前篇

 その日も、いやその日とて長州閥の総意として参議に縛られている木戸は、内務卿となった大久保利通と毎日のように「あぁでもないこうでもない」という堂々巡りを繰り広げ、廟堂ではその議論がおさまらず、二人とも仏頂面で馬車に乗り込み、九段の木戸の館で話の続きをということになったのだが。
「貴公の話はどうしてこうも現実味がないのか。絵に描いた餅だ」
「貴殿は冷酷すぎる」
「同じ廟堂におり、政に関る間柄にありながらも……こうまで意見を違えるは、やはり貴公の足が地についていないからと思われる」
「ほぉ……。と言われると、私は幽霊か何かとでも言われますか」
「心が半ば死んでいるものは、例えるならばそう仰るのかもしれませんね」
「大久保さん」
「心の半分は如何されましたかな、木戸参議」
 冷徹なまでの無表情には、一切の感情が伺えない。木戸はその横顔を見つめながら、
「それは貴殿には何一つ関係のないことです」
 あえて壮絶な笑みを乗せたが、肩がふるふると微かに震える。
 心の半分が欠如していることは、木戸自身が一番に承知している。あの幕末のおりに木戸は片翼を失った。
 今、政府の参議としてこの廟堂に縛られ、国家の改革のために身を削りながらも走る。だが木戸は二度と飛ぶことはできない。あの長州の貴公子といわれ颯爽の駆けた桂小五郎には二度と戻れないだろう。
 先を夢見、未来を希った心の半分は、長州に眠らせてきた。
「相変わらずつれないお方だ」
「そのお言葉が出る間柄とも思っておりませんが」
「……心の半分は如何されましたか」
「もう一度繰り返させますか。貴殿には関係はない」
「政府では私たちのことをこの政府を生み出した夫婦と例えられているそうです。ならば相方が気になるのは当然というものです」
「笑えぬ冗談であり、もう一つ言わせていただければそのようなことで貴殿が私を気にすることはない。どう懐柔するかを常に頭に置かれておりますからね。大久保さん……」
「なんでしょうか」
「下りていただきたい」
 木戸は真っ直ぐ前を向きながら、唐突にピシャリといった。
 大久保は組んだ足をそのままに、木戸同様に真っ直ぐ前を向いたまま、
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「貴殿の顔を見るに耐えないからです」
「貴公らしくないお言葉だ」
「率直な感情を述べたくなることもあります」
「私は今の貴公の顔を見ていたいと思いますが」
「悪趣味だ」
「思いつめたお顔だ。私との議論以上に思いつめられるものがあるとは、妬けますな」
「馬車を止めなさい」
 木戸は叫び、急停車した馬車の扉をばたりと開けた。
「私と違い貴殿は方向感覚に優れていると思います。ここからでも十二分にご本宅にお戻りになれるはず。それでは大久保さん」
 木戸は力を込めて大久保を強引著しく馬車より追い出した。
 さすがに予想外のことであったのだろう。大久保の冷徹な顔貌がゆらりと揺らめくが、相変わらずの無表情は崩れはしない。
「貴公がこのように乱暴な方とは存じなかった」
「なんとでもおっしゃい」
 バタンと扉を閉めたが、何を思ったのか大久保が瞬時に扉を開けてきた。
「……思いつめられたお顔だ」
「大久保さんは私の心を逆なでするのが実にお上手です。けれど今は貴殿と会話をするのも疲れる。失礼する」
 いささか無礼かと思うが、今の木戸はそのような些細なことに構っていられはしない。
 馬車を走らせ、微かに振り返ると、大久保は今もこの馬車を見ている。
(早く何処へなりとも行って下されればよいものを)
