夏の月 中篇

1章 + 幽霊の失踪 +

 丹羽はこの一月、ぼんやりとした日々を送ってしまった。たった一つのことがまったくといって頭より離れてはくれない。
 ……林通政、失踪。
 あの筆頭が目の前から消えたのだ。あの日以来、不意に突如まさに幽霊のようにして。消えるのはいつものこと。筆頭の七不思議のひとつでもある。普段ならば、またか、と思うだけだが、今回は意味合いが違った。丹羽は不安でならないのだ。
 いつも不意に消えるときは、必ず何かしら行き先を誰かに告げていく。たいていは柴田に告げ、柴田はすぐに忘れて騒動になることが多いが、今回は柴田は岐阜にはおらず、また誰も筆頭の行き先を聞いていないらしい。
『……筆頭……いや、通政殿を何処へやった』
 動揺が極致にいたり、筆頭が失踪した最期の晩に会いに行った荒木村重に丹羽は思わず詰め寄ってしまった。
 ……一夜の伽の相手をせぬかと誘われたのさ。
 そうニヤリと嗤った人の足取りは杳として知れぬこの不安感。
『通政殿はあの晩、この傷を残してお帰りになられた。丹羽殿、何もしていないぞ。私は』
 丹羽と同じく、理由は不明だが頬に傷を負った荒木も頭を抱えているようだ。筆頭が三日月の下に佇む姿が、あまりにも奇麗でついみとれていたら、いつしか現が何か分からなくなり呆然としてしまった。その間に消えていたのだ。
 筆頭が消えた晩のことを、荒木は丁寧に語った。そして最後にこう付け加える。
『あの日の筆頭殿は、あまりにも奇麗過ぎた。……それに消え入りそうにはかない』
 荒木は『筆頭』といった。通政ではなく筆頭と。
 何もかも知っている、という顔つきながらもそれ以上は語ろうとはしない。丹羽は深い深い吐息を漏らしてしまった。
 荒木の言を信じるならば、一月前、荒木の館を立ち退いた後に、筆頭は不意に消えてしまったことになる。
 いったい何処にいってしまったのか。
 なぜか筆頭が自らの意思で消えたとは丹羽には考えられず、根拠もなく身に何かがあったのだ、と理由なき……だが外れることが滅多にない勘がそう告げていた。
 荒木への疑心も拭い去れはしないが……偽りを口にしている顔ではなかった。されどあの男は筆頭に毒を洩った男であろう。
 なによりもあの筆頭が、荒木のことを気になってならないでいたのだ。珍しいほどに。あの人にさして執着を見せぬ筆頭が。
 怪訝に思いながらも、丹羽は胸に苛立ちを禁じえなかった。なぜ荒木なのだ、と。筆頭が気に留めねばならない真の相手は、今、狂気の世界に彷徨いつつあるというのに。
 筆頭の行方は、丹羽ならではの情報網を使って調べあげているが、もとより死去したもの。その行方を捜すなど雲をつかむに等しいものだ。そのことだけでも頭が痛いというのに、当主の風邪が悪化し、寝込みに寝込んでいる状況にも頭を抱えていた。
 自らが寝込む姿を人には見せるのを、当主は極度に厭う。今、寝室に入るのを許されるのは長年の主治医の仲野賢弐と正室のお濃の方のみであった。
 通称濃姫は献身的な看護をしながらも決して弱音を吐かない気丈な女性だが……あの時丹羽に弱音をこぼした。
「……通勝さまがおられないことが、これほどまでに憎らしいのは始めてのこと。うわ言で名をお呼びよ。この濃を見ながら、筆頭はまだか、と手を差し伸べられる。腹立たしいのと同時に哀れで見ていられなくなりますこと」
 今まで当主の看護は、筆頭が一手に任されていた。
「幽霊になってまでうらめしや、と館に現れるならば、いっそ主殿の前に現れなさい。……もう限界よ」
 不眠不休の看護のため、濃姫は誰が見てもやつれたと分かるほど頬などはこけた。それでも当主の看護を誰にも任せようとはしない。
