本多くんと大鳥さんの小話

25 雪を見ると思い出す



 帝都に初雪が降る。今年の雪は例年より遅い。もう霜月の暮れだ。雪も降り始めるのを遠慮するほどのぽかぽかと温かい日が続いていた。
 工部省を出た大鳥圭介はふと空を見上げた。
 暗闇の海より降り落ちる雪。
 立ち止まり、手を差しのばした。その欠片を掴もうとも、この手のぬくもりを拒むかのように、溶けて消えゆく一瞬のみの花。
 どうも雪を見ると思いだす。
 黒馬にまたがり、颯爽と白銀の中を駆けていった一人の武士を。
 あの日、まるで雪がかの人を連れ去ってしまうかのような錯覚を覚えて、思わず馬を追って全力で駆けつつ叫んだものだ。
『君はどこにいくつもりだい』
 振り返った彼は、笑っていた。雪の如く淡く消え入るような笑みは、あぁ男の顔だと思ったものだ。覚悟に染まった武士の顔は、どこまでも静かで儚い。
『箱館山を見てくる』
 じゃあな、と手をあげて、去っていく後ろ姿を、大鳥はポカンとして見送った。
 いったい自分は何を尋ねたかったのか。
 箱館の地は白銀に包まれている。どこまでも白の中を、雪に染まった箱館山に、彼と黒馬は往く。
 それは一幅の絵になるほどに美しく、儚いまでに苦しい光景でもあった。
 ……どこにいくつもりだい。
 我ながら滑稽なことを聞いたものだ、と今となっては大鳥は笑うしかない。
 その日は巡察で彼が箱館山に向かうのを知っていた。その帰りに元新撰組の隊士が多く詰める弁天台場に寄ることも、朝の会議で聞かされていたのだ。
 だが、あの日。思わず大鳥が問うた「どこに」は、違った行き先を尋ねたものだったと思う。
 あの時の自分は、どんな答えを期待していたのだろうか、と思い出そうと頭を回転させていた。
「大鳥さん」
 そんな大鳥に背後から声がかかった。聞き馴染んだその声に、つい笑顔をもって振り返る。
「本多。迎えに来てくれたのかい」
「雪になりましたからね。大鳥さんならはしゃいで、転びかねませんので」
「ひどいなぁ」
 笑って、傘をさす青年の横にぴょんと入れてもらった。長身の青年と、背丈が四尺九寸ほどの大鳥だとまさにでこぼこである。
 いつも大鳥は青年の顔を見上げる。ちょうど大鳥の頭の頂上が、青年の肩に届く、そんな身長差だった。
 青年の名は本多幸七郎。数年前までは大鳥の副官として共に新政府と戦った仲間である。
「でもいいや。雪のおかげで本多と相合傘ができる」
「……大鳥さん……」
「うれしいけど、やっぱり寒いな」
 ついにっこりと笑って、本多の傘を持つ腕に寄りそってみる。引っ付いても寒さは変わらないが、なんだか嬉しくて体温があがった気がした。
「今日は予定を変更して、近くでそばでも食しませんか」
「いいや、牛鍋。銀座の牛鍋屋に行く。本多と牛鍋をつつくのが楽しみで、今日は一日中ニタニタしていたんだ」
「それはさぞや不気味だったことでしょうね」
 おい、と口をとがらせてみると、本多は首に巻いていたマフラーを取り、大鳥の首にぐるぐるとまわした。
 昨年、英国留学より戻る際に、この本多にお土産として大鳥が購入したチェック柄の紺のマフラーだ。
「いいよ。本多が寒い」
「私は大鳥さんが引っ付いているので、温かいですよ。それに東京の雪を冷たいと感じたことは、私にはありません」
 本多の目がゆっくりと空に向かった。
 その黒曜の瞳は無感動に、どこまでも降り注ぐ雪を眺めているようで、遠く、遠くを見ている。おそらく先ほどまで大鳥が捕らわれていた思いと同様のところに本多の心も行っているのだろう。
