傷を負った副官



「大鳥さん」
 大川正次郎に背負われている人間の顔を見たとき、大鳥は一瞬だけ意識が消えかけた。
「本多」
 正常に呼吸ができなくなっている。あぁ過呼吸だ、と思った時に、かつて医学を学んだ身が役立てる、と一瞬にして知識が走馬灯のように駆けた。
「……軍医はいるよな。背中に銃弾がかすった。止血はしてある」
「大川。意識はどうだ」
「最初の方はしっかりしていたんだが、途中から……呼吸がな。とりあえず寝かしてやらん、と」
「俺が診る」
「アンタは全軍なんとかしな。土方さんも怪我を負っている。本多は俺が診ている」
「大川……」
 今すぐにも薬を手に本多の怪我の手当てに当たりたい、と大鳥は思った。
 顔色がよくない。おそらく体の熱が引いていっているだろう。
 抱きとめたくて、抱きしめたくて。この腕に引き取って、いもしないだろう神や仏に祈りながら、治療に専念したい。
 だが、哀しいかな。今の大鳥はこの全軍を率いる立場にあった。
「大川。戻るまで、頼む」
 今ほどこの身が厭わしいと思ったことはない。
 だが統括するものとして私情に振り回されてはならない、と大鳥は自らを律する。
 大川は頷いて、本多を医者の方に連れて行った。
 その顔を見ながら、後ろ髪を引かれる思いで、駆ける。
 身が裂かれるほどの苦痛を味わいながら、あぁここは戦場なのだ、と意味もないことを思った。
 たいせつな人間が死んでいく……場所なのだ、と。


「……本多、大丈夫だからな。すぐに治してやる」
 小川町大隊を預かる歩兵頭並の本多のもとには、多くの隊士たちが集まっていた。
 自分たちの隊長が意識が戻らないとならば、誰もが居たたまれない気分となる。
 先ほど軍医が顔をしかめて治療していった。
 背の傷のため、うつ伏せに寝せられ、時おり苦しげに唸る。
「……本多」
 冷えたその手を大川が力を込めて握りしめる。
 こんなところで友を失いたくはない。ましてや本多は小川町大隊の隊長であり、伝習歩兵隊と士官隊は本多の指図により動いてきた。
 今も門を死守するがために自ら先頭に立ち、そして銃弾が背を焼いたのだ。
「おまえ、隊長だろう。部下を放っといて逝くなよ。ついでに大鳥さんも置いて逝くなよ。アレは一人ではなぁんもできんのだからな」
「……ひどい言い方だな」
 大鳥が疲れ切った顔をして戻ってきた。
「負傷兵はすべて会津に送ることにした。本多も意識さえ戻れば、すぐに……運ばせる」
「……意識が戻れば、か」
「あぁ。状態はどうだ」
「戻らねぇ。体温が……下がっていって……」
「なにやってんだ」
 珍しく大鳥が怒鳴り、本多の体をその両腕で抱きしめようとする。
「大鳥さん」
「体温が下がっているなら温めてやらない、とならない。本多……」
 大鳥は陣羽織と軍服を脱ぎ、襦袢のまま軽装を解いた本多の体を抱きとめ始めた。
「大丈夫だ、本多。死なせはしない」
 そうして背中のキズには触れぬようにして抱きとめて、大鳥は自らの熱を移そうとしている。
「……柿沢さんがダメだってな」
 大鳥の参謀としてついている伝習隊に配属された会津人柿沢勇記も、また負傷し意識がほとんどないらしい。
