1章
紫野 におひる妹を いとしければ 人妻ゆえに 我恋ひめやも。
万葉集に記された一首。
読み人は大海人皇子という。
彼は古代飛鳥王朝にて、両親ともに大王(天皇)という血統的には恵まれた……後の大王地位に就くべくして誕生した皇子といえた。
だが彼には両親を同じくする兄がひとりいる。
名を中大兄皇子。
かの大王家に代わり国の政治を独裁せんと試みた蘇我親子を倒し、大化の改新という国の方針を実行した偉大なる皇子。後に天皇に即位し、天智天皇と呼ばれる。
その絶対的な兄がある限り、弟の大海人の存在はそして光り輝くものではなかったろう。
大海人がその名を知らしめるのは兄が即位し、彼自信が皇太弟と呼ばれるようになったころからである。
うだつの上がらない……中大兄皇子の弟、といつも枕詞がついてくる大海人皇子。
だが彼はさして世評を気にはしなかったのではないか。
彼が一番に青春を満喫していたころ、傍らには一人の女性があった。
額田王という才色兼備に優れた女性。この人の大海人はのめりこんで言ったという。
だが、世の中「恋」という一字には障害はつきものなのか。
弟の妻の一人たることを知りつつも、中大兄皇子は大海人皇子にこういったのだ。
「額田を我にくれぬか」
……と。
これは絶大な権力を有する中大兄皇子の命令に等しく、逆らえば後々に大海人皇子自身「権力」より遠ざかり、兄と対立することになるやもしれない。
大海人皇子は迷いつつも子までなした額田王を兄に差し出すのだった。
この三角関係。二人の皇子に挟まれた額田王の感情を忍ばせる歌は残っていない。
ただ、ひとつだけ。
ある薬狩の後の宴で、額田王はこう歌を詠んでいる。
茜さす 紫野ゆき 標野ゆき 野守は見ずや 君が袖振る。
茜色に彩る紫のなかで、あの人が私に袖を振って合図している。あぁそんなに袖を振っては野守に見つかってしまいますわ。
そしてその場でその歌の相手は私だ、と名乗り出て、大海人皇子は返歌をした。
紫野 におひる妹が いとしければ 人妻ゆえに 我恋ひめやも
兄の妻の一人となった額田王を、人妻であっても恋している、と言い返した大海人皇子。
その場で両者の歌を聞いて、大王の地位に就いていた中大兄皇子はどんな気分だったか。
この古代の恋話を耳にするたびに、自分の胸はときめきと苦しみに覆われた。
「光の君」
仮の眠りの中にある自分を、優しく呼ぶはそう女御さまの声。
今日は女御さまのお部屋に伺い、貝あわせをして、自分はいつしか眠ってしまったようだ。
「そろそろお起きになりませんと。もう陽も暮れてまいりましたよ」
目を覚ませば部屋に帰らないとならない。
このまま女御さまの側にいたくて、自分はあえて目を開きはしなかった。
(もう少しだけこのままで……)
幾年の年しか違わぬ女御さま。その姿は自分の母桐壷更衣に瓜二つという。父(桐壷帝)は、自分の母の面影を忘れることができず、未だ少女でしかない宮様の娘を自らの女御として入内させた。それが藤壷の女御さま。
自分とは年がさして離れておらず、また母によく似ているということで、父は藤壺の女御さまの元に出入りすることを許してくれた。
そう、それは元服式を迎えるまで。
大人になったら、もはや貴人であり父の女御たる藤壺さまの元に足しげく通うことも許されない。顔すら御簾ごしで拝むことしか許されない。
(もう少しだけ……でいいのです)
始めは母に瓜二つということで魅かれた。
月日が経つと、自分は藤壺の女御さまはおもざしを似通わせていく。
ときおり分からなくなっていった。
自分は藤壺の女御さまに恋しているのか、それとも母のおもざしを追っているのか。それとも……。
(自分に似ているから?? だから……自分は自分しか愛せない人間なのか)
その考えられる三つの中で自分は迷いに迷い……結論はまったく出ない。ただ、ひとつだけ確かなのは、自分は藤壺の女御さまが好きなのだ。その好きがどんな好きなのかが、未だ自分は幼くてはっきりとはいえないが、間違いなくすきなのだ。
離れたくはない。このまま子どものままで藤壺の女御さまの側にいたい。
優しく自分の髪を撫でてくれる女御さまの小さな白い手。
自分には母の記憶がほとんどない。育ててくれた祖母の姿さえ霧に包まれている。
母は大納言の娘であったというが、家は没落し、遺言で入内しても更衣の身分しか得られなかったという。だが、そのはかなげな美貌が父の目に留まり、父は母しか顧みようとしなくなった。
大臣家の姫で入内し弘徽殿の女御と呼ばれる女性が、父(帝)の寵愛を独占する母を妬み、宮中でさまざまないじめをしたという。母は自分を身ごもり、宮中にいては命を狙われると案じて実家に戻って自分を生み、そして三年後にはかなく散った。
