野にあらば

1章

 風車がまわる。
 窓より入り込む強風が、その風車を時計回りに回しにまわし……それを見ながら、その人は言った。
「……為すがままに。もっと……」
「……木戸さん」
 伊藤博文はそっと後ろより声をかける。
 先ほどよりその人は井上馨が持ってきた風車をジッと見つめてばかりいる。
 机の上には書類の山が積み重ねられ、そろそろ大久保利通がご意見を伺いに来る時刻だろうに、一向に目を通そうともしない。
「……もっと自由に……」
 その言葉に伊藤はハッとした。
 ……わしがもっとしっかりしていればな。もっと……桂を自由にさせてやれたんじゃがな。
 今は亡き周布政之助の言葉が脳裏にうごめく。
 若き桂小五郎を藩の外交官に起用した政務役の周布は、自らの謹慎もあったため桂に外交面は一任していた。薩摩、土佐との斡旋。または水戸との密約など思うがままにさせていたように見えた。
 手付として桂の傍にあった伊藤は、それなりに見てきている。
 風のように颯爽と、月夜を思うがままに駆ける志士桂小五郎の姿は、制限なく思うがままだった。
『伊藤よ。よう覚えておくといい。桂という男はな。あんな優男で人当たりもいい。にこにこと笑っているが、実はとんでもねぇ化けものだ。このわしでもたまに、アイツが怖いと思うときがある』
『……桂さんが化け物? 怖い? それは周布さん、言い過ぎですよ』
 誰にでも公平で平等。穏やかに人に接し、優しさと強さを天秤のように備えたその人を、周布はどの視点から「化け物」と呼んだのだろうか。
 未だに伊藤はその答えを得られはしない。
 先見の明があり、どこまでも先を行く。自ら風に乗り、勢いのままにどこまでも。
 その黒曜の瞳は先の先まで捕え、同時に先が見えすぎているためにか……憂いが深い。
『だがアレは理性の鬼だ。心を常に律する。自らの鞘をもって化け物を封じている。……おしいな。いっそと、わしはいつも思ってきた。
 化け物の方が楽だ。化け物の方が桂はもっと楽に生きられる。コマ回しに徹しなくて済む。あれはきっと……思うがままにいきたかったろうに』
 周布が見た鞘に封じられた「化け物」の存在を伊藤は今の今まで見たことはない。時折、策士に変貌するその人を「怖い」と思うことはあったが、それは「化け物」と畏怖するものではなかった。
「桂さん……自由にいきたいですか」
 あえて「桂さん」と呼んだ。
 この数年、その名を口にしたことはない。藩命により「木戸姓」を賜って以来、伊藤にとってのその人はどこまでも「木戸」でしかなかった。
「何ものにも縛られず……好きなようにいきたいですか」
 風車を見つめたまま、木戸は小さく言った。
「それを許してくれるのかい」
 振り返ることとてない。
「……許せません」
「………」
「木戸さんは僕たちの道しるべです。木戸さんあっての長州、そして僕たちです。
 僕は木戸さんの理想が好きなんです。どれほどに理想主義と言われようと……僕は好きなんです」
 ……なぁ、伊藤よ。だからな、おぼえておいてくれな。
 わしがいなくなり、もしも高杉がいなくなったらな。桂の鞘を決してはずしてはならん。抜き身の刃の桂は、誰も止められん。わしとてどうにか片手を抑え、高杉ならば……アレならば身を徹して意地でも化け物にはせんな。
 今もって意味が知れぬが、いつも心の片隅に在り続けた言葉。
「たとえ木戸さんが、とんでもない悪党であっても、僕は好きです」
 ……桂さんが行く路は、修羅の路。どれほどの屍がその足元に散らばるか知れん。
 それでも行くなら、自分は……その一つの屍になっても構わんさ。
 笑って、いつも高杉は桂を見ていた。
 無茶ばかりをし、「すみません」と悪びれもせず、それでも高杉はいつも……桂のことを気にしていた。
 ……自分ももちろん俊輔、おまえも。桂さんが回す駒の一つに過ぎん。じゃがその駒、上手に回り続けるかどうかは駒の意思じゃよ。
 長州の一大の英傑をして、「駒」でしかないことを胸に刻んでいた。
「では、俊輔」
「はい」
 ようやく風車を机に置き、木戸は振り返った。
「この政府から離れるといったら、そんな私を好きと言えるかい」
 憂いを多分に含みつつも、木戸はまっすぐ伊藤を見つめてくる。
