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― 貯蓄王と借金王 ― (長州閥)

 ある日、汽車で移動中の内相井上馨に声をかけてきた男がいた。
「やぁ、井上さん」
 馴染みの男だ。井上は帽子を取ってニッと笑い「やぁ」と返した。
「後藤さんとこんなところで会うのは珍しい」
 相手は後藤象二郎。先に収賄事件の責任をとって農商務大臣を辞任した土佐出身の男である。
「いゃあさぁ。借金取りに追われていてね」
 後藤は苦笑いをし、「前、よろしいかな」と言うので、井上の秘書兼護衛の本多は一礼して後ろの席に下がった。
「おうおう借金取りかね。首相も似たりよったりじゃよ」
 現在は伊藤博文が首相として第二次政権を続けている。組閣し二年が経過していた。
 副首相格の井上は議会における民党の扱いに苦慮してもいたが、この根っからの財政専門の男は今も金のことで頭がいっぱいだった。
「借金の額じゃね。あの伊藤さんより、俺の方が格段と上をいくね」
「いうじゃないか」
 井上は新聞紙に包まれた大福を後藤に「ほい」と差し出す。
「今後の井上内相の願いはなにかな。いや君はいずれ首相の大命が下る男だからから、それかね」
 いやいや、と井上は大きく右手を振り、
「俺様は陛下の心証がよろしくないんじゃ。知っているじゃろう。むっかしから俺には黒いうわさがたんとあってな」
「それは噂ですかな」
「……お互いさまじゃ」
 二人は顔を見合わせひっひっと小さく笑った。
「おそらく俺には大命なんかおりんさ。まぁその方が気楽。我が長州からは俊輔と山県が首相に立っているから、別にいいんじゃ」
「君は相変わらず権力や地位に興味がないな。伊藤や山県と正反対だ」
「権力がなんだぁ。地位がなんだぁ。そんなもんより俺様には一大の夢があるんじゃ」
「ほうほう。それはなんだね」
 すると井上はいかにもいたずらっ子という顔をして、後藤に顔を近づけて、こう呟いた。
「一千万ほどの貯蓄をしてみたい」
 それはこの国の一年間の国家予算に匹敵する額だった。
「こりゃあ井上さん。大きく出たな。おもしろい。けっこうけっこう」
 後藤は扇を取り出し、それで膝を打ちつつ大笑いをした。
「死ぬまでにはやってみたいもんじゃぞ。その金をあの紀伊国屋文左衛門みたいにな。葬儀代だけ残してパッと使うのも面白いってやつだが、俺様はそれほどできた人間じゃあないんでな。 とりあえずはためる。ためたものは適当に使って、あとは書画骨董にしてしまうのじゃ」
「けっこうけっこう」
 明治維新の重鎮であるが、この二人、維新当時はさして交流はなかった。
 お互い長州と土佐という出身派閥の長であり、互いに敵視することが多かったのだが、後藤の放蕩息子として名高い猛太郎を井上の助力で外相御用掛と抜擢されて後は、二人の仲も良好となった。
「俺はな、井上さんよ」
 後藤は大福を食べつつ、にんまりとする。
「億の借金をしてみたい」
 瞬間、井上馨をして唖然となり、続いて手を打って「見事」と叫んだ。
「長州には二大借金王がいるがよ。そこまで腹をくくった借金王はいないぜ。後藤さん、あんたみごとだ」
「いや、なに。この前もな。あまりに金がなくて家の庭を切り売りしてな。ようやく出前弁当を食ったものさ」
「さすがは後藤さんだ。……俺様は、知人の家で見事な骨董を見つけてよ。ついついそれを持ち返ってしまったぞ」
「いやいや井上君も豪胆だな」
「後藤さんには負けるぞ」
 二人は妙に楽しげに互いの「金」についての自慢話に花を咲かせはじめたが、
 それを背後で聞いている秘書の本多の顔は青ざめている。
 この列車の中で声を張り上げて話す内容なのか、これは。
 後藤が借金を繰り返せるのは、背後に「三菱財閥」がついており、また後藤象二郎という名に対する投資も多い。
 といってもその借金。半ばは放蕩息子の遊興に端を発していたりする。
「書画骨董の本当の価値が分からんところに置いていてもなんの役に立とうってな。それで俺様がもらってくるんだがよ。その話が陛下の耳に届いてな」
「ほうほう」
「我が家に行幸の際、俺様のいっとう大事にしていた書画をもらっていこう、と言われたときはさすがに冷や汗が出たぜ」
「陛下もやりますなぁ」
「まぁこんくらいじゃあ俺様はへこたれんよ」
 書画骨董から利権に絡む重大事件を散々に引き起こすこの井上馨を、確かに明治帝は疎んじていた。だが井上馨。そのことにまったく気にも止めてはいない。
 心証をよくするつもりなど全くなく、我が道を突き進む。「金」がまわって始めて世の中も回ると豪語して憚らぬ……現在の内相である。
「お互い死ぬまで思う存分、我が道を走ろうじゃないか」
「いいねぇ。井上くんの貯蓄と、俺の借金はいったいどっちが多いだろうな」
 ある日の列車の中においての、
 明治の貯蓄王と借金王の会話であった。



