葉桜香る季節に




「木戸さん」
 机に頬杖をついて、窓より外を見ていた木戸にふと小さく声がかけられた。
「今年は例年よりも遅く桜が咲いて……散りましたね」
 木戸の目が一心に中庭にそびえる桜の大木にそそがれる。今は葉桜となってしまった大木の若々しい美しさに目を細める。
 さやさやと小枝を揺らす音すらも聞こえてくるかのような、午後の一時の静寂。
 書類を目にしていると、時折その小さな字に目が痛くなることもあり、こうして木戸は外に目をやる。
 穏やかな天候と思えば、不意に突風を伴う嵐となる春の気まぐれさは、今、初夏に移り変わろうとしている。天候も日日爽やかさであるかと思えば、時折夏の熱を予感させる暑き日も多くなってきた。
「桜見をする暇はありませんでしたけど、そのうち同郷のものを集めてパッとやりませんか」
 伊藤の陽気な声は、この二人だけの居室に明るさをもたらすが、時としてその明るさが木戸には邪魔ともいえた。
「俊輔」
 目を葉桜からそらさずに、小さな声で呼ぶ。
「そろそろ工部省に赴く時間だよ」
 時計を見てアッと小さく叫ぶ伊藤に、振り向いた木戸は「いっておいで」と微笑んだ。
 伊藤は立ち上がり「いってきます」と頭を下げる。
 わずかに伊藤の背中に向けていた視線も、すぐに葉桜に帰っていき定着する。
 時として木戸は、こうして静寂の時を一人で浸ることを欲した。
 誰の息吹も感じず、気配もない一人だけの場所。耳を澄ませば柔らかさを含む風の音や、その風が揺らす木の葉の音すらも聞こえてくるかのような空間。
 目を閉じる。今、この時、この耳に届くのは自分の呼吸の音と胸の鼓動だけであり、感じるのは自分の体温だ。
 木戸は口元に微苦笑を刻む。
 一人となるとことさらに自分の温度を感じる。自分の体で波打つ鼓動が「生」の証を一秒一秒刻んでいることを再認識し、この体を覆う熱というぬくもりに、そう吐き気すら覚えるのだ。
(私は生きているのだね)
 この明治という時を、今も自分はこの両足を持って立っている。
 それが妙におかしくて、とてつもなく悲しくて……。
 開かれた黒曜石の如し瞳が、映す洋式の部屋。その目にランプが映る。夜にこの部屋を灯す灯火は蝋燭のほのかな灯りではなくランプという異国のものとなっている。
 木戸はクスクスと声を立てて笑い始めた。
 十年前には決して望まなかった……考えられなかった部屋の中に自分は一人。
 願わなかった政府の閣僚の一人として書類の束に埋もれ、今も片手には異国で求めた銀製の万年筆が握られている。
 滑稽で、笑わずにはいられない。これが攘夷志士桂小五郎のなれの果てか。
 留まることのない笑い声は、今この部屋を包み込む音として場を支配し、
 視線は「現」を拒絶するかのように窓の外に逃げ、葉桜をとらえた。
 笑いながら、ポタリ、と木戸は涙を落とす。
(こんな私を誰が望んだ?)