 雪は感傷をよぎらす。雪は心を遠く離れたあの蝦夷の未開の地に運んでしまう。心に封じた思いを、哀しみを、痛みをも伴わせ、あの白銀の世界へと。
「本多」
 大鳥はギュっと本多の手を握った。冷たくなっているその手は、まるで死人の手のようで、大鳥は自らの手でどうにか温めようとギュっと握りしめる。
「……おまえはどこに行こうとしているのだい」
 すると本多の目はゆっくりと大鳥のもとに戻り、穏やかな微笑みを滲ませて、
「ここにいますよ。大鳥さんの傍に」
「うん」
 こくこくと何度もうなずいて、にこりと大鳥は笑った。
「おかしな大鳥さんですね」
「なんだよ。せっかく嬉しいと思ったのに」
 少しだけ口をとがらせたが、すぐに大鳥は機嫌を治して、本多の端整な顔を見上げる。
 あの日、彼にもきっと今の言葉を言ってもらいたかったのだ、と思いつつ、ゆっくりと歩き始めた本多の歩調を合わせて歩き、とてんと転んだ。
「大鳥さん」
 ほら見たことか、という本多が、つかさず抱き起こしてくれる。
 痛い、とうるると涙が滲んできたが、なぜか本多が笑っているので、ムカッと腹が立った。
「いえ、すみません。大鳥さんはなにも変わっていないと思いまして」
「なんだ。確かに俺はよく転ぶし、馬から落ちるし、蹴られるし。ついでに……」
「はい」
「おまえが好きで好きで、どうしようもないほどに好きなところなんか、まったく変わっていないぞ」
 本多はその赤味のない頬をわずかに染めて、「はい」とだけ答えた。
「私に捕まっていてくださいね。道がぬかるんでいますからね。また転ばないように」
「ふん」
 言われるまでもなくギュっと引っ付くと、本多は柔らかく笑んだ。
 あの箱館でも、大鳥はこうして本多の腕にしがみついて歩いていた。温暖な赤穂の地に育った大鳥には、蝦夷の大量の雪はまさに思考を超えるものであり、ついでに氷が張り尽くした道など想像を大きく超えてありえぬものに等しかった。
『また本多くんに世話をかけているのか。このひな鳥。そろそろ巣立ったらどうだ』
 よくすっ転んでは、泣きべそをかいて、本多に抱き起こしてもらっていた大鳥に向かって、そんな悪態をついた彼。
(雪が降ると、たまらなく、君を思いだすよ)
 今でも蝦夷の地に眠る君を……土方くん。



26 陸軍奉行と奉行並



 明治元年師走。
 蝦夷地「箱館」
「それにしても太郎さんは、よくもこんな悪徳な方法を思いつくよね」
 大鳥は自室で大きく伸びをしながら、にこにこと笑っている。
「貨幣の鋳造、関所を儲けて通行税を誰からも取る。商人への半ば脅しに似た強引な献金。それから……」
「何を呑気な顔をして笑っているんだ、大鳥さん。商人への脅しはやめさせろよ」
 その大鳥の横に立つ黒ずくめの洋服の男は、仏頂面だ。スラリとした長身で、その端整なあまい顔は研ぎ澄まされた月のように美しく、人が近寄るのを拒む。黒曜の美しき瞳とサラリとした黒髪。笑えばさぞや男惚れするだろうな、と思うのだが、 残念ながら大鳥は彼が笑った姿を視たことはない。
「副総裁の太郎さんが決めたからには、仕方ないよ。俺が止めても鼻で笑われるからね。君の凄味がこういう時、役に立つんじゃないのかな」
「この役立たずの陸軍奉行が」
 土方が腹いせなのか大鳥の頬をびよーんと引っ張った。
「痛いって。暴力反対」
「こんなの暴力に入るものか。なぁ大鳥さんよ。民を虐げて栄えた国はないぞ」
