馨る桜を愛する女

前篇

 たすけてくれぇぇぇ~。
 その書状からは友の悲鳴がまざまざと聞こえてくる。
 伊藤博文は書状を握り締め、この問題はこの自分の手では余ると思い、憤然と立ち上がった。
「…………」
 ドカドカと廊下を歩き、とある一室の前で大きく息を吸ってノックをする。
「木戸さん、僕です」
 どうぞ、という声に促され扉を開ける。「僕です」で通じる長州閥の人間はありがたい。
「やっぱりここにいたね、山県」
 求める人間の顔を見つけてあからさまに伊藤の顔が歪む。
「……私はおまえに探される覚えはない。ついでに今、説教中だ」
 テーブルを挟む形で対峙する木戸と山県の姿があった。
 見るからにしょぼくれている木戸と、冷気がまざまざと放出している山県。
「伊藤、おまえもこの人に言ってくれ。私が陸軍省で缶詰にあっていたこの三日間。この人が口にしたのは紅茶だけだ」
「……ちゃんとクッキーを食べて……」
「それは食事に入らぬ」
「……食べたくないときは人にもあるもので」
「貴兄はいつもだ」
 まさに山県がメッとばかりに木戸を睨みつけ、下を向いたままの木戸は時折伺うようにチラリチラリと山県を見る。
 また始まった。小姑よろしいこの山県の説教。この頃過保護たることを全く気にもしなく当然のように思っている山県は、長い長い説教を木戸限定でするのだ。
「よろしいか。この三日、顔を見ぬ間にまた頬のあたりはこけられた。私は言ったはずだ。きちんと食事を……」
「食べようとは思ったのだけど」
「思っただけで、食べたくはないゆえ、食べなかったというのだろう」
「そう……だけど……あっ……あの……」
「木戸さん」
「……はい」
「私はいつも貴兄に何度同じことを言えばよろしいのだ」
「……狂介」
「今宵は料亭に赴こう。私の言うとおり食していただく。よろしいな」
 こと「食事」については山県は容赦がない。長州閥はみな木戸に甘く強く言えないのだが、山県だけはこと木戸の健康を気遣い誰もが言えないことを言ってくれる。昔から長州でただ一人木戸に食事をさせる男として山県は重宝されていた。
「伊藤、おまえからも何か言え」
 唐突に話が向けられ、伊藤は「あっ!」と声をあげた。
「探していたんだ、山県。これから僕とちょっと一緒にきてくれないか」
「……何だ。やぶから棒に」
「おまえだって当事者なんだから……。木戸さん、山県を借りますよ。さぁ山県」
「用件を言え。その用件は夕方まで終わるのか」
「終わる……と思う」
「木戸さん。私が戻るまで……逃げられぬように」
 山県にジロリと睨みつくされ、木戸はコクコクと頷いている。
 この頃、山県に世話を焼かれ、少しだが木戸は昔の無邪気さが表に出るようになっていた。伊藤はそれが半ば面白くなく、だが半ばけっこうなことだ、と思うことができる。
「行くよ、山県。ほら急いでいるんだから」
「どのような用件だ」
「来れば分かるって。とにかくおまえも証人の一人なんだから」
 とりあえず山県を引っ張ると、木戸はホッとした顔で手を振っている。山県の説教に戦々恐々としていたのだろう。
「……木戸さん、逃げられぬように」
 木戸は頷くことなく、ただ手を振っている。
「おまえ……あまり木戸さんに口うるさく言うとそのうち嫌われるよ」
「あの人をみなが甘やかすゆえ、あのように細くなるのだ。良いか……病になったならば一発で倒れる」
「おまえも過保護は全く飽きないようで。それよりも……大変なんだ。馬車、用意させているから」
「何の用か、いえ」
 有無を言わさず手を引っ張られ、山県は現状が甚だ面白くないようだが、付いてきてはくれる。
「百聞は一見にしかず。とにかく馬車に乗って。急ぐから……大変なの」
 伊藤は事の次第を話すのも面倒なため、馬車に乗り込むと同時に、懐にあった書状を差し出した。
「なんだ?」
「読めば分かる」
 それは伊藤の盟友井上馨からの絶叫の手紙だった。