― 首相命令 ― (長州閥)

「山県。おまえ、具合が悪いんじゃないの」
 内相室で煎餅をボリボリとかじっていた伊藤博文は、ふと顔をあげて、
「久々の鬼のかく乱?」
 立ち上がった伊藤は、本日も仏頂面で仕事に向かっている山県に近寄り、
「どれどれ」
 顔を上げた山県の額に「ほれ」と自らの手をあてた。
 受ける山県の方は、若干眉宇を潜めたが、それでも伊藤の手を振り払うことはない。
 これに驚いたのは、その場にいた内務省の役人である。
 伊藤と山県と言えば、同じ長州閥の中でも、とかく「狐と狼の仲」と言われるほどに仲がよろしくないと言われている。
 顔を合わせようと親しく話しているところなど見たことがない。そればかりか、時折、プツリと切れた伊藤がモノを山県に投げつける大喧嘩まで繰り広げるという噂だ。
「……やっぱり熱だ」
 伊藤はニタリと笑った。
「自宅に戻って休んだ方がいい。体をこわされたら困る」
「……伊藤」
「なに」
「俺の体調は普段と変わらない」
 そこで伊藤は大仰にため息をついて、山県の頭をパチンと指でうった。
「おまえは体調が分からなさすぎる。かなりの熱だよ」
「……いつもは熱いおまえの手が生ぬるい」
「それだけ熱がある証拠だから。ほら……立つ。これは首相命令」
 そこで山県はフッと笑った。
「こんな時に首相命令か」
「政でおまえに命令なんかできないからね」
「……情けない首相だ」
「うるさいよ」
 立ち上がった瞬間、少し山県の体はぐらりと揺らいだ。そこでまざまざと体調の変化を感じ取った山県は苦笑するしかないが、顔色も風情もいつもと変わらないからたちが悪い。
 かつて周囲の側近に何一つ気付かせず、だが体調が限界に達し、白目のまま倒れたこともあった。
「伊藤」
「肩くらい貸してやるから」
「おまえへの貸しは三百二十三あったな」
「こんな時に正確に貸し借りの数を思い出さなくてもいい」
「貸しをひとつ減らしておこう」
「はいはい」
 側近に馬車の支度を命じて、伊藤は自分よりも頭一個半背が高い山県を半ば引きずるようにして、馬車に向かう。
 山県は歩いてはいるが意識が半分飛んでいる。だがここは廟堂だ。意地でも意識を失いはしないだろう。こいつは頑固で、そして矜持が高すぎるのだ。
 そんなところが昔から変わらない。
 自らで体調管理ができないこの山県の加減を見分けられるのは、長州閥でもこの男と付き合いが長い数人のみとなっていた。
「そう体をこわすんじゃないよ、山県」
 少なくとも心配する人間が、この片手の指はいるのだから。
「……伊藤」
「なに」
「馬車までしか持たんかもしれん」
「限界を言うだけおまえも成長したのかもね。目白にまで僕が送るから、好きにしていいよ」
 矜持が高すぎて、昔からの仲間以外には意識を喪失した姿を見せたくはないという意思を汲んでやろう。
「……頼む」
 珍しくそう言って、馬車に運ばれた瞬間、山県はパタリと倒れた。
 伊藤はため息をつく。
「僕に矜持を張ることはないけどさ」
 せめて、椅子に座ってから倒れてほしかった、と伊藤はポリポリと頭をかく。
 さてこの背だけは高い男を担いで椅子に座らせ、椿山荘まで運ぶのはなかなかに重労働だ。
「この首相たる僕に、家令なみの仕事をさせるのは……おまえと聞多だけかもね」
 ため息をつきつつも、伊藤は笑っている。
 周囲に「狐と狼の仲」と言わしめようとも、この二人が同じ戦乱を駆け抜けた「仲間」に違いない。



