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雲隠れ【お試し小説】

告白

前篇

「大久保さん」
 その日、内務省の一室に木戸孝允が単身訪ねてきた。
「お時間ありますでしょうか」
「これは……今まで逃げ回っていたお方がわざわざ訪ねてくださるとは。時間は貴公のためならば割かせていただきます」
 内務卿室。そこは内務卿大久保利通が一日の大部分を過ごす部屋である。
 昨今、三条実美宛に辞表を提出し、その受理をめぐって政府内をおおもめにさせている本人木戸孝允は、普段と変わらぬ静けさと 穏やかさに、瞳はあいも変わらず愁いを込めて大久保を見据えてくる。
「辞表を引き込める気になりましたか」
「私がですか」
 木戸はクスクスと楽しげに笑った。
「それはありません。私は参議を辞職しこれからは休むつもりです。これは決めたことなので」
 協調的であり、人の言葉によく耳を傾ける木戸ではあるが、一度決めた信念には意志を曲げないという頑なさも時折顔を出す。
「貴公は政治家でしょう」
 大久保は自ら紅茶を入れ、木戸の前に差し出した。
「貴公が政治以外で生きていけるとは思いませんが」
「私はこう見えて職には困らないと思いますよ。落ちつけば近くに道場でも建てて剣術でも教えて行こうか、と。剣術はもうこの国にはいらぬものかもしれませんが、 鍛錬にはなるでしょう」
「確かに。貴公はかの練兵館の塾頭であられた方。剣術であろうと、塾であろうと、いきていこうと思えば何でもできる器用さがあると思いますが、 それが本当に許されると思っておられますか」
 すると木戸はまたしてもクスクスと笑った。
「許すも許されるももうどうでもいいことです。私は私自身が長州の首魁をおりると決めたのですから」
 今日の木戸は、いつもにまして毅然とあり、また余裕すらも見えてしまう。あの追い詰められ、現実逃避に走る癖がある木戸とはまるで別人のようだ。
 はじめて大久保が木戸と会ったとき。
 この男は今のように冴え冴えと冷ややかに。毅然とだが静かに。まるで静夜の月のような男に見えた。
 これはいかがしたことなのか。今の木戸はあの時の木戸の姿に印象が重なる。
「考えをお変えになることはないということですか」
「えぇ」
 美味しいですよ、と紅茶を微笑みながら口にし、それをコトリとテーブルの上においた木戸は、スッと瞳を細めた。
「私はこのような話をしに此処に訪れたのではありません。大久保さん。私は告白に参ったのです」
 そう明朗に、しかも淡々と告げてくる木戸は、大久保が見てきたここ数年の木戸とはあまりにも違いすぎる。
(あぁ……覚悟してこられたか)
 そんなことを思わせる風情に、黙って話を聞くしかない、と大久保は感じた。


「私の命はもう永くはありません。今まではおぼろげなものでしたが、今ははっきりと見えます」
 はじめに木戸はそう告げて後、もう一度紅茶をわずかに口にした。
「国政に携わる力はありません。こんな私が廟堂にあること、そのことからして国の多大な迷惑です」
「貴公はなにかかん違いをしておられますね」
 大久保は珈琲を口にして、その冷淡であり無表情さをなにひとつ崩さずに、その視線を木戸の目から離すこともない。
「分かっておられるはず。貴公が下りると言われようと貴公は命ある限り長州の首魁に他ならない。命ある限り廟堂におられるといい。私の傍にいらっしゃるといい」
「大久保さん。私自らが下りるといっているのですよ」
「それは貴公の意志とは別ですよ。命ある限り貴公は長州の首魁。私のただ一人の並び立つものです」
「……貴殿とこの問題を話し合って分かり合えるとは思っていません」
「貴公の考え方がかなりおかしくなっている」
「やはり合いませんね」
「そうですね」
「それでよくここまでやってこれたものです」
「そうせねばならなかったからではありませんか。ついでにこれからもそうせねばならないはずですが」
 これ以上なにを言っても堂々巡りが続くだけだと、微苦笑をもって木戸はこの話に終止符を打ち、先を進めて行くことにした。
「死を間近にして、私は告白に参りました」
 本題に入ると、大久保は「ほぉぉぉ」と無表情をわずかに緩め、足を組み、一応に聞く姿勢を取った。
「どのような告白を。貴公の告白だ。私へのあまいものではあるまい。非難であろうが罵倒であろうがどうぞ。だが、私の話も後ほど聞いていただきますよ」
「貴殿のことではありませんよ。残念ながら」
「ならば、なにゆえに私に告白するのですか」
