藤の花の夢

前編

 その家の前で、毎日木戸は馬車より降りる。
 藤の蔓が縦横無尽に走る……それは朽ちた廃屋に咲く藤の花。
 人が住むことがなくなり幾ばくの年が過ぎたのだろうか。
 その庭に植えられていた藤は、人に忘れられ、いつしか思うままに蔓を伸ばし、家を覆い始めた。
 木戸は崩れた垣根より藤を見る。
 藤棚を見事にしつらえ管理された藤も良いが、野生に生きる藤もまた見事に咲き誇る。
 夏の訪れを告げると言われる藤の花は、皐月の下旬となりし今もみずみずしく生き生きとし、本日も美しい。
 この藤を目にしたのは偶然であった。
 九段より馬車で廟堂に向かう木戸は、たいていは馬車内で書類や本を読んでいることがほとんどだ。設えられた小窓より外を見ることはほとんどない。
 それが、あの日はおりしも雨で、雨音の強さに、ついカーテンを開け小窓より外をうかがった。そのときに、この藤の花が目に飛び込んできた。
 ドキリ、と胸が鳴ったことを今でも覚えている。
 生来の花好きで、家の庭に咲く花の名を全てそらんじられる木戸にとって、藤の花は特別な意味合いを持つ。
 アレはいつの日であったか。
 近所の家の庭に咲く藤の花を見ていた木戸は、とある老人に声をかけられた。
『藤の蔓は根をはりめぐらす。知っているかい、坊や。藤の蔓に覆われた家は、長続きはしない』
 ゆえにこの藤の花は、古来より「不吉」と言われてきたのだよ。
『藤の蔓は家を覆いふさがるために、家の主の生気を吸うというのじゃ。家が続かぬのは、主の生を吸い取るからじゃ』
 古くからの伝承を、老人は語っているに過ぎないのだろう。
 もしや幼い子供を怖がらせようとしたのかもしれない。
 だが、木戸は引き込まれるように老人の言葉を聞いていた。
『藤はのう。だが良い花だよ。人の生気をもらう代わりに、その人が求める最たる夢を見せてくれるのだという』
 ……それは甘く美しく、魅惑的な幻。
 木戸の生家にも藤が咲いていた。藤棚がしつらえられ毎年縦一面に藤の紫が柔らかく映る。
 そして蔓が横にそれると、父はその蔓を必ず斧で遮断した。
 藤はこれほどに美しいのに、その蔓は忌々しいもとなのか。
 藤が美しい近所の家の主人が、それより五日後。突然、逝った。血の気のない顔に、肉が根こそぎ殺がれ、骨と皮だけの体となり、最期は藤の前で死んでいた、という。
「だんなさま」
 不意に馬車より声が飛んできた。
 御者の仙吉の声音に心配げな響きが込められている。
「だんなさまは毎日、この藤ばかりを見つめておいでじゃが。……主なき家の……蔓が伸び放題の藤は不吉ですぜ。藤の花の恋に、つかまってしまう」
「藤の花の恋?」
 木戸は仙吉の言葉に好奇心をくすぐられ、つい問い返した。
「そうです。知りませんか。藤の花は……いつもさびしがり。蔓を伸ばして愛しい人を捕まえようとしているんですよ。捕まったら最期。生気を吸い取られ、その人はあまい夢を見て死ぬ。さらに藤は美しく咲く」
「それはかわいそうだね」
「………だんなさまのような人は捕まりやすいですぜ。気を付けてくださいよ」
 本気で案じている。どうやら仙吉は伝承を信じているようだ。
 蔓を伸ばし愛しい人を捕まえ、されどその人の生気を吸い、愛しい人はいなくなる。どれほどに美しく咲こうとも、そこに恋しい人がいなければ、きっとさびしい。ひとりぽっちは哀しい。
「藤の花の恋……か」
 いっそ、その伝承が真実なら、捕まってみたいものだ。
 この身が望む夢を見せてくれるならば、自らの生気などくれてやってもかまわない。
 もう一度、見せてくれるならば、
 もう一度、あの場に自分を返してくれるなら……。
「さあだんなさま、かえりますぜ。この頃、帰りが遅いと皆さま心配しとります」
「……そうだね」
 偶然に目にした藤の花。
 花の前に立ったあの日から、もしかすると自分は掴まっていたのかもしれない。
 なぜか藤の花が見たくて、この場に寄ってしまう。
 藤にそっと触れると、妙に愛しくて、この場にずっと在りたいという気分にさいなまれる。
 なぜなのだろうか。
 冗談とは思わないが、それほど信憑性はない「藤の花の恋」に、自分は知らず知らずにとらわれているのか。
 美しき藤の花は、一時の慰めの恋。
 求められるは人の生気、購いは一時の愛しき夢幻。
 いっそ、この自分に蔓を向けてくれはしないか。
 明治に入り、この胸にある感傷が、この心にある願いが、藤の花を見つめ続けさせているのかもしれない。誰一人としてかなえられぬ願いゆえに、いっそ……と。
 もう一度、今一度……あの姿を見ることができるのならば。
 思いを込めて藤の花が見つめる。愛しき思いを花と思い人に込めて。
 毎日、許される時間は限られていた。
 昔昔のあの老人の言葉に背を押され、
 藤の花の伝承は、
 菓子のように甘く魅惑的に、木戸をいざなう。