― 甲斐性 ― (長州)

 ある日、伊藤博文と井上馨のお神酒徳利相棒は、街を歩いていた。
「あのお姉さん、とびっきりの美人だよね」
「俊輔、おまえは素人には手を出さんのだろうが」
 街を歩けば女人を物色する伊藤と、骨董品店を探す井上。
「そうだけど。せっかく街に来たんだから、目の保養をと思ってね。もんちゃん、お目当ての骨董屋はもうすぐ」
「あぁ。とびっきりのべっぴんな青磁があると噂に聞いたからな。どんなものじゃろう」
「陶磁器にべっぴんなんか使わないでよ」
「何を言うか。唐津も萩も伊万里もまったく違うべっぴんじゃ。俺様にはそこいらの女よりも陶磁器の方が格段にべっぴんに見える」
 へぇ~と伊藤は生温かい視線を井上に向けた。
「陶磁器だけじゃないぞ。小判にもそれぞれ違いがあってな。慶長のあの神々しい小判はまさにべっぴん中のべっぴん」
 一種の小判病ともいえる井上は、小判を語らせたら丸一日でも陶酔した目で話し続ける。
「もんちゃん、あれじゃない」
 小判より話題を外そうと、伊藤は少し離れた店を指でさしたが、
「ありゃ?」
 その店の前に一組の男女がいた。
「おう、あれは山県じゃないか」
 一人はいかにも仏頂面で北国の永久凍土を背負っているのかのような暗く冷たい印象の青年。その横には朗らかに笑う小柄な女性の姿がある。
 伊藤と井上は互いに顔を見合わせた。
 青年は彼らと同郷の陸軍卿の山県有朋である。
「山県が女連れなんて珍しすぎて、明日はぜったいに雪だね」
「おいおい。こんな夏に雪なんか降るかよ。でもよ、槍が降っても俺様は驚かないぞ」
「みぞれや雹くらいはあるかもね、もんちゃん」
「……おうおう」
 山県は政府内では名うての「浮き名」が皆無な男だ。堅物かと言えばそうではない。単に女性にさしたる興味はなく、女性よりも庭を愛する男と評判で、伊藤は「枯れ切った」甲斐性なしといつも鼻で笑っていた。 「あの山県が女連れ……って……女と植木を見ているよ、あいつ」
「……俊輔。あれは植木屋の娘とかというおちじゃないのか」
 それはありえすぎて二人ともに苦笑が漏れ、
「もしかしたら……山県は今、庭を新設していると言っていたよね。なら……庭師の娘とか」
「石屋の娘かもしれんな」
「大工の娘かも」
 思いつく限りの推論を口にして後、二人はあたかもそれが真実と言うかのようにうんうん頷き始めた。
「さすがは山県。枯れ切った男。女性と話すのも庭関係だなんてね」
「あの山県が女性とつれ立って街を歩くなど、それ以外の理由でなにがあるんだよ。そうか庭関係か。さすがは山県」
 声などかけたならば、庭についての説明を延々とされかねない。普段は無駄口を叩かぬ寡黙な男だが、いざ庭の話になると普段の何倍も饒舌となるのだ。
 二人は近くの茶店に入り、遠目でちらちらと二人を見ていた。
 山県が大きな植木を購入するのを見て「やはりか」と笑った。