「だろうね。でもないものは仕方がない。俺たちは金がない。ないないなさすぎる。開陽が沈んだ際に、当面の軍用金が一緒に沈んだのは本当に痛かったなぁ」
「アンタはいつでも他人事だな。少しは本気になって考えたらどうだ。ついでに何度も現実感がない。だから戦争にも粘りがないんだ」
「悪かったね」
 ふん、と大鳥は鼻を鳴らした。
 この箱館を中心とした「蝦夷共和国」が成立したのは霜月の終わり。我が国初めての入れ札による選挙形式を取った。
 総裁には旧幕府海軍副総督の榎本が就任し、副総裁には陸軍奉行並の松平太郎。陸軍奉行には大鳥が選ばれ、その下の陸軍奉行並がこの土方である。
 この陸軍ツートップは水と油と言われるほどに性格が正反対。顔を見合わせれば、口論ばかりをし、時には物が飛ぶ。だが、不思議と仲は悪くはなく、二人して部屋で話していることが多かった。
「金がなければ戦争もできないよ、土方くん」
「………」
「今は雪に守られているからいいけど、雪解けと共に敵さんたちはこぞって攻めてくる。それまで餓死せずに生き抜くには、金がいるね」
「アンタは正しいよ、大鳥さん」
「君もね」
 くすくすと大鳥は笑った。
 そこに強風が吹き、格子窓より風が吹きつける。とても暖炉の火だけでは部屋は温まらず、風邪引きが続出しているらしい。
「異国にはストーブなる機械があるのだけど、この五稜郭にもひとつあるんだ。もう何年も前に造ってくれたらしいんだけど、なぜか点火されない。あれがあれば温かいのになぁ」
 あまりの寒さに大鳥が炬燵にもぐると、呆れた土方が「鳥」といって、炬燵ぶとんをめくる。
「これから市内に偵察に行く。アンタも今日は一緒に来いよ」
「嫌だよ。外は荒れているし。俺はおこたで軍の配置について考えて……」
「一緒に来いって」
 強引に炬燵より引っ張り出され、大鳥としてはかなり抗ったが、襟首を掴まれて引きずられては、もはや打つ手なし。
 馬屋まで引きずられ、大鳥は大仰なため息をついた。
「馬に乗るのかい。俺は馬は苦手なんだ。落とされるし、蹴られるし。この間なんて額をやられたんだよ」
 見てよ、この傷。と馬の蹄に蹴られた痕が忌々しく浮かび上がっている。
 土方は「おい」とため息をついた。
「それで陸軍奉行なのかよ」
「一応ね」
 入れ札で決まったのだから仕方がない。大鳥でも時々、なぜ軍神のごとく崇拝されている土方ではなく、常敗将軍とまであだ名がつく自分が選ばれたのか疑問と言えた。
「今からでもかわれ」
「えっ、いいの。土方くんが変わってくれるならいつでも」
「阿呆。本多くんとかわれと言っているんだ」
「えっ。本多にこの大量な編成とか、配置とか、兵糧とかをやらすの。それは可哀相だな」
 副官の如し本多の顔を思い出して、大鳥はぶんぶんと頭を横に振った。
「アンタは俺なら良くて、本多くんは可哀相と言うのだな。よぉく分かった」
「怖いよ土方くん」
 目が据わっている元新撰組副長に凄まれては、さすがの大鳥もぶるりと震える。いや、単に寒さで震えたのかもしれない。
「その性根をこれからたんと叩き直してやる。まずは箱館山を馬で登るぞ」
「それ絶対に無理。しかもこんな雪が降っている日になんかあんな細道をくねくねと登って行ったら、ぜったいに迷子だよ」
「これも修行だ」
「修行反対」
 大鳥はぶるぶると震えた。やはりおこたで編成表とにらめっこしている方が性にあう。
「しゃあねぇ男だな」
 土方はフッと笑い、大鳥の襟首を離した。
