かの幸なる夢の中




 皐月の上旬。
 ここ京の都に吹く風は、例年よりもいささか頬に冷たく感じられる。
 思えば春の到来が遅かった。雪が多く降り、かの金閣寺の屋根をやさしく包み込む期間は長かったものだ。
 桜が咲くのも遅かった。散るのを目にしたのは先月だというのに、遠い昔のような感慨が胸をしめる。
「……春過ぎて……」
 夏来にけらし、白妙の、衣ほすてふ、天の香具山。
 女帝鵜野讃良皇女(持統天皇)の百人一首の一首を口にしようとし、木戸孝允はわずかに微苦笑を漏らした。
 今、初夏の新緑の香がたなびくこの季節。されど「夏」を本格的に迎えるまで、自らの命を保たれるとはどうも思えはしない。
 縁側の柱に身を預け、元近衛別邸の広大な庭の風情を見つめながらも、木戸の目はどこか遠くを見ているかのように焦点がはっきりはしていない。
 こうして葉桜となった桜の大木を目にしていると、その大木の下に懐かしき姿が見える。
(私を迎えに来てくれたのだね)
 そうにっこりと木戸は微笑むが、決して目を合わせるだけでその存在に手を伸ばしはしない。
 この命ある限りは、その存在たちを求めることは「現人」に対する裏切りに等しい。そのことをこの明治を迎えて十年という月日が、木戸にいやおうなく叩きつけた事柄と言えた。
 命尽きるそのときまで手を伸ばしはしない。
 されど、見つめることだけは許して欲しい。どれだけこの十年の間、望んでやまなかった「人」であろうか。
 何度声に出して呼び、何度「迎えに来て欲しい」と手を伸ばしたか。
 そのたびに周囲にある長州の後輩たちは、悲しい顔をしていた。
 現にあるときは「現の人」を見ること。死者に心を寄せてはならない。そんな戒めがどれだけ苦しかったろう。
「私は……」
 それでもまだ生きてはいる。
 呼吸を繰り返す。
 胸の鼓動が刻まれるのが、今はとてもいとおしい。
 命の終わりはすでに分かりきっていようとも……木戸は今のこの一時を安穏と幸の中で送っていくことができる。
 皐月の風の音に耳をすませ、ゆうるりと目を閉じる。
 鳥の声が聞こえてくる。風に葉が揺れる音もする。
(私は……)
 自然の中で目を閉じていることが昔からとても好きだった。
 心がなお安らぐのを感じる。
 このままでいると、おそらく妻の松子が目の色を変えて心配するのは分かっていようとも、誰もないこの一時のみ「自らの時」を欲する。
 そのまま目は閉じたまま、疲労しきった体はぽかぽかとした暖かい気候の中で、睡魔に包まれた。
 おもむろに眠りの中にあることは知れている。目を開いた先にあるは、初夏の若々しい緑と木漏れ日の如しちかちかとした光。
「桂さん」
 と、呼ぶのは一人の少年。
「自分を置いてどこにいってたの。自分は桂さんを探しまわっちょった」
 大木に寄りかかり眠っていたらしい自らは、駆けてきた少年たちににっこりと微笑む。
「晋作、秀三郎」
 先に駆ける高杉晋作を追うように、もう一人の少年久坂秀三郎は負けずに走っている。
「桂さん」
 高杉が飛び込んでくるのを胸元で受け止め、その熱い体を自らはそっと抱きしめる。
「探してくれたのかい」
「来原さんが探しておる。目の色を変えて……桂、桂って」
「来原さんが」
 何の用だろう、と桂は立ち上がろうとしたが、一向に高杉が胸元より離れようとはしないのだ。
「晋作?」
「このごろ桂さんは自分に構ってくれないからさ。だから、ひさぁしぶりにこうしていたい」
「まるで幼子のように、どうしたんだい。晋作」
 その頭をわずかに撫ぜると、顔をあげた高杉は少しばかりムッとした。
 子供ではない、と告げるその意思の強い眼差し。
 対等に並びたいと望むその眼差しに、自らは少しだけハッとした。
 いつまでも自らが子守をしていた高杉晋作ではない。いつの日か肩を並べて歩く。いや、そのうちどれだけ駆けようとも自らは追いつかないどこかに行ってしまうかもしれない。
「高杉、桂さん困っているよ」
 秀三郎は高杉の襟首を掴んで離そうとする。
 が、よりいっそうギュッと抱きつかれ、自らはどうしたらよいのか分からない状態となった。
「このごろ桂さん、自分に会ってもくれないんだ。来原さんとか周布さんとばっかりで。自分は自分は……自分がいっとう桂さんを探しちょるのに」
「仕方ないじゃないか。私も高杉も私塾に通わないとならないし、桂さんは明倫館……」
「自分は桂さんといっしょがいい。ずっと一緒がいいんじゃ」
 今、自らを慕ってくれる高杉はどのように成人するのだろう。
 秀才とも神童とも名高く、人への気遣いややさしさに長けた久坂はどんな大人となるのだろう。
 同じ目線で物を見、並んで歩くことができる日が訪れるのならば、この光り輝く二人の少年の姿を見ていたいと望む。
「探してくれてありがとう、晋作」