 翌日、廟堂の木戸孝允の部屋に山県の姿を見つけた伊藤はニタリと笑った。
「やぁ、山県。昨日、街で見かけたよ」
 コーヒーを飲んでいた山県は顔を上げ、
「あぁ。庭に置くよい盆栽を見繕っていた」
 その盆栽がよほど気に入ったのか、山県の口調がいつもより若干和らいでいるような気がした。
「そんなに素敵な盆栽が見つかったのかい」
 紅茶を飲みつつ、木戸が話しに入る。
「はい。見事な枝ぶりに即決した。貴兄も見に来られるといい」
「おまえがそんなに絶賛するのだから楽しみだね」
 にっこりと笑った木戸に、あぁこの人も花や庭、盆栽に興味がある人だった、と伊藤はげんなりとしたが、ここで庭の話で盛り上がられては疲れるばかりだ。
「山県。僕はね。盆栽の話などしていないよ。横にいた可愛らしい女性について……」
「女……あぁ、植木屋の娘子か」
 伊藤の予想は見事に的中した。
「植木に造詣が深く、昨日選定に付き合ってもらったのだが」
「……やっぱり植木屋……」
「さして顔は覚えていないが、可愛らしい人だったか」
 そうだ、この木石同様枯れ切った「庭男」は、女性の器量をはかるよりも植木の善し悪しをはかる方が重大事である。
 その場でげんなりとした伊藤に、木戸が、
「俊輔。狂介に女性の話しをしていても張り合いのある答えは帰ってこないよ。植木や石の方が重大事なのだからね」
「それって男として甲斐性がないですよね」
「そうかな」
 木戸はくすくすと笑った。
「私は女性にばかり目が行く俊輔より、庭や石や植木に感心を持つ山県の方が落ちついていて良いと思うけど」
「こ、こんな木石の甲斐性なしを……そんなぁ」
「俊輔も少しは控えるといいよ。梅子さんに縁切寺に駆けこまれる前にね」
 とても冗談として流せず、背筋にサァーっと冷たいものがよぎった伊藤は、木戸手ずからの紅茶もまったく味がしない境地となった。
(甲斐性がまったくない男と、甲斐性がありすぎる男、どっちがいいんだろう)
 帰ったら妻に聞いてみようなどと思っている伊藤博文。
 細君梅子の答えは当然のように「甲斐性がまったくない男」だったりする。



― ふたりで花見 ― (長州)