 井上馨邸に馬車でまさに滑り込むといった表現が正しい到着の仕方をした。
「それほどに慌てることか」
 あまりの馬車の揺れに山県にいたってはグッタリしている。
「聞多の危機なんだから」
 伊藤は血相を変え家の呼び鈴を鳴らすと、げっそりと青白くやつれた井上本人が現れた。
「しゅんすけ~……山県。助けてくれ」
 あの活き活きと飄々としている井上馨とは到底思えぬ顔色だ。
「聞多。大丈夫」
「大丈夫じゃねぇ。助けてくれ。あいつが……あの男がここに居座って梃子でも動かないんだ」
 うわぁぁぁぁ、と井上が絶叫するはただ一人の人物、その名は中井弘。号は桜洲という。後に滋賀、京都府知事となる男でもある。
「貴殿の身から出た錆ではないか」
「それを言うか、山県! 俺の……女房を奪われる危機なんだぞ」
「それも身から出た錆だ」
「山県! 傷心の聞多を打ちのめさないの」
 伊藤がやつれた親友に気遣いの視線を向け、その肩を抱いてやった。
「……ここに有無を言わさずつれてこられたのが甚だ不快だ」
「仕方ないじゃないの。僕とおまえが聞多の結婚の証人なんだから」
 井上馨が、その顔からしてやつれきっている原因は、ただ一つである。
 明治に入ってすぐに、伊藤、井上は築地の大隈重信邸に居候していたことがあった。大隈邸には数多くの書生や官人がおり、ちょっとした梁山泊の賑わいが合った。築地梁山泊と大隈は言われたものだ。
 その大隈邸で井上は、一人の女性を見初めた。名は武子。梁山泊の居候の一人中井弘の妻となった人だった。
 薩摩藩士たる中井は薩摩藩の中でも風変わりで通っている。誰もが中井を評する時「風変わり」としか言いようのない……挙動や言動が凡人には計り知れぬことが多々あった。
 その中井がとある場所で武子を見初めこの大隈邸に連れて来た。
『用事があるので少し薩摩に戻るので、この人をよろしく』
 と、大隈に頼み、正式に華燭の典を挙げることなく、そのまま薩摩にとんぼ帰りし音沙汰なしとなった。
 連れてこられた武子の方は茫然自失である。自分は中井の妻なのか、いたって首をかしげながら大隈邸に厄介になっているという状態であり、不安定の中、居候の一人井上と出会った。
 後に井上は『運命さ』とこの出会いを笑いながら話す。
 井上の日課である小判磨きを、横でにこにこと笑いながら見ていた武子に、一目で井上は惚れてしまった。
 思い立ったら後先を考えぬ井上は、猛烈にひたすら武子に求婚をし、そして念願かない二人は結ばれた。
 武子を預かっていた大隈は頭を抱えたが「好きあったものなら仕方ないなぁ」と笑い、運が良いことにまだ中井の籍に入っては居なかった武子と井上の婚儀を梁山泊で行うことにしたのだ。
 その華燭の典当日に運が良いのか悪いのか。中井が戻ってきた。
 井上はその場で死神のように真っ青となり、婚儀に呼ばれ居合わせた伊藤と山県もまさに唖然となった。
『そうかそうか。好きあった二人ならば仕方がなか』
 と、中井は二人の婚儀を承諾したが、この時、井上にある誓約書を書かせ、伊藤と山県を証人としたのである。
 この時の誓約書が今、井上を苦しめているようだ。
「やぁ、伊藤君。山県君」
 居間の一角に陣取っている中井を見て、伊藤は「ははは……」と笑い、山県はとりあえず会釈をした。
「いらせられませ」
 と、武子がにこやかにふわりとした笑顔を見せてくれる。
 先祖がかの南朝の将新田家につながるという血筋の武子は、のほほんとしほんわかしている。武子の笑顔は、人に安らぎを与える。
「だんなさま」
 武子がそう呼ぶと、二人の男がいっせいに振り向く。
「武子」
 優しげに名を呼ぶのは中井。そしてその中井にふわりとした笑顔を返す武子。
 どこからどう見ても初々しい新婚夫婦に見えてしまい、山県は隣でぐたぁとなっている井上を見た。
「貴殿。このままでは奪われるに違いない」
「そんなこと言うなよ」
「ところで……婚儀のおりの証人お二方がそろっているので、話したいことがあってね」
 うわぁぁぁ、と井上が傍らの山県の腕元にすがり付いてきた。
 この後の中井の言葉を予見してか井上が微かに震えている。
 珍しい現象だ、と山県はあえてすがり付いてくる同僚を振り払いはしなかった。
「武子と馨くんの婚儀のおり、私は身を引く代わりに条件を数点出しましたね。一つは浮気をしない。決して武子を不幸せにしない。それを馨くんはどうやら守ってくださらなかったようでね」