 木戸はため息をつき、「急を要する」とこの自分であろうともこうまで強引に、こうまで無作法を極められるのだと心のどこかで感心していた。
 かつて幕末の志士の中でも、桂小五郎と呼ばれし現木戸孝允ほど敵の気配に敏であったものはいない。
 木戸には一町ほどの距離が開いていようと、人が放つ殺気に勘付くほどの気配に過敏な性質がある。それは練兵館の塾頭にまで昇った剣士としての力量でもあり、生まれ育った性能ともいえるのだが、その木戸孝允が今、一町ほど前方に幾人もの漲る殺気を捉えている。
 運が悪いことにこの通りは一本道。引き返すことも考えたが、身の安全よりもそれほどの殺気を放つ理由に木戸の好奇心は引かれた。
 馬車はゆっくりと走る。まだ区画整備がされていないため道はさしてよくなく、時折木戸は馬車の中で身を倒すほどの衝撃を受ける。
「………」
 今まで何度もこの手に取り、この身を守ってきた短刀を鞘より抜く。
 殺気が放たれる内部に入った。幾人か。集中して気配を読んでいっている中で、馬車は急停車した。
(ざっと十二人)
 短刀を握り締め、扉とは逆方向の壁を背に、木戸は一息はいて身に漲る緊張をわずかに流した。
 バタン、と扉はそのまま吹き飛ぶほどに乱暴に開けられる。
「長州の桂小五郎か」
 木戸はフッと笑った。
「桂ならば用がある。我らと同道願おうか」
「断るといえば」
「……力づくでも、だ」
「君たちは長州の桂はどういった存在か心得ているかね。例え大多数を相手にしようと私を捉えたものは一人としていない」
 人を傷つけず、刀を合わせようとも隙を見ては身を引く。
 そんな桂小五郎の流儀を「逃げの小五郎」といって嘲笑ったものもいるほど、だ。
「吾去れば、人も去るかと、思ひきに、人々ぞなき、人の世の中」
 見覚えもない和装の男が淡々と告げたその和歌に、木戸は露骨にビクリと肩を浮かす。
「一緒に来ていただきたい。長州の桂小五郎」
「私は……今の私は桂ではない」
「いや、我々にはかわらずに桂小五郎だ。あの男が最期まで思い焦がれたという長州の志士、桂」
「私は!」
「一緒にきていただけるな」
 ただの一句が木戸より思考を奪い、今、息を整えることも忘れ、刀ではなく手を差し出す男を見つめる。
 この男からは殺気はない。周囲からはおそらく自分に向けた殺気が漲っているというのに、この男の目にあるは確かな同情だ。
「桂小五郎」
 ビクリと肩が浮く。これほどに淡々と、ましてや声音だけに思いを込められた声は聞いたことはない。
 この男が「桂小五郎」に向けるこれは意志だ。
 男が馬車より下りた。それは木戸が間違いなく自分の差し出す手を取ると確信した行動だった。
 現に木戸も短刀を握りながらも、馬車より降り立つ。
 目前の男は微動だにしなかったが、周りの人間はいっせいに刀の鞘に手をかけた。
「しずまれ。此処にあるは桂小五郎だ。長州の志士に敬意を示すように」
 周囲が「桂」という名に唐突に殺気をおさめはじめた。
 木戸は茫然となる。あの漲るほどの殺気は自分にあてたのではないのか。狙いは自分ではないのか。
「私が狙いではないのだな」
「志士に向ける刃は持ち合わせない。あるは……偽志士やあの動乱にかこつけて政府にある軟弱な政治家にだ」
「地下組織か」
「例え政府転覆の組織であろうとも、貴方は一緒に来る。桂小五郎は好奇心の虫だとあの男は笑っていた」
 そうか、と木戸は笑んだ。
「アイツは私を一番に分かり、一番に分かっていなかったように見える。……私も時と場合に寄る」
 短刀を木戸は握りなおした。
「私も……狙いを定める政治家には違いないはず」
「桂」
「その名の男はすでにいない。ここに在るのはかつてそう呼ばれ、その名で呼ばれていたころの心を眠らせた男でしかない」