 その日は帰りは馬車を断り、二人して歩くことにした。
 山県は「体によろしくない」
と馬車を進めたが、頑として木戸は歩くと言い放ち、
 今、傍らを歩く後輩に支えられながら、歩を進めている。
「桜を見たくてね」
「馬車からでも桜は見ることはできる」
 実に疎い男だ、とジーっと山県の横顔を見据えた。
 こうしてゆっくりと歩きながら、宮城周辺の桜を、二人で見たいと思った心など、この後輩は口に出さねば気づきもしない。
「後楽園の桜も咲いたかい」
「……五分といったところだったが」
「見に行こうか」
「本日はよしていただく。ここから小石川までは貴兄には……無理だ」
 まるで子供にメッと怒るかのような顔をされたので、木戸孝允はどこか面白くなく、だが心配してくれていることに心から感謝する。
「ならば明日」
「小石川までは馬車で赴くと約束していただく」
「……心配性だよ」
「貴兄の今の体は、散歩とて重労働だ」
 過保護な後輩らしい一言だったが、心配も過ぎれば喧嘩の原因にもなる。
「私の体は私がいちばん承知している」
「承知しているならば、このような無理はしないでいただきたい」
「………そんなに私に付き合いたくはないのなら、いいよ。一人で花見に行くから」
「そのようなことはいってはいない」
 気まずい沈黙となり、二人ともにただ歩だけを進める。
 ふと木戸が立ち止まったので、山県も一歩遅れて立ち止まった。
「……私は貴兄の体を気遣っているだけだ」
「………」
「こうして歩くことを、迷惑に思っているわけではない」
「………私はおまえと桜を見たいと思ったのだよ」
「……承知している」
「自分の足で歩いて、ゆっくり……」
「木戸さん」
「おまえの迷惑になるなら……もうわがままは言わない」
「……わがままとは思ってはいない」
 一歩下がり、山県は少しうつむいてしまった木戸の肩に手を置く。
「誘って下されて、うれしく思いました」
「なら、体がどうとか……」
「貴兄の体を大切にするのが私の役目だ。そのことも承知していただきたい」
「……心配してくれているのは分かっている」
「誰もが心配している」
「………」
 杖なしでは一人で歩くこともできない体という体たらく。
 今とて山県を支えにようやく歩いているといった状態だ。
「………ごめん」
「いいえ。この道をまっすぐ行けば、一本桜がある。夜桜だと実に美しい」
「………」
「貴兄に見せたいと思っていた」
 木戸はもう一度山県の腕に身を預けるようにしてしがみつく。
 顔をあげてわずかに微笑むと、
「体調がよろしいなら……良いのだ」
 そのままゆっくりと歩きつつ、
「貴兄の小さなわがままなら、誰でも喜んで引き受けるだろう」
「でも……私はおまえがいい」
「なにゆえか。寄りかかるのにはちょうどよろしいか」
「……そんなこと思うと思うかい」
「貴兄ならば思うまい」
「……よかった。桜を見たかったのだよ、狂介」
「………」
「静かに……。皆がいたら風流よりも食べ物になるからね。狂介ならば風流だから」
 きっと静かに桜にみとれていられる。
 そんな一瞬がほしくて、本日木戸はこの無愛想な後輩を誘った。
「一人で行くのは、みんなが心配するしね」
「そのような理由だったか」
 山県は妙に納得したようで、一息落ちした。
「あの連中ならば、花見というのは宴会ゆえ……」
「たまには静かに……おまえと花見ををしたいと思ったのに。おまえはいつもの通り怒ってばかりだから」
「……だが私の思いも理解していただきたい。貴兄の体は他とはかえられぬのだ」
「………」
「私にこのようなことを言わせぬほどに、よくなっていただきたい」
「そうだね」
 ゆっくりと歩き出した後輩の横顔を見ながら、
 されどこうして寄りかかれる関係も、時には心地よいのだ、と木戸は微笑む。
 夕闇がいつしか真なる闇に変わり、月がほのかな灯りを地に照らす。
「あの桜です」
 格式ある旧家にそびえる一本桜が、見えた。
 美しき白い桜。樹齢何百年を物語る悠然とした枝ぶりが見事で、木戸は思わず見惚れた。
 さすがに垣根があるため仰ぎみるだけだが、
 しばしの間、木戸は時を忘れて、見いる。
『桂さん。花見じゃ。今年は盛大にやろう』
 幼馴染の声が聞こえてくる。
『ダメです。高杉の花見など付き合えば、風流さの欠片すらない馬鹿騒ぎですよ、桂さん』
 桜が好きだった久坂の穏やかな声音。
『なんじゃと。花見の良さを久坂はなぁんも知らんだけじゃな』
『楽しさなど求めるところからして風流さなし』
 高杉と久坂がにらみ合う光景が浮かんで、妙に胸がジクリと痛んだ。
「……花冷えはされておられぬか」
「狂介」
「……はい」
「ほんにきれいな桜をありがとう」
 いいえ、と一言のみ告げて、山県も桜とそして頭上にある月を見つめている。
「あすは後楽園に桜を見に行こうね」
「……貴兄の体調がよろしければ」
「おまえはその一言がいつも余計だよ」
「貴兄の体を心配して何が悪い」
「せっかく楽しみにいくのに気を使ってばかりでは面白くないよ」
「気を使わねば倒れる」
「そ……それは……」
 かなりの前科がある木戸は、そこで言葉に詰まった。
「だが……貴兄と二人で後楽園に赴くのは、楽しみだ」
 この後輩が「楽しみ」などと口にするなど珍しいことで、
 木戸は笑って、後輩の腕に身を預ける。
「……狂介。約束だよ」
「体調が悪くなければ、だ」
 こういう過保護な年下の後輩も、時に可愛いと思えるのだった。

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  • 【まとめ】 2013年1月19日
  • 【備考】 4話収録