参議さんたちの勝負

1章

「賭けを致しましょうか」
 不意に大久保利通が、低くつぶやいた。
「その賭けに貴公がお勝ちになれば、私もこの恋情と言うものをいくばくかは封じましょう。
 だが私が勝てば、貴公をいただきます」
「……大久保さん。そう誤解をいだく物言いはよした方が良いか、と」
「誤解もなにもありません。そのままに……貴公をいただきたい」
 そこで木戸はクッと右手を握り締めたが、
「その賭けとは」
 ここ数年、この大久保による勘違いから始まった「求愛」に辟易していた木戸としては、賭けであろうがなんであろうが、少しでもこの大久保の「求愛」より逃れられるならば、神や仏……一握の賭けにも縋りたいという気持ちにもなる。
「そうですね。貴公には到底無理なことでなければ、賭けになりませんので」
「………」
「どうでしょう。私はさしてお目にかかったことがない桂小五郎殿という人物になってくださいませんか」
「はぁ?」
 木戸は思わず目をぱちくりさせた。
「伊藤くんなどが言うには、今の貴公と桂小五郎殿とはまるで別人。ひとつひとつの挙動がまるで違う。ましてや桂小五郎殿ならば、この私の独断を許さず、間違いなく立ち向かうと意気揚々と捲くし立てられる。
 そこまで言われると見てみたくなったのです」
 桂小五郎の貴公と、私は対峙してみたいのです。
「酔狂が過ぎますよ」
「……酔狂も時にはよろしいかと」
「私に「私」を演じろ、といわれますか」
「それも長州の方々が、目を丸くするほどの桂小五郎殿で」
 木戸はため息をつきたい気分だった。
 よりにもよって「忘却」した過去の自分を思い出させる「演技」をしろ、というのか。
 あの頃の自分は、「信条」と「矜持」のために駆けた。
 この国がため、友がため……愛すべき人がため。
 桂小五郎という名は、あの日……幼馴染が黄泉に旅立った日に永久に封じたのだ。
 幼馴染のニタリとした顔が目に浮かび、わずかに頭を左右に振る。
「……分かりました」
 あえて、木戸は乗った。
 かつての自分には二度ともどれはしない。片翼を失い、二度と飛ぶことが出来ぬ身には「かつて」はどこまでも遠い。
 されど、だ。
 一縷の望みに縋りたくなるほど、昨今の大久保の「求愛」は凄味を増している。
 誰かが「このままでは貞操の危機ですね」と笑っていたが、まさに笑えぬ冗談ではないのだ。
「賭けにのりましょう。されど期日を儲けさせていただきます」
「十日ほど頂戴したいですね」
「ご冗談でしょう。三日で十分です」
 あえて問答無用でピシャリとはねつけ、木戸はその黒曜の瞳で大久保を見据える。
「されど酔狂も過ぎますね。おそらく私は……桂小五郎は、貴殿を穏やかな目でなどみませんものを」
「それでも恋しい方の全てを知りたいというのは男というもので」
「……恋しい?」
「えぇ、木戸公」
 思わず木戸はその場にあった湯のみ茶碗を大久保に投げつけ、
「あぁ、刀を投げつければよろしかったですね」
 と、にこりと笑った。


 翌日、伊藤博文は目を見開いた。
「どうされましたか、木戸さん。ここ数年、廟堂には和装では参られませんでしたのに」
 それは幕末の折に、木戸自身が着用した黒の羽織袴である。目上の人間に頂戴したという高級生地の仙台平でしつらえられた誰がみても超一流の着衣だ。靴を捨て草履を履き、
「……この方が落ち着く」
 左右に分けていた髪を全て下ろし、伸び放題になっていた後ろ髪を紐で括る。
 雰囲気がまるで違う、と伊藤は見惚れ、ましてやこの突然の変化に興味津々といった目を向けてしまった。
「なんだか、木戸さん……昔を思い出しますね」
 と、口走って後、伊藤は「しまった」とばつの悪い顔をしたが、
「そうだね」
 あえて木戸は素っ気無く答え、伊藤の脇をすり抜ける。
「木戸さん?」
「……俊輔、塩をもっていないかい」
「はい?」
「今、そこに朝から見たくもない顔が見えてね。塩でもかけたら憂さ晴らしになるかな」
「き……木戸さん」
 その目の前にあるのは、大久保利通である。
「おはようございます、木戸さん」
 と、大久保は慇懃にならない程度に頭を下げるが、
「おはようございます、大久保さん。朝からあいもかわらず面白くない顔をしておられますね」
 伊藤が傍らで妙に慌て、木戸の袖を引っ張るが、
「貴公は実に晴れ晴れとした顔をされておられます」
「えぇ。これで貴殿から解放されるれと思うと、それは嬉しくて」
「まだ分かりませんよ」
「……私は負ける賭けは致しませんよ」
 と、木戸はニコニコと笑い、懐より扇子を取り出し、それで大久保の片腕を打った。
「負けぬ勝負しか致しませんので」
 黒曜の瞳が妖しく揺らぎ、一瞬挑むかのように冷や冷やと大久保を突き刺した。
 瞬く間のみの殺気は、すぐさま穏やかな温風に変わり、大久保の傍らを通り抜けていく。
「……なにがあったんです」
 伊藤は思わず、大久保のネクタイを掴んだ。
「あれは木戸さんじゃない。僕の知っている木戸さんではない」
 動揺は伊藤の体すべてを包み込み、恐怖となって大久保に詰め寄っていた。
「あんな……一瞬でも殺気を見せるなんて」
「君の知る桂小五郎ならば、どうかね、伊藤くん」
「桂さん? 桂さんは人に対して万人ともに公正な方ですけど、ただの一点。今の木戸さんとは決定的に違うところはあります。
 敵と認識した相手には、決して自らの感情を抑えない」
 憎悪が漲る相手には、桂小五郎は決して容赦はしなかった。
 特に幼馴染の高杉晋作や、可愛がっていた久坂義助などに敵意を向ける相手には、自らの「敵」以上に容赦がなかった。
 そこで伊藤は、ボーッと大久保の顔を見て、
「敵!」
 と、ついつい指をさしてしまった。
「なんですか、伊藤くん」
 明治に入り、木戸自身、生に執着がなくなり、私情を押し込め宥和に溶け込んでいたために、伊藤はすっかり忘れてしまっていた。
 昔の木戸ならば、決して大久保に穏やかな表情を見せはしない。
 唯一負の感情をもってあたる「敵」でしかないのだ。
「木戸さんの穏やかさにあてられてすっかりと忘れていたんですけど、大久保さんって敵中の敵ですよね」
「それをすべて押さえ込んだ上で、政府がある」
「違うんだなぁ。木戸さんは……違う。いや桂さんなら……」
 あの蛤御門の変において、久坂や入江、寺島を失ったその状況を身をもっと知っている桂小五郎ならば。
 すべてを諦観し、諦めの上で政府を築いたものとしての責任で生きている木戸孝允とは違うのだ。
「き……木戸さん!」
 伊藤は慌てて木戸の後を追った。
 今の今まで倒幕や維新政府の樹立などの忙しなさですっかり忘れていた。
 木戸孝允という男の心情を。もしかすると押し殺していた感情が、なにかの弾みで今、爆発して表に出たのではないか。
(やばい……)
 昔の木戸ならば、伊藤ではとてもとても扱いきれない。
 今の温厚篤実がなりを潜め、実に天邪鬼の困った人間になるのだ。


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参議さんたちの勝負 -1

参議さんたちの勝負 1

  • 【初出】 2010年5月4日
  • 【修正版】 2012年12月14日(金)
  • 【備考】