井上馨の秘書官

4章



 翌日、本多は慣れてはいない背広に身を包んで鳥居坂の井上本宅に向かった。
 門前で呼び鈴を鳴らそうと身構えたときに、
「新しい秘書さん?」
 と声をかけられた。
 二十歳ほどの年頃の女性が門前で猫と戯れていた。
 淡い桜色の着物に訪問着を着こなしているが、どちらも仕立てがよい上等な一品だ。井上の家族だろうと検討がついた。
「はい。本多幸七郎と申します」
「父がお待ちかねです。その門は形ばかりで錠はかかっておりませんのよ」
 天下の外務卿の本宅としては警備が杜撰ではないだろうか、と本多は危惧した。
 扉を開けて中に入ると女性は猫を抱いたまま本多に続いた。
「私は末子。井上の娘にございます」
「さようでごさいましたか。以降、よろしくお願いいたします」
「でも本当は養女。井上は私の実の叔父でございます」
 複雑な事情がありそうなので立ち入った話は聞かぬように軽く微笑むだけにとどめたが、すると末子は本多の顔を見てクスクスと笑い出した。
「この家には養女がとても多くて、井上も実の娘も養女も訳が分からなくなっているようです」
「・・・」
 さすがに実の娘と養女は間違わないだろうと思った本多の考えは、後程思いっきり訂正することになる。
「この猫はコテツ。山縣のおじさまの猫ですの」
 末子はにこにこと愛想良く話すので、本多の緊張も少しずつ解けていった。
 コテツと言う子猫の背をそっと撫ぜてみる。すると猫は本多の目をじーっと見つめた後ににゃあと鳴いた。昔から猫には懐かれる性質なようだ。
 猫の顎もとを撫ぜてみると、ゴロゴロと甘え始めたそのときだ。
「井上馨、天誅」
 唐突に和やかさを壊すかのようなだみ声が門前より聞こえ、本多は振り返った。その際には癖で銃刀をつかむ仕草をしてしまったが、当然のように刀は腰元にはない。
 懐刀を取り出したところで、
「放っておきましょう。いつものことです。また張り紙か落書きでしょう」
 末子は落ち着いていた。
「門など空いていますのに今まで誰一人として踏み込んできたことはありません。声ばかり大きくて安眠妨害甚だしくて迷惑です」
 門前の殺伐とした気配が消えたことを察し、本多は門より外に出た。そこには末子が言う通り大量の張り紙が貼ってあり、これでもかというほどに悪口が書いてある。
「なんとも品がない」
 末子はその張り紙を見て苦笑を作った。
「悪口を書くでももう少し品や遠まわしの芸があれば面白いのに。かつて豊臣秀吉を揶揄した落首には傑作が多かったと聞きます。末世とは別にはあらじ木下の猿関白を見るにつけても、などひねりのあるものを私は見たいですこと」
 この張り紙や天誅などの叫び声は日常茶飯事となっているようだ。
 それをすべて剥がして本多はわずかに苦笑する。
(三日として続かない井上屋敷・・・地獄の鳥居坂とは誇張ではないのかもしれない)
「驚かれました?」
「少しは」
「そうですか。ここに来られた方はこの一件で顔色は真っ青。その日のうちに出ていく方が多数にございます」
「・・・なるほど」
「本多さんのように懐刀を持って飛び出そうとした人は初めてでごさいます」
「私はもともと軍人ですので癖です。情けないことに・・・銃刀を掴もうとしてしまいましたが」
 微笑む末子に邸宅の中に「どうぞ」と招かれた。
 物怖じしない気丈で芯のしっかりとした女性だ。花の美しさと気品を備えている。井上の姪という話だが面影はどこにも見当たらない。
「ここが巷で噂される地獄の鳥居坂。泣く子も黙る井上邸にございます」
 おどけて見せる末子に本多はどことなく好感を持った。
 次に末子に案内をされたのは居間だ。そこでは一人の女性が針仕事をしている。年は三十ごろだろうか。顔がとても小さく背筋がピンと伸びていて姿勢が良い。