「俺は行くぞ。なに多少吹雪いてもこの箱館なら土地勘でなんとかなる」
「……箱館山はやめなね、土方くん」
 本当に迷子になるよ、と半ば心配気に大鳥は土方を見据えた。
「大鳥さんよ」
「なに」
「あんたに必要なのは粘りと根性だ」
「……うるさいな」
「それさえあれば……頭はとびっきりいいんだから戦も少しはまともになるだろうよ」
「なにそれ。もしかして慰めてくれているの」
「なに、嫌味だ」
「土方くんなんか嫌いだぁぁぁ」
 とその場の雪を掴み、バシッと土方に放った。
「おう、やるか」
「雪合戦は得意だよ。昨日、箱館の街で子どもたちと一緒にしたから」
「子どもと遊ぶな」
「面白いんだよ」
 今度は雪の玉をつくって軽く土方に投げる。
 一度受けた挑発は必ずかってしまう土方は、自らもせっせと雪玉を作り、それを大鳥に投げつける。
 いつしか二人は巡察も何もかも忘れて、その場で雪玉作りに集中し始めた。
「……土方くん。見かけによらず不器用だね」
 雪玉つくりは大鳥の方が卓越している。
「ぬかせ!」
 雪玉の命中率は格段と土方の方が上だ。
 二人は作っては投げ、投げては雪玉を作り、それを繰り返して、いつしか夕暮れ時を迎えてしまった。
「あぁあ。戦も雪合戦になればいいのに。そうしたら誰も怪我しないし、誰も死なないですむのにな」
「そんなお気楽な考えをするのは、アンタだけだろうよ、大鳥さん」
 二人とも雪合戦に夢中になり過ぎて、疲労が著しい。いつのまにか肩で息をしている。
 ふと視線が合い、互いの雪まみれの姿を見て、二人はふきだしてしまった。
 とある真冬の箱館でのお話。



27 福澤と大鳥



 さて、東京に護送されてきた大鳥を糾問所に訪ね、あらん限りの罵倒を浴びせた福澤は、すっきりしていた。
 ほぼ大鳥に口を挟まさず、饒舌に罵りに罵ったため、この一年ほど胸に巣食っていた嫌な気分はすっかりと落ちた気がする。
「・・・さて」
 旧幕臣らが打ち出した蝦夷共和国など、絵にかいた餅よりも滑稽なお笑い物だったが、そこにいた人間は幕府の中でも粒ぞろいの人材の宝庫といえた。
 あの腐れ切った幕府にも、蝦夷まで行って闘う気骨のある男たちがいただけでも福澤は感心する。
 なにせ大政奉還後の江戸城の内部というものは酷いありさまだった。
 平時ならば大名たちが詰める格式ある座敷に、幕府の官僚が徳利抱えて飲みあさって世も末だと高笑いをしている。そうかと思えば、何やら念仏を読み上げているものもいた。逃げ出せるものはとうに逃げ出している。
 その中で、機密文書を焼いているものは、いちばんにまともだった。
 あんな醜態を目にすれば、これは成るべくして幕府は滅びたとしか思えはしない。
 一官僚として外国方の雑無をしていた福澤だったが、幕府方の醜態に呆れに呆れ、それでも最期まで官僚として勤めた。
 だが、かの勝と西郷の談合により決まった江戸城無血開城のその日は、慶応義塾で迎えた。官軍の楽兵隊が織りなす行進の音楽を耳にしながら、果たしてこれで新時代というものが幕を開けたのかと疑問に思ったものだ。
(あのトリが無血開城を前にして江戸を脱出し、方々で転戦しようとはな)
 それも連戦連敗で常敗将軍と笑われながらも、それでも闘い続けた。
(トリとしてはよくやったと思わんこともない)
 これで最後はあの箱館の地で潔く果てれば、この福澤は知人のために線香の一本は立ててやっただろう。
 だが蝦夷共和国の幹部はほとんどが生きてこのお江戸の地を踏んだ。
「しぶといというか、生き汚いというか」
