ある宴にて




 その日は、九段坂上の木戸邸に政府の高官がそろって酒宴となっていた。
 ことの始まりは何であったのか、木戸孝允は覚えてはいない。正院でなにか近代国家について議論をしていた流れで、いつしか「では続きは木戸さんのところで」、でと誰かが口にした。
 議論どころか単に気楽な言いたい放題の酒宴となっているのだが、木戸はゆっくりと酒を飲みながら、ほとんど聞き手側となっている。
 木戸は昔から、長州人としては珍しく自ら議論に熱中をするのを好まない。いつも人の意見を穏やかな顔をして聞いて、適度に反応を返す。聞き手上手と人はいい、だが自らの主張をしなければならないときは、きちんと口を開く。
 そんな木戸だから、仲間たちの話を穏やかな顔をして聞いているだけだったのだが。
「………山県?」
 杯に山県で酒を注いでくる。
 珍しいことが起きるものだ。人に酒を注ぐのも注がれるのも厭い、一人で酒を嗜むのを好む男が……。明日は槍が降るのかもしれない、と木戸は邪気のない笑みを浮かべ、注がれた酒を飲み干した。
「それにしても長州の方々は動くと見せかけてまったく動かん。木戸さん、その典型は貴方ですぞ。維新がなり、やれ政府の一員として長州を率いていくかと思えば、ニッコリ笑んで辞める、と来た。職に拘らないのもいいが、貴方は少しばかり責任というものを」
 と、民部大輔の地位にある肥前の大木喬任に酒を向けられながら言われた木戸だった。
 一献、といわれたので杯を出しかけたが、それを片手で山県が制する。
「この人は酒を無闇に飲ますと、倒れる」
 私が代わりに受けよう、と山県が杯を差し出し、大木は「ふん」とそっぽを向いた。
 クスクスと木戸は笑む。
「すまないね、大木さん。山県は私に過保護という癖を持っている」
「山県君だけではなく、長州閥全員がでしょうが。長州人の貴方への過保護は度が過ぎている」
「木戸さんを悪く言うな」
 すでに酔いがまわり、もともと酒に強いわけではない伊藤博文がふらふらとなりながら、大木の傍らにバタリとすわり、その肩をバンバンと叩いた。
「許さないよ、木戸さんを悪く言うな」
「これだからな、長州は」
 伊藤博文、山県有朋……この二人は、長州閥の中でも特に過度といわれるほど木戸に過保護にあたる両翼ともいえた。
「それは木戸さんの人徳というものでしょうか。この私などは、そのように世話をしようとしてくれる同郷のものなど誰一人としていない」
 とは、木戸の向かいで沈黙のまま酒を飲んでいた大久保利通である。
「薩摩は人徳は西郷さん、政治的駆け引きは大久保さんと分かれていましたな」
 大木は少しばかりジロりと冷めた目で大久保を見据え、
「薩摩一の大陰謀家ですかね、大久保さんは」
 大木とは同郷の参議副島種臣が、まぁまぁ、とばかりに大久保と大木それぞれに酒を注ぐ。
 副島は肥前人の中では一番に大久保と意気があうらしい。よく大久保の碁の相手をしているのを見て、木戸は微笑ましく思ったものだ。
「長州は貴公によりまとまっているというのに、貴方という人はどうして官職に就くのを此処まで嫌うのか。広沢さんがどうにか口説き落として参議に就任していただいたが、私はいつ貴公がまた萩に帰りたい、と言われるかと冷や冷やしている」
 大久保は冷徹な顔でそんな言葉をサラりと流すものだから、木戸は「すみません」とばかりに苦笑するしかない。
 広沢……前参議広沢真臣。今年のはじめに何者かに突然闇討ちされ、命を断たれた男である。