「武子さま。新しい秘書さんが参りました」
 あら、と顔を上げた武子は本多を見てにこりと笑った。
「今回の秘書さんは見事な色男ですのね」
 なんと返せばよいかわからずとりあえず頭を下げておく。
「井上の家内の武子です」
 一回りほど年が離れた夫婦のようだ。井上の妻というよりは末子の姉といった風情である。
 女盛りの年頃で、洋装が似合いそうな美しい人だ。
「末子さん。この針に糸が通りませんのよ」
 武子は針を持ち上げて苦笑いをした。
「私は遠眼で針に糸を通すのは苦手です」
 などと困ったように末子も首をかしげるので「失礼を」と言い、本多は屈んで武子に近づいた。察した武子が手渡してくる針に糸を通した。どうやら膝に乗っている袴を繕おうとしていたようだ。
「あらお上手。もしかして繕いもできまして?」
 それに軽くうなずくと、武子は笑顔で袴を手渡してきた。
「お願いします」
 袴の繕いを見るとさすがにいびつすぎて本多は目を細めてしまった。これならば自分が繕った方がましだろう。
 慣れた手つきで破れを繕っていくと武子は「まぁ」と声をあげた。
「男さんだというのにお上手」
「昔、転戦している際は衣食住は自ら賄わなければなりませんでした。食事を作り、繕い物は自分たちでしたので・・・慣れたようです」
「私など何年もしていても慣れません。きっとこれも一種の才能だと思いますよ」
 繕って渡すと武子は丁寧に頭を下げた。
 この井上邸では主人や奉公人の垣根は薄いように見られる。
「おう。きちょったか」
 井上は背広姿で現れた。既に登庁する支度はできているようだ。
 本多は立ち上がり、井上に対して深々としたお辞儀をする。
「軍人の見本のような礼じゃな。そうだろう、山縣」
 井上の背後には背広姿の長身の男が立っている。背筋がまっすぐで姿勢が正しく、眼光は無に等しく何一つ感情がうかがえない。
 かつてこの男が陸軍卿の際に戸山学校で訓示を受けたことがある。現参議にして陸軍に君臨する長州の山縣有朋だ。
「伊藤が昨日訪ねてきた。話は聞いている」
 淡々とした抑揚のない声音は、どことなく冷たさに覆われている。
「戸山学校で銃製造をあの村田とともにしていた稀有な男だ。依願退職のようだが、村田がうまくやれるのは君以外はいなかった。村田など今でも君を復帰させたいと望んでいる」
 東京に戻った際に村田に挨拶にいった際に「一緒にもう一度やらんか」と言っていたが社交辞令として本多は流してしまっていた。
「待て。ようやく俺様は秘書を捕まえたんじゃ。奪うようなことを言うな」
「・・・我等の命もかかっているゆえ・・・勧めん」
「なんじゃ。その命って」
「想像にお任せする」
 井上の料理に長州閥の人間たちは相当に苦しんでいたことがわかる言葉だ。そして仲間である井上ゆえに「不味い」とは言わず、かの伊藤のように勇気と覚悟をつけて今まで食してきたのが想像できる。
(無茶だが・・・同僚思いなのだろう)
 または井上という人は、長州閥の重鎮たちすら気を使うほどの人物ということだろうか。
 昨日から長州閥の大物にばかり接してきているが、今まで抱いていた印象とはずいぶんと違いがある。権力の権化や政府を私物化しているなどと新聞では叩かれているが、本多が関わった人はどうも人間味があって気さくだ。
「これから外務省に行くからついてきてくれ。それから・・・」
「はい」
「武子。森村にここに来るように言っておいてくれ。六つくらいでいいだろう」
「かしこまりました」
「本多は一日を通して俺の一日の流れを覚えるんだな。横についていればいいぞ」
「かしこまりました」
「かしこまらんでもいいさ。俺様はかなりのずぼらだからな。まぁよろしく頼む」
 にっと笑った井上はおそらく本多の緊張を緩めようとしているのだろう。姪の末子といい、なんとも気遣いのある対応だ。