 一人になると木戸は鬱に入ることが多い。過去を思い出し、過去に飲まれ、過去に縛られる。
 木戸としても「過去」に思い浸ることは承知であるのだが、分かっていてなおその過去から抜け出すために足掻くことを決してしない。
 もう一度目を閉ざす。
 深呼吸をして、ようやく自嘲の笑いは止まった。
 耳に聞こえるは、自分の息吹と鼓動。神経を集中してみると、その耳はかすめるように廊下を規則正しく歩く靴の音をとらえる。
 時を移さず、扉が三度ノックされた。
「木戸さん、大久保です」
 冷めた声がまた耳に音として加わる。
 木戸はすぐにも返事をしなければならなかったが、あえてこの一人の時に「同伴者」は求めたくなかったのでそのまま黙した。
 目を閉じたまま、息を殺す。そのまま大久保が通り過ぎていくことを願ったが、ガチャリと扉が開く音に吐息をひとつ落として目を開けた。
「休んでおられましたか」
 扉元に立った大久保の長身を見て、「えぇ」と微苦笑を浮かばせ、
 木戸はまたクスクスと声を立てて笑い始める。
「何か楽しいことでも」
「えぇ。今、私が貴殿とこの場にあることがとても楽しくて」
 そしてとてつもなく滑稽に思えて、自分自身を嗤ってしまう。
「そうですか。それは光栄といわねばならないのでしょうが、貴公、笑いながら泣いていますよ」
「知っています」
 一時自嘲の笑いは留めることはできたが、この涙はどうも木戸の今の理性とは別の感情から流れてきているものらしい。
 大久保は木戸の目の前に寄り、手に持つ書類を机の上に置いた。
「内務省に寄せられた陳情です。私が見るよりは貴公向けなので、お目を通し下さい。そして貴公が取り上げると決めたならば、内務省までもっていらっしゃい」
「また面倒なことをしますね」
「理想論は私の性には合わない。ついでに内容が抽象的過ぎる。せめて貴公の言葉に訳していただきたいと思うものです」
 木戸の涙で滲んだ目が、スッと大久保の暗闇の目を捕らえる。
「毎日のように貴公の理想論を聞かされているので、理想とは貴公が語る美しきものと私は思っています。それならばこの耳に入れるだけはいれてもいい。 だが美しくない理想論は在る意味おぞましい」
「それは私を持ち上げておられるのですか」
「……私の心情を申したまでですが」
「それともけなしているのでしょうか」
「木戸さん」
 この二人が顔を合わせ、政治的な話をすればたいていは堂々巡りをするだけである。
 無類の理想主義にして革新派の木戸と、冷血なまでに現実主義の大久保は見事なまでにそりが合わない。だがおかしなところで互いが互いを認めている節があり、犬猿の仲やら冷めた夫婦と称されようとも、毎日のように顔を合わせ意見を交わすことをやめることはない。
「今日はいつもの時間においでになりませんでしたね。紅茶を用意して待っていましたが」
 八つ時(三時)を時計の針が差す頃に、木戸は内務省詣でをするのを日課としていた。
「……今日はとてもよい天気でしょう」
「そうですね」
「思わず目を留めて葉桜を見ていたら、この世もこの国もそして自分自身も私の脳裏から消えたのです」
 大久保は伊藤が座っていた椅子にもたれ、脚を組んだ。
「……貴公、しばらくは鳴りを潜めていたがまた鬱が再発ですか」
「どうでしょうかね。鬱になると私は大久保卿の顔をこうして見たくはなくなるので、まだ鬱ではないと思いますが」
「言うことは言われる。まだ大丈夫のようです」
「そうだと思いますよ」
 クスクスと笑った木戸は、そっと視線をまた窓の方に返す。
「葉桜がお好きですか」
「いいえ」
「では言葉を改めましょう。葉桜を見ると泣けてくるほどの思い出があるのでしょうか」
 そこで木戸は今まで考えもしなかったことをポツリと投げつけられ、
 脳裏の中に埋没していたひとつの記憶を掘り起こした。
 自嘲の笑いの理由は分かっているというのに、この涙の理由は知れなかった。
「大久保さん」
「なんでしょうか」
「貴殿は……私が決して思い出したくなかったものを、今思い出させましたよ」