 男は吐息を漏らし、静かに刀を抜く。
「力ずくでも同道願う。桂ならば分かるはずだ。現政府がいかに矛盾を抱え、いかに……前進を拒むか」
「……私は桂ではない」
 そう叫びながら、男の気配を読み、刀が繰り出される瞬間に動く機動力は、おそらく十人中十人が認めるだろう。
 その黒曜石の如し瞳に憂いを刻もうとも、かつては颯爽とした風と称されたその身をはかなさで覆い尽くされようとも。いざ剣を握りしその時、木戸孝允はスッと身に涼やかさを流して桂小五郎に戻る。
「よき目だ」
 男は満足げに笑った。
「ようやく会えた。あの男がただ一人思った桂小五郎よ」
「私は桂ではないよ」
 長刀を短刀で受け止めながら、木戸の目はスッと細められる。
「鏡を見てみろ。今のその姿は剣士でしかない」
 男以外は一切刀を向けては来ないが、取り囲まれていることに変わりはない。
 木戸は刀を受け、払いながら、周りを見回した。
 操車の男が馬車の固定金具より馬を外している。木戸は思わず口元に微笑みを刻む。
 普段はぼんやりとしているというのに、いざという場合の頭は切れる。そういうところを見込んで妻松子は、木戸家の使用人として雇い、今では木戸が馬車を預けた。
「ご主人」
 呼ばれるより早く、木戸は駆け出し、外された馬に飛び乗った。
 そして使用人の仁吉に片腕を差し出し、仁吉を後ろに乗せ馬を走らせる。一本出ればすぐに人通り多い往来に出るはずだ。
 だが木戸の目論見は外れた。
 今少しで往来に馬ごと駆け込めるその時に、一人の青年が両腕を広げて馬の前に飛び出したのだ。
 手綱を引くのがあと一歩遅かったら、立ち上がった馬はその青年を踏みつけたかもしれない。
 必死に手綱を掴み、馬を落ち着けようとしたが、突如の飛び込みに驚いた馬はなかなかしずまらず、そのまま木戸と仁吉を振り落とした。
 木戸は身をどうにか庇ったが、左腕を強く打った。また暴れだした馬の後ろ足にも体があたり、思わずウッと唸り声をあげてしまう。
 後ろから駆けつけるのはあの男だ。
「桂」
 もう一度名を呼ばれた。
「蝶次が待っている。この長き月日、ただ貴方だけを待っている」
 打ち付けた左腕は今は痺れたように動かない。馬にわずかに蹴られた右足なども……骨が折れていたら最悪だ。
 そんな状態で木戸は、先ほどの一句同様の……いや、それ以上の驚きを胸に宿した。
「蝶次が……生きているのか」
「桂小五郎を待っている」
「……蝶次が……」
 ならば私は行かねばならない。
 あの男が生きて、私を待っているのなら、私は行かねばならない。
『桂先生。自分はここに残る。栄太さんたちには先生は対馬藩邸に向ったと伝える』
 あのとき、最期に会ったあのとき、まだ少年でしかなかった一人の男の顔を思い出し、木戸はその身を震わせた。
「桂小五郎。さぁ」
 もう一度差し出された手に、木戸は躊躇いもなく自らの手を重ねようとした。
 この数年の月日。どれだけの人間にその行方を聞こうともついには探しつくせなかった蝶次が、生きている。この自分が、そう木戸孝允が「罪」として抱き続けてきた一人の少年の行方が、この手を取れば知れるかもしれない。
 冷静に判断すれば愚かなことといえたかもしれない。
 狂気としか言えず、呵責の念が迷いを起こさせたと断じられても致し方ない挙動と心だ。
 それでも蝶次という名の魔力に、適うものなど、今の木戸にはなきにも等しい。
「木戸さん」
 その倒錯した狂気を撃ち破ったのは、一つの冷淡な声音だ。
 夢とも知れぬこの一瞬を撃ち破る、それは木戸が毎日この耳に聞く日常に等しい声。
「なにをされておられますかな」
