つかれています!



 工部省四等出仕、工部大書記官という高級官僚である大鳥圭介は現在「気球」に夢中だ。
「あぁ気球に乗ってみたい。大空に旅立ちたいなぁ」
 空へ空にと舞い上がると、いったいその場には何が見えるのだろう。
 人はそこに「神仏」が見えるともいい、ある人は「何もない」と笑う。
 その中で友人だった男の言葉がいちばん印象深かった。
『空の高みには死者がいるそうだよ』
 高い高いところから、地上をジッと見ている。
 大鳥は無神論者で目に見えぬものは信じないが、その考えはなんとなく「いいなぁ」と思った。
 自分もこの命が尽きたら、高い高いところから、大好きな人たちを見つめながら、美味しい食べ物を食べていたいものだ。
「高く高く高く浮きあがって・・・」
 そこに何が見えるのか。大鳥はなんだか楽しみだ。
「大鳥校長。この気球理論の原文ですが」
「おう、どれどれ」
 大鳥は様々な職を兼任しているが、その中に工部大学校校長という職がある。
 校長といっても童顔な見かけから、学生や、ついでに給仕の小僧にも間違われてしまう毎日だった。が、ある日、その童顔に開き直った。そして、まるで学生の気分で、学生たちの中に入って最新の学問について議論するようになり、それについてガミガミと説教をする工部省の同僚の話を、耳から耳に流す技術まで身についた。されど校長は校長。
 ついでに五カ国語を訳すことができるので、学生たちが質問や意見を聞きに通ってくることも多くなった。校長室は離れにあり、教室から遠いので、いつしか大鳥は校長室を離れ、教室で学生たちの傍にいるようになった。
 今は仏蘭西語で書かれた熱気球の制作過程の論文にチラリと目を向け、その訳について話しながら、心が浮き渡っていた。
 現在、この国は動乱のただなかにある。九州で薩摩士族における戦争が勃発し、熊本探題が敵兵に包囲され突破口が見えない状態となっていた。
 そこで大鳥は陸軍に「気球製作」を持ちかけ、空からの偵察や、鎮台に食料や武器弾薬の補給などを提案した。それはそれは陸軍のお偉方に「絵にかいた餅」と嘲笑を受けたものだ。
 それでも粘り強く方々を説いてまわっていると、陸軍卿の山縣有朋が、
『面白そうだ』
 興味を持った。
 あのお堅い山縣が「気球」に興味を持ったことが意外すぎて、思わず大鳥は茫然となったものだ。
 まぁ大鳥に言わせれば、金さえ出してくれるならどこの堅物でも構わない。
 正式に陸軍より、とりあえず偵察のようの「係留気球」の依頼を受けた工部省は、工部大学校にて学生たちと教員における「プロジェクト気球」を稼働させた。
 予算は三百円。
 熱気球の飛行に成功した仏蘭西の論文を読み、その過程通りに製作にかかろうとも、どうも仏蘭西語を日本語に訳すと齟齬がきたすのかうまくいかない。
 九州では熊本鎮台の兵たちが生死の境にいる。一日でも早く気球を製作して投入せねばと実に焦っていた。
「校長、ここの縫い方が」
「校長・・・ダメです。ここの意味が分かりません。辞書にもないです」
「泣きごとは言うなぁ!」
 とにもかくにも大鳥は指導に忙しい。
 そんな中で、少しは気分転換に気球に乗って空に浮きあがる夢想をしたところで誰に責められようか。
 頭に西洋で見た気球を思い浮かべ、気分が高揚してきたところで、
 不意に、ふわふわとした心地よい夢想を打ち破る声が耳に突き刺さった。
『・・・本音を言っちまえよ。あんたは戦争なんてどうでもいいのだろう? 戦争にかこつけて気球を作って乗ってみたいだけじゃないのか』
 どこからか聞こえてきた声に大鳥はドキリとして、キョロキョロと周囲を見回した。
 学生たちが必死に仏蘭西の論文を訳すために頭を抱えていたり、作業班がトンカンしているのみで、話し声などどこからも聞こえない。
 ちょいと首を傾げて、
(空耳・・・かな?)
