約束外伝3 兄と呼ぶ人は…




「源氏」という血が体内に流れ、その血より逃れることは許されない。
 鞍馬寺に敵対した平家に押し込められ、ただ読経に身を包まれ過ごす中で、この「源氏」という血だけが己の生きる証だと九郎は思ってきた。この血だけがなにひとつ持たぬ自分の誇りたることを疑いもしない。
 いずれ十二の年が離れた母違いの兄のもとに参上し、源氏の血がために兄に尽くし兄に従うことを心に決していた。
「兄上~」
 だが、今の九郎には「源氏」がためという思いよりも、「兄」に対する思いの方が何倍も強い。
「なっ……九郎。人の褥に入ってなにをしておる」
 宵も過ぎた時分。九郎は幾時も前より鎌倉御所たる兄頼朝が評定より戻るのを待ち続けていた。
「今日は兄上に添い寝してもらおうと思いましてね」
 頼朝は寝巻きに軽く女物の打掛をかけていたが、九郎の顔を目にすると見るからに頭を抱えた。
「成人した大の大人が兄に添い寝を願うとは」
「いいじゃないですかぁ。俺にとって兄上は兄上であって兄上じゃないんですから」
「どういうことだ、それは」
「兄上は兄以上ってことですよ」
「仕方がない奴だ」
 九郎は父親を覚えては居ない。生まれてまだ母常盤御前の腕の中にある乳飲み子のときに、平治の合戦にて破れ、味方に裏切られ闇討ちされたという。
 母常盤とも幼少時に引き離され、父母の愛情も家族という存在も知らずに育ってきた。
 身内の愛情など少年期に入るまで知らずに育った。
 鞍馬山を脱出し、奥州の地で藤原秀衡という人に庇護を受けた。大きな泰然とした大樹を思わせる奥州の覇者に頼もしさと、父親というものがあるならばこのような存在ではないか、という思いを抱いたことも在る。知らず知らずに甘えていたこともあった。
 されど、だ。
 九郎にとって藤原秀衡は庇護して頂く保護者であっても、身内ではない。大勢の家人も九郎にはあまく優しく、どこまでも一緒にいてくれようとも、血の絆を思える身内は一人もいなかった。
 源氏の棟梁として嫡流として立つ伊豆にある十二歳年上の頼朝という兄。
 母を同じくする兄は乙若、今若と二人あったが、九郎が憧憬してやまないのは今では「長兄」となりし「頼朝」という兄だけだった。
 鞍馬寺にあるときから思い続けた兄に対する思いは、
 他の誰よりも強く……兄というよりも九郎にとっては父に対する思いに似通っている。
「せめて褥をもう一枚敷かすくらいをしておいて欲しいものだ」
「それでは意味がないじゃないですか」
「……九郎」
「俺は兄上と二人で過ごしたかったんですよ」
 頼朝は諦めたかのように吐息を漏らし、褥に入り九郎の体をやんわりと胸元に引き寄せた。
「今宵だけぞ」
「そんなこと言わないで……毎日でもしてくださいよ」
 九郎は甘えるように兄の胸元に顔を埋め、身を包むかのようなぬくもりに目を閉じて全身で感じ取る。
 誰であってもダメだった。
 この身内になにひとつ触れられたことのない……記憶にない自分には、兄でなければ心の安寧をもたらせることはできない。
「九郎は私の子供のようだな」
「俺も……兄上の子供として生まれてきたかったですよ。今度生まれてくるときは、兄上の子供として生まれてきたいと切実に思います」
「おまえのような我が子など……頭が痛いだけではないか」
 長き間、夢見たものが今、この体に染み渡る。
 欲したのは……確たる「あたたかさ」というぬくもりだけだったのだろうか。
 兄と呼ぶ人の「証」を感じ取りたくて、一人ではないということを知りたくて、この身に流れる血を、生きている証を身に受けたい、と望んだのではなかったのか。
(今はいい……)
 兄の傍らにある今このときが、九郎にすべてを証付けてくれる。
「兄上のためならば、九郎は何でも致します」
 目を閉じつつ、小さな声で誓う。