「貴殿がいちばんよくご存知で、なおかついちばんに第三者だからです」
 木戸はそう口にしてから、にこり、と笑った。
 なぜこのような私的なことを大久保に話そうと思ったのかは知れない。誰かに話さずに入られなかったが、その相手に大久保利通を選んだ理由は 木戸がいちばんに知れないのだ。
「もう一杯お飲みになりませんか」
 いただきます、と軽く会釈をすると、大久保は立ち上がり愛用の茶器で木戸好みの紅茶を入れ始めた。
「大久保さんの入れる紅茶は誰がいれる紅茶よりも私の好みにあいます」
「当然です。貴公好みに入れているのですから」
「えっ」
「貴公は知るまいが、貴公の好みは私の家内とよく似ている。家内の口にあわせておけば、貴公の好みに合うということです。 紅茶で懐柔をはかろうと思ったのですよ」
「大久保さんは冗談がお上手です」
 木戸は言葉半分に受け止め、クスクスと微笑みながら、差し出された紅茶に口をつける。
「どう思おうが貴公の勝手ですが、今度の紅茶は如何ですか」
「美味しいです」
「それはよろしいことです」
 紅茶の話になると和やかになるが、それもわずかな時のみである。
 冷静に穏やかな対応を取ってきたが、この二人はともに薩長を代表する人物である。一度意見が合わなくなると、木戸は穏やかに、だが意見を真っ直ぐに述べ、 大久保はそれをそらしながらも、自らの意見を通るように画策を裏でする。
 二人だけで話そうと「熱」が入ることは、両者の性格からほぼありえないのだが、その一見穏やかの中でも、目には見えない剣呑な雰囲気が常に流れていた。
 だが私的関係になると、二人は和やかな雰囲気を常に保つ。
「大久保さん。私は二度と萩には戻れぬ身とあの萩の乱のおりになりました。死すならば、仲間たちがある京都でと思っています」
「あくまでも廟堂で死すことは拒まれますか」
「私は……戦いの場で死すよりも穏やかな地で誰にも知られずに死す方が似合いと思います。忘れさられて死していくのが似合いです」
「貴公はご自分という人間をよくお知りにならない」
 木戸はゆっくりと首を横に振り、その大久保の言葉には乗らなかった。
「それで京都に行く前に大久保さんに話を聞いていただきたく思いまして。ごく私的なことでお仕事のお邪魔をしてしまうのは申し訳ありませんが」
「貴公のお話は私には仕事同様に大切なものに変わりありませんが」
 どうぞお気軽に、と大久保が促してきた。
「私は……大久保さんに今まで何度も言われてきましたが、人に対してどうあれば良いのか。誰がほんとうに大切で、誰が恋しいのか 気付くに鈍すぎるところがあります」
「確かに。それは否定できませんが」
「貴殿にも山県にも誰がいちばん大切なのか。いちばんに好きなのか、と問われました。そのたびにその都度、その場で思うことを口にしてきたと思いますが、 命の期限を明確に知ったときに、この心に去来したことがあります」
「ほぉぉ」
「私には生涯をともに歩きたいと思った人がいました」
 大久保は「告白」の内容を察したらしく、寛いだ姿勢となり、珈琲を片手に耳を澄ましている。
「私のただひとつの光でした。私の行く道を照らし、私の心に日の光を照らす……ただ一人の存在でした」
「……木戸さん」
「その人が死した時に、私はこの国がため長州の汚名を返上しそそぐために生きると決めたのです。それでも日の光……希望はこの目になく、 この世はまるでモノクロに包まれていた。日の光なくとも歩くのが義務であり役目であり、私の罪を償う路に他ならなかったのです。 ですが、やはり……光なくして私は跳ぶことはできませんでした」
「お待ちなさい」
 大久保はそこで言葉をさえぎってきた。
「貴公は……今となって貴公はなにを言うのだ」
「私はこの明治に入り、この身はなにを欲しているのか探してきたように思います。政治家としてただこの新たな国を守ることを義務としながらも、 心は失った光の代わりを探していました。探して……見つけて、その手を掴んで……それでも、最期に思うはただひとつの光です」
 その冷淡な顔をわずかに動かし、大久保はまるで呆れたかのような表情を作った。
「貴公が見つけた答えを、今、貴公自ら否定なされますか」
「大久保さん」
 ニッコリと木戸は笑う。
「この世には答えなどないのです。答えと思ったものでも、後に考えると単なる過程でしかないことも多くあるのですよ」
「だが貴公は……」
