冷たき誓約



 殿は気高く、優しく……そして最後まで私には冷たい王者でした。
 そういつも何一つ私、名古屋山三郎の願いを聞き遂げてくださることはなかった。最後の最後……
『山三(サンザ)、何か願いはないか』
 そう尋ねておきながら、私の一番の願いを冷酷に笑って拒絶された。
 あのとき、私は誓ったのだ。
 この世で一番に思い焦がれ、同時に一番に憎悪という二字を胸に抱かせた……殿。
 あなたの温もりが消えていくその身体を抱いて、私は誓った。
『生きている間、二度とあなたを思いはしない』
 愛情であれ憎悪であり、私は私の身体の中から「殿」という……今までの私のすべてだったあなたを消して生きていく。
「忘れるな」というのが殿の願いだったから、私はあなたへ捧げた心を忘れて生きていきます。
 それが、私の最後の願いを即座に拒絶され、決して許しはしなかったあなたへのせめてもの抵抗。いや、復讐なのかもしれない。
 殿、あなたを思い続けた数年の日々の私の心を忘却の淵に沈めます。あなたの顔を思い出しても、この思いを思い出すことはない。
「殿……」
 それでも時折、心が疼く。
 あなたの声が聞こえてくるのです、殿。
 あなたは死しても……私をこの山三を苦しめ続ける。
「殿……」
 思いを忘れても、あなたの姿だけはこの目から離れはしない。
 あなたへの思いを忘却の淵に沈め、長き月日が流れました。
「蒲生の槍の山三は……槍師、槍師は多けれど 名古屋山三は 一の槍。今は出雲の阿国のいい男」
 からかうように昔馴染みが、歌うような口調で囀る。
 阿国……その名を聞くのも随分と久方ぶりのこと。つい数年前のことだろうに遥に遠い過去に感じる。
 すべての時は流れ、昨日の日々でさえ遠き過去に感じるというに、  なぜにあの日のことだけが昨日のように鮮明に浮かぶのか。
「阿国とは随分と前に別れた」
 はじめから「いい男」などではなかった。
 殿が死し、「遺言」で死すこともできずに彷徨い彷徨い……行き着いたのが出雲の阿国の腕の中だった。
 阿国は私の母か姉のようなもの。その腕に私の身体を抱きしめて、優しく癒してくれた数ある女の中でも最上の女だった。
「なに、あんな絶世の美女。手放したのか」
 私を拾い居場所を与えた阿国。優しい……傷を決して広げず包んでくれた阿国。
 それでも私の心の暗闇すべてを知ることも、包み込むことも阿国にはできなかった。
 暗闇が支配するだけのこの心。
 そして私の心には、人としての心は九割は遠き昔に喪失し、それ以来「心」が蓄積されることはなかった。
「阿国はこの国の人々の癒しだ。私ひとりのものであってはならない」
 そして私も、いついかなるときも阿国だけの人間になることはできなかった。
『いいのよ、アナタはそれでいいの。ただ、私の側にいて眠っていなさい』
 そう阿国はいつも微笑んでいたが、私の願うのは優しき静かな癒しではない。
「けど最上の女だったよ、阿国は。権力者の玩具にはなってほしくない私の自由の鳥」
 阿国がはじめた女歌舞伎は洒落て派手で……なによりも華々しさと踊りの芸の巧みが人をひきつける。 今は物珍しさもあるだろう。権力者より次々と阿国はお呼びがかかり、諸国を巡っている人気者だ。
 もとは出雲大社の巫女で、神に捧げる舞を踊るのが好きなだけの女だったという。それが諸国を巡り、諸国の神々に奉納する舞を踊りたいということで 巫女を辞め、いつしか男装して洒落た踊りを披露する舞姫となった。神々ではなく荒んだ戦国の世が終わったということを知らしめる 平和の象徴の舞を披露したい。人々の心に明るさを灯す舞姫でありたい。そんな崇高な精神が身を包むゆえに、どのような派手で奇抜な 衣装に身を包もうとも阿国は常に気高かった。
『山三、あなたはいったい何を望んでいるの』
 いつもそう阿国は私に問う。私は答えなど分かりきっているのに、微笑を口元に刻んで答えを渡しはしなかった。
 私の願いをどれだけ優しい阿国であろうと、決して適えることができないものなのだから。