 弱った姿を誰にも見せはしない。
 当主が望みをその正室はよく心得ている。
「……思い知らされますわよ。いつもは無下にしていたというのに、主殿は何かあると名を呼ぶのはただ一人。この濃でも妬いてしまうほどに……情けなくなるほどに」
 濃姫はグッタリしながら、当主の居室へと戻っていく。主治医の仲野賢弐も、手を尽くしきったらしいが病状は改善しない。
「筆頭殿に幽霊になってでも出てきていただいたほうが、上様も少しは元気になるかもしれませんな」
 と賢弐ですら幽霊に縋り始めた。
 だが、今の筆頭のことばかりを思い続ける当主を見れば、これが織田信長か、と失望する人物が多いだろう、と賢弐は告げた。
 丹羽は襖越しに当主の状況を見守りながらも、筆頭殿、と心の中で名を呼び続ける。
(上様はお待ちです)
 あなたはいったい何をしているのですか。
 いつもは常に温厚で通っている丹羽が、珍しく苛立ちを顔に浮かばせ、気を紛らわすために中庭で竹刀をふるう。城内の人々は何かあったか、と皆一応にいぶかしんでいることを丹羽は知らない。


 夢という現ではない世界を作りだせるならば、今自分は現よりも夢の世界で生きることを望むだろうか。
 かつて何年もの間、これは「夢」と現を否定し、夢はいつかは覚めるということに甘え、一人の男を散々に嬲り傷つけた。
 それ以来、意識して思う。夢など必要ない。夢の中にはこの手が真に望むものはないのだ。夢でこの手に握り締めたものは、あくまでも自分が描くものであって、本物ではない。
 ならば現にあれば本物は得られるのか。もう一度、夢にでも顔を見たい。声を聞きたいと願う相手に現で会えるのか。
 名を呼ぶだけで苦しくなる。
 自分を置いて、自分に看取られることなく、独りで死したという男が憎くてならない。同時に胸が張り裂けんばかりに苦しく、体を浸透する悲哀はおさまることすらなく突きつけられる。人の死にこれほどまでに傷つき、感情を高ぶらせるのは何と久しぶりのことだろうか。
 人とは必ず死するもの。死した人間を思おうと、何の価値があろうか。何の利があるというのだ。死するものを悲しむ必要はない。いずれは自らも死すのだ。生きる間にどれだけ悪行を重ねようが、誰もに疎まれようが気にとめることはなかろう。死せば人はまったく平等。宗教で言う浄土や地獄などと言うものがあるならば、死して後に生きたおりの行いを裁くというならば、それはそれで構いはせぬ。
 どう生きるか、だ。死したならば、もはや人という観念がないのだ。人は死したならば終わり。だからこそ、死人に構わず生きていくのが世の道理だ。
 常にそう思っていた。死した相手に思いを持ついとまなどないのだ、と。
 されど今、ただ一人、例外が生まれた。
 なんと意地悪な男だろう。憎い男か。そして、この自分を唯一理解できる……愚かな男だ。
 もし今夢という世界に逃げ込むならば、必ずおまえを描くだろう。されど自分は、いつかはそれにも飽きるのだ。本物ではないおまえにどうして自分が絶えられようか。本物だからこそ価値がある。おまえだからこそ、自分は共に死そうとまで考えた。
 人に特別という存在が生まれたならば、強く伸びるか、弱く萎えるかのどちらかだという。
 自分は果たしてどちらであったのだろうか。
 答えを知ることは永遠にないのか。
 ……主殿。主殿。
 遠いところから濃姫が我が名を呼び続ける声が聞こえる。
 名を読んでくれる相手がいつもと違うことに失望を抱きながらも、フゥーと身体が浮いていく感覚に身をゆだねた。
 夢も地獄、現もまた地獄。ならば、何処でこの自分は生きていけば良いのだろうか。
(おまえは生きている。生きているのだろう?)