 妙にはっきりと、しかもよく知っている声だったような気がするが、人間疲れると思いもよらぬ幻聴というものが聞こえることもなくはない。
『オイ! 聞こえているのか。空耳じゃないぞ。上だ、上をみろよ』
 また鮮明に声が届いた。なんだろう? それとも自分の耳は疲れすぎておかしくなってしまったのだろうか。
(本多に会えなくて寂しさのあまり耳がおかしくなったのかも)
 大鳥のいちばん好きな人である元部下である本多幸七郎は、陸軍戸山学校の教官だったが、現在は集成隊勤務を命じられて、九州に渡っている。
 銃の命中率などの査定や性能の調査といったものだが、大鳥は心配で心配で。流れ弾など当たっていないだろうかと気が気でならないでいた。
『本多くんのことを考えると、あんた・・・少し顔がふにゃけるぞ』
「えっ・・・」
『そんなふにゃけ顔だと、いつか愛想をつかされるかもしれんな』
「そ、それはひどいことを言うじゃないか! ひ・・・」
 突然の大鳥の声に学生たちの視線がいっせいに大鳥に向けられた。
「はっ・・・はははは。少し疲れた。君たちは作業を続けていてくれ。俺は・・・少し・・休む」
 笑ってごまかしてとぼとぼと教室を出ながら、はたして今、自分は誰の名を叫ぼうとしたのかと大鳥は自分に自問自答する。
「おかしいな」
『あんたの頭はいつもおかしいだろうよ』
「・・・おかしいよ。絶対におかしい。なんで土方くんの声が聞こえてくるんだ」
『それはあんたの上にいるからな』
 声に釣られて顔を上げれば、そこにぷかぷか浮いている男が一人。相変わらずの端整な顔にはニっとした人の悪い笑みが乗っている。
「・・・・」
 とりあえずこれが夢か確かめるために頬をギュっと抓り、あまりの痛みに涙ぐみながらも、あえて大鳥はにっこりと笑って、
「やぁ。久しぶりだね、土方くん」
 と言ってみた。
『久しぶりじゃねぇだろうが、馬鹿トリ』
「だって久しぶりじゃない。君って箱館であの世に旅立ったと思っていたけど、生きていたんだ。驚きだよ」
『あのよ、大鳥さん。生きているものが、こうして宙にふわふわ浮くことができると思うか?』
 確かにそれは一理ある。今まで大鳥は人間が宙に浮いているところを見たことはない。
 されど目で見たものは「現実」と受け取る性格である大鳥は、現実主義でありつつも、摩訶不思議でも目で視えたならば、それを「真理」と受け取ることができる。
「人間、いつかは宙に浮くこともできるってことだよね、すごいね、土方くん」
『阿呆!』
 ぷかぷか浮いていた男は、大鳥の傍らに降りて、昔のように悪党じみた顔で背の低い大鳥を見下ろした。
『あんたには今まで見えなかっただけさ。俺は当の昔に死んでいる』
 今より十年ほど前、箱館において共に戦った元新選組副長土方歳三は、どこか体が薄く透けており、影もなかった。
「そっ・・・そうなんだ」
 つい大鳥はじろじろと土方を見回してしまう。
「人は死ぬと本当に幽霊になれるんだね。これは驚きだよ。いったいどうすれば幽霊になれるんだい。それから幽霊っていったいどんな感覚なのか」
『そんなのは知るか。・・・気づいたらこうなっていただけだ』
 ふーんと頷きつつ、大鳥の心底は爆発しそうなほど高揚している。なにせ「幽霊」と会うのは始めてだった。
『あまり視るなよな。・・・たまにからかいにきてもあんたは一度も視えたことがないっていうのによ。なんで今日は視えるんだ』
「そんなのは知らないよ。・・・それより土方くん。数年もさまよっているなら、視える人もいっぱいいた?」
 大鳥は「幽霊」に興味津津で、ついつい気球のことは遠い彼方にっぽいと放り捨てていた。
『・・・いるぜ。あんたの元副官ははっきりと視ているな』
「ほ・・・本多が視えているって!」
『あれは霊が視える性質だ。・・・あえてあんたには言わないだろうけどよ』
