橘ノ花 第二部

17章 + その声 +

 居心地が悪い。
 ピクリとも動かぬ女の横顔を見ながら、本日何度目か知れぬため息を信長はつく。
 成り行きで清州からは十五里はある猿投山のふもとの温泉に来たが、それは信長の構想とはまるで違う展開となっていた。
 信長はさして湯治には興味はない。館の沸かし湯で十分である。温泉というものは傷や病の治癒に効果があると言われており、戦で傷を負ったものは率先して湯治に向かわせることにしているが、信長の温泉に対する関心はそれくらいと言えた。
 その信長がわざわざ秘境の湯を訪れたのは、この湯が疲労回復に効果があると家臣より聞いたからだ。
 もちろん我が身のためではない。このごろ、やつれが目立ち顔色も良くはない主席のためだった。
 猿投(さなげ)山のふもとに湧く湯は、秘湯として地元民が代々大切に守ってきており、近場には猿投神社という由緒正しい社もある。
 周囲には人里もまばらで、静かな場所とも聞いていた。
『猿投に参られるならば、左鎌を持ってまいりませ』
 濃姫が言う。
 猿投神社には左鎌を奉じて祈願するならわしがあるというのだが、信長は秘湯に赴くのであり、神社に祈願に行くのではない。
 それを説明すると、意外と信心深い濃姫は、
『近くにまいって素通りとは何ごとでございます。罰あたりな』
 幼きころから信仰心が皆無に等しい信長は、

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罰あたりなどと言われようと鼻で嗤うが、このときの濃姫の剣幕が凄まじいこともあり、とりあえず話は右から左に流した。
 女は一度怒りだすと厄介だ。特に濃姫のように気丈な女は、怒りにまかせて饒舌となり、その話に理屈も道理もなにもない。感情論ほど頭が痛いものはないことを信長は濃姫によって知った。
 神仏には全く関心はないが、左鎌は持ち帰ると濃姫が口うるさく喚くだろうと考え、神社に奉納してこようとは思う。祈願しようとも神仏などあてにならぬが、これは気の持ちようというものだろう。
(今ごろは、ミチと共に湯につかっているはずだったものを)
 無自覚に吐息が漏れそうになったので、とりあえず信長はその場から立ち、縁に足を進めた。
 本来は主席の疲労回復のための湯治を目的としていたのだが、なぜか側女の生駒るいと猿投を訪れる羽目になった信長である。
 すべては主席が条件付きで湯治に賛同したのが原因だ。
 一つに側女の生駒るいの同行。二つに主席は後ほどの合流。
 そのため信長はるいを連れ先行して猿投に入った。だが側女ではあるが、信長とるいは全く心を通わせてはいない。ましてやどうやら我が身に「復讐心」を抱いている女と同じ座敷では、気詰まりというしかなかった。
(ミチはいつになったら合流するのだ)
 思うは、黒猫を抱いて居城の那古野に戻った主席のことばかりであり、それが少し憎らしい。
 なぜこの女を連れ先行することを条件にだしたのか。
 縁側で寛ぎ、ふと気を抜くと、背後では突発的に殺気がほとばしった。
 あぁこの女は我が身の隙を狙っているのだ。

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 話では、るいのいちばんに大切な男を、この我が身が死に追いやったらしい。その復讐がために側女となり、ひたすらに我が身の隙を狙う女。
 面白いと思う。
 親に命じられ唯唯諾諾と我が身の側女にあがる女など、人形を抱いているようで楽しみがまるでない。それと比べれば、ギラギラとした目をして命を狙う女は楽しみ甲斐がある。
(それにこの女は……)
 るいの烏色の瞳は、ある男によく似ているのだ。
 信長は、あの男が黒曜の瞳に感情を込めるのを見たことはなかった。いつも無感情で、その目が煌めくことはない。
 もしもあの男が感情というものを強く抱いたならば、るいのような目をしたのではないだろうか。そう思うと見たいと思うのだ。るいが喜怒哀楽をその目によぎらせた姿を。
(哀しみと怒りしか見れぬかもしれぬな)
 わずかでも良い。喜びや楽しみという感情を目に込めて我が身を見よ。
(だが……この女はなにを楽しみ、なにに喜ぶのか)
 まずはそれを知らねばならないようだ。
 思えば今の今まで、信長は女の喜びなど考えたことはない。
 正室の濃姫の喜びは至極厄介なものだ。それは我が身をからかって遊ぶことであり、少年期にいやおうなく知った。
 だがあの濃姫と他の女を比較してはならない。まむしの娘でその気質も父親に似た濃姫は、どうやら普通の女とは明らかに異なる女であるようだ。
 ならば世間一般の女の楽しみや喜びはなにか。
(……着物や笄などか……)

