たわむれ

前篇

「明治も三年が過ぎました。いいかげんに過去ばかりを見るのはおやめください。みんなそんな木戸さんの姿を見れば、逆に悲しみますよ。弔いの花なんて木戸さんに供えて欲しくないはずです」
 大蔵少輔伊藤博文(俊輔)の言葉に、参議木戸孝允は淡くはかない表情をもってこたえた。
「……それ以外に今の私には何の生きる価値があるんだい」
 生きるのが辛げで、今にも消え入りそうにはかない。
 そんな長州の首魁に苛立つことも多々ある。だが今は、苛立ちよりも心配で不安で恐怖が長州閥を包んだ。
 ……何に執着することもなく、人に頼ることもなく。このままだと木戸さんはどこに行ってしまうのだろう。
 誰もが眉をひそめ、胸にある焦燥をどう紛らわせばよいのか、と互いの顔ばかりを見た。
「そんなに亡き人ばかりに心を傾け、現にいる人たちを見ないなら……みんな木戸さんから離れていきますよ」
 木戸は憂いに溢れた瞳を伊藤に向ける。
「それも致し方ないことだね」
 バン、と伊藤は机を叩き、政府の木戸の私室から退室した。そのまま友人の部屋に泣きそうな顔で飛び込んだのである。
「聞多ぁぁぁ」
「なんだ俊輔、また桂さんに何か言われたのか」
 大蔵大亟にして、造幣頭となるだろうと目されている井上馨(聞多)は腕組みをして書類に目を通していたのだが、伊藤の出現で書類より目を離さざるを得なくなった。
「そうだよそうだよ。あの人の言葉以外に僕がこぉんなに泣き言を聞多に言いに来ることないじゃないか。……あぁ聞多。僕は十月ごろに米国に財政制度の調査などを仰せつかって渡米しないとならないんだ。その間のあの人が心配で心配で……」
「桂さん、このごろ憂いがいっそう帯びてきたなぁ」
 友人の大村益次郎が闇討ちされたときの傷がもとで死して以来、木戸はいっそう人にも命にも執着がなくなり、誰の目にも危うい不安をもたらせるほどのはかなさを身に宿しつつある。
 いつか木戸は風に乗るかのようにして消えてしまうのではないか。
 そんな風情を井上は常に感じており、はかなさばかりを宿す木戸を見ていたくはない、と少し距離を置いていたのだが、気になってならないのは他の長州閥と同様だった。
「見ていて心配でならないんだよ、僕。だから、言ったんだ。みんな弔いの花なんて木戸さんに供えて欲しくないはずだって。そうしたらなんていったと思う、あの人は」
「私に、それ以外に生きる価値があるのか……なぁんて言い方したんだろう」
 井上は少し木戸の口真似をして、ニヤリと笑った。
「……なんで分かるの」
 伊藤が不思議がるのが井上には面白かったか、からかうほど今日は余裕はない。
「桂さんだからよぅ、それくらいは簡単に言うさ。あの人自分の命はどうでもよくても死んでいった同士の命は大事だからなぁ」
「なんで現実を見てくれないんだろう」
「桂さんだからだよ」
「なに、その悟りきった物言い」
「……あの人、若干精神的に脆いところがあっただろう? しかも面倒見が良くて優しいから。自分が面倒を見て苦労した人間が次々と死んでいくのに絶えられなかったのさ。いや絶えたよ、あの人。絶えて絶えて理想と違う政府に嫌がりながらも先日みんなで口説き落として参議にさせて……。地位に就けば就くほど辛くなっていくんだろうなぁ。現実と理想の狭間って奴か」
「木戸さん……一度も泣き言言わないんだよ。辛いなら辛いって。助けて欲しいなら助けてって。そんなに僕たちだと分不相応かな。木戸さんの話し相手に僕たちはなれないのかな……」
 幕末のころから木戸の第一の側近として、常に傍らで木戸という人物を見てきた伊藤は、長州閥の中でも一、二を争うほど木戸という人物に執着し、また過保護で知られている。