 木戸は広沢とは昔馴染みで、幕末の時は影からいろいろと支援をしてもらっている。年も一年木戸が上なだけで、同世代の気安さや気軽さがあり、しかも頭脳は幾分官僚的なところがあるにしろ剃刀といわれるほどに切れ、長州では木戸に継ぐ……いや肩を並べる人物といえた。
 惜しむならば直属の子分を持たず、人望も欠く一面があるところだったが。
 木戸の前では無邪気で、いつもこの国について夜を徹して語り合ったものだ。
『兵助(広沢)さんがいるなら、私は萩で隠遁していられますね』
 と、新政府の参議を前原一誠と広沢に任せ、木戸は一人官職に縛られない自由の身を横臥していた。
 そこに広沢から泣きが入った。
『貴兄がいなければ、政府は大久保の傀儡政権と化す。長州の方が片付いたならば、潔く参議になっていただきたい』
 誰が説得しても重い腰を上げなかった木戸が、昔馴染みの広沢の願いにさすがに折れた。
 もう一人の参議だった前原は、ほとんど出仕しておらず、その間に木戸のもう一人の盟友大村が何者かに暗殺され命を断たれたため、大村の後を継いで兵部大輔にされたが、もともと兵部省は薩摩と長州の人員が互いに争っているため、それを保守派の前原がまとめようとしても無理があった。
 まして病の身もあり、大久保のやり方などにも怒りがこみ上げてきたのか、前原は病を理由にして辞表を出し、さっさと萩に隠遁してしまっている状況だ。
 木戸は……多くの仲間を動乱で失った。
 白刃の中をかいくぐり生きようとも、仲間の屍を乗り越える強靭な精神はついに身につかず、明治に入って以来死者に弔いの花を供えることばかりを考えている。いっそうはかなさや瞳に翳りを含むようになった木戸を追い落としたのは、二人の盟友大村、広沢の暗殺だっただろう。
 今もって二人の盟友の下手人と黒幕について、木戸は調査をやめようとはしない。
「みんなで木戸さんを責めるな。許さないよ……この人はとっても優しいから何も言わないけど……僕らが」
 杯を手に、目などはすでにゆらゆらと焦点が合ってはいない伊藤は、木戸の左腕に縋りついて、特に大久保を睨み据えた。
「おいおい。飲みすぎだぞ、俊輔。そうやって桂さんに甘えるな」
 伊藤の親友である井上馨が、伊藤の肩を叩いて木戸から強引に引き離した。
「だって……聞多ぁぁぁ。僕、木戸さんのこと、僕ら以外にあぁだこぅだ言われるの大嫌いだもの。だから……」
 井上の両腕の中で、すでに酔いが限界に達している伊藤は、くたりと目を閉じてすやすや眠り始めてしまった。
「相変わらず俊輔は……しかたがないね」
 弥生の花冷えする時期ゆえ肌寒さがある。木戸は立ち上がり何かかけるものを、と部屋の押入れを開けた。
 妻の松子は今日も知人の家に出かけている。交友関係が深いだけあり、明治に入ってからは「人生楽しまねば」と出歩くことが多くなった。
『私には木戸孝允という最高の夫がおりますので、浮気だけは致しません』
 などとニコリと笑って松子は言っていた。
『けれど、貴方はこの私では癒して差し上げられません。私以外に癒せる相手がおられるならば、その方に身をゆだねてもかまいませんのよ』
 木戸は思わず苦笑をしてしまった。
 そして、もはやこの世に対する執着をなくしてしまったこの男には、「癒し」という言葉は遠く、むしろ絶望という二字の方が随分と身近なものになりつつある。
 だが、今は絶望にだけは身を浸らせてはならない。
 実現した維新が「正義」とは思えなくなり、政府に対する失望と落胆しか見出せなくとも、生み出した一人として木戸には責任があり、果たさねばならない役割もある。