 はじめて会ったときと変わらず、どこまでもまっすぐで、
 だがその目は、多くの同士の死を目の当たりにし、光の度合いがわずかに薄らいでいる。
「好きですが、嫌いです」
「……俊輔らしいね」
 そのまま木戸は伊藤の横をすり抜け、絶えず机の背後の壁にかけている……それを手に取った。
「……木戸さん」
 それは木戸が志士として駆けたおり、腰に差していた差料。備前長船清光である。
 明治に入り鞘を封じ、されど「武士の魂」と呼ばれし刀を、あえて目に届くところに置き続けた。
「国は私がなくとも回る」
「どうなされたのですか、木戸さん」
「この風車のように……回る」
 数年ぶりに鞘の封じを切り、木戸は刃を抜いた。
「……木戸さん」
「私は今からは思うがままに生きる」
「………」
「黒船来航により私の往く道は狂った。国がため藩のため、この身を捨てて走ってきた。
 もういい。もう……いいから、私は自分の思うがままに生きる」
「……思うがままとは」
「あぁ……萩に戻って私塾でも開くよ」
「や、やめてください。それに政府はどうするのですか。長州は」
「俊輔」
 にこりと木戸は笑った。
「政治には自分が欠くべき人間と考えてはならない。人は国家の歯車であり、一人が欠けようと必ず代わりは用意される」
「今の僕たちには木戸さんに代わる人はいません」
「……大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないんですよ」
「藩や力などこだわる時ではないのだから」
「あの大久保の独裁を許されるのですか」
「……いいよ」
「木戸さんの御言葉とは思えません」
「国の舵取りも大久保に渡す」
「その代償で木戸さんが手にするのは……自由ですか」
「………」
「多くの仲間や、死した人たちの願いを踏みにじってでも、欲しい物ですか」
「欲しいね」
 愛しげに刀を見つめ、ゆっくりと鞘に戻して後、
「私の邪魔をするものは、斬り捨てるよ」
「き……木戸さん」
 かの動乱の時代において、自らを襲う刺客にさえ刀を抜かずにかわした木戸が、今、なんといったか。
 ……斬る。
 およそ木戸には似つかわしくない言葉が耳に流れた。
「辞職など誰も許しませんよ。特にあの大久保は……」
「大丈夫だよ、俊輔。三条公がお許しくだされたから」
「さ……三条公」
 落とし所に三条実美を選ぶとは、木戸も考えたものだ。
「もし辞職をお許しくださらねば、ここで喉を突きますといったら快く辞表を受理してくれたよ」
 それは脅しでしかない。三条が「無効」と言えば、それで終わる話。
「それでは俊輔。これからは大変だろうけど、おまえならきっと切り抜けられる。どんな手を使ってでもいい」
「……嫌です」
「いつかその手に大望を握れ」
 木戸は微笑みながら、どうしてこう残酷な言葉を口にするのか。
「……嫌です」
 知っているだろう。承知しているだろう。
 伊藤にとっての大望は目の前にある木戸だ。いつか木戸を名実ともに政府の首班に立て、その木戸の横で補佐としてあるのが伊藤のただひとつの願い。
 誰よりも大切で、誰よりも愛しく、そして一生かけても受けた恩を返すことはできぬその人を、
 いちばんに日の輝ける場所に立たせる。
 木戸自身が望まなくとも、自分の独りよがりであろうとも、今の今まで苦しんで生きてきたその人に、伊藤が命を尽くして捧げられるそれが唯一の誠意。
「俊輔に三条公と同じ手法はとりたくはないけど」
「ならば、僕が死にます。僕はいつか木戸さんのために死ぬつもりでいましたから」
「私に甘えないでおくれね」
 やさしくやさしく、木戸は言った。
「もう私に甘えないでおくれ」
 そのまま刀を手に横をすり抜けていった人は、萩に戻る意思を固めている。
 伊藤は机にある風車を手に持ち、そっと息を吹きかける。
「……僕は風車。回し手は、いつもあなた」
 無性に悲しくなって、その風車を床にたたきつけた。


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野にあらば -1

野にあらば 1章

  • 【初出】 2010年6月26日
  • 【修正版】 2012年12月14日(金)
  • 【備考】木戸孝允誕生日記念作品