 おかしな確信があった。いつかもう一度、この手に望むべき男の冷たい手をつかめるという楽観。あの男の命の灯火が消えるならば、自分は生きていられるはずがないという認識。
 ……いきている。この我を置いて死すはずがない。そうだろう、筆頭。
 信じて、願って祈る。ゆえに夢には逃げ込まない。


「主殿、あぁ良かったこと」
 重いまぶたを無理やりに開けると、真っ先に飛び込んできたのは疲れきりやつれた長年連れ添った妻の青白い顔だった。
 身だしなみ完璧の女が、化粧もせず、髪も整えず。身を飾れば、年相応には見ることが適わぬ艶然としたそれなりに美女であろうに。
 かける言葉からなく、信長はただ濃姫を見つめていた。
 こけた頬に、同じくやつれた手を伸ばす。
 白き頬にポタリと落ちる一筋の滴が、当主の手のひらに落ち、生ぬるく広がった。
「危篤なんかに陥って。心配ばかりをかけて」
 ボロボロになった顔面が、みょうにいつもより美しく見える。
 お濃、と信長は呼んだ。
 もはや心から我が身を心配するのは、この女だけかもしれぬ。他に当主は誰の顔も浮かばない。
「殺しても死なぬ顔をしているというのに。病など跳ね飛ばす男なのに。単なる風邪に身体を弄ばれるなど、主殿も少しは人間らしくなったこと。濃は喜んでおりますのよ。そうよ、これで風邪で黄泉などに旅立ったならば、織田信長もただの人よ、と皆はさぞや笑い話に花を咲かせたことでしょうね」
 泣きながらも奇麗に微笑む女は、やはり美しいのかもしれない。
 信長は珍しく濃姫の顔に釘付けになった。
「まだ熱は下がりません。それと、少しでも粥を食していただきます。ここで身体を弱らせて病で死にたいなど言わないでしょう。志半ばで倒れるならば、病ではなく戦場で倒れよ」
「言いおる。お濃はやはり蝮の娘だの」
「戦国の梟雄の一子であることを、濃は誇りに思っておりますわ」
 艶やかに濃姫は常に微笑みながら、ソッと額に乗せられていたぬぐいを取り桶で水に冷やして、再び信長の額に乗せられる。ヒヤリ、とした感覚が心地よい。そう、誰かの冷たすぎる手の感触を思い出す。
 井戸の冷たき水で冷やした拭いよりも、アレの手の感触の方が冷たく、そして心地よい温度であった。額に当てられる、と一瞬ヒヤリと身体全体に冷たさが広がり、 額の熱にもアレの手は染まることなく、しばらくの間は冷たさを保持している。
 アレの手を当てられると落ち着いた。
 他の誰にも触れられたくはない。この男の感触しか欲しくない、と常に思う。
 当主自身が人に触れるのも、触れられるのも好みはしない。されど、不思議なことだ。昔からアレの手だけは拒絶したことはなかったのではないか。
 その手を血に染めようが、醜き悪しきことに関わろうが、決して汚れない美しき冷たいその手。
「……主殿。そんな遠い目をしないでください。さすがの濃も胸が痛みますわ」
 気丈な女が、哀しみに苦笑しながらも当主の瞳を見ている。
「通勝さまが迎えに来られたか、とはっきりと申して思ってしまいましたのよ。あの方は迎えにこられるお方ではないでしょうに。逆に発破をかけるでしょう。でも通勝さまならば、主殿を黄泉に迷うことなく誘ってくれるでしょうね」
「アレは迎えには来ぬ。アレは……死んではいない。……少し疲れた。眠るが、お濃も休め」
「主殿の熱が下がりましたらね」
「馬鹿め。おまえが倒れても、誰も面倒など見てはくれぬぞ。余はおまえの倒れるところなど見とうはない。休め」
「濃が目を離すと、主殿は何をするか分かりませんから。濃はここにおります」
 無理ばかりをして、無謀に身体を浸して、それでいつも笑っている女。どこかアレに似ている。身体の不調を誰にも気づかせずに、いつも通り平然としながら、あるとき突如バタリと倒れ、意識不明の重体となる筆頭に。
 不調に気づき、すぐに療養したならば決して大病にならぬ病を、無茶ばかりをして放っておくから身体は蝕まれ、そして自ら身体を支えることができずに、病に身体を弄ばれる。身体が弱いというのに、自分の身体を大切にはしない。