 そのためだけに生きている。
 現よりも死者に心を預けつつも……。
「………」
 毛布を片手に取る。酒宴は、もはや人々の愚痴の場となってしまっている。
 木戸邸には現在使用人はほとんどいない。伊藤などに「一国の参議が」と嘆かれたが、木戸はあえて身の回りの世話に使用人を置くのを快しとはしない。そのため給仕や酌をする女中がいないのもこの家の特徴である。
(見知らぬ人間を雇えば、それが密偵などという場合がある)
 という恐れもあったが、それよりも木戸は静かな暮らしを望んでいる。
 妻松子、木戸の先妻の娘たる好子。あとは時折萩より訪れる妹治子や、その子供たち。異母姉和田家の人々などに囲まれるだけでいい。
 されど木戸邸には長州の人々が書生として寄宿することが多く、松子にすべて負わすのはさすがに気苦労をかけると考えた木戸は、そろそろ奉公人を募集せねばなるまい、と考えていたりした。
「木戸参議。……この難問たる廃藩置県、長州はどのように治めるおつもりか。先の奇兵隊の騒乱といい……長州は」
 どうも大木は木戸に噛み付くことが多い。
 木戸は微苦笑を載せるだけでそれには答えず、そっと井上の膝を枕にして眠っている伊藤に毛布をかけた。
「桂さんは昔から俊輔には甘いよ。だから、こいつも図に乗るんだ」
 井上はなぜか面白からぬ顔をするが、木戸はかまわず伊藤の無邪気に寝顔を見ていた。
「……木戸参議」
 大木は酔うと人に絡むことが多い。
 たいていは誰もが「はいはい」と頷くだけで、同郷の大隈、江藤、副島がため息ながらに何とか制止するのだが、今回はよほど酔いが回ったのか、それとも木戸に言いたいことがあるのか、絡み上戸となってとにかく言葉をまくし立てる。
 一人静かに酒を飲んでいる山県が、その端正ながらも喜怒哀楽がまったく見受けられない表情に、目だけ冷めた感情を乗せジロリと大木を睨み据えた。
 山県という男は騒々しさを嫌う。宴席など好まないだろうに、今日はいつのまにか酒宴の中に顔を出していた。
「……その目はなんだ、その目は」
 大木は山県の冷め切った目に一瞬戦慄を覚えたようだ。
 それも当然だろう。人としての心が消え失せ、ただ冷たさだけを目に乗せる山県を見るのが初めての人は、心からぞくりと寒気が駆けるかのような悪寒に苛まれる。長州の人間は慣れているが、他藩のものがその冷たさを一度受けたら山県に対して負の感情しか抱かない。
 大木としばらく睨みあっていたが、そのうち山県も大木も飽いたのだろう。
 大木はまたしてもなにやら木戸に絡み始め、山県もなぜか木戸の杯に酒を注いでいく。
「オイ山県」
 井上が酒を注ぐ山県に制止を込めて頭を左右に振ったが、それにコクリと頷くものの酒を注ぐのをやめはしない。
 木戸は酒は好きだが、さして強くはないのだった。
「オイに酒を注げ、大久保」
 そして此処にも酒癖が最悪な男がいる。
 昨年戊辰の戦の最終戦となった箱館五稜郭を落とした薩摩の将、黒田清隆(了介)である。
 薩摩閥の中でもとりわけ西郷に可愛がられ、陸軍を率いる将としては天才とまでは行かないとしても才を有する男である。義に厚く、信を尊ぶ。だが酒を飲ませると途端に傲慢となり、強気の態度となるのだった。
 酔ったら最強の名の通り、薩摩の人間は酒宴の時だけは黒田を怒らせるな、を合言葉にしている。
 なにせ刀を振り回すは、人を投げ飛ばすは、黒田に酒を飲ませれば最期だ、と言われてまで居た。
 大久保は無表情のまま黒田に酒を注いでいる。