「山縣。おまえは廟堂に置いて行ってやる」
「そう願おう」
 馬車で外務省に向かうことになった。
「これが俺さまの愛車であるここ掘れ小判号だ」
 玄関前に停車した馬車はかなりの年代物だ。おそらく明治初期のもので既に骨董の域に達しているのではないだろうか。
(ここ惚れ小判・・・)
「かの童話より名前をとったようだ。井上さんは埋蔵金や小判にとてつもなく浪漫を感じるらしい」
「ロマンですか・・・」
「ついでにこの馬車は頑丈なのが取り柄で実に揺れる。酔い止めを医者に処方させておいた方が身のためだ」
 はぁと請け負った本多に対し、
「君は今までの秘書とは違い、長く続くことを願っている」
 その言葉につい敬礼しそうになったが、礼をもって返した。
「いささか固いが、井上さんが緩すぎるので適度だろう」
 山縣は馬車に乗り込むとびょんと猫も乗ってきた。先ほど末子が抱っこしていたあの猫だ。確か名前はコテツと言った。
 猫であるのに犬と見まがうように大人しく、山縣の足元に座って動かない。
「こいつは猫使いでな。猫の言葉がわかるらしいぞ。こいつが飼っている猫たちは主に忠実。こうして護衛として主と同行するんじゃよ。しっぽなど踏むんじゃねぇぞ。見事に引っ掛かれるからな」
 犬とは違い猫というのは気まぐれというが、主に忠実な猫というのも時には存在するらしい。
 尻尾を丸めて足元に控える猫は、本多の視線に気づいたのか顔をあげてにゃあと鳴いた。
「井上さんは気に食わんが秘書どのは気に入ったらしい」
「なんで俺はダメなんじゃ」
「猫にとって満足する食事を作れんからだろう」
「おい。猫など猫まんまでいいだろうが」
「唐辛子入りの猫まんまを猫が好むと思われるか」
「・・・ダメか」
「当然だろう」
「それはぬかったな。よしコテツ。次はうまい飯を作ってやるぞ」
 コテツは全く期待していないという目を井上に向け、すぐに視線をそらした。
 馬車はゆっくりと発車した。山縣の「実に揺れる」はまさに的を射ている。本多は何度も体が浮き立ち、軽く座席にしがみついてしまった。
「この馬車は慣れるまではけっこうつらいんじゃ」
「俺はいまだになれんが」
「平然と座っているじゃろう。慣れたってことじゃ」
 山縣は甚だ不快という顔をしたが、そんな横顔を見ているゆとりすら本多にはない。
 これならば馬の方が遥かに揺れはない。人力車の快適さが骨身に染みる。
(舌をかまないようにしなくては・・・)
 時の外務卿がなぜに骨董に等しい馬車になど乗っているのだろう。名前もさることながら、本多はそこが気になった。
 それに顔色一つ変えずに馬車に揺れている山縣の境地に至るまでは、果たして何年かかるのだろう。


 廟堂で山縣が馬車より降り、そのまま桜田門前の外務省に馬車はまわる。
「ずいぶんとまいっているな」
 冷や汗が流れる中で、本多は十五年前のかの開陽丸の船出を思い出していた。
 仙台で榎本艦隊と合流し、旗艦開陽丸に乗り込み、蝦夷に向かった慶応から明治と年号が変わったその年。
 開陽の出航は嵐が伴うことが多く、仙台から蝦夷の鷲ノ木に向かうまでの日々はほとんど嵐で揺れに揺れた。何度この膝より高く水が襲ってきたかしれない。
「嵐の船に比較すればまだまだ揺れておりません」
「そうだな。俺様も船には散々な目にあったからよ。・・・あぁ、おまえさんあの開陽丸に乗っていたんだっけな。なぁ。あの船には大阪城のご金蔵が根こそぎ積まさっていたというのは本当か」
「・・・私は実際に見ておりませんので」
「ご金蔵の小判が山ほど沈んでいるなら、開陽を引き上げてみたいな」
「・・・それは壮大なことでございますね」
「あぁ。だがな。どちらかというと俺様は昔からの埋蔵金に浪漫を感じるんじゃ。武田の財宝など心ときめくぞ」