 その日も、また雨だった。
 これで連続して五日、雨は降りやまぬ。
 木戸はその日は歩きで、廟堂を出た。馬車は先日の衝突事故により破壊されてしまい、木戸は徒歩により家に戻る。
 たいていは後輩たちが心配し自らの馬車で送ってくれるのだが、この日は木戸はあえて傘をさして自ら歩くことにした。
 馬車がなくともさして不便には思わない。昔から歩くのが好きだ。道端の花を見、空を見、遠くに映る山を見ながら歩くのはなかなかに楽しい。
 明治に入り、参議となったこの身を「刺客」が目を輝かして狙っているらしく、必要以上に過剰に反応している後輩たちは、護衛やら馬車やらと騒ぐ。
 落ちたりとはいえ自分とて神道無念流練兵館の塾頭であった身だ。
 この懐に入っている短刀をもって、刺客の襲撃を受けようともやり過ごす自信はある。
「………」
 かの黒船来航を期に、剣の道よりずいぶんとそれたものだ。純粋に剣のみを追い、剣により自らを大成しようしたあの日日を、周布政之助の一言が崩した。
『桂。そちに剣は必要ない』
 土佐や薩摩、幕府でも人斬りが流布した時代。
 長州藩は自らの目的のために「人斬り」を求めるならば、その任に適度であったのはおそらく自分であったのではないか。
 だが政務役の周布は造船や砲台の技術を学ぶこと、その後は練兵館の塾頭であった名をいかし外交面で動くことを求めたが、剣を一度たりとも握れとは言わなかった。むしろ……剣を捨てよ、というかのように、常に政治上の表舞台に木戸を置いた。
 あの京の騒乱も遠い。祇園囃子ももはやこの耳は覚えてはいまい。
 ゆっくりと歩を進める。懐の短刀にそっと衣越しに手を当て、
「いっそ今より今一度、この剣を極めようか」
 明治という世には無用なる産物となりつつある剣術は、
 今、この時において、何一つ未来に希望が見えぬ自分には、廃れるものに執着するのは適度なのかもしれない。
 亡き父は、病弱だった自分が剣を学び始めたことに、どれだけ目を輝かして喜んだか知れない。その剣を自分は封じて、生きてきた。
 剣という道。凶器と承知の上で人を守るために握った剣にて、自分は何一つ成し遂げてはいない。
「………」
 その廃屋の前に立ち、木戸は迷うことがなく朽ちた垣根より家の敷地内に入る。
 今日で十日目。
 雨にあたる藤は、なおいっそう瑞々しく鮮やかに目に映った。
 木戸は目を閉じる。
『桂さん。藤はどんな意味があるんじゃ』
 幼き幼馴染と手をつないで道端に咲く野生の藤の花を見た。
 あの当時、自分は山にいっては花の名前と花言葉を教え、幼馴染はにこにこと笑いながら花を見ていたものだ。
『……花言葉は歓迎だよ』
 夏の訪れを告げる花にそっと触れ、愛しげに撫ぜて、見つめる。
『いい花言葉じゃ。歓迎か』
 あの時、しだれ落ちる藤の花を手に取りながら、もうひとつの花言葉を自分は言葉にはしなかった。
 藤には二種類の花言葉があるといわれる。
 夏の訪れを告げるように咲く花。歓迎という意味は広く使われるが、もう一つ。
「藤の花言葉は……陶酔。恋に酔う」
 まさに今の自分を当てはめるのに適当な言葉なのかもしれない。
 あの日、幼馴染と共に藤の花を見たときと同じ気持ちで、今、木戸は花に触れる。
 やさしく丁寧に。愛しさと慈しみを込めて。
 そっと撫ぜて、微笑む。
「……陶酔」
 毎日見つめている花。薄紫の匂い立つかのようなその花。
 魅入られていようか。
 香りにいざなわれていようか。
 心を捕える言い伝えも含めて、今、木戸は藤の花を見つめる。
「かりそめの一時の恋の相手に、私はいかがでしょうか」
 花を守るようにして覆う蔓に、この手を差しのばす。
「求めるものを差し上げます。その贖いに、私の願いを……」
 かなえてください。
 藤は、蔓を伸ばしに延ばし、愛しき人を探す。
 蔓はその人を縛り、生気を吸い、そしてその代償に……一時の夢幻を見せる。
 自分でも愚かと思いつつも、その言い伝えがなぜか今は、真実に思えて、目を閉ざし、この体に伸びる蔓を、ただ待ち続ける。
 魅入られたのか、自分か。それとも藤の花か。
 時が流れ、雨音だけが周囲を支配する中、
 細い蔓がめまぐるしく動き、木戸の手に絡みついたその時、無性に愛しいと思えた。
 雨の音が聞こえる。花を打つ雨の音が……聞こえて、そして消えた。