 なんともあの大鳥らしくて、福澤は大笑いをしてやりたかった。
 榎本も大鳥もあの場で自刃していれば、後世まで蝦夷では「英雄」として崇拝されたのだろうが、その役はかの新選組の土方に譲る形になったようだ。
(あのトリが英雄などお笑い草だ)
 なんと似合わないことか。口では「死んできやがれ」と罵りつつも、心底では「生き汚い」と嘲笑われる中でも、飄々と生き抜くのがあの大鳥らしさだと福澤は思っている。
「そろそろ始めるとするか」
 福澤の妻お錦と、榎本の母琴は遠縁にあたる。
 今の今まで「蝦夷共和国」には批判的な立場を取り続けた福澤だったが、榎本の姉が福澤のもとに頭を下げにきては親戚としては放ってはおけない。
 お錦は幼いころ、榎本家に遊びにいったことがあり、そこで榎本の父の武規や琴に可愛がってもらったともいうのだ。
 先日、陸軍参謀黒田了介が三田に顔を出した。
 その手には榎本が「灰とするは惜しい」と戦中に黒田に送った「海津全書」があり、その翻訳を依頼しにきた。
 それを見た福澤はその場で高笑いをしてやりたくなったが、あえてこう言ってやった。
「これは榎本武揚という男が翻訳するのがいちばんに効率的だと思います。私はその任にあらず」
 本音としては、たかが「海津全書」ごときの翻訳に、この多忙極まりない「天下の福澤」を借りだすな、というところだった。
「榎本が多忙というならばあの大鳥圭介にさせればいい。あの男は、こういう方面が似合いですな」
 黒田には先に知人の寺島宗則を通して、榎本の助命はしていた。それを受けて、この黒田という男は福澤の名を利用するために今回の訪問を決めたのだろう。
 「天下の福澤」が「その任にあらず」と辞退したいという噂が広がれば、榎本の力量やその名が世に広まることにいちやく買う。福澤はあえて承知で黒田の企みに乗ったのだ。
 黒田は我が意を得たりとわずかにほくそ笑んだのが分かった。
「大鳥さぁとはお会いになられましたか」
「・・・あのような男に会う暇などありませんので」
「こん頃、退屈そうにしておいほいならっで、福澤先生がお訪ね下されれば喜ぶと考えもす」
 それには答えなかったが、数日後に大鳥の好物の「厚焼き玉子」を持って訪ねたのは、たんに暇つぶしであり、気まぐれともいえた。
 ついでに罵ることで、この胸のもやもやした気分も改善されると踏んだのだが、予想通りに気分も晴れ、福澤の気分も上昇した。
 榎本の助命運動については、すでに黒田が頭を丸坊主にするというパフォーマンスで世に告知している。長州閥の大物大村益次郎も、適塾の後輩にあたる大鳥を「世に役立つ」として助命嘆願にあたっているらしい。
 政府関係筋にある適塾の同門は大鳥の助命に動くだろう。
 わざわざ福澤が動くこともない。己の如き著名人は何人もの助命を口に出さず、一人のために動くゆえに世は取りざたするのだ。
「榎本が助命されれば、その下にいたトリも自動的に助かるだろうがな」
 ふっと笑い、そう言えば今、書き始めている「学問のすすめ」を大鳥に渡してやればよかったとも思う。


「あれが福澤先生か」
 どこぞのトリが空中より落としていったという「厚焼き玉子」をほくほくとした顔で食べている大鳥は、今井信郎の声掛けに「うん?」と顔をあげた。
「ひたすらに罵られて・・・良かったのか」
「あぁ、ゆーさんね。あんなのいつものことだし、今回は役人の手前、だいぶ手加減していたよ」
「あれで手加減・・・」
