策士木戸孝允

前編

 征韓論をめぐる政局の最中、長州藩では朝な夕な駆けずりまわって伊藤が働いた。朝に岩倉のところに顔を出したかと思えば、昼時には大久保のところにいき、夕刻は晩飯を馳走になりつつ木戸に一日の経過を報告する。 そんな日々の繰り返しを、岩倉使節団の帰朝後、伊藤は毎日繰り返していた。
「木戸さん、体調の方は」
 どうにかならないですか、と伊藤が尋ねると、木戸は力なく首を振る。
 本日はどうにか起き上がり、伊藤の話し相手となっているが、昨日はついに下半身が動かなくなり寝床に沈んだ。 医者長与専斎の診立ては「精神の疲労」であり、今風で言えばノイローゼである。 悲観主義でもあり、先々のことが良く見え過ぎるその脳裏には、征韓論が勝利したその時には中国を基軸として英仏と戦争になる構想がよぎり、 逆に征韓論が打破された時は、西郷を支持する桐野ら近衛部隊が宮城を占拠するいわゆるクーデターが見えに見えていた。 そのため毎夜寝付くことができず、悲観し、激しい頭痛に悩まされ、食も取れず、心身ともに疲労著しい。
 このような木戸を、廟堂に立たせ征韓論をめぐる議論の中に立たせることは、もはや無理であろう、と伊藤は悟っていた。 こうなれば三条、岩倉、大久保の三者に期待し、その策を弄するのが伊藤の役割でもあったが、一縷の希望として木戸の病がどうにかならぬものか、と考えている。 大久保一人を廟堂に立たせ、西郷と一騎打ちをさせるのは伊藤としても心配にならず、 ましてや数日前までは「任にあらず。木戸先生を立てよ」とことさらに参議就任を拒み、ついには「木戸先生が辞表を撤回するならば参議になっても良い」といった大久保なのである。 一方の盟友である木戸が病み、廟堂に立てずに自宅で成り行きを見るという展開を、あの冷徹な男はどのように思っているのだろう。
「俊輔。これ以上は動き回るのは控えた方が良いよ」
 木戸が力なくいった。
「それはどのような意味でしょうか」
「私が見るところ、大久保さんは味方を求めていない。唯一人にして西郷さんを撃つつもりでいる。その悲壮な覚悟を横で騒いでなし崩しにしてはいけない」
「ですが木戸さん。大久保さん一人では」
「できるよ。ただ一つ条件があるけどね」
 伊藤は膝を進める。相変わらず木戸の顔色はよろしくなかったが、その黒曜の瞳は穏やかな光をたたえ、わずかな好奇がうかがえた。
(相変わらず木戸さんも人が悪いなぁ)
「その一つは岩倉、三条の両人が最期まで大久保さんを裏切らぬこと」
「それは書面をもって堅く約束されると覗っています」
「甘いよ、俊輔。公家というものは一枚も二枚も……いやそれ以上に舌を持っているからね。武士の道徳など通用しない。 私はあの京都御所で嫌と言うほど変節というものを見てきたし、それは大久保さんも同様。いざという時、公家というものは必ず優勢の方につく」
 かの騒乱の前後に御所の御用掛として頻繁に御所に参上し、また公家との付き合いも頻繁であっただけに、その木戸の言には説得力があった。
「あの二人が西郷さんの威力に腰を抜かさないといいのだけどね」
 と言い、木戸は少し疲れたのか、座椅子にもたれるようにして力を抜く。
「……木戸さん」
「今まで不退転の決意というのは私を含めて幾ばくかの時しかなかったと思うけど、今回はその不退転を大久保さんと西郷さんは覚悟しているのだろうね」
 けれどね、と木戸は続ける。
「これは薩摩の領袖の一騎打ちであり、今後の国家の方針が決められる時。俊輔はまわりの意見をまとめて条公(三条)にお伝えしなさい。それ以外は、この後は放っておくに限るよ」
 そこで木戸が目を閉ざしたので、話はここで終わった。