「よかか、維新ちゅうのは薩摩がつくったようなものでごわす。そこの長州の方々、貴殿らの力ではなにもでけんかったでごわさんか」
「なんだと」
 五稜郭征討の将として黒田と同じ立場で兵を率いた陸軍少将兼兵部大丞山田顕義(市之允)が、その場で怒りに顔を真っ赤にして立ち上がった。
 山田は大村益次郎の遺志を継ぐ長州陸軍の要というべき存在である。大村から木戸は託されたこともあり特に可愛がり、木戸派閥の中でも直属の木戸の部下といえるほどの男だ。山田もまるで弟のように木戸に懐いている。
「酔いの勢いとはいえいってよいことと悪いことがある」
「うるさか、チビ。陸軍少将とは笑える。まるで坊やも同様の姿でごわすな」
 それは山田の前では決して口にしてはならない言葉であった。
 山田顕義はこのとき二十八歳。だが、背丈もさることだが、そのあまりにも童顔な顔からして年よりは十歳以上は幼くみえるだろう。
 本人もそれを気にしていることもあり「チビ」といわれると過剰な反応をする。そして、それを口にした相手が誰であろうと噛み付くことを忘れない。
「この黒田めが」
 この二人が将で、よく五稜郭は落ちたものだ。
 今頃になって木戸はこの二人を共に行かせた恐ろしさに戦慄すら抱くが、とにもかくにも戊辰の戦が終えられたことにいまさらホッとしている。
「市、黒田君に挑みかかったら……」
 木戸が制止をかけたそのときには、すでに山田は黒田に投げ飛ばされてしまっていた。
 幕末のころ、それなりに高杉たちと剣術の鍛錬をしただろう山田をして、息をつく暇もなく投げ飛ばされるとは。
 改めて黒田の力に感心すらしてしまう木戸だったが。ハッと投げ飛ばされた当の本人に視線をすぐさま向ける。
 山田は投げ飛ばされた弾みで口の中を切ったのか、唇よりツゥーと血を流し始めたので、木戸は懐より懐紙を取り出そうとしたが、その手を山県が押さえた。
「山県?」
 そして、何を考えているか知れぬ男はとにもかくにも酒を注いで、木戸に飲まそうとしている。
「山県、おまえ。やる気かよ」
 井上が、無邪気に眠る伊藤の頭をよしよしと撫でながら、山県の顔を見据えた。
「そうか。そうだよな。ここらで一挙心の恐ろしさって奴を見せておかないとな。桂さん、飲め。そろそろだから」
「聞多? なにを言っているんだい。それに私はそろそろ飲むのはやめた方がいいと思うのだが。そうでないと酔いで倒れる」
「いんや、まだ大丈夫だ。飲まないとやってられねぇだろうが」
 山田と黒田がなにやらにらみ合い、これぞ視線が火花が散り、大木などにクドクドと長州のことを言われ、肥前の連中はなんとか大木を飲ませて潰そうとしているのかしきりに酒を飲ませている。土佐の板垣退助や福岡孝弟などは知らない振りだ。
 大久保は場に飽き飽きしているらしく、一人酒となっている。
 言われるままに木戸は山県が注いだ酒を飲み干した。
 瞬間、グラリとなる。やはり限界だったか、と気が遠くなっていくが、いつものようにバタリと倒れたりはしない。
 されど木戸自身の意識はなく、どこか遠くで木戸本人が自らの体を見ているような感覚に苛まれる。時折、訪れる現象だ。
「注げ、狂介」
 そう声にしたのは確かに木戸自身なのだが、その冷め切った無機質な声は普段の穏やかな木戸の声には程遠い。
 そして木戸本人は、そんな言葉を口にしている自分があくまでも夢現のように遠いのだった。
「……木戸さん……笑ってごまかしてないでそろそろ答えたらどうですか。廃藩置県を長州の連中……上層部にどう納得」
「そのようなこと短刀一本あればすむことではないか」