 その姿を見るのが、いつもどうしようもなく悔しかった。
「命令だ。休め。……惰眠をとっておまえの好きな鮎の雑炊を食べて後、また看病をしてもらう」
 めずらしく当主は濃姫を気遣うゆえに言葉をかけた。
「……主殿」
「余は濃の今の顔は見たくはない。さっさと居室に戻って眠れ」
 濃姫は一瞬悲しげな顔をしたが、すぐにそんな顔を消し去り、気丈に笑って見せた。
 えぇ、と微笑む。
「人がいては眠れませんものね、主殿もゆっくりとお休みくださいませ」
 あぁ、と答えた。そして、目を閉じたそのとき、濃姫は静かに立ち上がり、襖を開ける音が聞こえた。
 居室は妙に静かになってしまった。
 誰の気配も感じられない。あぁ独りか、と実感する。
 人は病に陥ると、妙に心細くなるというが、今まで当主は病にて心細いと思ったことはない。寂しい、とも思わぬ。
 思えば、幼いときは病にかかるのが嬉しかったものだ。
 いつもは背中ばかりを向け、冷たさしか与えてくれぬ人が、病の時だけは優しかった。そっと抱きしめてくれ、不眠不休で看病してくれたのだった。大丈夫です、とあの冷ややかながら耳に心地よく馴染む声音。あの人の温かい体のぬくもり。熱に苛まれ、苦しいながらも、そのぬくもりに抱きついていた。
 病になれば側にいてくれる。
 それが幼すぎる自分の病への思いだった。
 物心が少しばかりついたそのとき、アレがいつも看病してくれた。あの人のように優しくはない。けれど精一杯甘やかしてくれた。
「……通勝」
 思わず名がこぼれてしまう。
 いつしか我が身が病にかかると、看病は筆頭の役目となっていた。あの人のように抱きしめてはくれぬ。気づいたら、筆頭の袖を握り締めていた。たった一つの行為が、我が身の寂しさの表現だったかもしれない。
 枕元に座し、筆頭は当主の手を握る。時に頬に手を置き、心地よいか、と嗤った。
 食べたくはない、と振り払う粥を無理やり筆頭は食べさせる。食べれば、子どもを扱うように頭を撫ぜるのだ。
 思えば筆頭の手が好きだった。
 あの冷たき手。
 触れられるだけで、心地よい。
 起き上がろうとすると、何も言わず身体を筆頭が支えた。胸の中、全身に雨の香りと甘いぬくもりが広がっていく。強く抱きしめられたことなどほとんどない。軽く、あくまでも冷たく。
 いつでも放り捨てられる。
 そんな思いを込められた抱きしめ方。
 甘やかすのに、決して優しくはない。
 それが林通勝という男だった。
「俺を置いて遠くにいったな」
 宙に手を差し出す。
 差し出した手を握り締めることを許したのは、あの冷たき手のみ。目を閉じれば、ニヤリとした筆頭の飄々とした顔。
 アレは我が身にとってどのような存在であったのだろうか。いつも、振り向けば傍らにいた。相棒でも戦友でも同士でもない。当然主従でもなかった。十五歳年上の、だが父兄ともいえる相手でもない。また、そのように思ったこともない。
 叔母の夫君ゆえ、義叔父となる。
 気づけば側にある。我が身の側にあり続けるなど、筆頭だけではなかろうか。
 臣として君主に絶対的な忠誠を誓うものでもない。後見人として我が身を律するものでもない。筆頭として臣下の頂点として君臨するものでもなく、相談相手になるでもない。
 あの男は何なのだ。
 我が身の何なのだ。
 いつも、この問いに行き当たるのだった。そして、答えなど出すことは適わない。
 特別なのだ、と悟ったのは何年前だったか。ならば特別とは  何なのか、と疑問に突き当たった。
 頭がおかしくなる。
 みょうに身体も頭も疲れた。
 身体を疲れにゆだね、眠りに誘われようとしているそのときに、当主は確かに聞いたのだ、と思う。
 ……吉法師………。
 我を呼ぶ筆頭の声音を。
 なぜか幻聴とは思えなかった。


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