緑と月夜の物語

1章

 皐月の風にしてはやや冷たい。
 その日もその人は背広の上に軽くコートを羽織って、ソファーに身を預けてうたた寝をしていた。
 風が冷たいながらも晴れ渡った天気。空気の入れ替えでもしていたのだろうか。柔らかな風が室内を包み込み、だが風が悪戯をしたか。その人が羽織っていたコートを落とした。
 山県は気配を消して近寄り、その人……参議木戸孝允の肩にもう一度コートをかけようとすると、
「起きているよ」
 木戸はゆっくりときれいな黒曜石の瞳を開き、優しく微笑んで山県を見る。
「…………」
 手にコートが残った。山県は手持ち無沙汰になったが、それでもやはり風が冷たいのが気になり、そっと木戸の肩にかける。
「ありがとう」
「いえ……木戸さん」
「うん?」
 柔らかな瞳が山県を見る。
 この人にこうして上目遣いをされると、山県はどうも居てもたってもいられなくなる。早く言えば苦手であり、弱いのだ。
「窓の開け放ちはあまりよろしくない。今年は風が冷たい。貴兄は体が弱いゆえ」
「山県はどうして私の身になると過保護になるのだろうね」
「貴兄は大切な長州の首魁だ」
「………首魁の私しか必要がないというのかい」
「誰もそのようなことを言ってはいない」
 こうしてこのごろ「長州の首魁」という言葉に木戸は嫌悪感を示すことがある。誰もがその地位に就くことが許されない。幕末の「志士」にして、長州系の政の要であった「桂小五郎」たる木戸ゆえに、首魁の地位が許されているというに、木戸はその言葉にかなしみを見出すようだ。
「貴兄が体調を崩し寝込むと皆が心配する」
「………」
「貴兄ゆえに心配をする」
 すると木戸はまた山県の苦手な上目遣いを見せ、それからふんわりと笑うのだ。
「優しいね、山県は」
 この己ほど「優しい」という一言が不似合いな人間もいないだろう。己は優しいのではない。人に興味がなく、人に感情などほとんどかけはしないのだ。だがこの人違う。不思議と心配し、面倒をみてしまう自分がある。
「貴兄は不思議な人間だ」
 木戸は肩にコートを羽織ったまま窓辺に歩いていく。
 そのふわりとした、だが触れるときっと優しい感触を与えるだろう髪が風に揺れ、軽く目を塞ぐ。
「山県」
 凛とした声が風とともに耳に届く。
「私はこの時期がとても好きだよ。新緑の緑が風になびくのを見ているのが昔から好き」
「確かに貴兄には緑はよく映える」
「それに私は……私にはこの季節に忘れられない思い出がある。あれは夢だったのか。それとも白昼夢だったか。それすらも分からぬ四歳の私が……見たただひとつの幻」
「………貴兄が四歳のときか。さぞや愛らしかったと思うが」
「いつも泣いているなにもできない子供だったよ」
「あまり想像ができない」
 すると木戸は振り向いてクスクスと笑った。
「私が泣かなくなったのはある一人の人がいたからなのだよ。四歳の私の涙を止めてくれた。それから私はできるだけ人前では泣かなくなったのに……おまえの前ではやはり泣いてしまう」
「木戸さん」
「おまえは……なにも知らないのだろうけど」
 木戸の手が山県の頬に向けて差し伸べられる。
 その手を山県はギュッと握り締めた。
「貴兄の手は昔から変わらずに奇麗だ」
「おまえの手は昔から冷たい」
「……木戸さん」
「槍を握ってゴツゴツしているけど、長くて、苦労を知っているこの手が私はとても好きだよ。……おまえの手はおまえの歴史だね」