 酒を飲み干しながら、木戸は抑揚のない声で答えた。
 あまりにも冷め切った声音に、その場のものはハッと一同そろって木戸を見つめる。
 木戸ははかなく穏やかな風情を一変させ、冷気に包まれた凛とある椿の花を思わせる姿でその場にある。
 ひとつの隙もなく、活き活きとした輝きはないが、存在感あふれる威厳が木戸を包み込んでいた。
(これは……)
 一同息を呑む。
 人を自らの領域には決して踏み込ませず、隙すら与えはしない。その目には翳りなどない。むしろ周囲をうかがい、人の心を読むに長けた一人の策士の目をして人を見据える。
「それはどういう意味ですか」
 さすがにいささか酔いが吹っ飛んだらしく、大木の口調は控えめになった。
「何のことがある。上層部が騒ぎ出すならば、この身一つ差し出し気の済むまで斬らせればいい。それで藩一つを潰せるならば安いもの。もしも恐れ多いが殿が納得しないとならば短刀一つ、刺し違える覚悟。廃藩置県をやろうとする木戸の身一つで長州は納得しよう。 奇兵隊反乱で露見させたように、今の長州の武力はさしたるものはない。どれだけ意に沿わぬとも自ら兵を繰り出す力もなければ、あの蛤御門、長州征伐、四境戦争、戊辰の戦などなどで戦に飽いている。できることといえば、せめてもの抗いに私の命を断って誇りを知らしめることだけだろう。ゆえに短刀一本と申した」
 まるで他人事のように無機質な声で言い切り、木戸は再び酒を飲みほす。
「それはご本心か」
 誰もが普段の木戸との違和感に呆然となる中、大久保はただその策士の目で木戸を見据える。
 木戸はフッと笑った。
「この国の藩の中で一番に抗うのは薩摩であろう。……薩摩は西郷さんが何とか致すであろう。大久保さん、君のようにすべてを割りきりまったく礼節を立てぬやり方ではあの島津久光公は納得すまい。薩摩軍隊の頂点たる西郷さんが短刀一本もって行けば、意に沿わぬといえども、私の場合と違い斬られはすまい。西郷さんが斬られれば、薩摩兵すべてが敵に回る」
 クックックッと木戸は喉を鳴らし、嘲りに似た笑みを漏らした。
「そこが私との違いよ。私が斬ることで長州は気が済むかもしれないが、兵は動かぬ。何一つ国は動かぬ。だが西郷さんが斬られれば話は違ってくる。そこまで島津久光公はうつけではあるまい」
 大久保は自ら膝を進め、木戸の杯に酒を注いだ。
「貴公のお覚悟感服に値する。されど、今、貴公に死してもらうわけにはいかない。この国のため、今後は……」
「まずは洋行ですな、大久保さん」
 言葉を遮って木戸は言った。
「この国の先を決めるには、直にいろいろな国を見るのが先決」
「貴公もそれを考えられておいでか。ならば……使節団の派遣、貴公もぜひとも一緒にいってくださいますな」
「桂さん」
 慌てて井上が間に入ってきた。
「大久保さんも大久保さんだ。今は酔いの席。この人も随分と酔っている。それで口約束をさせようなど」
 木戸はかねてより洋行を志してたが、薩摩閥の政治的頂点たる大久保も洋行を、と考えていた。
 太政大臣たる三条実美は、この時期に政府の薩長閥の首脳が同時に消えることを危惧し、薩摩に対しては親しみよりも憎しみが勝る三条公は、かつての八月十八日の政変以来苦楽を共にしてきた木戸に洋行は断念するようにと説き伏せ、やむを得ず、と木戸も考えていた。
 だが大久保は意地でも木戸を連れて行こうとしている。
 留守中に政府の開明派が、この開明派の頂点ともいえる木戸を担ぎ何かよからぬことをしでかすのではないか、と危惧を抱いているのだった。
「行こう」