「そう・・・なんだ。鹿児島から戻ったら聞いてみるよ。えと・・・でもどうして土方くん・・・こんなところにさまよっていたりするの」
『知るか。成仏などらしくねぇと思っていたら、こんなモノになっていただけだ』
「成仏ねぇ・・・」
 そこで教員が通りかかったので、大鳥はあえて口をつぐんだ。
 その男はその場で大鳥に一礼をし、横の土方を気にすることもなくすぐに去っていく。
「やっぱり視えていないんだ。なんだか不思議」
『阿呆トリ。幽霊というものは不思議に決まっているだろう』
「それもそっか」
 ニタニタと笑うと「きもちわりいな」と土方は苦笑だ。
 なんだか妙に懐かしい。かの箱館五稜郭でもこんな風に言い合いをしたものだ。
「それで土方くん。幽霊になってなにをしているんだい」
『・・・』
「幽霊の新選組とかいたら面白いけど、どうなの?」
 そこで土方は無表情となり、くるりと背を向けた。
「ねぇ、土方くん」
『・・・さぁな』
 とふわりと浮きあがり、『なぁ』と大鳥を見下ろす。
『あんた、昔、面白いことを言っていたな。空の上になにがあるのか』
 唐突に話しの内容が転換した。
「・・・言ったっけ。死んだ人たちが美味しいものを食べながら大切な人を見守っていたらいいなぁって」
 いろいろな話をあの厳寒の地で土方とはした。
『気球などというおもっしれぇものを作っているんだ。しかも自分の好奇心でな。作れるなら作って・・・空の上になにがあるか視るといいぜ』
「なんだよ。別に俺は自分の好奇心で作っているってわけじゃないって」
『よく言うぜ。気球の論文を見ながら、作りたくってたまらないって目をしているぞ』
「そっ・・・そうかな」
『俺はぷかぷか浮けるが、ある一定のところまで浮きあがると地に跳ね返されて・・・上に行けん。あんたの言う通り・・・空の上には仲間たちがいるのか見たいがみれん』
「・・・幽霊にもいろいろと制約があるんだぁ」
 大鳥は心の辞書に「幽霊にも制約あり」と書いておく。
『もしあんたが高いところまで行けたなら、そこには何があるのか視てくれよ』
「・・・」
『人は成仏したらそこに行けるのか』
「なんだか土方くんらしくないけど、まぁいいや。気球で高い高いところまで行けたら、そこになにがあるか視てくるよ。みんないるのか・・・仲間たちの名前も大声で叫ぶよ」
『おうよ』
 軽く土方は手をあげ、そのまま空気に溶け込むかのようにゆっくりと消えて行った。
 まるで白昼夢のような光景だと大鳥が笑ったとき、
「大鳥校長」
 と、声をかけられ、そのときにパチリと自分の目が開くのを認識した。
「なんだ・・・」
 大鳥は苦笑する。
「白昼夢じゃなくて、本当の夢だったんだ」
 気球の製作現場で気分転換の夢想をしているときに、どうやら自分はすやすやと眠っていたようだ。
「夢にしては鮮明だったなぁ」
 大きく両手をあげて伸びをすると、大鳥は「よし」と気合を込めて論文に目を映す。
 ・・・もしあんたが高いところまで行けたなら、そこには何があるのか視てくれよ。
 今まで大鳥に対して頼みごとなどしたことがない土方が言うのだ。これは必死にならないと化けて出てきて刀で一刀両断されそうだ。
(そうだ、きっと気球製作について発破をかけに来たんだね、土方くん)
 そう思えばやる気も倍増だ。
「うわっ! すいません校長。球皮やぶれちまいました」
「バカ者ぉぉ」
 とてもじゃないがこのままだと熊本鎮台が陥落しても気球はできそうにない。
「気球製作は慎重に。けど大胆にだ」
「校長! それ矛盾ですって」
「問答無用だ!」
 この気球、二週間で出来上がった。
 二度目の実験で浮上はしたものの、突風には負けた。係留にこぎつけたものの突風で繋ぎとめているロープが切れてしまったのだ。
 三度目の実験用の製作は基礎からやり直そうとしたものの、西南戦争において政府軍が優勢となり、現地参軍山縣有朋が「当分は気球の役割はなし」として工部省への依頼を取り消した。