「兄上の剣になり、九郎は働きます。そのために……九郎は生まれてきたと思っておりますから」
「働かずとも良いぞ」
 冷淡な口調が……だが発される言の葉はどことなく優しい。
 頭を撫でるその手。パッと顔をあげると、包み込むような穏やかな兄の顔がある。
「なにもせずともよい。役に立たなくとも良い。九郎は……そうじゃのう。わしの元でわしの身辺警護でもしておればよい」
「それでは御家人たちに役立たずの御所の弟と言われるではないですか」
「今はそれでいい。のう九郎。わしもおまえも人の中で育ち、人の目ばかりを見て小さくなって生きてきた。こうして兄弟であろうと、この時期まで互いのことをほとんど知らずがままでおる。わしは一家の長としてそなたの兄として、今まで父亡き後にそなたをこの手で育ててやれなかった分、今こうして兄としての役割をしてやりたいと思う」
 自分の存在意義を探して、ただ源氏の血に縋って生きてきた。
 兄頼朝のために尽くせる人間でありたいと修行を重ね、兄の一番に役に立てる人間でありたい、と日々研鑽を重ねた。
 そんな九郎の心を知ってか、癒すかのように「役に立たなくてもいい」と兄は言ってくれる。
 二人だけであるときだけ見せてくれる兄の優しさ。
 これが公的な場所ならば鎌倉御所として怜悧な顔をし、上席より泰然とした顔で命令を下してくるというのに。
 源氏の棟梁として上に立つ冷酷なる鎌倉御所。
 九郎の兄として、欲してやまぬぬくもりを与えてくれ、ただ兄としてある源頼朝。
 はじめはその二面性に頭を悩ませた。どちらが真の兄なのか、と探して迷って苦しんだ。
 今は慣れもあり、どちらの兄も「兄」だと受け入れることが可能である。
「抱きかかえてくださいませんか」
「子供のようにか」
「誰にも、そのようなことをしていただいたことがないんです」
 物心ついて以来、誰一人としてこの体を抱きしめたものはない。
「これでは弟ではなく、確かに子供のようだ」
 兄に対面し「よくきた」と大勢の御家人の中で涙ぐんでくれた鎌倉御所。
 二人だけになったそのときは「常盤によく似ている」と抱きしめてくれた兄頼朝。
 御所たる兄に甘えることはしてはならない。だが兄たる頼朝にそれをしても許されるのだ。
「大きな子供じゃのう、九郎は」
 兄の頼朝に求める肉親の愛情は、
 父親以上のことを無意識に縋っていたのかも知れない。
 そっと胸元に抱えられ、差し出される腕を枕にして九郎は至福の悦びを得る。
 血の繋がりがある人に、こうして僅かでも肉親の情の如し愛情を示してもらわなければ、九郎の存在意義は形を為さず、いつまでも「哀しみ」を胸に抱えて生きていくしかない。
「大好きですよ、兄上」
 おそらく自分はこの兄のためならば何でも命をかけて為す。
 そして死すことがあるならば、この兄のため……この兄のためでしかない。
「女に生まれたならば、兄上の妻になりたいくらいすきですよ」
「冗談ではない。それに女に生まれたならば、そちは私の妹ではないか」
「いいじゃないですか、妹でも。母親が違いますし、長年離れていたのだから、そんなことは分からないでしょうが」
「そなたのような女など好みではない」
「……兄上」
「なんだ」
「……九郎は……手のかかるどうしようもない弟ですか」
「当然だ」
「兄上のお傍にいても良いですか?」
「どうした唐突に弱気になったのう」
「役にも立たずに……どうしようもない弟が傍にいていいのかなって」
 もちろん九郎は頼朝の役に立つ人間になるつもりである。この後の平家の戦などで必ずや軍功を立てて見せる。
 だが万が一にもなにひとつ役に立たず、人から「出来損ない」と白い目で見られても……兄はまだ弟とこうして抱きしめてくれようか。
「言ったであろう。役に立たなくとも良い、と」
 やはり大好きだ、兄たる源頼朝が。
 この人に決めた、と心から思える。