「それで山三。おまえは、これからどうする」
 もはや名前すら思い出すことはできないその知人に、私はいつも阿国にしていたように微笑をもってする。
「姉が森家という大名の奥方になるゆえ、弟がいつまでもフラフラしているのは対面を損なうらしい。おとなしく森家に世話になることにしたよ」
「天下一の美少年の名を、関白殿下の小姓不破伴作と京極家の浅香庄之助と争ったおまえも、最後は姉の婚家の世話になるか」
 それも遠き昔のことのように感じる。
 不破伴作……時の関白豊臣秀次お気に入りの小姓。私とある遊女を巡り「鞘当」をしたまだ幼さが残るかわいい少年だった。 一本の若木のように真っ直ぐに、一切曲がることなく成長すると不破のような男になるのかもれしれない。
 今はもう不破もこの世の住人ではなくなってしまった。
 太閤豊臣秀吉に実子秀頼が誕生すると、関白という最高権威の座を甥秀次に譲ったことを秀吉は後悔したか。もとより不行状が目につく (これは秀吉の側近が仕組んだとも言う)秀次を関白より追い落とし、高野山に送り込み出家させ……それでも飽き足らず秀次に切腹まで命じた。
 もとより百姓の出の秀吉には身内はほとんどいない。まして子どもも恵まれても幼くして死している。
 弟秀長亡き後、自らの世継ぎとして最も血の濃い身内は、姉ともの子どもたちしかなかったのだ。
 秀次はともの長男。幼きときから秀吉は我が子のように慈しんできた。その甥っ子を我が子が生まれその子に溺れるあまり切腹させ、 そればかりか復讐を恐れて妻子三十人を三条河原で惨殺。その中にはまだ十代の一度たりとも秀次と顔を合わせたこともない側室までいたという。
 不破伴作は、忠誠を誓った主君秀次に殉じた。ともに死んでいった。
 ……私は死すことさえ許されない。
 自ら命を絶つことを遺言で差し止められ、何も現に望みもなくただ息を吸って生を紡いでいるだけといえよう。
 あの殉死し「見事」と名を高めた伴作が憎らしいほどに、羨ましい。
 なぜ、私ひとり生きている。
 そんな問いを毎日のように投げつけて、私はまだ生きようとしている。


 信濃川中島。そこはかの武田信玄と上杉謙信という両雄が互いに合い争った地。
 そこが、姉が側室として仕えることになった森忠政の新しき領地だった。
「ここは静かな場所でいいですね。山三、おまえもゆっくりと身体を休めて」
 姉はここ数年でひどくやつれた私を気遣ってか。ことさら明るく振舞っている。
 おそらく蒲生家を出たときの私の廃人な姿を覚えているのだろう。あのときの私と今の私。おそらく何一つ変化はない。
「姉上、私のことなどお気遣いなさいますな」
 私は姉の縁もあり、森の殿より五千石の大禄で森家に召抱えられていた。もとは蒲生家で二千石をもらい、槍の名古屋山三と呼ばれ名声を 博したこともある。そんな私を召抱えられて森の殿はとても喜ばれたが、そんな過去のことなど私にはどうでも良い。
 不思議なものだ。
 森忠政とは、かの本能寺の変で最後まで右府信長に従い死した森乱丸の末弟。今では森家唯一人の生き残りの大名として名を轟かせている。 それに比べ名古屋家は、信長の叔父を祖としそれから三代目が私の父。私の母は信長公の姪だった。つまりは遠いが織田家の縁者でもあり、一時「織田」の姓を名乗ったことすらあるほどだ。 それが元織田家の家来筋でしかない森家の姉は側室。弟は家来になろうとは。
 時の流れとは時として残酷でしかない。いや……私にはこの時とは、無意味なものでしかないけれど。
「姉上は幸せですか」
 ふと、そんな言葉を紡いでいた。
「あら、見て分かりませんか。……とても幸せですよ。この姉の幸せを少しでも山三に分けてあげたいほどに」
「姉上。私は……」
「分かっています。山三は決して幸せにはなれない」
 姉の訳知り顔には、その瞳に「哀れ」という思いが色濃く映されている。
 私は哀れではないですよ。
 いつものように微笑を私は姉に与えた。