「私がこの手に欲しかったのは、昔と変わらないのです。この手で守り、この手で心から慈しめるもの。この身をかけねなく受け入れ、 この身を慈しみはぐくむもの。どうしようもないのです。私はどこまでも家族を求めました。幼い頃から欲してやまなかった平凡な家族というものを。 妻もおり娘もいる。穏やかなときが私を包もうとも、私が心から欲しいのはそういうものではない。私がこの身が欲した家族は、ただ一人です。 幼い時にただ一人私の家族となってくれた……高杉晋作だけです」
「それは家族に対する大切さでしょう。大切さにもいろいろあると貴公は知っておられるはず」
「えぇ」
「恋人の大切さは、その家族であり光である人への大切には勝りませんか」
「大久保さん」
「貴公を本気にさせ、癒したあの男でも高杉さんには適わないということを言っているのですよ、貴公は」
「……私が欲しいものは子供のときからなにひとつ進化していない。子供の私には恋は重い」
 木戸は此処に心が見つけたひとつの過程を告げにきたのである。
 それは西洋的には懺悔に似ているのかもしれない。
 恋人としてもとめ、その存在を癒しにも救いにも生きる糧にもした相手よりも、過去に自分を置いて死した相手を「大切」にしていると認めてしまったのだ。
「……貴公は残酷な方だ。そのようなことを……陸軍卿にいえまい。ゆえに私に言われるか」
「誰かに聞いて欲しかったのです。貴殿以外は浮かびませんでした。申し訳ありませんが」
「罪の告白をされようとは思いませんでしたが。そのようなこと陸軍卿は認められまい。大切さにはいろいろな形がある。誰がいちばんと決めることもないのかもしれない。 それに……高杉さんと陸軍卿への思いはまったく違うものと見受けられますか」
「私は晋作がいなくなってから、傍らを見て彼がいないことに苦しんできました。振り返ろうとも彼はいない。桂さん、とにんまりと笑って私を見ない。 逢いたくて、触れたくて……夢の中でもいいから顔を見たくて、声を聞きたくて……私はその思いを封じて歩いて行こうとして……無理でした」
「木戸さん」
「私は……誰よりも大切に思っていた。ともに歩いていくのは、生きていくのは、晋作だけだと思っていた。私を抱きしめて、私を好きだと最初にいってくれた…… 私の半身。いとおしくて……苦しくて。あの存在があるだけで生きている、と。生きていいのだと……」
「桂さん!」
 ハッとして木戸は感傷から戻るように大久保の顔を見た。
「貴公はなにか悟りを開いたようですが、今の告白はまるで……貴公はそれほどに高杉晋作に恋焦がれておられたのですか」
「恋?」
「今の話だと恋の告白を聞いているとしか思えません。そうではなかったはずです。なにかの熱に浮かされているようなので、すこし冷静におなりなさい。 それとも気付かなかっただけで、家族としての見方しかしなかったというだけで、見方を変えれば貴公は高杉さんを好いていたという結論になられたのですか」
「私が……」
 大久保の言葉に目の前が真白の世界に包まれていってしまった。
 高杉晋作は木戸にとっては幼馴染であり、家族同然で実の弟のようにいとおしく誰よりも大切と言い切れる存在に他ならない。
 大切すぎて大切すぎるからこそ、離れたくはない、という思いと、常に傍に居て欲しい、という思いがあった。
 ともに歩いていこう、と。ともにいきていこう、と。
 家族を持とうとも、生きていくことを、傍らに並ぶのは彼だけだと信じ込んでいた。
 その「大切さ」とあまい感覚がよぎる「恋」はまったく別のものであり、木戸は今まで別のものとして片付けてきてしまったのである。
「どうやら貴公は……知らぬところに恋を抱き、その恋を抱いたまま別の相手に違う恋を抱いたようですね」
 大久保は皮肉げに声をかすかにあげて笑った。
「貴公の恋に対する捕らえ方や不器用さ。臆病さの由来がどこにあるのか今、明確に分かったような気がします。どうやら貴公はまだその恋を終わらせていない。 過去の恋としていない。恋とも知らずにいた。ならば新しき思いに走れないはずです」
 狼狽のあまり紅茶を飲み干してしまった木戸に、再び紅茶を大久保が入れてくれた。
「いちばん大切な人間だから、必死に家族同然としてみようとし、それ以外の感情を封じたのでしょうね。封じたまま見ない振りをしたものが、 今となって顔を出してみると、そこにはすでに違う相手が棲んでいる。戸惑ったままで答えを探して、出した結論でしょうが、まだ結論にいたる確かに過程でしかない。 恋と認めねば片付きませんよ、木戸さん」
 高杉晋作に自分は「恋」を抱いている。