「おや、既に思い出していたから泣いていたのではないのですかね」
「いいえ。忘れていました。むしろ考えないようにしていました。考えれば際限なく思い出されて、私はまた……泣かなくてはならない」
「そうですか」
 葉桜を茫然と見ていた。あえて何も考えないようにして、葉桜を見ていた。
 この葉桜の記憶を思い出すと、さらに今の自分の温度も呼吸も邪魔で憎く思えてしまうことを知っていたからだ。
「………」
 涙がポタリポタリと落ちて行く。
 その音が耳に捕らえ、その音が思いを過去に誘う。
 幼い高杉晋作が葉桜香る大木の頂上の枝に座り「桂さん」とニッコリと笑って手を振った姿。
 明倫館より戻ってくる自分を、その木に登って待っていた幼馴染。
 桜咲くころは花を散らすからという理由で高杉は木に登らずに幹に腰を預けて待っていた。紅葉のころになると、やはり登らずに明倫館門前に立っていたものだ。紅葉は散るもの。自分が登って散るのを早めるのは哀れだ、と語った幼馴染が木戸は大好きだった。
「……貴殿が悪いのです」
 思い出はこの胸の中にあふれ、さらなる涙を流させる。
「然様でしょうか」
「今、私を泣かせているのは貴殿ですよ」
 言いがかりも甚だしい、という目をした大久保は、吐息を一つだけ漏らし木戸の頬に手を当てた。
「浸らせて差し上げました。そろそろ現実にお戻りなさい」
 涙をぬぐうでもなくあてられた手は妙に冷たく、ぞくりと木戸の体温すらも冷めさせる効果があった。
「何度も言わせていただいていますが、そろそろ貴公は過去ではなく現実を見なさい。まるで壊れた道具を大切にするように、 心の中で過去を飼うのはおよしなさい。見ていて醜態極まりない」
 その手と同様なほどに冷めた大久保の暗闇の目に見据えられると金縛りにあったように動けなくなる。
 捕らえられ、釘付けにし、そして縛られるのだこの目に。
 呼吸をすることも忘れ見つめあい、
 木戸は大久保の瞳の奥に一握たりとも情がないことに安堵の吐息を吐く。
 この自分と大久保の間にあるのは「国家」という大義であり、決して二人の間には「情」という甘い産物は必要としないのだ。
 かつて長州の同志たちを繋いでいた「情」という脆くて強い絆は、自分たちには必要ない。
「私は……やはり貴殿が好きではありません」
 もう片方の手も頬に当てられると、冷ややかさが徐々に体を満たし、やさしく悲しい記憶すらも冷たさで染めあげる。
 木戸は口元に微笑みすらを刻んで、大久保の目の更なる奥を見据えた。
 この男の目に今映るのは自分であるのだが、木戸には国家の暗闇が映り、現状の政が映り、そして自分たち二人の相容れぬ関係が映り、最期に木戸は大久保の目の中に自らを見出す。
「貴公ほどの方に好きではないといわれるなど、光栄極まりない」
 僅かに風情を緩めた大久保は、そこでようやく木戸の涙をぬぐい始めた。
 もう涙は止まっているので、今ぬぐっているのは目を潤わせていた雫の最期の一滴であろうか。
「……過去ではなく現実を見る貴公の目の方が見惚れますよ」
 大久保はそんな一言を冷淡な物言いで残し、身をそつなく翻した。
「明日は私のところにおいでなさい。紅茶を用意しておきます」
「この陳情を持ってですか」
「はい。……それともう一つ注文があります」
「なんでしょうか」
「その目に今と同じく現実を映していらっしゃい。過去を映す貴公ならば、また嬲りますよ」
 木戸はまたクスクスと楽しげな声をあげて笑い、
「では、大久保さんが嫌がる私の方で参りましょう」
「悪趣味な。苛められにこられますか」
「そんな私を見ると、自分がしっかりとしなければと思うのでしょう」
 大久保は扉に手をかけ、返答もなく廊下にと消えていった。
 廊下を歩く規則正しい音が耳をとらえる。
 木戸の楽しげな笑い声もいつしか消え、再びその目は葉桜にかえっていく。
 微笑を刻み、目を閉ざし、心の中で「晋作」と名を呼ぼうとも、涙は滲まなかった。


 なにやら大きな風呂敷を抱えて、伊藤が工部省より戻ってきた。