(私には幸も薄幸もない。私にあるは、ただ空虚)
 この世は私の居場所ではないという事実のみが、私の身体を支配する。
「私は……しっかりとお勤めに勤めますよ。姉上に決して恥はかかせません」
「サンザ。あなたは、まだ心を会津の地に置いたままなのですね」
 そういって哀しげな顔をした姉は、そっと顔をそむけてどこかに消えていった。
 心……そんな言葉は私には無意味なのです。
 私の九割の心は忘却の淵に消え、残った一割はただあるひとつのことだけを願い続ける。
「殿……」
 そう呼ぶは唯一人と決めていたのに、ただ無意味に生きるために森忠政を「殿」と呼ばねばならなくなった。
(あなたが悪いのですよ、殿)
 私に生きることなどを命じるから、私は「殿」と呼び名をあなた以外に使わなくてはならなくなった。
 すべてあなたが……。


 森家で静かな日々が過ぎていく。
 かつて天下一の美少年と呼ばれた私の顔が物珍しいのか、無骨な森家の住人たちは飽きもせず私の顔を物見のつもりでか見に来ることが多い。 そのたびに名を名乗られ「よろしく」といわれたりしたが、そのほとんどの人の名など耳から耳へと通り過ぎて言った。
 ただひとり、私の顔を親の敵のような顔で見つめる男以外は。
 確か井戸宇右衛門という家老家の青年。……昨今は森の殿と少しばかり折り合いが悪い。……私を見るその目はなぜか憎悪に染まっている。
『あの男の遠縁の女が……蒲生家に仕え罪なきというに罪を着せられ殺されたそうよ』
 そんな噂を耳にしたとき、おかしな逆恨みをされたものよ、と私は笑った。
 男の憎悪の目が私を見るたびにさらに鋭さを増す。その殺された遠縁の娘とやらに相当な思い入れがあるようだ。
「…………」
 私はその男にも微笑を与えた。かつて花がほころびるようだといわれた笑みだ。
 すると男はこらえきれぬという顔をして、必死に視線を避け去っていく。
(この男……私の願いを適えてくれようか)
 憎むといい。誰よりも憎め、その腰に下げている刀を抜きたくなるほどに憎め。
(殿……)
 それでも時は過ぎていく。
 森忠政は転封となり新たな領地美作津山に移ることになった。
 私は五百石加増となり側付きの側近として、ともに新たな領土に向かった。
 そこも静かな地だ。川中島のように歴戦の戦場としての風格もどこか血が薫るにおいもない。
 城の改築の沙汰を私が森の殿より命じられていた。
 その男は改築に反対らしく、ことあることに私に突っかかりギラギラした憎悪の瞳を向けてくる。
(殿、もう少しですよ)
 森の殿もことさらにたてつくその男が邪魔らしい。なんでも先代長可よりの重臣で、忠政を主君というよりは子ども扱いをし ことさらに逆らう。よほどその扱いが森の殿を腹立たせたようだ。
『もし隙あらば宇右衛門を斬っておくれよ』
 それは冗談なのか、本音なのか。
 私にとってはどうでも良いことだったので、承知の意味を込めて頭を下げた。
 その男井戸宇右衛門の瞳を見るたびに、私は微笑を与えるのを忘れはしない。
 微笑を浮かばせれば浮かばすほどに、その男は私を憎むのだ。
 きっと男にとっては蒲生家に繋がるものならば、憎しみの対象は誰でもよかったのかもしれない。
 数ある中でも私を選んでくれた……その一点に私は神に感謝の言葉を捧げた。
 そして、ある夏の新緑の若葉が薫るその日。
 庭の片隅には歌壇が小さく設けられ、山吹の花が質素に咲いている。
 葉桜の下で築城の指揮をとっていた私の前に、その男は立ったのだ。
 右手は刀の鞘にかけられている。
 その日がようやく訪れたのだ。
 殿を失って八年。それは永遠を感じるほどに長い月日だった。
 私ははじめてニッコリと笑うことができる。今、幸せの中にあると錯覚さえ覚える。
「名古屋山三郎……」
 だか男には、そのニッコリが与えた影響は大きかったようだ。
 鞘から手を放し、まるで放心したかのようにその場にパタリと崩れ落ちる。
(なぜに……)