 大久保が口にしようとそれを実感することは木戸にはできない。そう認めれば高杉に抱く思いが、なにか汚れていくようで怖い。
 家族、と。ただひとつの自分を照らす眩しすぎる光と思えた存在に対して、この心は邪な思いを抱いていた、と。
『誰よりも桂さんが好きじゃ。自分がこの手でどんなことからも桂さんをまもっちゃる。だから桂さん。いつまでも自分をいちばんにしておいてな。 自分をいちばん好きでいてな』
 高杉がいちばん大切だよ、と口にすると、高杉は途端にそっぽを向き、それは違うといった。
『自分が欲しいものはそれとは違う』
 と、何度も口にした。
 知っている。
 高杉が欲したのは自分が高杉に「恋」を抱くこと。家族同然の大切さではない大切さが欲しいといっていたのだ。
 それを最期まで与えず黄泉に旅立たせながら、今となって、心の底に抱いていたのは「恋」だったと。
「私は……」
 そのようなこと、今となっては認めることはできない。
「もう少し考えられるといい。それから……貴公は好きという感情をひとつに括るが、いろいろな形があろうとよいものです。 そうせねば……今の考え方ではさすがにあの陸軍卿が哀れだ。あの男を貴公は好いておられよう」
 それには異議はないので、木戸はコクリと頷いた。
「ならばひとつ問いを差し上げよう。それをしばらく考えられるといい。貴公は高杉さんと陸軍卿。どちらに口付けされるのが恥ずかしく、 まして胸が熱くなるか」
「はい?」
「よく考えて御覧なさい。どちらが傍にいることが安心するかではなく、どちらが傍に居ると胸が震えるか」
 急ぐことはない、と大久保はいい、冷たく笑う。
 よく分からない問いをどうやらこれから考えねばならないようだ。木戸は頭を抱えながらも、軽く会釈をすると同時に頭が痛くなってきた。
 ここに告白をしに来て、楽になろう、と思った。
 自分の思いを確かめるために、誰かに聞いて欲しい、と思ったのだ。
 だがそれがさらに意味不明な迷路に迷い込むことになろうとは、思いもよらなかった。
「私は思いますよ。おそらく高杉晋作が生きていようとも……」
「生きていようとも?」
「結果はなにひとつ変わってはいないのでは、と。それにしても貴公は自分の感情になると実に不器用すぎる。悩んで苦しんでそれを繰り返してばかりだ。 すこしは苦しんで見つけた答えに自信を持てばよいものを、それもできないと来る。困った人ですね」
「申し訳ありません」
「まぁいい。相談相手にくらいはなりましょう。私も病に身を覆われた貴公を押し倒そうとは思いませんので、安心して相談にいらっしゃい」
「大久保さん……」
「紅茶をまた飲みにいらっしゃるといい。だが、辞表はしばらくその懐に閉まったままでいてくださるとありがたいが」
「……美味しい紅茶をありがとうございました。また……飲みに来ます」
「懺悔を聞くには、私はまだまだ悟りを開いていないことを忘れずに」
「心得ています」
 大久保の部屋から退出して後、木戸はひとつ呼吸を漏らした。
 また出口の見えない迷路を今、自分は歩いている。ひとつひとつ解きほぐさないとならない感情の問題は実に厄介だ。
「木戸さん」
 角を曲がると、その場に腕を組んで壁に寄りかかっている人物があった。
「……山県……」
「内務卿への話は終わりましたか」
「………」
「あの男になにかされたということは」
 慌てて首を横に振ると、山県は疑わしげな視線を送ってくる。
「おまえ以外とはそういうことはしないよ」
 まだ疑いの目を送る人間に、どうすればいいのだろう、と迷い、戸惑い、だが木戸はにこりと笑って山県の頬にそっと口付けひとつ落とした。
「おまえが好きだよ」
 同時にズキリと胸が痛んだ。
 高杉を大切だと、いちばんに思うといいながらも、今、自分は何を思ったのか。
 目の前の存在に対するこの思いは、どう言葉にしないとならないのだろうか。
「部屋に戻りましょう。話はそこで聞きます」
 山県に促され、そのまま歩を進めながら、木戸は考え続ける。
 ……貴公は高杉さんと陸軍卿。どちらに口付けされるのが恥ずかしく、まして胸が熱くなるか。
 先ほどの大久保の問いには、おそらく答えは即答で出るだろう。
 高杉の口付けは昔から繰り返されるもの。恥ずかしさというよりも、胸が熱くなるというよりも、親愛が込められたくすぐったさがあった。
 だが山県のものは違う。
 先を歩く山県の袖をついギュッと握ってしまい、振り返った山県はわずかに首を傾げた。
(どうしよう……)
 私は……晋作に、恋を抱いていたというならば。
 今のこの山県に向ける感情はなんだというのだろう。