 我にかえるように木戸は利き腕で短刀を握り、身に鞭うって男を睨み据えた。
 男もそれが答えと知ってか「人の邪魔が入らぬときにお迎えにあがる」と答えて、去っていく。馬を止めた男もそれに従った。
 その後ろ姿を追いたいという思いと、拒んだことを後悔する心と、木戸は矛盾に苛まれながらも、どうにか呼吸を繰り返す。
「なぜ、貴殿がここにいるのですか」
 大久保利通が単身木戸の傍らに立った。
「別れ際の態度があまりにも貴公らしくなかったので、追ってきました」
「…………」
「邪魔してよかったのか、悪かったのか。だが……木戸さん。お忘れなきように。今の貴公は桂小五郎ではなく、木戸孝允でしかない」
「承知しています」
 承知しているはずだった。
 だが何度も桂と迷いもなく呼ばれる声が、
 桂を迷わずに求めたあの手を……自分はとろうとした。
 そして一つの名が……頭から離れはしない「蝶次」
「かの人間は貴公を襲撃したにしては……潔すぎる。刺客はやろうと思えば必ずやる。一流の剣客であろうと油断はなされないことだ」
「はい」
「素直でよろしいが、一つ。木戸さん、刺客に気付いて私を下しましたか」
「………」
「そして刺客と知れながら馬車を走らせた」
「……」
「酔狂もよろしすぎる。およしなさい。大切な御身だ」
「大久保さん」
「言い訳でもなさいますかな」
「俊輔のように口うるさいですよ」
 普段はいたって寡黙の大久保にしては饒舌すぎると木戸は思った。
 言ってなさい、と大久保はそっとコートを木戸の羽織袴の上にかけ、強引に木戸の腕を自らの肩にかけた。
「本宅でよろしいですね」
 馬車は使えそうもない。馬もどこぞに去ってしまっている。
 仁吉を見れば外傷は見られないが、足を引きずっていた。心配げな顔をして、木戸を見ている。
 大久保に肩をかりるのはかなり癪だったが、致し方ないとしか言いようがない。
「お手数をおかけする」
「貸しがあるのは私の方だと思いますので、お気にされませんように」
「貸し?」
「刺客を知りながら飛び込んでいった貴公は酔狂だが、一応は途中で降ろして下されたということは私の命を救って下されたということにもなる」
「そのようなことは」
「……たんに私の腕では邪魔にしかならないゆえに、下したに過ぎないかもしれないが」
 それでも「貸し」には変わりはない。
「私が万一になろうとも、貴殿に万一はいけませんから」
「……勝手な方です」
「我々がいなくなろうと時は変わらずに動きます。けれど、私は今、貴殿に万が一はあって欲しくないのです」
 木戸の体を支えながら、大久保はゆっくりと歩き始める。
「……私も同様ということをお忘れなく」
 そして普段ならぱ気にもならない距離だが、今は気が遠くなる道を大久保とともに歩いていく。
 九段の本宅に戻ると、出迎えた松子が木戸の体を見て真っ青になった。
「桂さん」
 ここにも一人いた、と木戸は薄れいく意識の中で思った。
 唐突な予想外のことが起きると自分を「桂」の名で呼ぶ人間がいる。
 妻の松子と伊藤博文の二人だ、と苦笑を漏らして、木戸は張り詰めた緊張を解き、松子にもたれるようにして意識を失った。


 ……吾去れば、人も去るかと、思ひきに、人々ぞなき、人の世の中。
 それはかつて高杉晋作が「東行」と号して後に読んだ一句である。



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疵 -1

  • 【初出】 2006年ごろ
  • 【修正版】 2012年12月13日(木)
  • 【備考】松菊探偵事務所 第二部とリンクしています。