 どうして、その刀を抜いて自分の憎しみを果たそうとはしない。今の今まで、そのつもりだったろうにどうして。
 私は留まろうとはしない哀しみと苛立ち、憎悪が身を覆い尽くす。
(ようやく幸せがつかめたと思ったのに)
 ようやくここまで来たのに。どうして、この男は。
「…………」
 私は高笑いをしていた。狂ったように笑い、そして八年ぶりの涙を頬にと流す。
(殿……私はもう……)
『もし隙あらば宇右衛門を斬っておくれよ』
 森の殿のひとつの言葉が私の頭によぎった。
 刀を抜いたのは無意識だった。
 抜いた瞬間……頭には殿の声が何度も響いている。
『山三。自分から死を選ぶことを許さぬ。自ら死してはならぬぞ』
 それはこの八年間、私を現に引き止めてきたたったひとつの遺言。
『与えられた生を全うしたならば、私はそちが死すとき黄泉のほとりまで迎えに出よう。必ずのう。これは誓約ぞ』
 その遺言を守って八年。殿のない現で自分は息を吸うだけの人形だった。
 もう何も見たくはない。私自身の体温も、聞こえる鼓動も邪魔でしかない。
「山三郎、なにを」
 きっと、もっと早くにこうしていればよかったのだ。
 これは私が私を殺すための行動ではない。死すことを分かった上での暴挙でもない。森の殿の命令だから、だ。
 私は、この男の憎悪を受け止めるために刀を抜くのだ。決して死にに行くためではない……死にに行くためではないのです、殿。
 かつて殿のもとで一番槍を司り、槍の山三郎の名を轟かせた私の腕は過去のもの。
 今では刀ひとつ持つのがようやくの私の腕。
 それでも刀を握り、その男に挑みかかることをやめられない。
 家中第一の剣術の腕を持つその男は、驚きつつも反射的に刀を抜き私を斬り捨てることを忘れないでいてくれた。
「………」
 刀が胸元を貫く瞬間、私は八年前のあのときの光景を見た。
 病に身を倒した会津の太守……会津百万石(そう呼ばれていたが、正確には九十三万石)の殿……蒲生氏郷。私の敬愛する唯一人の主君。
 もはや意識が戻ることもまばらになり、今日明日が峠と医者に宣告されたとき、私は殿に願った。
『殿、山三も共に』
 すると殿は苦しみの最中、首を横に振りつつ、『生きよ』といった。そして『私を忘れるな』、と。
『山ザ。自分から死を選ぶことを許さぬ。自ら死してはならぬ。……与えられた生を全うしたならば、私はそちが死すとき黄泉のほとりまで迎えに出よう。必ずのう。これは誓約ぞ』
 それは私にとっては一番に酷い……遺言での誓約。
 殿のない現で生きねばならない。死すことを許されはしなかった。……だから私は殿と過ごした日々を忘れて生きていこうと決めた。
 私は体温が失われていく事切れた殿の身体を抱きしめて、その冷めた唇に自らの唇を重ねる。
 生前何度も繰り返した口づけの数々。その熱い口づけはもうない。今は冷めた……人の生がない口づけ。
 私は口づけを繰り返し、自らの心に誓約を刻む。
『私はあなたを思った日々を忘れて生きていく』
 抜け殻でしかないけど、ただ生きることを望んだ殿のために生きる。遺言の……忘れるな、という部分だけ抗って……。
 十二歳で殿に小姓として仕えるようになった。
 殿に身も心も捧げ、殿のために生きることだけが私にとってのすべてだった。
 殿は文も武も……教えてくれた。何でも……殿の教えてくださることに私は夢中になっていった。殿……
 バタリと地に倒れた感覚はあった。男を見れば、呆然と血がしたたる刀を持って佇んでいる。
 私は薄らいでいく視界の中でも、もう一度ニッコリと男に笑いかけた。
「……ありがとう」
 その声は男に届いたのだろうか。
 男はその場に倒れ、刀を放り捨て、私の顔を見つめてくる。涙がポタリと落ちてきた。
「なんで……おまえは自ら死ぬようなことをするんだ。俺は……おまえが、おまえが……」
 憎いほどにいとおしい。我が手で殺せばすべて俺のものになると思ったのに……おまえの目は最後まで遠くを……。