 恋は同時に二つを抱けるというのか。
 知らず知らず意味不明な感情に苛まれ涙がポタポタと落ちてくる。
「木戸さん」
 唐突なことに山県が驚き、どうなされた、と流れいずる涙を拭ってくれたが。
「分からないんだ」
 ただ、分かることは、
 この命つきるそのとき、おそらく自分はこの山県の冷たき手ではなく、幼馴染の熱いあの手を求めるだろう。
 このままではいけない。
 終わりが見えたまま……このまま曖昧にしてはいけない。
 このまま山県の傍にいては、いずれ「おいていく」という事実を受けとめられなくなりそうだ。
「……山県……」
「ご気分でもお悪いか」
「いや……おまえに願いがある」
「……珍しい。だが私にも聞けるものと聞けないものがあるが」
「これは聞いてもらわないとならない。私の中では決定事項だ。私は……おまえと……この関係を終わりにする」
 山県が何度か瞬きをする。それを木戸は見ている。
「私にはおまえより好きな人がいる。ずっと好きな人がいる。だから……すべてを終わりにする」
 突発的に「このままではいけない」という思いから口にでた言葉は、
 前々から木戸は決めていた言の葉ともいえる。
 この命に終わりが見えたそのときに、いずれ口に出さねばならない言葉と知れた。
 置いていかねばならない、と明らかに知れたときから、この関係を続けてはならない。一日も早く山県を解放しなければならない。
 これから生を紡いでいくものに、生終えるものとの関係は必要ない。
「貴兄でも冗談を口にするのか」
「冗談ではないよ」
「今、私が好きだ、と口にしたその口でそのようなことを言われるのか。これは幻聴か。それとも悪夢か。なにがあった。 なぜ、そのようなことをいわれる」
「私は……」
「この場で私を貴兄は突き放せるか。……貴兄にそれができるか」
 両腕がきつく背中より体を抱きしめる。
 熱いその体に、胸がドキドキと高鳴り、同時に哀しみが体を覆い尽くす。
 離れたくはない、という思い。
 離れなければならない、という思い。
 いったいなにが本当でなにが偽りなのか。木戸にはすでに分からない。「大切」という二字が肩に重くのしかかり、冷静さを失ってしまっていた。
「なにがあった。内務卿になにを言われた?」
「……ごめん」
「謝られるのではなく明確な答えをいただきたい」
 高杉とともに生きて行きたい、と願った。ともに歩いて生きたい、と望んだ。
 高杉が死したとき、この世から光が消え失せた。生きてはいる。鼓動は波打つ。だがそれは義務や役目。または罪滅ぼしのための命であり、 この私事で願ったことではない。そして「生きたい」とは一度たりとも思うことはなかった。
 今となって知れたのだ。
 高杉が死したあの時に、この心の半分はともに逝ったのだと。
 今、あるのはかりそめの半分の「心」だけ。もう一方の心を追いもとめて「過去」ばかりに手を差し伸べている。
 いきるということは、高杉がある世だった。
 高杉がいなければ、この「心」はひとつになりはしない。
 山県がいなくとも木戸は生きていくことはできる。それは山県も同様のことと思える。だが、もしも山県がこの場になければ、 生きてはいけるが、この世からすべての色は消えてしまうだろう。色のない世界で自分は何の楽しみもなく生きていくだろう。
 それが高杉への思いと山県への想いだ。
「晋作に逢いたい……逢いたい」
 情緒不安定の中で声となったその言葉に、山県は見るからに表情を消した。
「逢いたくて……逢いたくて……恋しい」
「貴兄は……やはりあの人を求められるか」
「………」
「それでも……今さら私から逃げることなどできると思われるか。たとえあの人に思いを馳せようとも、私は貴兄を手放すつもりはない」
 さらにきつく抱きしめられ「痛い」といおうと、山県は離しはしない。
「たとえ……貴兄があの人に恋焦がれようとも」
 唇にあてられるその温度を感じながら、
 確かに自分は目の前の男に「恋」を抱いていることを実感させられる。
 この男が「好き」だと知らしめる。
 だが「終わり」は近い。
 いずれ離れねばならない。
 それがこわいから……また逃避するために昔の感情を持ち出したのだろうか。
 高杉に逢いたい、と心から思い、同時に山県を置いていかねばならないことに胸を痛める。
 その心の両天秤を、高杉への思いを重くして、もうひとつの感情を封じ込めようとしているのか。
(ごめん……山県……)
 それでも、私は、おまえを……いとおしく……好いている。
告白 後篇へ