 木戸はあっさりと承諾した。
「一度西洋というものを見てみたいと思っていた。我らが共に同じものを見ねば、この後更なる齟齬をきたすだろう」
「おいおい桂さん」
 井上は心配顔ど制止にかかる。
「そのお言葉、嘘偽りはないですな」
「私は偽りなどを口にするほど暇な男ではない」
「これはこれは。まさか貴公よりそのようなお言葉を聴けようとは。いつもならば慎重に話を伸ばされる貴公が。どういう心境の変化……」
「たんに貴殿が西洋で見て、帰国後主張するものに信用がならぬだけだ。同じものを見て、その主張の本髄を身に着けねば、その主張に抗うこともできぬではないか」
「信用がならぬ、と」
「私は一度として薩摩人を信用したことない」
「長州がなにをいいよる。我が薩摩を愚弄するか」
 山田との睨みあいに飽いたか、黒田が木戸めがけて突進してくる。確実に挑みかかっていた。
 フッと木戸は笑む。それを目の前で見た大久保は、さすがに顔色を変えた。
「あちゃあ……」
 井上はさっと避難し、山県などはかまわずに酒を飲み続ける。
「了介、やめんか」
 だが大久保といえども酔った黒田を制止することは適わない。
 黒田はそのまま木戸の胸倉を摘んだときだ。
「無礼者」
 木戸の冷めた声が響く。
 そして瞬く間もなく、黒田の胸倉を掴む腕を取り、そのまま身を反転させ黒田の体を担いで一本背負いの形で投げ飛ばしたのだ。
「私に挑みかかるなど百年早いぞ、小僧」
 瞬間、その場にいたものは……長州人以外は誰もが思っただろう。
 木戸孝允の性格が変わっている。普段の何にも取り合わない悟りきった感じと、憂いばかりを抱くあのはかなさは何処に言ったのだろう。自ら強気な発言を、または人を不快にさせる言葉も口にする人ではない。むしろ発言することが珍しいのだ。
 その木戸が、薩摩人を信用したことない、と真っ向から大久保に言い切るなど、これぞついに薩長の真っ向からの対立か、と思われようと致し方がない。政府内の対立に気を遣い立ち回る木戸とは思えない態度だ。
「オイを……」
 そこで黒田は目をぱちくりさせ、
「オイを投げ飛ばしたお人は、貴殿が初めてでこわす。男として惚れたぁぁぁ」
 などとわめき散らすため、木戸はさらに冷気で身を包み、その場の押入れより布団を取り出して、なんと瞬く間に黒田をくるくると毛布で簀巻きにしてしまったのである。
「この荷物、帰りにお持ち返りいただきたい」
 と言い捨てた。
「本当に貴方、木戸さんですか。とても性格が……」
 副島が伺うように木戸に視線を向けると、それを跳ね返す冷めた目で見据えられたので、早々に視線を避けていく。
「実に頼もしい。木戸さんがそのように断固とした形で挑んでくださるなら、怖いものなしです」
「私は貴殿が喜ぶことなど一つとしてするつもりはない。国のためとあらば致し方ないが、願わくば貴殿とは違う人間と組みたいものだ」
 御しやすい相手をな、という最後の言葉は木戸の心底のみで呟かれた。
「あちゃあぁぁ。少しばかり行きすぎだな、桂さん。オイ山県、早く酒を注げ。みんな混乱しているぞ」
 井上の言葉に致し方なし、とばかりに山県は酒を注ぎ、木戸が飲み干す。
 それを何度か続け、ついにもともと酒に強くない木戸は冷めた目のまま傍らの山県の肩に身を預けた。
 その体を山県は胸元に引き寄せ、無表情を少しだけ和らがす。
「大久保さん、今の桂さんは普段の桂さんではないんだ。って言うか、なんというのか人に言わせれば二重人格って言うか」
「井上君。それはどういうことなんだ」