「貴兄の手も同様だ。剣を握り、剣に志をかけ、だが剣に頼らずに時代を渡ってきた。きれいな手だ。貴兄の心のように」
「ならぱ見かけだけが奇麗なだけ……」
「貴兄は」
「おまえは知っているはずだ。私が歩いてきた道は決して奇麗ではない。この手はどれだけ汚れているか。私の手は……」
「貴兄がいたゆえに国は開けたのではないか。少しはそれを誇りに思われよ」
「おまえは……」
「貴兄は貴兄を知らぬ」
「おまえに私のなにが分かるという」
「知らぬ。だが……貴兄が思っているよりは分かっていると思うが」
 木戸は哀しげに瞳を伏せ、それから決意を込めた目で見上げてくる瞳は、
「こんな私のどこがいい」
 まるで言葉の駆け引きだ、と思った。誰が長州の同志がこのように緊張感がある会話を繰り広げていると思うか。
「時に強く、時にもろく。時にしなやかで、時に弱く……だが貴兄ほど志に殉じた人もいない。曇りの日もあれば晴れの日もある。思い描いた国とは違えども、貴兄がこの後色を変えていけばいい。時に人を支えるばかりではなく、表に立つも必要と……」
「やはりおまえは分かっていないのだね。私がなにを一番に必要としているのか」
「知っている。その懐にある辞表が雄弁に語る」
「なのに……」
「それでも表に立つしかあるまい。貴兄はご自分の名を忘れたか」
 山県はいつも寡黙な自身が、どうしてこの人の前になると雄弁に物を語ってしまうのか。それがとても不思議であった。
「国家の参議木戸孝允。長州の誇り高き志士桂小五郎」
 その名を聞きたくはない、というかのように首を振った木戸は、窓をチラリと見て、なにを思ったのか窓枠にひょいと飛び乗ったではないか。
「木戸さん」
「分かっていてもおまえは見てみぬ振り。おまえも俊輔のように私を廟堂に縛る。私に首魁であり続けることを求める。私に……静かな隠遁を与えはしない」
「木戸さん」
「私はもう疲れたよ」
 窓より外に軽やかに飛び降り、山県が手を掴もうとしたその手をかすめて消えていく。
 窓の外は中庭になる。春には満開の桜が咲き誇った大木が、今は新緑の葉桜が美しくなびく。
「木戸さん」
 木戸はその中庭をつきぬけようとしていたが、
 葉桜が風に揺れる姿を目にして、木戸の足は止まった。
 ホッとした山県は、木戸同様に窓から外に降り立ち、
「貴兄はどうしてこう……」
「狂介……私は葉桜が好きだよ」
「はい」
「とても……好きで……」
 木戸の瞳から大粒の涙がポタリと落ちてくる。
「できるならばこうして自然の美を見て、私は静かに暮らして生きたいのだけど。私は……望まぬ生に身を置いて……」
「だが貴兄はここにある。ここにこうしてたっている」
 今にも身が倒れそうな木戸の体を背後から受け止めるように、山県は抱きとめた。
「縛るつもりはない。苦しんで欲しくもない。だが覚えておられよ。長州のものにとっては貴兄は特別。貴兄が……大切なだけなのだ」
「……やさしいね、狂介」
 また木戸はそう小さく口にする。
「そんなことを言うのは貴兄だけだ」
 木戸は山県の両腕よりすり抜けるようにして大木の幹の前に立った。
 ざわりざわり、と木のざわめき。
 幹をいとおしげに抱きとめる木戸の姿は、
 どこか見ていると哀しく、儚く、脆く、
 胸が痛くなるほどに美しかった。
「今日、夜桜を見ようか、狂介。月が出るころにここで二人で」
 山県は無言で頷いた。