以来、宮中に引き取られて父のもとで自分は二の君として育ったが、もとより強力な後見人がいないために、皇子という身分のままあろうと
浮かばれることはない、と父は判断し、臣籍に降ることが決められている。元服と同時に源氏の姓が与えられ、後見人となる左大臣の一の姫との
許婚の仲となることも定められていたが……自分は。
(すべてどうでもいいのです)
今はただ藤壺の女御さまの膝で甘えていた。
それだけが私……ひかるのささやかな願いでした。
+ 弐 +
「源氏の君」
名を呼ばれ、ゆっくりと目を開くとそこは牛車の中だった。
「お疲れのようですが」
外より惟光の心配げな声音が聞えてくる。
源氏は「大丈夫だよ」と小さき声を立てながら、今まで訪れていた夢の残り香をいとおしむような、
せつなげな……苦渋の顔をした。
(藤壺さま……)
今では御簾ごしにしか会うことはできない人の面影を源氏はもとめていた。
どれだけの女性のもとに通っただろうか。少しでもあの方のおもざしを捜して、あの方の香りをもとめて。
されど一度として「藤壺」を見出すことはできずにいた。
「お体大丈夫ですか。北山までの道は長いので」
しばらくの間、身体を崩していた源氏である。加持祈祷の効果もなく病状は悪化するばかり。これは物の怪にでも憑かれたか、と父帝の心配もあり、
人の勧めで北山の修験僧に加持祈祷をとりおこなってもらうため、病状を惜しい牛車で出かけることにした。
本来ならば北山の修験僧を館に招きたかったのだが、名高いその人は年老いたる身。老人に山を下りる苦労をさせては
なるまい、と源氏は北山に自ら訪ねることを決断した。
「あいも変わらず惟光は心配性だな。私は無理なことは決してしないことを、よく知っていように」
「光の君はいつも無理ばかりですから」
乳母子である惟光は源氏には言いたい放題でもある。心許せる従者なのだが口うるさいの玉に瑕。また昔からの癖で、
今もって「光の君」と皇子だったときの通称で惟光は源氏を呼んでいた。
「それに今も身体が辛いはずです。ほんのりと微熱もあるでしょう? やはりご無理をさせるのではなかった」
「過保護だな」
「えぇ。母によくよく光の君のことについては気をつけるように言われているので」
「これでは惟光は私の母か姉かと思わせる」
クスクスと源氏は笑ったが、やはりその笑いに覇気がなかった。
さらに惟光が不安げな顔をしたので、源氏は「暫時眠るよ」と目を閉じてみた。
身体は微熱が続きだるさを伴う。今は軽い眩暈もあり、呼吸も多少乱れてもいた。
(私は……この病は)
だるさが睡魔を呼んだか、牛車の揺れにあわせるように源氏は夢の世界に引き戻され、現に戻ったそのときは北山の寺は目と鼻の先だった。
寺の周囲に小さな柴垣の家がヒッソリと建っている。
小窓より覗いてみれば、垣の根の先にひとりの少女の姿が見えた。
(十歳ほどか……)
その年ころの時は、源氏は母も祖母も亡くし父帝の側で藤壺に慈しまれて育っていた。
(藤壺の君……あなたの傍で過ごせた日々は私にとって)
どれだけいとおしく感じたか。
どれほどに恋しく思ってか。
そして十八になった今でも、源氏は藤壺という五歳年上の女性に恋焦がれている。
「光の君。寺の方に着きましたが」
未だ眠りの中にあると思ってか、惟光の声はどこか遠慮が含まれていた。
「分かっているよ」
小窓を開け、惟光にそう笑いかけると、ホッと安堵の吐息を惟光は漏らした。
牛車は止まり、高名なる修験僧のある寺に源氏は足を踏み入れていく。
(この病が少しでもよくなればよいが)
都ではどのような薬湯も加持祈祷も効力がなかった。
もはや最期の頼みの綱。縋る思いで寺の中に源氏は入っていく。
+ 参 +
少しばかり老聖と呼ばれる修験僧に祈祷をしてもらい、心持ち身が軽くなった源氏は夕暮れの北山に散策に出た。
「あまりご無理をしてはいけませんよ」
やはり母や姉のように惟光は口うるさい。だが、源氏にはこれほどに自分に対して口うるさく忠告をする人間がほとんどいないため、惟光という存在を大切に思うのだった。
「惟光の目から見て無理をしていると見えたなら、私に断ることなく強引にでも寺に連れ戻してよいよ」
柔らかく微笑むと、惟光も釣られてニコリと笑ったが、すぐに身を引き締めて「わかりました」と一言。
北山の春の光景を楽しみながら、源氏は足の向くまま歩いていると、
いつしか牛車の小窓から見たかの紫垣の家の前に差し掛かっていた。
(庭に女の子の姿が見えたな)
多少の好奇心もあり源氏は垣より身を乗り出して、その家の庭先を見つめる。