 本多は馬車酔いの体調の悪さで思考がぼやけていたが、埋蔵金という一言で昔、函館で聞いた話を思い出してしまい、口に出した。
「蝦夷にも埋蔵金伝説がありました」
「なっなんじゃと。蝦夷にあるのか。アイヌの伝説かなんかか」
 即座に井上は食いついてきた。
「いえアイヌではなく松前藩の話です」
 そこで馬車が停車したが、停車の振動で体が跳ね、危うく迎えの井上の胸に倒れこむところだった。
「それで・・・松前の埋蔵金じゃが」
「・・・到着したようです」
「そんなのどうでも・・・」
 馬車の扉があき「おはようございます」と外務省の職員と思われる男が深々と頭を下げた。
「あぁ、おはようさん」
 井上は不承不承という顔で馬車より降り、「話は帰りな」と笑った。そして職員に「新しい秘書だ」と本多を紹介した。
 本多はよろしくと頭を下げる中、その職員の目はありありと「いつまで続くのか」というあきらめに似た思いが刻まれている。
 井上が歩く半歩後ろを歩きながら、おそらく書記官と思われる男が話す内容を本多は聞いていた。
「午後より吉田大輔が参りますので、それまでに昨日の書類について吟味のほどを」
「昨日・・・条約改正についてか」
「はい」
「・・・探しておくか」
 その一言にありありと嫌な予感を感じ、その予感は現実となったのはほんの数分後。
「秘書さんの席は向こうになります」
 外務卿室の扉が開けられ、これから本多の主な職場となるその部屋を見回したそのとき、外務卿専用の机の周辺がまさに強調ではなく書類に埋もれていた。
「どこだったかな」
 その机から掘り起こすように書類を探し始めた井上を遠目で見ていると、
「これも違う。あぁこりゃあ違うな。おかしいな。昨日のだからここらへんにあると」
 書類を放り飛ばして探している井上を見て頭痛が襲ってきた本多は、
「私が探して整理をいたします。どうぞお茶でも飲んでいてください」
「といってもおまえは来たばかりでわからんだろう」
「分からないですが、こういう後片付けは慣れていますので」
「・・・」
「えぇ。とても慣れています。お手の物です。ですから井上外務卿においてはソファーでお寛ぎになりつつお茶でも飲んでいてください」
 こういうときは笑顔でまくしたてるのが効力があるらしい。
 本多の元上官たる大鳥も片づけは大の苦手で同じように机の周辺をごちゃこぢゃにし、書類の山と化したこともあった。
 その際に悟ったのだ。片づけが苦手な人間というのは、時として見事なまでに机の上を山とする。一種の才能ともいえる。そして片づけ下手は治らない。
 本多は大急ぎで机の整頓に入り、井上は首を捻りつつも言われた通りソファーに座し、時には煙管をふかし、熱くない茶を飲んでくつろいだ。
「外務卿。おそらくこの書類だと思いますが」
 真新しい書類を井上に差し出すと「たぶんこれじゃな」と井上は笑った。
 なぜ昨日の書類が山のふもとに埋まっていたのかが謎だ。
「それから俺のことは外務卿などと呼ばんでいい。おまえさんは俺の秘書だ。そんな他人行儀のかしこまりなどいらんぞ。昨日いった通り井上さんでいい」
「・・・承知いたしました」
「おまえさん・・・あの楽観人大鳥さんの副官だったんだろう。よくあの緩みきった大鳥さんにおまえさんのような堅い人間がついていたものだ」
 それには答えず本多は整理整頓を続け、日付や書類の内容ごとにまとめに入り、およそ千枚ほど片づけたときに、扉をノックする音が聞こえた。
「吉田です」
 中に入ってきた青年に「おう」と井上が手を軽くあげる。
「書類はありましたか」
「秘書が見つけた」
「・・・秘書。何か月ぶりですかね」
「言うなよ」
「秘書さんはどちらに」
「あっちで書類をすごい勢いで整理整頓しているぞ」