 伊藤という中間あがりの武士としては最下級にある男に、木戸は手を差し出して「君は今日から私の同士だね。これからもよろしく」と、にこりと笑って言ったそうだ。
 木戸はもともと藩医の出身だから、得てして身分に対する概念は撤廃されていた。誰をも公平に平等に接し、いつも自分から議論することをせず、人の話を耳を澄ませて聞いてやわらかく笑んでいた。
 伊藤にとっては木戸は上司だが、それよりも大恩人にして大切すぎる人だった。
 明治に入り描いていた理想の崩壊に立ち向かいながらも、人の死が木戸に乗りかかり、淡くはかなく消え入りそうな風情に包まれた木戸を、伊藤ほど必死にこの世に繋ぎとめようとしている人もいないだろう。
(桂さんは俊輔ではダメなんだろうけどね)
 伊藤の目が常に桂小五郎というかつての木戸の姿を深く追っている以上、木戸は伊藤の目からかつてを叩きつけられ、変わってしまった我が身を垣間見てさらに苦しみを抱く。
「俊輔は桂さんが他の誰かに辛いといったら、余計騒ぐだろうしなぁ」
「当然だよ。僕が一番近くにいて、一番木戸さんのことを分かっているつもりだからね。僕以外の……特に山県なんかに救いを求めるのはイヤだよ」
 これでは木戸は誰にも泣きつくにも泣きつけないではないか。
「それでね聞多。僕も切れたんだよ。そんなに亡き人ばかりに心を傾け、現にいる人たちを見ないなら……みんな木戸さんから離れていきますよって言っちゃったんだ」
「あちゃあぁぁぁ。俊輔、それは言いすぎだ」
「そうだよ、僕もそう思っている。けど誰が木戸さんから離れていっても僕が離れるはずないじゃないか。そんなことはないって言ってくれると思ったのに。それも致し方ないって……木戸さん言ったの。この僕の前で」
 勢いあまって伊藤はポロポロと涙をこぼした。
「僕だけはどんなことがあっても……どんな木戸さんでも」
「桂さんも分かっているさ」
 井上は明治に入ろうと一貫として木戸を旧名で呼ぶ。
 それがどんなに木戸を傷つけようとも、井上にとっては木戸は「桂小五郎」でしかなく、その桂という名に思いいれがある。
「分かってなぁい。分かってたら、あんなあんな……。致し方ない、だよ。致し方ないってなに? そんなに僕は信用されていないの。あぁ腹が立つ」
 明治に入り伊藤のイライラはほとんど木戸孝允に注がれる。
「そんなに腹が立つなら、それやってみたらどうだ? みんな桂さんのあの執着のなさには苛立っているし、頼られていないことに市(山田)など歯噛みするほど悔しがっている。これも桂さんに思い知らせるためと言っちゃあなんだが、少しはおまえたちのありがたさを知らせるために芝居を打ったらどうだ」
「……聞多、それグッドアイデア」
「なんだぁ。片言しか喋れない英語なんか使うなよ」
「僕のうりは英国留学だよ。英語なんて喋れる振りをしておけばいいのさ。なぁに分かる人なんていないよ」
「桂さん、分かるぞ」
「あぁ、あの人は洋行を志しているからそれなりに勉強しているようだよ。僕は絶対に木戸さんの前では英語を使わないよ」
 伊藤はニッコリと笑った。
 この伊藤の片言英語のために散々に苦労した井上にしてみれば、まったく英語など蚊帳の外の自分たちが、外国事務局判事などよくやっていたな、と思わずにはいられない。
「木戸さんは、みんなが過保護に面倒を見るから一人になった時の寂しさを分からないんだよ。さっぱり近寄らなくなったら少しでも寂しさというものが分かってくれたら、僕たちのことを見る目も変わるかもしれないし」
 言い出した井上だが、伊藤ほど楽観的には考えてはいない。
