴公の豆だけならば喜んで当たりましょう。だが」
百数十人に豆をぶつけられるいわれはない。日頃さして鍛錬もしていない大久保だがまさに火事場の馬鹿力といった脚力を見せたが、木戸の足にはかなわなかった。
日頃病的な色に覆われている木戸の顔が今日は赤く高揚している。これをいきいきしていると表現するのであろうが、大久保としては今のこのときにその顔をみたくはなかった。
「それじゃあ皆さん、いっせいにどうぞ。鬼は外」
百数十人による豆のいっせい攻撃を受け、大久保はへなへなとその場に沈んだ。傍らではご満悦な木戸がまるでいたずらっ子のような顔をして大久保をみている。
「大久保さんも形無しだな」
伊藤は煎餅を食べながら高見の見物をしていた。豆のいっせい攻撃に疲弊はしているようだが、ついには諦め、目を閉じて豆を受け止め始めた大久保の姿は泰然としている。
「伊藤さん。まだ豆まきやっている」
そこに山田顕義が大きな風呂敷を抱えて登場した。
「やっているけど、市。その風呂敷………」
「豆の補充。よかったよ、間に合って」
そのままえっせらほっせらと山田が豆まき集団の中に入り、その場で風呂敷を解いた。
「まだまだいっぱい豆はあるよ。今日はいっぱい豆をまいて鬼を追い払おう」
この大久保の惨劇が耳に入り、救出に駆けつけた川路と黒田も標的となり実に楽しい内務省での豆まきは夕暮れ時まで続いた。
いつしか人々は互いに豆をぶつけあい、厄の落としあいを始めている。
「鬼は外、福は内。天に花咲き、地に芽吹く。鬼は外、福は内。今年一年幸いの年であらんことを」
木戸は願いを込めて天井に向けて豆を放った。
― 花見の誘い ― (長州)
「飛鳥山に桜が咲いたそうだ」
後輩の山県有朋がボソリと言った。
この廟堂よりも、宮城を包むかのように咲く桜の花は見える。
「……もうそんな時期になったんだね」
木戸は言葉を返しながら、この口数が少ない後輩がなにを言いたいのかその目を見ることで判じることにした。
ジッとその暗闇の瞳を見据える。
すると山県もただ木戸の目を見据えてくるので、思わず小さく吹きだしてしまった。
「なんだか睨まれた気分になるよ」
「睨んでいるつもりはない」
「ジッと見つめてくるから……」
「貴兄が見据えるゆえ見つめ返したまでだ」
山県とはそういう男だ。
さらにクスクスと小さく笑うと、心外という顔で視線を離していく。
木戸はもう一度くすっと笑い、その中で「桜」についてこの後輩がなにを言いたいのか考えることにした。
日ごろより無駄口を厭う山県は極端に口数が少ない。
かつては高杉晋作が「おまえ、もう少し喋らんか」と苛立ちのあまり殴りつけたことがあるが、それでも口数は変わらなかった。
何か言葉にしても、それは必要最低限で、馴染みのものはそこからこの男の意思というものを読みとらねばならない。
なんとも厄介な男だ。
木戸は笑いを引っ込めて、小さく吐息を漏らしてしまった。
「木戸さん、僕ですよ」
そこに扉を三度きちんと叩いて顔を出した伊藤博文は、部屋の中に天敵の顔を見つけてあからさまに顔を曇らせた。
「ここでおまえと顔を逢わせるなんて、本日はきっと仏滅だね」
残念ながら大安である。
山県は伊藤と視線すら合わせようとしない。
昔からこれが二人の仲だ。人は「天敵」や「キツネと狼の仲」などと言うが、それでも何かあると妥協の末に手を組んで共に動く。
仲が宜しくなくとも、この二人は心底の底の底で「仲間」という意識がほんのわずかくらいはあるようだ。
「俊輔。今、狂介が飛鳥山に桜が咲いたこと教えてくれたのだよ」
この殺伐とした雰囲気を打破すべく、穏やかな声音で木戸が口を開くと、
伊藤はジロリと山県をにらんで後、
「それで花見はいつにするの、山県」
と、一言。
「近日中がいい」
相変わらず冷淡な声音で山県は返した。
「そう。じゃあ明日だね。明日は僕の予感だと晴れるはず。温かいし夜桜でいい?」
「あぁ」
木戸はポカンとしつつも、そうだった、と思った。
昔からこの二人の仲はよろしくない。
だが、なぜかこの二人ほど互いの心情を読みとれる男もいないのだ。
現に伊藤は山県のただ一言でその心底まで読みとってしまった。
「……どうしたんですか、木戸さん。僕、なにかおかしなこと言いましたっけ」
またしても木戸はクスクスと笑い、
「二人とも、本当に仲がいいなと思ってね」
「な……仲がいいっですって? この僕と山県が。それはありえないですよ。ねぇ山県」
「当然だ」
互いにげんなりとし、ついでに悪寒が走ったのか軽く肩を震わすところまで息が合っている。
木戸がさらに穏やかに笑うと、今度は二人ともが顔を見合わせ、そしてプィッとそっぽを向いた。
まるで子供のようで。
生涯この二人の仲は変わるまい。生涯、表面上は「天敵」で、心底では互いのことを誰よりも見抜く「仲間」であり続ける。
「狂介は花見の誘いに来てくれたのだね。嬉しいよ」
一瞬でこの後輩の心底を読みとれなかったことが、幾ばくか悔しいという思いもあるが、木戸は微笑み続ける。
山県という難しい男の心底の機微は、伊藤というただ一人の「天敵」か、彼の細君でなければ読みとれるものではない。
「じゃあ僕はみんなに声をかけますよ。明日の夜に聞多のここ掘れわんわん号で出かけましょう」
「俊輔……あの馬車なのかい」
井上馨ご自慢の一世代前の馬車は、丈夫だけが取り柄だが、走れば揺れて馬車酔いをするといういわくつきのものだ。