「伝習隊はおまえが預かれ、大川」
「なに言ってんだ。そんなのできるはずないだろう」
「本多がこうなった以上は仕方ない。さっさとまとめあげろよ。……本多に心配はかけるな」
「……いちばんの本多の心配は大鳥さんだろうが」
「……違いないな……」
 今にも泣きそうな顔で必死に本多を抱きとめている姿を見ると、
 大将がなにをやっているんだ、とどうしても叱れなくなる。
 死神にも渡しはしない。本多の身を、死というものが連れて行くのを大鳥は全身で拒んでいる。
「俺がもっと早くに気づけばな。血が……だいぶ流れていた。本人は俺に言ったんだ。……介錯をしてくれって」
「何だと」
「馬鹿野郎、と言っておいた。助かる命だ。みすみす無駄にするなってな。コイツ……」
「本当に大バカ者だ。いつも言っているじゃないか。何があっても死ぬんじゃない。ちゃんと生きろ、と。生きていてくれればそれでいいって。
 なにが介錯だ。目が覚めたら説教だからな。おい、本多。聞いているか……。聞こえているなら……ちゃんと聞こえているならな。死なないでくれ」
 抱きすくめて、大鳥は祈りを紡ぐ。
 何度も何度も「死なないで」と叫んで、本多の体を抱きしめ続けて、
 だが一隊長にかかりきれるほど、今の大鳥の立場は甘いものではなかった。
「そろそろ……いきな。本多は俺がちゃんと見ているからよ」
「軍議が終わり次第、負傷兵はすぐにも搬送しないとならないな」
「……目を覚ましてくれればいいが」
「いざとなれば、浅田にでも運ばせる」
 後ろ髪を引かれる思いで、大鳥はそっと本多を離し、「総督」と呼ばれる方に向かった。
 青白いその顔。大鳥がしたように大川も軍服を脱いで、本多の体を温め始める。
「大川さん。少し何か食した方がいいですよ」
 と、部下が何やら持ってきたので、茶を口に含み、そのまま本多の口元に充てる。
「大川さん!」
 口移しで温かな茶を飲ませたが、そのほとんどが襦袢の襟に流れ落ち、だがわずか一度だけ喉が鳴った。
「生きてやらねぇと、大鳥さんがかわいそうだろう。違うか、本多よ」
 いちばんに失ってはいけない命。いちばんに守りたい命。いちばんに……大切で愛しい命。
 大鳥はそれでも責務を全うするため本多より離れて為さねばならないことがある。
 だが、大川は分かってるつもりだ。
 いつも当然のように傍らにいた人間が、不意にいなくなる。それが大切な人間であればあるほど、人の心を痛めつける。
 知識の泉とその頭脳を称される大鳥とて、脆い人間だ。一人の人間を大切に依存して生きている弱い人間なんだ。
「……生きろよ。どんなことしてでも生きろ……おい、本多」
 その青白い顔がさらに白くなっていき、大川は泣きたくなってきた。
 戦とは死がつきものだ。それは先の戦で大川は嫌というほどに知っている。今とて、息絶えて行くものが無数にいる。どこからか泣き声とて聞こえる。
 そんな悲哀に満ちた戦の中で、ひたすらに祈ることしか大川には今はできない。
「本多」
 名を呼ぶ。何度も名を呼んで、その体を抱きしめ続けて、信じてもいない神に祈るよりも、ここから近い日光の大権現に大川は願った。