「俺らにも説明できねぇんだけど、たまに酒の飲む速度や量の調整で今の桂さんになるんだよ。まったく性格が違うと、こちらの方が冷ややかでやることが恐ろしいし、意思もはっきりしている。酒の勢いで本性がでるのか、それともこちらがもともとの天性なのか知れないが、とにかくなるんだよ、桂さん」
「……あの黒田君を投げ飛ばし、無礼者とは……恐ろしいですな」
 すっかり酔いが覚めたらしい大木は感服している。
「けっこういつも自分を抑えているから、もう一人の人格作ってしまってんだろうって高杉なんかが言っていたさ。それを知った上で山県が酒の量を調節しやがった。アンタらが桂さんをいろいろと責めるからだぞ。いいか、この桂さんは容赦がないからな。一度怒らせると二の句が告げられるまでやりこめられ、報復をされる。世にも恐ろしいんだ」
「だが」
 山県の胸元で酔いにつぶれて眠る木戸を見ながら、大久保がほくそえんだ。
「こちらの木戸公は、とても頼もしい。普段がこの姿ならば、私は当の昔にやり込められていよう」
「けど、こちらの桂さんだとな。俺らはダメなんだよ。俺が守りたい桂さんじゃねぇ。守ることも傍に居ることすらゆるさねぇ。俺らにはなにやら命にもこの世にも執着がなくとも、いつもの桂さんがいいってわけだ。
……まぁ、こちらの桂さんをたまに悪用することもあるけどな」
「たいへんすばらしい木戸さんの一面を見せていただいた。感謝する」
 そこで布団に包まれた黒田を抱えて、大久保は辞去の挨拶をした。
 木戸の先ほどの姿を畏怖したのか、酒の酔いからすっかり覚めた連中も次々と帰っていく。
「いい気味だ、黒田の奴」
 山田が布団にくるまれた黒田を見てニヤリと笑った。
 長州の人間は、木戸の家は勝手知ったもので、それぞれ客室やら空き部屋に泊まる用意をし始める。
 井上は伊藤を肩に担ぎ、
「後片付けは明日だな。俺らは客室を使う。山県、責任を持って桂さんを寝室に連れて行け。……良かったな、役得だ。酔いつぶれた桂さんを抱きかかえられるなど俊輔が意識があれば絶対に許しはしないぞ」
 と、井上はニヤニヤと笑った。
「……大久保に信用していない、と言ったなど覚えていないだろうが、あのときの大久保の顔は笑えた。本人無意識だが、あの無表情に狼狽を浮かべたんだからな。成功だな、ブラック桂さん。じゃが、山県。おまえ酒の調整をどこで覚えた?」
 木戸を抱えあげ立ち上がった山県は、一言。
「高杉さんに教わった」
 それだけを答えて、木戸を寝室に連れて行くためにゆっくりと歩き出した。
「高杉にね……そうかい。今度俺にも教えろよ。桂さんがそうなってくれればあの大久保の主張に真っ向から立ち向かえるからな。世を嘆かないし、なかなかに清清しい」
 山県の返答はない。
 井上は何をしても目覚める気配はない伊藤を抱え、残った山田を連れて勝手知ったる客室にと足を向ける。
 今日の一件がもとで、薩摩の黒田清隆がこの後木戸に付きまとうことになるなど、誰も考えてもいなかっただろう。
 すべては酒の席でのこと。
 酒の酔いで現れたもう一人の木戸孝允の印象度がよほど強かったらしく、この後政府では木戸に最上の敬意を持ってあたることとなり、黒田や大木などの酒癖の悪い連中も、「酔っても木戸には絡むな」と自らに言い聞かせていくことになる。
 当然ながら木戸孝允はなにも覚えてはいないのだった。


ある宴にて

ある宴にて

  • 全1幕
  • 長州閥小説
  • 【初出】 2006年ごろ
  • 【修正版】 2012年12月13日(木)
  • 【備考】