「桂さん、なにしているんじゃ」
 幼馴染の高杉晋作が軍服姿でヒョイと部屋を訪ねてきた。
 桂と呼ばれ、その名が妙に遠く胸に痛いと思った。おかしなものだ。数か月前まではいつもこの名で呼ばれていたというのに、今のこの感傷は何なのだろう。
「晋作、私はもう桂ではない、と何度言い聞かせればいいんだい」
 主命により木戸貫治と名乗りを改めた桂小五郎を、幼馴染は徹底して「桂さん」と呼び続けている。
「なんじゃ。自分には桂さんは桂さんじゃ。木戸という人は知らん」
 ズキリ、とまた胸の中の何かが騒いだ。
 今度は鋭い痛みを伴い体全身を刺し貫くような痛みとなる。
「それにじゃ。物心つく前より桂さんって呼んできたんじゃ。いまさらじゃないか」
 ニッと笑った高杉を見て、それもそうか、とつられるかのように自分も微笑んでしまう。そんな無邪気な顔をして言われれば、咎める気もなくなる。
「下関から出てきたんだね。何か山口に用でもあったのかい」
 すると高杉は少しばかり照れた顔をして、
「用事はついで。アンタに会いにきたんじゃ」
 ほれ、と高杉は紙の上に乗せた藤の花を差し出してきた。
 どうやら道端で摘んできたらしい。花好きの自分のことをよく知っている高杉は、たまにこうして花を持ってくる。
「いつのまにか藤が咲いたのだね」
「今年は桂さんは桜もほとんど見んかったんじゃないか。花見もやりたかったのにな」
「仕方ないよ。今年は……いろいろとあったから」
「来年はパッと盛大に花見をしよう。そうじゃ……パッとじゃ」
「いいね。みんな集めてしようか」
「桂さんと二人だけでいいんじゃ」
 ニタッと笑った高杉は、藤の花を見つめている。
 ドクリと胸が鳴る。ドキリと胸が跳ねる。
「晋作、約束だよ。必ず……花見をしよう」
「もちろんじゃ。じゃが……どうしたんじゃ、そんな顔をして」
 ……うそつき。
 胸の中より湧き上がる思いに、自分は今泣きたくなるほど苛まれている。
「……なんでそんな顔をするんじゃ。桂さん……桂さん」
 背中越しより甘えるように乗りかかる高杉の体の熱。
 苦しい。胸が締め付けられるほどに、哀しい。
 自分は知っている。
 来年の春は……。
 そうだ、病に憑かれた高杉は花見をすることはできなかった。
 意識がなくなり、骨と皮になった手を差しのばして、
『花見じゃ……桂さん。花見……』
 うわごとのように言っていた。苦しげな呼吸の中で、もう散ってしまった桜に請うように。
「桂さん」
 高杉の静かな声音。
「桂さんと花が見たかったんじゃ」
 高杉の手が藤の花に伸び、そして握りしめる。
 薄らいでいく光景。
 振り返って高杉の顔を見ると、少しだけ哀しげに笑っていた。
「……藤の夢に捕まってはいけんよ、桂さん」
 雨の音が聞こえる。花を打つ雨の音が……さんさんと降り注ぐ雨の音が……耳に確かに聞こえている。
 ハッとして意識して目の前を見る。
 今、確かに傍らに高杉のぬくもりを感じていた。その声も、その笑顔も。
 だが、今、木戸の目をとらえるのは、ただの藤の花である。
 右手に絡まる藤の蔓が、妙に現実感と空想をよぎらせる。
「今、私は……」
 体がぐらりと揺らぎそうになり、あわてて態勢を整えた。
 傘を持つ右手は、なぜかしびれがある。
「今のが……藤の夢」
 背中に幼馴染のぬくもりが残っているように思え、木戸はその場に屈んだ。
 目より滴るぬるい水を左手で抑えながら、
 ……来年はパッと盛大に花見をしよう。そうじゃ……パッとじゃ。
 高杉の声も耳に確かに残っている。
「つきとおせない嘘なら……言わねばよかったのにね」
 次の春に高杉晋作は逝った。
 梅を見て後、意識を失った高杉は、その目に桜を映すこともなく……逝った。


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藤の花の夢 -1

藤の花の夢 前編

  • 【初出】 2010年5月26日
  • 【修正版】 2012年12月14日(金)
  • 【備考】木戸孝允命日追悼作品