 面会所から離れたこの牢屋にまで福澤の声は響いていた。
「天下の福澤とかいって世には人格者で通っているみたいだけど、手は早いし喧しいほどしゃべるしさ。よくもあれで人格者で通っているよね」
「・・・はぁ。死んでこいといっていたが、あれでは・・・あんたがひどく気の毒に思ってしまう」
「別段」
 大鳥は厚焼き玉子を爪楊枝で切り裂いて、一切れを今井に渡した。
「いつものことだし。ゆーさんなら確かに死んでこいくらいは言うよね。うんうん、言う言う。・・・箱館には否定的であったのに釜さんの助命をすることに驚いたよ」
「同門の好で大鳥さんの助命もしてくれればいいのにな」
「無理無理」
 二カっと笑って、大鳥はパクリと玉子を口に入れる。
「なぜトリ如きの助命などせねばならん、とどなり散らすのが目に見えているよ」
「あんたと福澤さんはどんな仲だ」
「仲ね。ただの知人じゃないの」
 福澤はいつも「飼い鳥」などと言い、決して友人とは認めないので、大鳥もそれに合わせて人には「知人」としか言いはしない。
「でもね、今井くん。釜さんが助かるってことは、きっと俺たち全員が助かるんだから、結果的には俺の助命してくれているってことじゃないの」
「あんたは楽天家だな」
「そうそう。俺ほどの楽天家はなぁいって」
 最後の一切れも食べ終え、大鳥はその場にごろりと横になった。
「また来ないかなぁ、ゆーさん」
 次はなにか好奇心がそそる書物を持ってきてくれると嬉しい。ついでに厚焼き玉子ももっと多く欲しいものだ。
「でも笑えるよね。土産だと言いたくないからって、どこぞの鳥が空中から落としただなんてさ。もっと天下の福澤なら納得する言い訳を考えればいいのにさ」
「・・・・」
「偏屈で気まぐれ屋で・・・恨みは百年経っても忘れない男だよ。どこまでも俺様。・・・変わらないなぁ、ゆーさん」
「天下の福澤先生を、ゆーさんなどと間の抜けた呼び方をするのはあんたくらいだろうよ」
「だろうね。先生なんて堅苦しいからゆーさんがちょうどいいんだよ」
「あんたは・・・怖いものがないな、大鳥さん」
「俺にだって怖いものくらいはあるよ。例えば本多が俺に愛想をつかすとか。それから・・・」
「あんたは本多くんのことばかりだ。やってられん」
 今井もその場にごろりとなったが、ふと思いつき端に置いてある将棋盤を持ってきた。
「牢名主どの。一局どうだ」
 と笑った。
 この牢屋の古株である大鳥は、いつの間にか牢の中の人間を子分にしてしまい、暇つぶしに学問を教え始め、ちびっこで腕力などまるでないというのに、いつしか牢名主とあがめられる存在となってしまった。
 さすがはあのお江戸の火消しや博打打ちなどをかき集め伝習隊としてまとめた男だけはある。
「今井くんには負けてばかりだから面白くないな」
 それでも暇つぶしにと一局指す大鳥には、明日にも死刑になるやるしれないという焦燥は見えない。
 その五日後に、再び福澤が訪ねてきた。
「どこぞの野良猫が加えてきたものだ。毒見がてら食いやがれ」
 と、福澤は桐箱に入った寿司を押しつけてきた。
 大鳥は満面の笑顔でそれを受け取り、
「どこぞの野良猫さんにお礼を言っておいて」
 こんな友情関係は、以降福澤が死去するまで続いていく。

本多くんと大鳥さんの小話 -13

本多くんと大鳥さんの小話13

  • 【初出】 2012年1月14日【最終行進】 2014年7月28日
  • 【修正版】 2012年12月23日(日)
  • 【備考】 25~27話収録