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 前に都の土産として絹を送ったが、るいはニコリともしなかった。
 どうやら濃姫とは別の意味で、るいも一筋縄ではいかない女のようだ。
「……そちも少しはくつろげ」
 信長は背後に向けて声を放った。
「そのように殺気を丸出しでは、我も隙など作らぬぞ」
 ハッと息を呑む気配がし、信長は笑った。
「命を狙うならば、この我を油断させることだ」
 未だ少女の細腕で、この我が身の芯の臓を貫くなど無理だと思いつつも、あえて信長は挑発の言葉を放つ。
「……信長さまは……」
 るいの声はその華奢な体躯そのままに、かほそい。
「命を狙う女をなにゆえに側に置くのですか」
「………」
 単に暇つぶしであり道楽のつもりだったが。
「あえて言うならば、そちの笑った顔を見たいと思う」
 今はその気まぐれが別方面に逸れていた。
「………」
「その目が知っている男によう似ておる……」
「……その方は」
「死んだ」
 信長は柱に寄りかかり、そっと目を閉ざした。
「我がために死んだようなものだ」
 閉ざした目に、その男の面影がよぎる。そうだ。笑った顔など見たことはない。完璧に作った顔を崩さず、感情など見当たらないその目はいつも冷ややかにこの世を眺めていた。

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 幼いころから、その男には幸せになってほしいと思ってきた。どうにかしてその目に感情というものをよぎらせたいと願った。
(幸せになってほしい……か)
 決して我が身が幸せにしたいと願わなかったことが、その男へ向ける信長のせつない思いといえる。
 スッとるいが立ち上がるのが気配で知れた。縁側に楚々として近寄ってくることに気づき、ハッと目を開ける。
「信長さま」
 ちょうど目の前にるいの顔があり、息を呑んだ。
 互いの息吹が感じられる近さにるいがいる。その両腕がゆっくりと信長の首に伸ばされようとも、体は金縛りにあったかのように動きはしない。
 首に絡みつく白く細い手。指にわずかに力がこもるのを、信長は見ていた。
(似ている……どころではない)
 その烏色の瞳ばかりではなく、口も鼻梁もその白き肌も黒曜の髪もひとつひとつが酷似しているではないか。
 それを今まで信長がさして気に留めなかったのは、まとう気が正反対の如く違うからだ。
 あの男は雪のような男だった。それに比べこのるいは、同じ白でも花だ。奥ゆかしい香りを放つ……木蓮の如き……。
 ゆっくりと首に力が込められていく。
 油断したつもりはなったが、一瞬の隙とるいのその目が信長の動きを止めたのは確かだった。
「よう……似ているな……」
 女の細腕など容易くほどくことができると思いつつも、首にかかる力は息を苦しくする。

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「似ている……というたやすいものではない。……そち……あれの……」
「信長さまは、その……私が似ているお方がお好きなのですか」
 唐突に振り落とされた声は、るいのものとしては明るく艶があり、
「……なにをいう」
 妙に信長は動揺していた。
「私に似ているお方を好いておりましたか」
 直観的にるいは「あの男」の縁者であることは悟った。次いでるいの言う大切な男とは「あの男」だと確信する。
(これほどまでに似ているというに……なにゆえに今まで気づかなかったのだ)
 知ってしまえば面白みは消えるが、どうやらるいには我が身を手にかける正当な理由があったようだ。
(娘か……あの男には娘などいなかったが)
 目の前がわずかにぼやけ、そろそろ本気で抗わなければと身構えると、不意にるいの目が哀しげに歪んだ。
「信長さま……」
 その目が我が身の動きを縛りつける。
(ダメだ……早く……)
 互いの心情がぶつかった。そして信長があらん限りの力でるいの腕を掴むのと、その声が飛んできたのはほぼ同時だったのだ。
「………」
 驚いたるいがゆっくりと左を向くわずかな瞬間が隙になった。
 るいの手に、必死に爪を食いこませると、痛みにか咄嗟に手を引いたのを見て力の限り突き飛ばし、信長は横にそれ、その場で激しくむせる。

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 空気というものを、これほどに欲するのは始めてかもしれない。
 そして息を整える暇もなく、庭に視線をやれば、そこに一人の男が立っている。目がおぼろで輪郭はつかめないが、すぐに分かった。主席だ。
「……おそい…ぞ……」
 口に出た言葉は掠れていた。
 主席がゆっくりと近寄り、縁にあがり信長の前に立った。
 その手が頬に触れ、唇に触れ、わずかに笑む。
「……答えてください、信長さま」
 体を震わせながらもるいは叫んだ。
「私に似たそのお方がお好きでしたか。そう……そこにいる通勝さまよりも」
 るいの目は必死だ。
 信長の命を取ることよりも、るいにとって大事なことは信長の返答にあるらしい。
「この世でいちばん大切な男だった」
 信長は偽らざる思いを告げた。
「ここにおる主席との比較でよいならば、こう言う。はっきりと言うてやる。主席などよりも何百倍も好きだった、それがなんだ」
 言いながら、馬鹿げた問いだと信長は笑いたくなった。
 身を支える主席の肩元にそっと体を預け、あえて信長はるいの目を見はしない。
「……それはいちばんでしたか」
「……いちばん? 数えるならばそうだろう。我が慕った相手などこの世にただ一人だ」