 自分の命も、心も、体もすべてを渡すただ一人の人は兄たる頼朝と決した。
「だがな、九郎。そちは愛情に飢えているからか、可愛がられることに弱いところがある。あまり……子犬のようにだれかれともなく懐かぬように」
「大丈夫ですよ。九郎は兄上が一に大好きですからね。こういうことを望むのは兄上だけですし」
「早く嫁を見つけてやらねばな」
「嫁などいりません。九郎には兄上だけで十分です」
 頼朝はため息をつき、だが甘えてくる末弟に対して長兄としての責務か。抱えるように抱きしめたまま……あいている手で頭を撫ぜている。
 こういうときが長く続くことが九郎の一の望みだったのだが。
「まぁ殿……」
 そこに思わぬ邪魔が現れた。
「この政子というものがありながらも……女性に手を出されるのも許せぬと申しておりますのに……ついに主旨変えで男に……」
「政子!」
 ガバッと頼朝はその場より起き上がった。
「許せませんこと。どこの稚児ですの。殿の褥に入り込むなどなんと……」
 まさに政子は頼朝に引っ付いて離れない九郎の襟首をひっとらえて、その場より引き離しにかかったが、
「痛い。痛いですよ、姉上」
 ハッとした政子はひっとらえた九郎の体を隅々まで点検し、
「殿……主旨変えの他に……ついに身内を血の繋がった弟御のお体を……」
「冗談ではない政子。そちは何を考えておる」
 頼朝はあからさまに米神に片手をあて、
「弟御と抱き合ってお眠りなるなど……そうとしか思えないでは在りませんか」
「兄上……九郎はいつでもお相手いたします」
 鎌倉御所……泰然自若たる王者風の貴公子たる源頼朝に頭痛をもたらせるほどに、正室政子も末弟九郎も「困った人間」であるようだ。
「九郎は私に父親代わりをさせているだけぞ」
 ため息混じりに頼朝は説明に打って出たが、
「そのようなこと信じられませんこと」
 政子は何を考えたのか、九郎とは反対方向の褥に入り、頼朝の腕をギュッと握り、
「九郎殿といかがわしいことがなきように、政子もここで見張らせていただきます」
「姉上……邪魔ですよ」
「宵は夫婦の時間です。九郎殿こそお邪魔。退散なさいませ」
「今宵は九郎の方こそが兄上を予約しているんです」
 鎌倉御所として威厳正しき源頼朝を挟んで、その正室政子がその右手にギュッとしがみつき、傍らには末弟の九郎が抱きついて離れない。
 現状の頼朝の気分としては「仕方のない奴らが」といったところか。
 寝つきが良い政子は、いつのまにか九郎との言い合いを終えスヤスヤと寝息を立てており、九郎は、といえば。
「大好きデス、兄上」
 と、抱きついて離れる様子など微塵もない。
 頼朝はため息をついて、寝苦しい宵をいつまでも眠らずに過ごしていったらしい。


 九郎の生きる証は、源頼朝という兄と呼ぶ人の「役に立つ」人間としてあること。
 九郎の存在意義は、兄の剣として戦に出、その勝利を兄に捧げること。
 それ以外にはなにひとつ兄に捧げるものは、この身と心しかない。平時で役に立つ人間とも思えない。
 役に立つ人間でありたい、と切実に望み、
 されど九郎が涙を流すほどに嬉しかったのは、役に立たなくとも良い、と言ってくれた兄の言の葉にあった。
 役に立たなくとも傍にあって良い、と言ってくれる兄頼朝という人のためだけに生きる。
 自らの存在が兄の邪魔になるそのときは……この命、兄のために散ろうとも源九郎義経にはなにひとつ悔いはない。
 されど今は……。
 もう少しだけこの安穏の中で、義姉の政子と兄の頼朝を取り合うような……。
 優しげなときを過ごしていたい、と望む。



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  • 【初出】 2007年ごろ
  • 【修正版1】 2012年12月01日(土)
  • 【備考】