「俊輔? それはなんだい」
 木戸が小首を傾げると、伊藤はにっこりと笑って風呂敷を解いて見せた。
 風呂敷の中から現れたのは玩具や小さな模型である。
「これは……」
 洋行の際に英国で見た蒸気機関の模型や、馬車や黒船の小さな玩具が数点入っていた。
「工部省にいったら、これの置き場がないとか言っているのでもらってきましたよ。ここに飾ろうと思いましてね」
「此処に? どうして」
「木戸さんは葉桜を見るだけでも意識は過去に戻るので、この部屋にもっと楽しいものがあれば外も見ないですむし過去に向かないかなって思いましてね」
 ほらこの蒸気機関を見たら、初めて蒸気機関に乗って新橋から横浜まで赴いたことを思い出しませんか。
 この黒船を見たら、あの岩倉使節団の副使として洋行した楽しい日日を思いだすでしょう。
 それから、といろいろなことを並べていく伊藤に、
「そうだね、俊輔。その船の模型を見て、あの洋行より私より何日も早く戻ったというのに報告書一枚出さずにのらりくらりと過ごした大久保さんへの苛立ちを今思い出したよ」
「……木戸さん」
 苦笑いをする伊藤に、木戸は笑ってありがとうと言った。
「みんなを集めてパッと宴会をしようか。花はないけど葉桜があるから……きっと楽しいはずだね」
「本当ですか。どこかでパッと宴会してもいいのですか」
「芸者をあげてはいただけないけどね」
 伊藤は目を大きく広げて、ニッコリと笑う。
「嬉しいです、木戸さん。この頃そんなに楽しいことを言ってくださらず、僕たちといるのが辛そうだったから……そう思ってくださるだけでも嬉しい」
 さぁ料亭を手配しよう。同郷の者たちには「回覧板」を回しますね、と長州閥の連絡網を早速用意しようとしている伊藤に、
「たまには大久保さんも誘おうか」
 瞬間、伊藤の「陽気で明るい」風情が一挙に冷めた。
「俊輔……」
「僕はですね。例え大嫌いな山県がいても大騒ぎして楽しめる自信がありますよ。あの男とどんなに嫌でも思い出を共有しているし、同郷のものだと思えばこの憎らしさも半減することができますからね。でも大久保さんはダメです。どう見ても場が暗くなるではないですか。どうして大久保さんを誘おうなんて……」
「感謝の思いだよ」
「……本気ですか、木戸さん」
「私をいつも過去から引きずり出して下される大久保さんに、私ならではの感謝の意を表して長州の宴に招待しようと思ってね」
「きっと向こうが断りますね」
 どんちゃん騒ぎの騒々しい宴など好みではないだろう。
「そうだね……。確かに」
 少しは残念という思いがあった。あの大久保が長州の騒ぎの中にどういう顔をして場に在るのか木戸は見てみたいという好奇心が胸に擽っていたのである。
「とにかく久々ですから、とりあえずは僕たちみんなで。そのうち木戸さんが囲碁でも打ってあげる方が大久保さんは喜びますよ」
「そうだろうか」
「おそらく。あの冷血な血しか流れない内務卿も、冷血の血を諸共しない木戸さんが傍にいるのは楽しいようなので」
「それこそ冗談だね」
 二人して顔を合わせクスクスと笑い、
 傍らで連絡網を書き出した伊藤を見ながら、木戸は万年筆を持ち、書類を見据える。
 ……こんな私を望まず、誰も願わず、憎むかもしれないが。
 今、木戸はここに在る。憎く恨めしく思うことがあろうとも、この両足で明治の世を立つ。
(こんな私でいいのかい……晋作)
 こんな私が、まだ生きていることを許してくれるかい。
『どんなアンタでも、好きじゃよ、桂さん。自分が好きな毅然とした姿で立ちな』
 耳をかすめるのは、おそらく木戸が生み出した幻聴だろうが、
 思わず微笑んで、コクリと頷いた。
「じゃあ回してきますね、連絡網。木戸さん楽しそうですね。そんな顔を見れると僕もなんだか嬉しいや」


葉桜香る季節に

葉桜香る季節に

  • 全1幕
  • 長州閥小説
  • 【初出】 2007年5月14日
  • 【修正版】 2012年12月13日(木)
  • 【備考】大久保利通命日追悼作品