 本多は立ち上がり「本多といいます」と頭を下げると、外務大輔吉田清成は「よろしく」と手を差し伸べてきた。
 細身のスラリとした体型の男だ。背も五尺四寸くらいあるだろうか。眉目は整っており、十人中八人は「良い男」と言うだろう。控えめな微笑みが優しい印象を醸し出している。
「今度の秘書さんはどれくらい持ちますかな」
「それも言うな」
 クスクスと吉田は笑いながらソファーで井上と打ち合わせを始めたので、本多はとりあえず整理整頓に精を出すことにした。
「おい、本多」
 呼ばれたときにはすでに書類の整頓は終わり、机の引き出しの整備にかかっていた。
「これから仏蘭西公使館の領事と書記官が来る。おまえも横で控えていろな」
「かしこまりました」
「フランス語でご機嫌ようはなんというんだ」
「comment allez-vous(コモンタレブー)でよいかと」
「秘書さんは仏蘭西語を勉強されたようで」
「いえ。昔、仏蘭西の軍人に初歩を習った程度で・・・勉強したというほど詳しくはありません」
「軍人・・・」
 吉田は少し考えるようなそぶりをした。
「あぁ。大鳥さんが言うには仏蘭西語と英語はできるらしい。こいつは認めんがそれなりにできるんだろうよ」
「・・・大鳥さんが」
「本多。この吉田はおまえの元上官が釈放されてすぐに西洋に旅立った際に、随行として従った相手だ」
「・・・さようでしたか」
「ということは君は大鳥さんの病気のもとである本多くんということかな。一度会ってみたかった。あの大鳥さんにあそこまで執着されるとはお気の毒と言っていいのやら」
 はぁと間の抜けた返答をすると、吉田は本多を隅々まで見回して「確かに」と頷く。
「日の本一良い男と叫びたくなる理由もわかりますな」
「・・・どういう意味ですか」
「ビックベンやナイアガラの前で大鳥さんいわく、世界広しと言えども本多に勝る男なし、と大声で主張していたのですよ」
 顔から火がふきそうなほどの羞恥に襲われ、本多は一瞬火だるまになったかと思った。
「そうか。本多くんなら・・・今までの秘書のように逃げ出さないかもしれないな。あの大鳥さんを操縦しきったのなら、井上さんも何とかなるかもしれない」
「なんじゃい」
「長続きするといいですね」
 いまだ本多の火だるまはおさまらない内に、お客人が二人登場となった。仏蘭西領事と書記官だ。
 吉田と井上が挨拶を交わす中、通訳がまだ部屋に現れない。
「通訳を頼む」
 とんでもないと思いつつも、誰も仏蘭西語が分からないならば本多が訳すしかない。難しい政治用語などどう訳せばよいかと思いつつ、まずは世間話から始まり少なからずホッとした。
(早く一刻も早く・・・)
 通訳が現れてほしいと祈るしかない。
 足音が聞こえほっと安堵したが茶を運んできた給仕であり、次の足音は書記官で仏蘭西語など全く話せない男だった。
 井上に小声で、
「通訳はいつになったら参るのですか」
 と尋ねると、
「今、コレラもどきにかかって休養中らしい」
 瞬間、目の前が真っ暗になった。
「心配するな。今日は難しい話などないからよ。おまえさんの仏蘭西語、発音がきれいじゃな。大丈夫じゃ」
 全然大丈夫ではない、と反論をしたいのをこらえて、現状を乗り切ることに本多は終始した。
「いざとなれば大鳥さんでも呼んできますので」
 にこやかにおどける吉田はとりあえず流して、本多はこの井上馨の秘書官とは本当に大変だということを骨身によくよくしみるほどに実感していた。

井上馨の秘書官 -4

井上馨の秘書官 3章

  • 【初出】 2016年6月19日
  • 【備考】 明治14年の秋の設定。夏だとあの政変が入るのでとてつもなく面倒・・・と思い秋にしました。
  • 吉田清成。幕末・明治の男前にランキングしているようです。いつか登場させたかった。