「いや……そんなこと……ねぇ聞多」
「伊藤。何を繕うとも無駄だ。その通りではないか」
「山県。おまえは昔からの仲間を庇う気はないのかい」
「妻がありながら他の女に手を出すおまえらの心情が知れぬ」
「枯れ切っている山県に僕や聞多の……聞多?」
 井上はさらに顔色を悪くし、その場で打ちひしがれつつも、
「俊輔と一括りにはされたくはないぞ」
 と、小さく訂正を求めた。
「浮気をする男はみな一緒だ」
「山県! そんなに聞多を」
「俊輔! 山県! おまえら……なんて友達甲斐のない奴らだ。そこにいる中井はな。とんでもないことを」
「何がとんでもないことなのだね、馨くん。この私は至極当然なことを主張しただけだよ。
 単に私もここでしばらく厄介になり、武子と過ごし、武子に私か馨くん。もう一度選びなおしてもらおうと思いましてね」
「なっなぁ……とんでもないだろう」
 伊藤はまた「はははは……」と乾いた笑いを漏らし、山県はジロリと井上を睨み据えた。
「なんか言ってくれよ」
 情けない井上の一言に山県が鉄槌を下した。
「証文を反故にしたのは貴殿だ。破った以上はこの証文がかわされる前に戻るのは当然のこと。選ぶのは奥方だ」
「そんな冷たいことをな」
「やはり山県君は話が分かる」
 中井は手をパチパチと叩いた。
「なにが分かるだ。なにが……だ。おい山県よぉ」
「このようなつまらぬことに私は付き合っている暇はない。一刻も早く木戸さんに食事をさせねば」
「……俺様のことより全然大層なことじゃないだろうが」
「貴殿の話よりも十分に大層なことだ。伊藤、馬車を借りるぞ。早く戻らねばあの人は逃げる」
「おいいぃぃ」
「まぁまぁ聞多。大丈夫だよ。武子さんは聞多のことをちゃんと愛して……」
「アレを見てそれが言えるか。あの二人を見てそれが言えるか。この前ここに来た奴らはなんと似合いの夫婦などといいやがったんだ」
 武子は中井のために紅茶を入れ、それを受け取った中井はにこやかな笑顔を武子に返す。
 井上に言わせれば憎らしいほど似合いの二人と言えた。
「え……選ぶのは武子さんだから」
 伊藤は思わず親友の肩をトントンと叩いた。
「諦める心積もりはしておくんだね」
「それが親友に言う言葉かよ」
 ガクリと頭を垂れた井上を、チラリと目にした武子はやさしく笑ったが、すぐにその視線を中井に戻す。
 さらに井上はガクリと頭を垂らした。
「それから馨くん。どちらかを選ぶということで……夜も武子と過ごさせていただくよ」
「なっなんだと。よ、夜だと」
「君は……あまり夜は本宅に戻らないようなので、私が毎日武子と過ごし無聊を慰めて……」
「冗談は寄せ。もしも……だ。もしもそれでよ、夜を過ごしてな。こ、子どもでも」
「私の子供にすれば良いだろう。君は本宅に戻らぬのだし、そうなれば私は武子と正々堂々と……」
「毎日でも戻ってきてやるよ」
「戻ってこられなくともよいですよ」
「冗談じゃない。武子と夜を過ごすは夫たる俺の役割だ。定時に帰ってくる。指一本……おい触れるな。武子は俺さまの妻だ」
「証文が破られた以上は、夫を主張する権利は馨くんにはないね」
「……武子。おまえからも……」
 その場の視線を一心に集めた武子は、ほんわかとした優しい笑みを乗せ、
「子供ができましたら、いっそ拳遊び(じゃんけんのようなもの)できめなされ」
 井上以上に肝が据わった女だ。見かけからはとてもそうは見えないが、さすがは新田家という名家の血を引く女ではある。
 武子にピシャリといわれ、さらに井上は打ちひしがれた。
 拳遊び……武子は一時新橋で芸妓をしていたことがあり、お座敷遊びの一つである拳遊びは日常茶飯事であったためそのような発想が浮かんだのか。どこか論点が……とはあえて伊藤も山県も口にはしない。
 ここからは夫婦と中井の問題。触らぬ神にたたりなし。関れば被害はコチラにも及ぶ。
 伊藤はそろそろと退出の用意をはじめ、ついでに山県も吐息交じりで伊藤の後を追う。
 打ちひしがれている井上は「拳遊び……」と繰り返すばかりだ。
「では山県君。伊藤君。君たちが証人で。よろしく」
 中井は穏やかに笑って手を振っていた。


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馨る桜を愛する女 -1

馨る桜を愛する女 前篇

  • 【初出】 2008年6月23日
  • 【修正版】 2012年12月15日(土)
  • 【備考】