「うぅぅぅぅぅ!」
 これほどに悔しいものはない。
 気球に乗り空の上には何があるのか視るという壮大な夢は、どうやら当分はお流れになってしまったのだ。
「でも作る。絶対に作る。気球を成功させてみせる。いつの日か」
 あの夢で土方が言っていたように「空の上」を視たい。
「土方くん。すまないね。早急には空の上は見れないけど、いつかきっと・・・」
 必ず空の上へ行くから。


 集成隊勤務より本多が戻り、つい嬉しさのあまり大鳥は抱きついてしまった。
「おかえり、本多。とってもとっても心配で・・・さびしかったよ」
 本多は顔を真っ赤にしていたけど、振り払うことはせず、そのまま大鳥の腕の中にいた。
「美味いものを食いに行こう。それからそれからいっぱい話があるんだ。えと・・」
「・・・大鳥さん」
「うん?」
 本多は大鳥を見つめて、優しく微笑んだ。
「ただいま戻りました」
「・・・うんうん。無事で良かった」
「はい」
 もう一度ギュっとするとさらに本多は頬を赤くしたが、そっと大鳥の背に腕をまわしてきた。
 小さなことがなんだかとっても嬉しくて、さらに強く抱きとめて。
 公衆の面前ということも忘れるほどに、ただただ大鳥は嬉しかった。
「そういえば」
 行きつけの店で旬の食べ物に舌鼓を打っているときに、本多がいない間に起きた気球について話した。
 結果的には失敗はしたが、あの気球製作は本当に心が浮く期間だった。
「そうそう。その気球をつくっているときに・・・土方君の幽霊が出てきたんだよ」
「土方さんがお見えになったのですか」
 夢だと笑って言おうと思ったのだが、本多の目が驚きに染まっていて、それには大鳥が驚いてしまった。
「・・・視えたよ。声も聞こえたよ。気球について俺に発破をかけにきたみたいなんだけど」
「そうみたいですね」
「って・・・本多? これは・・・」
 夢なんだよと今度こそ笑って言おうとしたのだけど、それを本多の言葉がふさいだ。
「次には失敗はしないようにやら、もっと高く高く浮く気球を造るようにと土方さんはおっしゃっています」
「はぁ?」
「・・・早く空の上を見てくるようにとのことで」
 確か夢の中で土方はこう言っていなかったか。
 ・・・あんたの元副官ははっきりと視ているな。
「も、もしかして本多。・・・土方くん幽霊とかはっきりと鮮明に視えていたりする?」
「はい」
 ためらうことなく本多は答えた。
「これまでは大鳥さんを怖がらせたくなくて言いませんでしたが、時折、土方さんはお越しになります」
「本当に?」
「はい」
 本多という男は真面目で実直、なによりも冗談はからっきしなことを、元上官の大鳥はよくよく心得ている。
「そっ・・・そうなんだぁ」
 本多が言うならばそれは「真実」だ。カクリと力が抜けた大鳥は、今までどこかで土方に見られていたと思うと、猛烈な悪寒と小さな羞恥が走っていった。
「ひ・・・土方さんが心配はしないように・・と」
「はい?」
「あの・・・その夜のい・・・い・・営みについてはみたいともおもわないとのことで」
 初な本多はすっかり真っ赤だ。
「そんなの当然だ。幽霊、断固拒否ぃ」
「ならば・・・早く気球をつくられるようにとのことで・・・」
「それって気球ができるまで、俺は土方くんに憑かれているってこと?」
 今は視えない土方が、あの悪党の顔でニタリと笑ったのが見えた気がした。
「つ・・作ってやる。ぜっ絶対につくって・・・憑くのをやめてもらうぅ」
 ・・・期待しているぜ、大鳥さん。
 そんな声が耳をかすったような・・・気がした。

つかれています!

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  • 箱館政府(伝習隊)
  • 全1幕
  • 【初出】 2015年2月28日
  • 【備考】大鳥圭介誕生期間作品。