福澤と大鳥の喧嘩

前篇



 福澤諭吉は慶応義塾ですれ違う学生に、
「君、その帽子は曲がっているぞ。なおしたまえよ」
 といった口調で声をかける。
 それを見た大鳥圭介は、あからさまに不機嫌になった。
「何をへそを曲げていやがるんだ、トリ」
 本宅に戻ると、いつもの座敷に大鳥がいた。ごろりと寝転がっているので、その背中をいつも通りに足蹴にしておく。
 いつもならばそこで「痛い」やら「暴力反対」と涙ぐんで訴えてくるが、本日は沈黙のまま微動だにしない。
 これには福澤の方が慌てた。
「お、お錦さんが牡丹餅をつくった。ありがたがって食いやがれ」
 瞬間、大鳥はムクッと起き上がったので、福澤はわれ知れずにホッと吐息を漏らす。
「・・・ゆーさん」
 声音がいつもよりかなり低い。何か不機嫌なことがあったということは想像がつく。
 だが大鳥の不機嫌な理由など、大好物の玉子焼きを同僚に奪われたやら、大好きな本多に引っ付いて拒まれたやらがほとんどで、そのすべてに対してこんな落ち込み方をしない。
 その程度ならここで愚痴を言いまくって、すっきりした顔をして帰っていく。
 最悪な予感が福澤の脳裏をしめた。
「トリ。まさか・・・だが、ついに本多に愛想を尽かされたか」
 これにはすぐにぶんぶんと頭を振って否定したので、福澤はホッと胸をなでおろした。
 この楽観的で羞恥の極みである大鳥に、世話女房として長年尽くしている本多という男がいる。
 中々にできた男で福澤も気に入っており、語学力があるため時折慶応義塾に講師として顔を出してもらっているのだが、
 その本多、いつかは大鳥に愛想を尽かすと本気で福澤は思っていた。
「本多に愛想を尽かされたらこんなところでゆーさんの顔を見ていないよ。どうにか好きになってもらう方法を探す」
「それはそうだな」
 なにせ本多に限っては、大鳥は一切退くことはしない。「嫌いになりました」と言われたならば、その嫌いなところを直すと譲らないのである。
 それは分かっているのだが、
 今も好物であろう牡丹餅を頬張りつつも大鳥は二カっと笑いはしない。妻お錦の牡丹餅をいつも大鳥は幸せそうに頬張るのだが、今日は仏頂面だ。
 しかも会話大好きな男がなにも話さず、黙々と食い続ける。妙に福澤は気になった。
「ならばトリ。てめぇはなぜにそれほどに暗い顔をしていやがるんだ」
「あのさ、ゆーさん」
「なんだ」
「ゆーさんって昔から俺にはなになにしやがるとか、てめぇとか言うよね」
「それがどうした」
「考えたら、その言葉。俺とたまに福地にしか言わないよね」
「・・・そうか」
「そうだよ。学生や適塾の仲間たちには、したまえの方を使うよ」
 そこで福澤は少し考え、考え終えてからこれぞ傲慢極みの表情で、
「てめぇはこの俺様の飼い鳥であって、仲間でも部下でも学生でもないでいやがる」
「・・・また飼い鳥とか言うし」
「福地に関しては同様。あれは俺様の原稿に執着するモノ取りに等しい。取り立て屋だ。てゆえらに俺様が人間の言葉を使うわけがなかろうよ」
「・・・ゆーさんって俺を大事にしていないよね」
「飼い鳥を大事にしないとならん理由が分からん」
「そんなことを言うと、飼い鳥だって面白くなくて、どこぞにパタパタと飛んでいってしまうかもよ」
「ほぉ。それができるならやってみやがれ」
「ほんっとに素直じゃないし意地悪で・・・俺様なゆーさん。ならもう俺は知らないよ」
 ごちそうさまと言って大鳥はその日、何一ついつもの愚痴を言わずに去って行った。
 どうせ明日には「ねぇねぇ聞いてよ」といつものように顔を出すと思っていたが、次の日もその次の日も少しは待っていたその日も顔を出しはしない。
 かわって福地源一郎が訪ねてきた。
「評論を書いて欲しいんだ、福澤先生」
「なぁ福地」
 福澤は心ここにあらずだった。
「なんだ福澤さん。まさか書けんとは言わんよな。アンタは天下の福澤なんだからよ」
「トリが顔を見せやがらん」
「トリ? あぁ大鳥圭介のことか。仕事が多忙だろうよ。あぁ見えて工部技監兼工部大学校の校長だろう」
「家に余るほどカステラがあってな。腐らせるのはもったいないからトリに食わそうと思っていたんだが」
「それはこの福地さまがすべて平らげていこう」
「・・・トリに食わすつもりだ」
「誰が食おうが同じだろう」