「光の君」
また主の悪癖が出たか、と惟光は警戒しているようだが、まさか病魔に苛まれている中で女性と相通じる仲にはなるまい、と思いなおしたように表情から警戒を解いた。
家は西向きの部屋の中に尼君が仏に読経を唱えている。源氏はその尼君の顔を見ながら、四十を過ぎてはいようが顔面に隠しても隠し切れぬ気品を見出し、北山のはずれに住まうには幾分場違いな高貴な人ではないか、と思ったが。
「光の君」
惟光が庭を指差した。
そこには子どもたちが駆けずり回って遊んでいる。
「懐かしいですね。昔、私も光の君もあのようにして駆けずり回りました」
幼き日を思い返している惟光に優しく微笑みかけ、源氏も庭先に視線を移した。
「子どもね……」
源氏も幾許かの感傷とともに子どもたちを見つめていたが、ふとその中の一人に視線が止まった。
白い下着に山吹襲の衣を纏い、おてんばに走り回っている女の子。おそらく牛車の小窓より後姿を目にした子どもではないか。
「………!」
「どうなされました」
身を乗り出した源氏を怪訝に思った惟光の声。
だが源氏にはその声すら届きはしない。
(似ている……いや瓜二つといえるほどに)
惟光が袖を引いていなければ、源氏は今にも庭先に入りその女の子の姿を目前で見ていただろう。
女の子のサラリとした髪が風に揺れる。
当初判断したように十歳ほどか。その白き肌。目鼻立ちがはっきりとし、描いたように美しい眉毛。小さな赤き唇。ニコリと笑めば、夏の到来を告げる藤の花を思わせるようなしっとりした表情を見せるのではないか。
(藤壺さま……)
源氏が知っている少女のときの藤壺より幾許か幼いが、それでも一目見た印象からして「藤壺」のおもざしと似通った、いや藤壺を思わせる風情が女の子の中に息づいている。
「いったいどうなされたというのです、光の君」
その女の子の髪を風がユラユラと揺らし、扇が開いたかのような形となった。
「どうしたのですか」
不意に女の子の動きは止まった。目は大粒の涙。
見かねた尼君が女の子の前に進み出たが。
「子どもたちと喧嘩でもしたのですか」
薄暗い奥より出てきた尼君と、女の子の面はどこか似通っている。赤き唇やゆったりとした雰囲気など共通する点が、探せばいくつも出てくるだろう。
(祖母君といったところか……)
母というには、似すぎていないような気がした。
「雀の子を犬君が逃がしてしまいました。伏籠の中に入れいておきましたのに」
(藤壷さま……)
姿形ばかりか、その声ひとつとっても似ているではないか。
(藤壷さまの小さき時のお姿を、今、私は見ているかのような)
「あらあら。姫君がたいそう可愛がっていた小雀を……相変わらず不注意モノですね、犬君」
「少納言さま」
庭にいた一人の女性がそういって立ち上がった。
「烏などに見つかっては可哀相なこと。このごろは可愛くなってきました小雀を。ほんにどこにいってしまわれたのかしら」
どうやらその女性は少納言と言うらしい。誰かが「少納言の乳母」という呼び方をしているので、もしかするとあの小さな女の子の乳母ではないか、と源氏は検討をつけた。
女の子は目を赤くして泣き続けている。
その顔を見た尼君はため息混じりに吐息を漏らして、女の子の手をそっと握った。
「この子はなんと子供っぽいのですこと。……この尼が、今日明日も知れない命というのになんともお思いにならないで……雀を追いかけてばかり。生き物を捕まえるのは罪作りなことと、いつも申しあげているのに。……情けない……このままでは貴方を置いて私ははかなくなることもできません」
「おばあさま」
尼君はそのまま女の子の手を引いて、奥に消えていく。
「藤壷さま」
源氏は手を差し伸べて追いかけようとした。あの涙を流している女の子を、この自分の両腕で抱きしめて癒してあげたい。
「源氏の君」
ピシャリとした諌める惟光の声。袖を引っ張られ、源氏はふと我に戻る。
「……あの女の子は藤の花ではないのです。お分かりくださいませ」
「惟光」
「何をお思いになっているのかよく存じ上げております。されど今は……」
源氏は少しばかり沈んだ顔をしてしまったが、すぐに普段の涼やかな笑みを浮かばそうとした。
「……源氏の君……」
だが、源氏は微笑むことができなかった。
そればかりか瞳より流れるのは、一滴の滴。
「どうしたのです、惟光。おかしな顔をして」
その滴を源氏は気づいてはいない。
惟光は源氏より視線を離して、ひとつ小さな吐息を漏らして女の子が駆け回っていた庭にもう一度視線を流したのだった。
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