「僕もあの馬車は嫌ですけど、この頃は馬車の横転事故が多いですからね。新型の馬車よりもあの丈夫な馬車の方がいいと思いましてね」
「……聞多の馬車は確かに……横転はしないと思うけど……」
いろいろと問題のある馬車だけに、苦笑いが消えそうにない。
「じゃあ僕は手配をしてきます。山県、市の牛乳とチーズはおまえが手配してよ」
山県は頷きもしないが、これを伊藤は了承と受け止めたらしく部屋より出て行った。
まるで阿吽の呼吸と思いつつも、木戸はそれを口にはしない。
「みんなと花見ができるなんて……なんだか懐かしいよ」
昔はよく花見をした。そこには馴染みの姿が常にあった。幼馴染の高杉もいた。
村塾の四天王が笑って、春の花を楽しんでいた。
この明治の世では、かつての仲間の多くは鬼籍に入って久しい。
「貴兄もたまにはあの騒がしい連中の中で騒がれる方がいい」
「………」
「風流な花見を望まれるならば、私が後楽園に案内する」
そうだ。山県はこの帝都で花見を誘う際は、長州の人間たちと一緒の折は「飛鳥山」
木戸を個人的に誘うのは「後楽園」と決まっていた。
なんだかくすぐったい思いになり、そしてこの後輩に気に掛けられていることが嬉しく、
木戸は穏やかに微笑む。
「久しぶりに私も羽目をはずして騒ごうと思うよ。ありがとう、狂介」
― 涙雨 ― (長州+山川)
その瞬間、山川浩は足を止めた。
「…………」
呼び掛けようとした言葉も忘れ、その場に茫然と立ちつくすしかない己に、山川自身ですら狼狽する。
胸がドクリと高鳴ると共に、浮きあがるこの感情はいったい何だと言うのだろう。
……憎しみなのか、哀れみなのかか。
(笑止な)
哀れみなど一握とて抱くはずがない。
目の前のこの男は憎んでも憎んでも憎しみが消えぬ長州人。
山川の故郷会津を壊し尽くしたかの長州の大物の一人に間違いないではないか。
例え今、己に背を向け、肩を震わせて必死に嗚咽をこらえて泣いていようとも、それがなんだというのだ。
長州人は己たちよりどれほどのものを奪ったか。
(……この男は、今、たんにいちばん大事な人を失っただけだ)
この男……名は山田顕義と言う。
山川にとっては甚だ面白くないが現在は上官であり、心底では憎悪をたぎらせてもあまりある身の丈五尺に満たない小男。
だが背の小ささなど鼻で笑っておけば済むこと。
もし山川がこの山田の最たる罪をあげるならば、それはただ一つでしかない。
長州人であること。
その一点に限る。
「………」
哀しみに打ちひしがれている時間などない。空を見据えて感傷に浸る暇とてないはずだ。軍議を行わなければならない時刻が迫っている。
今は戦争の最中、それは別働第二旅団を率いる山田がいちばんに心得ていなければならないことだろう。
「………」
再度、山川は声をかけようとしたが、その声は空に消えて行った。
本日、長州閥の人間ならば誰もが敬愛する男が逝った。
しずけき都で一人ひっそりと息を引き取ったという。
長州の貴公子と言われ、維新の三傑と称された男が、畳の上で逝ったことは山川には意外であり、なによりも「許せぬ」と思った。
心では会津の逝った仲間に「申し訳なさ」でいっぱいだ。
敵の大元をひっそりと死なせてしまった罪。
山川の胸はそれだけでも憎悪がたぎる。
何度、この剣を持って一刀両断したいと思ったか。何度、この身一身をもってあの男を屠りたいと思ったか。
何度この身は……。
『大蔵。そなたの身はすでにそなた一任のものではない。そなたの身に会津という重荷がつく』
元義兄のその一言が山川の暴挙を止めるただひとつの布石となっていた。
山川が望むと望まずとも、元会津藩の家老であったその身はただの私人ではなく、公人となっている。
それが会津を敗戦に追いやってしまった責任のひとつとも言えるのだ。
「山川参謀」
いつしか山田が振り返って山川を見据えていた。その目は真っ赤に濡れていたが、口調は驚くほどに平静そのものといえる。
「評議の時か」
山田はゆっくりと歩く。山川は軽く頷き、通り過ぎる際の山田の横顔を凝視した。
泣き晴らした目は、こびりつくほどの感傷に染まりながらも、懸命に前だけを見ている。
それは滑稽であるが、どこかなぜか美しい。
「評議の前に拭いでその目を冷やしたらどうでしょうか」
「うるさいな」
山田はもう振り返らない。空も見ない。
いつしか雨がポタリと落ちてきた。
きっと全長州人が流す「涙雨」に違いなかろう。
あの会津落城の際、会津人が流しに流した涙も、天より涙雨となって降り注いだ。
あのときと……今の長州人は似て非な哀しみを抱いている。
だが山川はそれを認められるほどに大人でも、物分かりがいいわけでもない。
「そんな真っ赤な目をしていると泣きっ面に蜂。子どもがわんわん泣いているとしか見えないんですけど」
「おまえ、そのうち抹殺するからな」
山田のその声は未だ震えている。
だが戦の前線に立ったその時、この山田からすべての私情が消え去ることを、参謀たる山川はよく知っていた。
「そのうち俺は全長州人を公的から抹殺するつもりなので、あしからず」
ふんと鼻息を鳴らした山田の背は、少しだけ背筋が伸びている。
これでいい、と山川は思った。
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