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「死んで哀しい?」
「当然のことは聞くな」
「……苦しい?」
 自我を失い、この現実から逃避するほどに苦しみ抜いた。
 何を言いたいのか、と顔をあげた信長の目に映ったのは、あでやかに微笑んでいるるいの顔だった。
(なんだと……)
「信長さま」
 楽しげにるいはさえずる。
「あのお方をいちばんとおっしゃるならば、このるいは信長さまのお子を生みます」


 その宵、信長は温泉にぐったりとつかった。
「女は分からん」
 ぼやくと、隣の主席が軽く笑う。
「……おまえは知っていたのだろう。るいはアレの娘であろうが」
 答えはないが、どことなくその風情が頷いているように感じた。
「アレの娘ならば側女などにはしなかった」
「………」
「わかっていたならば止めろ。良いか……我は」
 簡素な露天風呂からは、猿投山がうっすらと見える。見上げれば無数の星が、夏よりもいちだんと近くに見えた。
 静寂の音が周囲を包み、どことなく気詰まりとなったので、パシャリと湯をすくう。

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「……るいが我の子を産むというは、形を変えた復讐であろう」
 主席は微動だにしない。
「なぜに我のいちばん好きな相手にこだわるのか。それが……わからん」
 少しばかりのぼせてきたようだ。昔より長湯は苦手だった。腰をあげると、その腕を主席が掴んだ。
「のぼせる」
 グイッと腕を引っ張られ、仕方なく湯の中に戻った。
 星空の下でなにも話すことはないため、吐く息が白くなり消え行くのを、ただ見ていた。この尾張は睦月の初旬がいちばんに冷え込む。
 思えばあの男が死したときは、珍しく尾張那古野に雪が降った。閏一月十三日。今年は一月に閏月がないので、日付だけみれば命日は三日後となる。
 信長は傍らの主席の横顔を見据えた。
 たまらない哀しい思いが胸を突く。
「……声が聞きたいぞ」
 何気なさを装ったことには、主席は気づいているだろう。
 るいに首を絞めつけられている際に声が聞こえた。その声にるいは驚いて、咄嗟に首を絞める手を緩めた。それが隙となって信長は逃れることができたのだ。
『吉法師!』
 それは……声を失っていた主席の声色だった。
「我はおまえの声が、聞きたい」
 今、このとき、ただ耳元で優しく囁いて欲しいと思った。
「おまえの声を聞ければ、我は……あのるいを罰しはせぬ。言うがままに子を産ませても良い」

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 るいは現在は信長の付き添いの小姓たちが奥の座敷で見張っている。一国の君主の命を狙ったのだ。相応の罰を下さねばならなかった。
「おまえが声を聞かせねば、あの女は殺す」
 軽く腰を上げ、主席の肩に手をあてながら信長は迫った。
「声が聞きたい。おまえの声が聞きたい。我は夢の中でも……おまえの声が聞きたくてたまらない思いだった。ミチ……」
 医者の診断では、なにかの衝撃で一時的に声が出なくなっているだけと言う。声帯に傷はなく、おそらくは精神的なものということだった。
 主席自身は声が出なくとも不便に感じている素振りはない。信長も声が出なくとも良いと思いはしたが、日が増すにつれ、側にいるだけでは満足できなくなってきた。
 声が聞きたくてたまらない。
 特に傷を抱いた夜は、この男の腕の中で、その声を聞いて安らぎたい。
「ミチ!」
 この男が大切に見守ってきたるいの命と引き換えならば、声を出すのではないだろうか。
 それは淡い期待に他ならない。例え主席が声を出さなくとも、信長はるいを罰する気はさらさらなかった。
(……なにか口実がいるように見えたのだ)
 この男が再び話し始めるには、なにか明確な理由が必要だ。
「………」
 主席は口元で笑った。
「声などないほうがよいと思わぬか」
 記憶にあるその声よりもわずかに低い音色が信長の耳を突く。

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「現に俺は声などなくとも不便はなかった」
「……ミチ」
「声を使えば人は余計なことをも言葉にする。いっそ声などないほうがよい」
「……名を呼んでくれ」
「なんと呼んでほしいのだ、ご当主どの」
 その声には何の感慨も込められておらず、ヒヤリとするほどに冷たい。わずかに身震いをしたが、それでも信長は迫った。
「おまえがいちばんに呼んだ名だ」
「………」
「呼んでほしい。夢ではないこのうしつ世で」
 その声で名を呼ばれない限り、真の意味での夢の終わりは永遠に訪れはしない。
「ならば……」
 主席はその漆黒の瞳を信長に向けた。
「吉法師」
「………」
「……吉法師」
 二度繰り返し、わずかに主席は笑んだ。
 その背中に両腕を回し、まるでむさぼりつくように抱きついて、信長は主席の鼓動を聞く。
 湯よりも熱いその体内をかき抱いて、
 真上より降り注ぐ我が名を呼ぶ声を、ただ聞いていた。
 ……長き夢が終わった。
 この両腕には、いちばんに願った男の身体だけがある。

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