僕の青空




 雨が降っていた。
 シトシトと音を立てて雨が落ちる中、鴨川沿いを傘を差すことも忘れて伊藤博文は歩いている。
 道行く中、まさに濡れ鼠となった姿を子どもが指さす。傘売りに勧められても、そんな声は聞こえぬかのように脇を通りすぎた。
 まさに今の天気と同様の気分と言える伊藤である。
 朝方、大坂の伊藤のもとに届いた電報。
 その文面を見てより後、伊藤は夢の中を漂っている気分だ。生ぬるい雨とて何の感触すらない。
 頬に垂れる水滴は雨なのか、それとも瞳より流れいずるものなのか。
 今は現実が信じられなかった。夢ならば今すぐ此処で覚めてほしい。
 きっと目覚めたら自分は泣きわめき、そして微笑むだろう。
『夢で良かった……よかったよぅ』
 子どものように泣きじゃくり、妻梅子が呆れた顔で自分を見るかもしれない。子どもたちには「父さま、おかしな顔」とケラケラ笑われるかもしれない。
 それでも良い。泣きながら、きっと自分は幸せだ。
 トボトボと竹屋町に至る路を歩き、不意に「嫌だ」と伊藤は立ち止った。
 もう進みたくない。認めたくない。知りたくない。
 その場にうずくまり、ドクドクと痛みしかもたらせない鼓動が耳に付く。
「嫌だ……嫌です。僕は……」
 空をにらんだ。
 まるで「涙雨」だと思った。
 思えばかの長州の鬼才高杉晋作が死去した時も雨が降っていたという。
 人は「まるで涙雨だ」といって、涙とも雨ともしれぬ水滴を流し続けた。
 折しも今日も雨が降る。
 誰よりも青空が似合う人の野辺送りが雨空になろうとは。
 明治十年五月二十六日、昼さがりの京都。
 自らをどうにか立ちあがらせ、さらに遅い歩調でトボトボと歩くが、それでもそう時を経たずして目的の場所「旧近衛別邸」にたどり着く。
 伊藤は逃げ出したかった。この場になど立ちたくはない。
 今からでも引き返せたならば、と心の中で何度も繰り返すが、それでも伊藤は震える手で呼び鈴を慣らした。この半月の間は毎日のように通った場所であり、この門を何度も何度も泣きながら叩いた。
『お願いです。お願いですから……一目……僕に会ってください。声を聞かせてください』
 叩き続けたこの門には、伊藤の血の痕がうっすらと残る。
 昨日もこの門を叩いたのだ。あれほどに「お願い」と叫び、憎んだことはない。
「伊藤さま」
 木戸孝允の妻松子が、頭を下げて伊藤を迎えた。
「この半月の御無礼、お許しくださいませ」
 窶れた松子の身を包む黒の喪服に、伊藤は目をそむける。
「顔を見て上げてくださいまし」
 どこまでも伊藤はぼんやりとした感覚の中で、座敷にあがった。
 何度か訪れたことがあるその座敷。数年前は、ここで相棒の井上馨や京都府知事槇村正直など交えて、酒を飲んだものだ。
 あの折の賑やかさがわずかなりとも感じられない。
 今、この座敷に響く音は屋根を叩く音と、伊藤の息吹、鼓動のみともいえた。
 座敷に北向きで寝かされているその人の顔は、白い布が覆っている。
「嫌だ」
 伊藤はポツリと呟いた。
「僕は嫌だ。こんなこと認めない。僕は……僕は」
「伊藤さま」
 松子の声にピクリと肩を浮かせ、ゆっくりと白い布が取り去られていく様を、伊藤は怯えながらちらりと見る。
「………この人は最期は頑固で。病んで苦しむ姿はあなたには見せたくないと言われました。きちんと廟堂に立っていた頃の自分を覚えていてほしい、と」
「………」
 目に映る静謐な顔はまるで眠っているかのようで。呼びかければ目が覚ますのではないか、と錯覚するほど静かで穏やかなものだった。
 ゆえに幻惑する。言い聞かせる。
 これは夢だ。現実ではない。自分もこの人も夢の中を彷徨っているだけにすぎない。
「頑なに……あなたにだけは逢わないと言われて。……申し訳ないことをいたしました……伊藤さま」
 松子の声音に夢から覚めるかのようにピクリと身体を浮かせ、伊藤はかすかに震えつつ、自らの思いのままに顔をそむけて、怯える。
「逢ってあげて下さいませ。生あるうちは決して……と言われたのです。今ならば……」
 必死に頭を左右に振って、伊藤は顔を上げようとはしなかった。
 この目にきちんと映してしまったら、それですべてが終わるように思えて、苦しくて、寂しくて。
 今日の朝までは、自分に逢ってはくれないこの人を憎いとまで思った。何ゆえに自分だけ……顔を見せてくれないのか。
 逢いたくて、声が聞きたくて。門前で手が血だらけになろうとも叩いたというのに。
「こんな……結果を見るためじゃない。僕は……治すために走ったのに。大丈夫だって……言うから」
「伊藤さま」
「あなたが……奥さん。あなたが……病状は安定しているって言ったから。知っていたら。分かっていたら……僕は……」
 医術の街大坂で、毎日のように名医を探すために駆けまわってきた。妙薬と言われる薬を手に入れて、京都に届けた。
 すべては、またこの人に笑ってもらうためだった。
「木戸さん……僕は」
「伊藤さま」
「僕は……認めない」
 僕の夢。僕の理想。僕の憧憬。
 たった一人の雲ひとつなく悠然と広がる「僕の青空」の如し人。
 ……いつかあなたを僕はこの国の政の頂点に立てる。
 絵に描いた餅とも揶揄されるが、その美しい理想の元で国家は歩んでいけたなら、どれほどに幸せか。
 若き日の伊藤は、その人の背中を見つめながら、夢想した。
 ……松菊先生をこの国に中心にするために、僕は鬼にでも悪にでもなる。
「こんな形で、僕からあなたを奪うのですか」
 激情のまま駆け寄って、その未だうっすらと温かい身体に縋りつく。
「僕はこんな終わり方、絶対に認めない」
 無自覚に流れ落ちる涙を拭いもせずに、駄々をこねるように「認めない」と叫び、むしゃぼりつくように抱きついて、伊藤はただ……その人の鼓動を求めた。
 雨音が響く。ポツポツとその場に響き渡る。
 維新三傑木戸孝允が死去したこの日、伊藤の無自覚な涙は、涙雨と共に流れ続けた。


僕の青空

僕の青空

  • 全1幕
  • 長州閥小説
  • 【初出】 2011年5月26日
  • 【修正版】 2012年12月15日(土)
  • 【備考】木戸孝允命日追悼作品