 そんな慟哭の叫びを聞き、自分の考えは見当違いだったことに私は笑いが漏れる。
 私はこの男に微笑を刻むたびに、私の願いを適う日々を夢見た。
 早くその日が来ることを祈った。
 それは、遠くの殿に繋がる微笑だったのだろう。
 この男はその微笑が……狂わせたのかもしれない。始めから「蒲生家」に対する憎悪などなかったのだ。
 薄れていく意識の中、視界の片隅に山吹の花が咲いているのが見えた。
「山吹……」
 私は動かない手に必死に命じて、花に手を伸ばす。
 黄泉の道に咲き誇るという山吹の花。暗闇の道をその花だけが明るく照らすといわれている。
「………」
 その花を持っていれば、黄泉でも迷わずに進んでいけるのではないか。 きっと「死をもとめる」行動に出た私を殿は迎えてはくれないだろうけど、山吹の花を持っていれば殿のいる場所に迷わずに進んでいける ような気がした。
「この花が欲しいのか。山吹の花が」
 その男は一厘手折り、私の手に握らせてくれた。
「山吹……あ、ありがと……」
 もう視界は何も映さない。山吹の黄色の色合いも私の目には映らない。
 今まで自らの体温も、鼓動もすべてうっとうしく思っていたが、そのすべてが消えていく感覚。
 暗闇が身体を包む。
「愚かよの、山三」
 声が聞こえた。
「何一つ現に望みが持てぬならば、あの日、共を命じるが最善だったか」
 もはや何も映さないはずの瞳を強引に開いてみると、そこには懐かしい……いとおしくも憎かった人の姿があった。
「殿」
 なぜだろう、身体が軽い。昔のように身軽に身体は動き、そして迷うことなくその人のもとに駆けていく。
 その場は妖しげな明るさに染まっていた。
 暗闇の中にも道を照らす山吹の黄色の花。
 中に一人の人が軽く笑んで……私を待っていてくれた。
「殿、殿、殿……」
 この八年の日々、私の願いはたった一つだった。
 自ら死すことを許されないならば、誰か私を殺してください。 今すぐにも息を止め、封じ込めた殿への思いとともに黄泉にいかせてください。
 殿が待っているから、早く……と。
「早すぎたぞ、山三」
 ようやく殿のもとに辿り着き、その慣れしたんだ胸元に顔を埋めてようやく私の心が戻った。
 もう決して失うことはない。私はまた幸せの居場所に戻ることができる。
「山三は、殿の側から二度と離れはしません」
 殿は少しだけ苦笑して、それから私の頭を軽く叩いて……愚かよのう、と何度も繰り返し………私を強く抱きしめてくれた。
 山吹の花が咲き誇る。
 そこは哀しく、されど美しい暗闇の場所。
 死という別離が引き離した恋人たちを再会させるは、その黄泉という道しかなかった。


「山三郎」
 すでに事切れた弟の身体を抱いて、姉は涙を流し続ける。
 山三郎は山吹の花を強く握り締め、その死に顔は静かで安らかで何よりも幸せそうに見えた。
「おまえはようやく安らげるのですね。……もう苦しまなくていいのね」
 姉は知っていた。
 弟がこの世に生きるのがどれだけ苦痛だったか。されど、決して自ら命を断てはしない理由も。
 かの三年前の関が原のおりも、まるで死に場所をもとめるように一人で槍をふるっていたという。
「山三郎。山吹の花をちゃんと持って黄泉を歩いてお行き。……その花は道を照らし、あなたが会いたい人の姿も照らしてくれましょうから」
 血で染まった弟の身体をいつまでも抱きつづける姉の背後では、名古屋山三郎を殺害した罪であの男井戸も撃ち取られていた。
 山吹の花が風にそっと揺れる。
 その花は黄泉の道を照らすといわれる花。
 だが知っていようか。山吹とは花は咲くが決して身を実らせることのない……恋に例えるならば哀しさを物語る花であることを。
 その花を名古屋山三郎は、ただ握り締めて……あの世へと旅立っていった。

冷たき誓約

冷たき誓約

  • 戦国~江戸
  • 完結
  • 【初出】 2008年ごろ
  • 【改訂版】2007年3月2日   【修正版】 2012年12月9日(日)
  • 【備考】