 翌日、大隈と話し合い、とりあえずは周囲の意見はほぼまとまっていることを木戸に報告しに、九段の館を伊藤は訪ねた。その日は先客がいて、陸軍卿の山県有朋が木戸を見舞っている。
「態度まったく鮮明にせず、まるで高いところから見物しているか、東京にいないんじゃないかと思っていた山県くんじゃないか」
 伊藤が嫌味を言おうとも、何一つ表情を変えない山県だ。この頃はこの男には表情がないのではないか、と伊藤は思っていたりする。
「おまえが断行した徴兵令からして、まだ機動にのっていない上、戦争は無理だよね。それを陸軍卿として表明してくれれば良いものを」
 陸軍の軍政を一手に握る山県は不気味な静けさを保っていた。
 ただ一言「今は難しい」といったことを口にしたらしいが、表明はしない。そこが伊藤には腹立たしい。
「伊藤。私も命は惜しい」
 と、ぬけぬけと言ってくれる。
 陸軍中将にして陸軍卿という立場の山県が征韓論について反対を表明すれば、その場で近衛の将校らに抹殺されかねない。
「おまえとて命が惜しいゆえに陰で暗躍しているのだろう」
 痛いところを突かれたが、伊藤はにたりと笑っている。
 この二人はこういう仲だ。相手のことを分かりすぎているが、あえて相手に自分のことを受け入れさせようとは思わない。早く言えば互いに好いてはいないのだ。
「陰で動く気のない男が、木戸さんのところで何をしているのかな」
「出張の挨拶だ」
「この腰ぬけが」
「なんとでもいえ」
 だがこれが山県の意思の表明でもあった。この征韓論が紛糾し、西郷は全権公使として朝鮮に渡り、斬られるつもりでいる。西郷の死をもって戦争とならしめるか否かの際に、陸軍の軍政の責任者が出張とは……ありえない話だ。山県は東京を留守にすることで、今回の一件よりは遠ざかり、なおかつ「武士だけでは戦争などできるはずがない」ということを表明している。 戦職人はいるが、残念ながら事務能力に適したものは陸軍には山県を始め長州の将官くらいしかいないことはよく知られている。また出張ということを使い、今回の一件で何が起きようとも、蚊帳の外にあることを山県は明記したも等しい。
「……各鎮台をまわり、徴兵の実態を見極めるつもりでいる」
 と言い、今日は体を起こすことができない木戸を見つめ、
「貴兄も一緒に参られぬか」
 そんなことを口にした。
 思わず伊藤が、あんぐりと口を開けたまま茫然自失となることをさらりと言ってのけたのだ。
「……狂介?」
 木戸も山県の意をはかりかねたようで、
「私は国家の参議だよ。今回の一件で朝議を開かれれば、廟堂に立たねばならない。この体では無理かもしれないけど、東京を離れることはしてはならない」
 いかにも木戸らしい道理を口にしたのだが、妙に山県は退かない。
「長与先生の診立てでは、貴兄はこの東京より離れ、政治とは無縁のところで養生した方が良いとのことだ」
「……確かにそうはおっしゃっておられたけど」
「大坂は良い。多くの名医もいる。また貴兄、大村さんが刺客にあった場所に参られたことはあるか」
「……えっ……」
「長州に墓参りは無理だろうが、その現場に花をたむけられてはいかがか」
「あの……狂介……」
 珍しく木戸は狼狽し、山県の意が掴めないのか困った顔をした。
「一国の参議になにいっているのかな、山県」
「おまえは木戸さんの病を治したいとは思わぬのか」
「思っているよ。毎日……毎日! けど、この一大事に木戸さんを東京から出すことはしてはならないことだと思う」
「たかが征韓論より木戸さんの病の方が大事だ」
「たかがって……たかがって言ったね、この山県が」
 伊藤は思わず座布団を山県に投げつけたが、それをヒョイと山県は避けた。そのことに苛立ち茶碗を取ろうとしたが、ハッと我に戻る。 ここが陸軍省の山県の部屋なら、そこいらの物を投げつけるのは良い。だがここは木戸の家であり、主人たる木戸が病で寝込んでいるのだ。
「申し訳ありません」
 伊藤は木戸に謝った。
「いつものことだから気にしないよ」