 それもそうだが、天下の福澤は大鳥が実に幸せそうな顔をしてカステラを食す姿を頬杖をつきながら見ているのが楽しくもあった。
 カステラも大福もある。お錦はいつも楽しそうに大鳥のために牡丹餅を用意している。
 それなのになぜ来ないのか。腹が立った。
「訳が分からんことをいいやがるんだ」
「なんだなんだ。ついにあの楽観的であんまり世俗を気にせんトリを怒らせたのか、福澤さん」
「・・・知らん。飼い鳥の分際で怒るなどなにを考えていやがるか」
「飼い鳥ね。そうだろうさ。それはトリがいちばんに分かっているからいいけどさ。福澤さんよ。あんた、もう少しトリを大事にしろよ」
「大事? なぜ、俺様がトリを大事にせんとならんのだ」
「なぜって・・・。あんたさ。毎日毎日愚痴を言いにくるトリを追い返しもせず、たらふく牡丹餅をつくって・・・いつも歓待しているだろう」
「別段。アレがしつこいゆえ、いやいやながら付き合っているにすぎん」
「他の人間が訪ねてくると気に入った相手でないと追い出すあんたがか」
「・・・」
「俺はここで一度も牡丹餅もカステラをいただいたことはないぞ」
「なにが言いたい、福地」
「友達は大事にしな、福澤さん」
「トリはトリであって俺様の飼い鳥に過ぎず」
「あんたは友だちも知人もいっぱいいるけどよ、そうしてお菓子を用意して愚痴を聞いて、顔を出さんと寂しがるのはトリだけだろう」
「馬鹿なことを言いやがるな」
「図星かよ、福澤先生。目が泳いでいるし少し口も開いているぜ」
 それが図星を突かれた時の福澤の癖らしい。
「いつまでも天下の福澤らしく傲慢な言い方を続けたらな。さすがのトリも愛想を尽かすかもしれんよ」
 それよりも、と福地は畳を叩いて、
「評論を書いてくれよ、福澤先生」
「・・・・」
「美味い牛鍋を御馳走するからよ」
「・・・・」
「カステラもつけるから」
「知らん」
「頼むよ」
「俺は機嫌が悪い。しかも筆が不調でいやがる」
「福澤さん。あんたが筆が絶好調に乗る日なんか俺は見たことはないぞ」
「帰りやがれ」
「書いてくれるなら帰るさ。あのよ、福澤さん。あんたがそう飼い鳥なんか言うからよ。あのトリ、違うところに巣を作ったんじゃないのか」
 そこで福澤は顔をあげ、ギロリと福地を睨みつけた。
「たとえば」
 この返答をまったく予想していなかった福地は、逆に口ごもる。
「えとよ。例えだからな・・・怒らんで聞いてくれよ。あのトリがメチャ仲が良い榎本とか・・・」
 そこで福地の顔に万年筆が飛んできた。
 寸前なところで避けたが、福地は冷や冷や物である。
「傷害未遂罪で訴えるぞ、天下の福澤」
 榎本武揚と福澤には因縁がある。
 榎本が箱館政権の首班として捕縛された折は、福澤は助命嘆願に動いた。福澤の妻お錦と榎本の母は遠縁に当たるという縁もあった。
 だがその榎本がさっさと新政府に出仕し、立身出世する様を見てからは「見苦しい」とばかりに攻撃を始めたのだ。
「榎本ではなくて勝さんのところかもしれんぞ。トリはニコニコしているからな。どんな人間ともうまく付き合う」
「馬鹿トリ」
「俺に当たるな」
「旧幕臣の誇りはないでいやがるか」
「悪かったね。俺も新政府の一等書記官で海を渡ったさ。さっさとやめたがね」
「福地など論外だ」
「はいはい。でしょうよ」
 どうやら今日はどう取り繕っても評論は書いてくれそうにない。
 これ以上、モノが飛んでこないうちに帰ることにしよう。
 福地は心底で「あのトリ!」と思いつつ、「でもな」と付けたした。
「あの福澤さんだろう。俺はいつかあのトリが愛想を尽かすと思っていたけどな。よくこんなに長く持ったもんだぞ」
 超楽観的でのほほんとした大鳥と、超絶俺様の福澤。
 うまく起動しているようで、その実は大鳥がうまく操縦しているように見えたのは自分だけだろうか。
「それにしても」
 あの天下の福澤が、たかが友人が顔を出さないだけで沈むなど、これを記事にした方が新聞は売れるのではないだろうか。
 それもいいなぁと思いつつも、福地はニタリと笑った。
「頑張れ、天下の福澤」
 言葉では言い表せない「特別」な相手なのだから、もう少し大事にしてやることだ。


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福澤と大鳥の喧嘩 -1

福澤と大鳥の喧嘩 前篇

  • 【初出】 2013年6月30日
  • 【備考】