 最期まで前線で指揮を取ることを主張した土方も、その片足の負傷で立つこともできず、多くの新撰組の隊士の進言に耳を傾けて、会津にての療養を受け入れた。
「すまない」
 はじめて大鳥に対し、土方は小さく頭を下げた。
「いや……。早く治して復帰してください。……あとうちの伝習隊の本多も会津にやるので頼みます」
「本多くんが?」
「背を銃弾がかすってね。まだ……意識が戻らない」
「それは心配だな」
「あぁ。意識すら戻れば何とかなると言われている。……頼む」
「……あまり思いつめない方がいい」
「そうしたいんだが……どうも俺はダメだ。やはり一番身近にいる奴がどうかなると……気がとられるよ」
 お大事に、という言葉を残し、大鳥はその場を去った。
 負傷兵の搬送の準備も整っている。重症の人間から先に護衛に一部隊をつけて会津に送ることに決している。
「………大川……」
 大川がひたすらに抱きしめている本多の顔は、先ほどよりも血の気がなくなり、さらに白くなっている。
「大鳥さん……本多の鼓動が弱くなってきているんだ。……どうすればいいんだよ」
「……本多……」
 指図しなければならないことが山のようにある。
 背の傷はそれほどの重傷ではない、と診断されていた。大鳥も診たが膿まなければ、それほどに憂慮しなくても済むと思っていた。
 だがこれは……なぜに体温が下がるのだ。血が思いのほか大量に出血したというが、手などは死人のように冷たい。
 戦地とは頭の知識でははかれない事象ばかりを叩きつけられる。
「……本多、しっかりしろ、本多」
 重傷者は会津西街道を通り日向村に運ぶことになっている。
「俺がついていきたいが、ダメだよな、大鳥さん」
「当り前だ。伝習隊は誰が指図をとる」
「……だよな。どうにか意識だけはあれば安心するんだけどな。本多……聞こえているか。大鳥さんが心配で総督の役割ができなくなっているぞ」
「こんな時におまえは何を言ってんだ」
「だからな……目だけは覚ませよ。それ以外のことはゆっくり療養すればいい。本多……頼むから」
 ピクリともしない体を大川がひたすらに抱きしめ続けたが、
「とりあえずは土方くんたちにも頼んである。おまえは行け。伝習隊、しっかりとまとめろ」
 本多が倒れた以上は、大川が指図しなければならない立場にある。それは大川も承知しているだろう。
 だが、仲の良い同士が倒れ意識が戻らぬという状況が、大川をして動きを鈍らせた。
「大川!」
 珍しく大鳥が声を張り上る。
「……分かっているよ」
 何度か振り返ったが、何かを振り切るように大川はそのまま伝習隊の陣に向かった。
 残された大鳥は、そっと本多の体を抱きとめる。
「死ぬなよ。だが……万が一死ぬなら、亡霊にでもなって出てこい。幽霊でもいい。だから……傍にいてくれ」
 失う恐怖が大鳥をして訳のわからぬことを言わしめた。
 戦場にある以上は、人の命は失われるかもしれぬものだ。
 総督たる自分が、それでも失いたくはない、と涙してしまうこの失態。されど止まらない。
「……死なないでくれ」
 一緒に生きてくれ。どんなに苦戦ばかり続こうと、明日に光がなくとも、きっと……。
 傍らでおまえが笑ってくれれば、自分は先に行ける。
「……お……おとりさん」
 不意に耳に届いたその声は、幻聴のように遠かった。
「おおとり……さん」
 続いて聞こえた声に、意識が我に帰る。
「……ゆうれいでは……傍にいてもわかりません……よ」
 腕の中の存在が、わずかに目を開き、くるしながらに言葉を紡いでいる。
「本多」
 わずかに頬に色が戻ったところを見ると、どうにか持ち直した、と大鳥は診断した。
「本多、大丈夫か。ちゃんと見えているか。痛く……ない訳ないな。何か食べるか。それとも……」
「おおとり……さん」
「良かった。よかった……俺はどうにかなってしまうかとおもった」
「いえ……だいじょうぶです。わたしは……大丈夫です」
 薄く笑って本多は自らの手を大鳥の頬にあててきた。
「……大丈夫です」
 その手は死人のように冷たくて、思わず片手で握り締めてしまう。
「総督がこんなところにいてはいけません。私のことはお気にせずに」
 もう大丈夫だ、と分かった。死神は離れた。意識がはっきりとしており、それ以上に言葉に覇気がある。
「死相にとりつかれていたんだぞ」
「……大鳥さんと大川の声が……聞こえていましたよ」
 腕の中の弱弱しい体をもう一度だけギュっと強く抱きとめて、
 大鳥はその体は横向きに倒してやる。うつ伏せにしては、胸が圧迫され、呼吸がままならないだろう。
 今も息が苦しげだ。
 額に手をやれば、先ほどのゾっとするような冷たさはなくなっている。熱が戻ってきた。これからはおそらく高熱にさいなまれるだろう。
「会津の日向村で療養となった。ゆっくりと休め。無理をするなよ」
「大鳥さん……は、大丈夫ですか」
「おまえがちゃんと治ってくれたらな」
「……はい」
 意識すらあれば何ともない。しばらくは起き上がることもままならないだろうが、生きている。
「……笑ってくれ」
「………」
「おまえが笑ってくれるなら、俺はどこまでも行ける」
 本多は無理をして笑おうとして、そのまま静かな微笑にかえた。
「傍におられずに……申し訳ありません」
「いいよ。その代わり療養はしろよ、会津にはよい温泉もある。土方くんもいるし、うまくやってくれ」
 大鳥はニコリと笑い、そのまま手を挙げて、その場を去る。
 よかった、とおもい、足がふらついた。今の今までのこの緊迫感が体より体力という体力を根こそぎ持っていく。
 その足で大川のところに向かい、伝習隊の隊士たちに告げた。
「本多の意識は回復した。もう心配はないぞ」
 おーーー、と叫び声が上がる。誰もが心配していたのだろう。
「おい、大川」
 大川が駆けて行くのを誰も止められず、
 その後から隊士たちがいっせいに駆けて行く。
 ようやく伝習隊士はホッと胸をなでおろした。

傷を負った副官

傷を負った副官

  • 箱館政府(伝習隊)
  • 全1幕
  • 【初出】 2010年6月13日
  • 【修正版】 2012年12月22日(土)
  • 【備考】