 木戸も慣れてはいる。互いに天敵と疑うことなく断じているこの二人は顔を合わせると口論になることが多い。
「さらに大坂周辺には良い温泉がわいている。特に有馬の湯は太閤秀吉愛用の湯だ。病にはよくきく」
 山県は続ける。
「……温泉……」
 木戸の目が一瞬きらめいた。
「……木戸さん……」
「骨董市場は大いににぎわっている」
「そうなのかい」
「駄目ですよ、木戸さん。山県の口車に乗ったら」
「竹田の書を出している店もあると聞く」
 その瞬間だ。今まで弱弱しく横になっていた木戸が、スッと半身を起こした。
「……俊輔、行ってきたらダメかな」
「駄目に決まっています」
 なにを言っているのだ、と伊藤は頭が痛くなってきた。この人は自らの立場を分かってはいない。
「政府には病気療養により、医者の勧めにある大坂に赴くと届を出せばいいし」
「木戸さん。現在政府は征韓の儀について」
「私がいようといないと変わりはしないし、決着が着くころには戻ってくるよ」
「あのですね……だから木戸さん。病気療養はとっても大切ですけど……」
「俊輔は私の病を気にかけてはくれないのかい」
 伊藤はガクリと頭を垂らした。
 こう言われれば、伊藤は引くしかない。それはそれは大事に思っている。こんな時期でなければすぐさま療養させただろう。
「心配しなくてもね。十六日には戻るよ。きっとこの日に大勢は決まるだろうから」
 木戸は今までの疲労がわずかに回復したかのように、旅行の荷物をまとめ、山県の鎮台出張に照らし合わせたかのように極秘裏に東京を出てしまった。
 始終茫然としていた伊藤だが、とりあえずは大久保にそのことを告げにいくことにした。心持ちなみなみならぬ覚悟をしていたのだが、
「それはありがたい」
 と、大久保が言うので飛び下がって驚きを現わした。
「誰一人として邪魔立てして欲しくありません。私は西郷と刺し違える覚悟です」
 出来うれば他の参議も欠席して下されればよろしい、と大久保は言ってのけたほどである。
「然様ですか」
 返って拍子抜けした伊藤に対し、大久保が思いもよらぬ見解を示す。
「木戸先生が廟議に立てば、西郷と全面対決になる場合がある。互いに薩長の領袖です。……陸軍が黙っておりません」
「……陸軍……」
「ゆえに木戸先生の今回の判断はあくまでも政治判断と伺えます。なるほど……よく心得ておられる」
 そうかな、と伊藤は心の中で何回も首をひねる。あの喜々とした無邪気な木戸を見てしまった伊藤としては、本気で温泉と骨董巡りと竹田の絵を鑑賞できることを喜んでいるとしか思えない。動乱の時期は海千山千の政治的な寝技を繰り広げた木戸であるが、明治に入ってからはその人格は極端に憂鬱となり、同時に素直さと誠実さを全面に出すようになった。
 そのため伊藤には政治的判断よりも、自らの楽しみのためではないか、という思いが兎角強い。
「廟堂が紛糾し病を押して木戸先生に御出馬願いたい、となろうとも、帝都にいらっしゃらないならば、致し方ありますまい」
「はぁ……」
「万が一、廟堂紛糾しようとも、木戸さんと山県陸軍卿がいらっしゃらないならば、まかり間違っても長州陸軍が動くこともない」
「そうですが……」
「されど私的なことをひとつ言わせていただくならば」
「はい」
「気にいりませんなぁ」
 はい、そうですか、とだけ言って伊藤はその場を立った。
 大久保という男は普段は無口な男なのだが、いざ木戸に対する勘違いな恋情の話となれば饒舌と、意味不明な薩摩弁が飛び交うことになる。伊藤には二割も分からぬ言葉で、まだ英語の方が解析可能だ、と常日頃から思っているほどだ。
 この慌ただしい政局の中、木戸と山県は大坂に向けて旅に出てしまい、伊藤は一人「長州閥」の重荷を背負って、さらに駆けずり回る。


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策士木戸孝允 -1

策士木戸孝允 前篇

  • 【初出】 2011年8月3日
  • 【修正版】 2012年12月15日(土)
  • 【備考】木戸孝允誕生日記念作品