 むしろあの木戸の性格だ。人が近寄らないなら近寄らないで、それこそ安心するのではないか、と思うが、ここまで伊藤が悲しむのを見ると……つい口にしてしまったことを後悔する。
「……あのな俊輔」
「長州人に大号令をかけるけど……あのね聞多」
「なんだ」
「山県なんだけど……僕が言っても聞かないから、聞多が言い聞かしてよ」
 兵部少輔の山県有朋と伊藤は松下村塾以来の同門なのだが、性格が水と油のようにあいはしない。互いに避けあっているのだが、それを決定的にしたのは高杉晋作の博打にも似た挙兵に伊藤は真っ先に駆けつけたものを、山県は勝敗が決してから加わったということだった。
『臆病者』、と伊藤は山県を蔑んだそのときから、目も合わせないほどに犬猿の仲になってしまっている。
 だが不思議なものだ。
 これだけあわない水と油の二人だというのに、二人ともが木戸という男に執着している。
 井上はつい思い出し笑いをしてしまい、伊藤が怪訝な顔を向けてきた。
 二人ともが長州閥で一、二を争うほど木戸に過保護をしているのだが、木戸の面倒を見るのでもこの二人はまるでお互いの心を読むかのように、決して鉢合わないよう、互いに領域をもって木戸の面倒を見ているのである。
「よし決まった。たまに木戸さんに僕らがお灸を据えるのも大切だよね。……僕、あぁんな儚く何事にも執着せず、誰一人頼ろうとしない木戸さん、もう見たくないんだ」
(あぁ、もうしゃあないけど……)
 この計画、絶対に伊藤の敗北に終わる気がして井上はため息をついた。
「思い知ればいいんだ、木戸さん。一人になる寂しさを」
 今まで多くの人に囲まれ、明治に入って世捨て人風情を漂わせても木戸の周りから仲間が消えることはなかった。
 それが一人も突如として近寄らず、木戸が孤立するようなことになれば。
(恐ろしい、くわばらくわばら)
 言うぞ、と井上は覚悟をした。
『私はもう用無しの人物のようなので、参議を辞めて萩に隠遁させていただく』
 なにかあれば微笑で辞表を提出する一種の癖がある木戸だ。
 この期を逃さずにやるぞ、と思うが、井上はそれを計画を練り始めている伊藤に忠告はしなかった。
(悪いな、俊輔)
 おまえと一緒で俺もあんな儚い桂さんは見ていたくないんだよ。
 死者とともに生きるならばそれもいい。死者に弔いの花を手向けるのが生きる価値とするなら、それでもいいんだよ。
 生きるのが辛そうな木戸を、これ以上廟堂に薩長の思惑で縛り続けることに井上は反対だった。
(これを期に辞めてしまえよ、参議なんか)
 ……アンタは萩で塾でも開いて教師をするのが似合うよ。
 そんな木戸の方が見ていて辛くならない、と井上は思っている。
「じゃあ聞多、さっそく計画発動だね。いい? 聞多は最期までどんなことがあっても僕を裏切らないよね」
「そうだな。桂さんの後継者の地位をおまえと山県が争っても、俺は間違いなくおまえに味方するよ。なぁに、おまえが桂さんを最期まで裏切らないと宣言するように、俺もおまえを最期の一人になっても裏切らないさ」
 ニヤリと井上は笑う。
 井上にとって生涯の親友は此処にある伊藤博文だけ。
 あの幕末を二人共に走り、駆けて、今の自分たちがあり、これからも共に駆けるのは伊藤だけだと決めている。
「うん、僕も一生聞多が金銭問題で誰に恨まれ政府から追い出されても、僕だけは味方でいるからね」
 二人は共に笑いあう。
 その名の通り井上も伊藤も生涯、互いを裏切ることを一度たりともすることはなかった。


▼ たわむれ 中篇へ

たわむれ-1

たわむれ 前篇

  • 【初出】 2006年ごろ
  • 【改定版】2007年3月4日   【修正版】 2012年12月16日(日)
  • 【備考】