 徹頭徹尾の無表情だが、木戸は山県が今とても気分を害していることを察していた。
「山県、おまえ一人だけで木戸さんを独占なんて許せないからね。今日はみんなで宴会」
 伊藤博文が人畜無害の表情でにっとこりと笑い、山県の肩をポンポンと叩いた。
 木戸は山県と二人で月夜の下で葉桜を楽しもうとしていたのだが、その計画は退庁時刻になっても木戸が退出しようとしないことを怪訝に思った伊藤の「どうしたのですか、木戸さん」の一声で崩れたのだった。
『山県と月夜の葉桜を見ようと思ってね』
 その瞬間、実に伊藤の動きは早かった。
『木戸さん、ちょっと待っていてくださいね。僕、これからみんな集めますので。みんなで宴にしましょう』
『えっ……俊輔?』
『この頃、木戸さん花見も出なかったし……みんな木戸さんと一緒に騒ぎたくてうずうずしていたんです。ちょうどいいや。聞多に酒を調達してくるように電報を打とう、と』
 それからまさに電光石火の如し動きで、伊藤は廟堂と各省にある長州閥の人間を呼び集め、
『よっ、桂さん。ちゃあんと酒は調達してきたぞ』
 今はとある事情から廟堂を離れているが、木戸の目から見れば「長州一の仕事ができる男」井上馨が、酒瓶を担いで現れたのだった。
 長州の人間は昔から宴会が大好きである。飲めや歌えの宴を男子三人が集まれば始め、次々と知らぬ人間まで巻き込んで楽しく騒いだほどだ。特に宴を好んだのは……今は亡き木戸の幼馴染の高杉晋作だった。
 みなで集まり宴を始めると昔を思い出しかなしみが表に出る。
 ゆえに宴会をできるだけ避けてきたというのに、今日はそれもできない状態に強引にさせられてしまった。
「騒がしいのは好まぬが」
 山県はすでに廟堂の中庭に準備万端用意が整っている「宴」の様子に、ため息もので目を細めている。
「そういうな。おまえさんもあんまり同郷の宴に出ないだろう? たまには親睦というものをはかったらどうだ」
 井上にポンポンと肩をたたかれ、山県は軽く井上を睨み吸えた。
「この連中らが理性をなくすほどに飲みふけり、最期に介抱をするは貴殿と私だと思うが」
「まぁそういうのもたまにはいいだろうって」
「すまない……山県」
 まさか伊藤がこのように大掛かりの「宴」を用意するとは木戸には思いもよらないことだったのだ。
「貴兄が……」
「ほら山県はここに座って。木戸さんはこっち。あっ市に梧楼も小弥太もそこらに座って。三好、さっさと酒を渡して」
 伊藤がみなを指図し、市こと山田顕義など「偉そうに」と子どもっぽく頬を膨らませていたりする。
 山県は宴に入らず杯を持って桜の大木の下に佇み、月を見ることにしたようだ。
 木戸は一人一人の酒を受け、かなりほろ酔いの状態でなんとか立ち上がる。
「あまり無理をするなよ、桂さん」
 すでにまわりはほとんど潰れかけ、井上など酒に飲まれた伊藤を介抱しつつ膝枕をしているほどだ。
 唐突な「宴」に中央にある人間だけだが、ざっと二十人ほど集まっている。なんとお祭り好きな人間か、と思いつつも、やはりたまには同郷の人間たちがこうして集まり、親睦を深めることも大切だと思わなくもない。
「山県」
 声をかけると、幹に背を預け月を見ていた男はその瞳を木戸の瞳に向ける。
「ふらついているようだが」
「なんともないよ」
 だが足元は正直で軽くよろめき、その反動で山県の胸元に倒れこんでしまった。
「言わないことはない」
「すまない」
「貴兄は酒が昔から強くないゆえ致し方ないことだ」
 山県から離れて立ち上がることがどうにかできた木戸は、山県の傍らに並んで月を見ることにした。
 月を見て、その欠けた半月の色合いを見つつ、傍らの無表情な男の横顔も見る。
 月光の下にあるのが似合う男だと思う。月の冴え冴えとした冷たき光にも負けぬほどの冷たさが全身を包み込んでいる。
 その頬にぬくもりはあるのだろうか。
 その唇に温度はあるのだろうか。
 思わず触れたくなるも手をギュッと握り締めて耐える。自分は知っているだろうに。その頬のぬくもりも、唇の熱さも。
「こんな月夜だったよ。葉桜がきれいな時期だったと思う。私は白昼夢を見たよ」
 山県の横顔を見ながら、木戸は遠き昔を思い出し始めた。
「そう……月が冷たいまでに美しくて……私は怖かった……あのとき」
「木戸さん」
 あのとき、私は……家に居たくなくて家を飛び出して、
 けれど頭上には冷たい月が燦燦と輝き、
 私はその月に震えて、足がすくんで、結局は家の中庭で両足を抱きこんで大木の下に縮こまっていた。
 その私の目の前に、
 月光の煌きとともに現れたのは、
「まるで御伽噺のようだけど、私はこの白昼夢、今でもよく覚えている。なにもなかった庭先に瞬きをして後に一人の男の人が……山県?」
 木戸はきょろきょろと周囲を伺う。
「山県? ……きょうすけ? 狂介」
 今の今まで傍らにあった気配が、唐突に消えた。
 振り向いた先にはいつもの無表情があると信じて疑わなかったというのに、そこに人があった気配すらもなく静寂を刻んでいる。
 周りの人間はほとんど酔いつぶれている。唯一意識があるのは、伊藤と山田を介抱している井上くらいのものだ。
「聞多、狂介を知らない?」
「うん? アンタと一緒じゃなかったのか」
「急にいなくなったから」
「珍しいな。アイツが急になんてよ。まぁすぐに出てくるさ。月はこれからなお美しいんだからさ」
 どうやら井上も半ば酔っている。
 木戸は中庭を一周し、だが山県の姿を見出すことなく、桜の大木にもどった。
 そこには先ほど気付かなかったが、山県が愛用している小さな櫛だけが残っている。
「狂介?」
 不可思議な感覚が木戸の体を染め、鼓動が不安と警戒の音を響かせる。
 人の気配に過敏な木戸は、自らの周りにある人間の気配をすべて把握している。自分に分からないほどに気配を消せるほどの修行を積んだものなど周りには居ない。
 山県は唐突に気配を消した。いうならば「消えた」という方が正確だ。
 自分を落ち着かせるために大きく息を吸い、大木の幹にわずかに寄りかかる。
「どこにいるのだい、狂介」
 声が、吐息が、夜陰に乗じてわずかに響き、
 木戸は目をとじて、もう一度周囲の気配を伺う。


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緑と月夜の物語-1

緑と月夜の物語 1

  • 【初出】 2006年ごろ
  • 【修正版】 2012年12月16日(日)
  • 【備考】木戸孝允命日追悼・山県有朋誕生日記念作品