皐月十四日




 初夏の若葉の香を乗せて吹く風は、時折少しばかり冷たく感じる。
 明治十一年五月十四日。
 その日の朝、目覚め廟堂までの道を馬車で進んでいた内務卿大久保利通は、馬車の中でふと一昨年前のこの時期に消えていった同僚のことを思い至った。
 ちょうどこの時期だ。
 鹿児島ではかの西郷を担ぎ士族が大規模な反乱を起こしていた。
 まだ一年も経過していないというのに、ひどく昔のように感じさせる。
『大久保さん』
 そう秋風を感じさせるような儚く自らの名を呼んだ同僚は、この時期になると京都の別邸で体を横たえ、日一日と体は衰えていき、 目に見えて「死を待つ」姿が痛々しかった。
『このたびのことが終わりましたら、私は内務卿を退き、貴公の言うがまま働く所存です。……お早く体を治していただきたい』
 するとその同僚……長州の首魁木戸孝允はクスクスと笑っていた。
『私は直に命の灯火が消えます』
 庭の若葉を見つめながら、まるで他人事のように木戸は口にした。
『とても残念ですね。貴殿が私の元でいうがままに働く姿を見ることは適わないことは』
 自らの終わりを知ると、人はここまで静かになれるのだろうか。
 大久保は不思議でならなかった。
 日一日と死が迫り、その死をまるで静かに足掻くこともなく訪れるのを待ち続けるとはどのような気分なのだろうか。
 だが木戸だ。長く先に逝った同士たちの死を惜しみ、その人たちを忘れることができず手を伸ばし続けた。迎えに来るのを待っていたのでは、とも思える。
『貴公には生きようという気概はないのですか』
 思わず尋ねてしまうと、木戸は少しばかりポカンとしていた。
 そしてまたクスクスと笑い出す。
『生きてきましたよ。どれだけ生きるという言葉が身に迫ろうと生きては来たのです。けれど……今、思えば生きようと強く思ったことはないかもしれない』
『貴公は……』
 大久保はかなり呆れた。政府の一方の長と言える人間が、国や人民を第一に思う人間が自らの命に対してどうしてこうも執着をもてないのか。
『貴公は国に対する理想や人民に対する思いよりも、まずは自らの体調を気にかけるべきでありました。自らの体調を管理できぬ人間が、国の行く末になど口を出す資格はなきに等しい』
 木戸は縁側で風に髪をなびかせていた。
 いささか疲れたのか、柱に身を預けて、ふと大久保に向って振り返った姿は今でも鮮やかに思い返せる。
 静謐な……湖面に波ひとつ立たず湖底までもしかすると見渡せるのではないかと思わせる、そんな顔をしていた。
『私は政治家には向かない人間でした』
 そんなことをあっさりといってくれた。
『貴殿は実に政治家という職業に向いておられる。そうですね……私は先に逝きますが、その逝くときにこの国の現状を頼むのは貴殿にだと思います』
 現状と木戸は口にした。決して行く末とはいわない。
 その言葉ひとつで「この国の行く末」を担うのは自らではない、と突きつけられたような気がした。
『それに貴殿は長生きすると思いますよ。私が保障します』
 そう儚く静かに微笑んだその人も、その日から数日後に意識を失い、そのまま皐月の風に乗って求めてやまなかったかつての同士のもとに旅立った。
 長州はただ一人の首魁を失った。
 薩摩とて精神的首班であった西郷隆盛が鹿児島で新政府に向けて兵を挙げている状態だった。
 時代が転換されようとしているのか。
 時代は新しきものを求めているのか。
 馬車に身を揺らし、大久保は目を閉じたまま、思うことは内務卿として政治向きのことばかりであったが。
『大久保さん』
 この一年、忘れていた人の声音が耳になぜか蘇る。
 目を開ければ、今、自らの傍らにその人がまたあの静謐な表情をして座っているのではないか、と思うほどに鮮やかに。
 一年が経っていないというのに、妙に懐かしい。
 あの命にも名にも現在の地位にも……この世というものになにひとつ執着しない人を、政府に留めることにどれだけ自らは苦労したか。
 あのころは先行きに不安や暗闇を抱えていたが、それでも「生きている」と実に実感させた。先行きに対して大いなる「夢」を抱けた。
 ならば今はいかがか?
 大久保はその冷徹な無表情に、わずかに笑みらしきものを見せる。
「貴公や西郷が見ることが適わなかったこの国の行く末を、私が見させていただこう」
 誰でもない。この自らが見ずして誰が見るというのか。
 共に維新を成し遂げた同士たちも、すでにこの国よりほとんどが消え去った。
 望んでも見ることが適わずに、あの動乱の時期に命を失った人間はどれだけ多かろう。
 この目で見ねばならない。この体で感じねばならない。
 ……逝くときにこの国の現状を頼むのは貴殿にだと思います。
 木戸の言の葉が耳に自然と注がれ、それを大久保は受け止めた。
 行く末を、と願わなかったことが今となって気になり始めたが。
 木戸が行く末を頼んだのは、同じ長州閥の伊藤、井上あたりだろう、と大久保は思っている。どれだけ木戸自身あの二人……特に伊藤と主義が合わなくなろうとも、託すのは事実上の後継者であり長く補佐にあった伊藤にしかできまい。
 あの木戸の死を「自分のせいだ」と嘆き泣いた伊藤。あの日の目は忘れられない。
『貴方の責めでもある』
 伊藤は木戸の政敵に等しい大久保に、そう冷たく突きつけた。最期に「許しはしない」という思いをも込めて。
 実に長州という国はあまい。そして怨恨に関しては執念深いものか、と大久保は思って居たりしたが。
 それだけ木戸は同郷の人間たちに愛されていた。
 自らとは対極にある一方の長に、どれだけ苛立ち歯がゆく思い、そしてどことなく対極にあるゆえに目が離せなかった事実がある。
 そこで馬車が止まった。
 今日も通常通りの内務卿としての大久保利通の日々が始まる。
 ……貴殿は長生きすると思いますよ。私が保障します。
 なぜか木戸と最期に対面したときの言葉ばかりが頭に浮かぶ。
 その死から今まであえて存在を封じ込めてきたというのに、一周忌を迎える時期にあるゆえにあえて思い出されるのか。
「木戸さん。貴殿の保証ほどあてにならないものはないと思いますが」
 内務卿の独り言に、迎えに出てきた部下が首をかしげている。
 明治十一年皐月十四日。
 夏風がほんのりと冷たさを含んで吹きすさむこの日。
 内務卿は少しばかりいつもにない幻聴が聞こえる以外は、なんら普段とかわりない一日を送ろうとしていた。


皐月十四日

皐月十四日

  • 全1幕
  • 維新政府(陸軍)小説
  • 【初出】 2006年5月14日
  • 【修正版】 2012年12月15日(日)
  • 【備考】大久保利通命日追悼作品