 と、もう一度今度は頬に触れると、高杉はにかっと笑った。
「いつまでも探す、追いかけちゃる。自分は桂さんと並べるように、桂さんの横にいられるようになるんじゃから」
「そんな分かりきっていること言わなくてもいいよ、高杉。桂さんを困らせたらダメだっていつも言っているのに」
「うるさい! 久坂になど久坂など」
「はい、分かっているよ。高杉に言わせれば自分も久坂なんか、なんだからね。あまりそんなことばかり言っていると、あとで恐ろしいことになるよ」
「おまえになにができる」
「こうして……」
 久坂はその整った容姿にニッコリとした笑みを乗せ、
「いつの日か桂さんを奪ってしまうよ」
 と、自らの左腕にギュッとしがみついてきたので、さすがの自らも驚いて二人の顔を見てから、つい微苦笑を浮かばせる。
「晋作も秀三郎も昔からなにも変わらないね」
 やさしいやさしい木漏れ日に包まれ、幾ばくも過ごした「安らいだ」時。
 このふたりが傍にあり、その姿が輝かしくまぶしく映ったあのころ。
 いつかは遠くに駆けて行ってしまう、そんな心はあったが、それでも……。
 自らを置いてどこかにいってしまうとは思ってもいなかったあのころ。
「どうしたのですか、桂さん」
 左目よりツーッと涙が落ちいく理由など、おぼろげでうつろながらも自らも分かる。
 この日が長らく続くことを祈り、願い、そして望んでやまなかったとき。
 自らがありたかったのは、この二人の傍らであったのかもしれない。
「晋作、秀三郎、私をひとりにはしないでおくれね」
 そんな言の葉を口にすると、二人はきょとんとした顔で見上げてくる。
 この時期の自らならば決して口にはしなかったひとつの言の葉。
 けれど、今のこのときゆえに、この「永遠の夢」の中ゆえに口にしてしまう。
「おかしな桂さんだなぁ。それは自分の言う言葉じゃ。どこにもいかないでよ。というかなぁ。自分が桂さんはなさんから心配せんどいて」
 木漏れ日と同様にやさしいあたたかい熱。
 このままときが止まればよいと願うのは罪なことなのだろうか。
(うそつき)
 そう心が鳴いた瞬間に、目が写していたのは現の初夏の庭の風情。
「まぁあなた。そのような場所でお過ごしになっては体によくありません」
 背後から松子の声音が聞こえてくる。
 木戸は覚めてしまった「永遠の夢」を追い求めるように、追いすがるように、ただ目の前を見た。
 口だけを動かして告げた「うそつき」の言の葉を、知ってか知らずか大木の下にて腕を組んで笑う幼馴染はニヤリとした。
 木戸の傍らにあったその存在は、いつのまにか先を駆けて駆けて木戸の手が届かない場所にいってしまった。
『晋作……晋作』
 と、何度呼び続けただろう。どれだけその存在を求めたか知れない。
 だが、これも終わる。永遠の夢の中に自らは帰っていけるのだ。
 あの夏の木漏れ日の下で、今度は約束を求めようか。  ……私を独りにはしないでおくれ。
 と。今度は約束という形で。
「あなた……」
 いつしか傍らに心配そうな顔をしている松子に、木戸は止まらぬ涙を流しながらに言葉を綴る。
「松子、今、私はとても幸せな夢を見ていたよ。覚めなければよいというほどに……」
 この一時ですべてが止まり、それとも目を覚まさねばよいとまで思った「永遠の夢」を。
 その夢の中に直に自らは帰っていく。
 初夏の風は、やはり少しばかり冷たい。
「さぁあなた。ゆっくりと体を休めてくださいませ」
 松子の呼びかけに頷きつつも、木戸は目の前の大木を見据えた。
 その下にある懐かしい姿を望んだ。
「そうだね」
(晋作……)
 私がこの命の灯火を消すそのとき、
 目の前で手を伸ばしてくれるだろう?
 もう一度あの永遠の夢の中に誘ってくれるだろう?
 それを楽しみに、この命あるかぎり、もう少しだけこの自らの命の綴りを見守っていておくれね。
 大木の下の幼馴染はニヤリと笑い、昔とかわらぬ顔で木戸を見つめ続ける。
 視線は交わり、離れはしない。
 松子が促すままに立ち上がり、木戸は身を翻してもその背中には絶えずやさしい眼差しが注がれる。
 さびしくはない、そのときを迎えようとも。
 安らぎの中にある今の自らが、なによりも木戸には不思議といえた日々。
 もう少しだけ、と繰り返す。
 この皐月の初夏の新緑を見ていられる。
 もう少しだけ、この現を見守っていよう。
 ……もう少しだけ。
 その大木の下で私を見守っていておくれね、晋作。
 布団に身を倒した木戸は、庭を見つめながら、残されたときを過ごしていこうとしている。


かの幸なる夢の中

かの幸なる夢の中

  • 全1幕
  • 長州閥小説
  • 【初出】 2006年ごろ
  • 【修正版】 2012年12月13日(木)
  • 【備考】木戸孝允命日追悼作品