「今日は野原に遊びに行くって約束した」
と、傅役の袖を握り締めて……ジーっと苦笑顔の傅役の顔を睨みつけるのは吉法師。当年七歳の織田家世継ぎである。
「しかたないだろう。急に古渡から呼び出しを受けたんだ。……そんな顔をするな」
こちらは困った顔でため息をこぼしつつ、不機嫌最高潮の育て子の頭をぽんぽんと軽く叩く。
青年……というよりも、その顔貌が女子よりも奇麗で童顔のため当年二十二歳には見ることができない彼の名は林通勝。十四歳にして織田家主席家老の地位に就き、以来戦場では「軍神」として恐れられているのだが、平時では気が向かない限りは政務を執り行わないという「天邪鬼主席」などと呼ばれている。
何をさせてもほとんどできないことのない完璧に近いと呼ばれる頭脳を持ちながらも、その頭脳を使うことを好まず、何もかもできてしまうゆえに世に対して面白みがないのか、とにかくこの人物はとことん自分の頭脳を駆使することを厭うていた。
といっても通勝は主席家老である。本城古渡の当主信秀より呼ばれれば、出向かなければならない。しかも緊急の要件と来た。
五日前にこの日は一日手が空いているため、このごろはほとんど構うことのできなかった吉法師に野原に遊びに連れて行く、と約束を何度もしたのだが、まさかその日にその約束を破ることになろうとは通勝自身思ってもいなかったのである。
「野原は逃げはしない。また、違う日に連れて行くよ。それとも誰かに……」
「おまえとでないと行かない」
「なら……」
「今日がいい。今日がいいんだ」
吉法師はまたしてもジーっと通勝の漆黒の瞳を見つめてきた。
「せめて明日に延期にしてくれ。そうだ、野原に行った帰りに市場でおまえの好きな団子でも……」
キラッと一瞬吉法師の目が光り、これは食べ物でもつれるかも、と期待したのは一瞬後に砕かれる。
「おまえは吉法師を食べ物で釣れると思っている。その性根が気に入らない」
プイッとさらに機嫌を損ねたらしく、ついに吉法師は視線を避け、通勝から離れて部屋の隅で膝を抱えてしまった。
ここ一月ほど、美濃との小競り合いの戦略の考案や……所領の訴訟の処理などで吉法師の相手をまったくしている暇はなかった。通勝が机に向かって仕事をしている間、吉法師は遊びにも出かけず、ただ通勝の背後で本を読んだり昼寝をしたりと……離れずにいたことを知っている。
時にはうつむいた顔ののまま、背中の衣を引っ張てくるのだ。
(吉法師を構って……)
よしよしと頭を撫で、そっと引き寄せて膝の中で甘えさせ、そのまま寝かしつけてきた。
目を離してはならないのだ、この子どもは。
二年前に、側にいた唯一人の傅役が吉法師を置き去りにして以来、人に心を許さず人を受け入れない吉法師を、ようやくそれなりに懐かせた通勝としては、できるだけ吉法師に不安な思いをさせてはならないという思いがあった。そう、少し側から離れるだけで、また置き去りにするのではないかという考えが吉法師の頭によぎり、その考えに取り付かれたならば、人間不信が強くなって一人自室に閉じこもり始める。……いや、このごろはそれはなくなった。
ただ……。
(俺から離れなくなった)
置いていかれないように見張るのだ。必死な顔をして、袖を手が青ざめるほどに強く握り締めて。
吉法師の前の傅役は、喜怒哀楽が消失しているのではないか、と思わせるほど鉄面皮の無表情が常の男だった。しかも、子ども時代も尋常ではない環境にあったため、「子ども」という存在が分からない男でもあったのだ。どう子どもに接すれば良いか。どう触れればいいか。五年の間、その手に託された吉法師をあの男は構わず放り捨てておくことが多かった。
それでも幽閉状態で、唯一人側にいてくれた相手を吉法師は一心に見て育ったのだ。執着に似た思いを抱くのも当然のことだろう。
(俺は反対したよな。あいつには子育ては無理だと)
出生にいろいろとあり、物心ついて後は人質として他家で苦労ばかりをしたため、あの男には普通の子ども時代も少年時代もなかった。
そんな男……しかも七年前はまだ十五歳だった(通勝と同い年)男に、どう子育てをしろというのか。
せめて七人の弟たちを育ててきた通勝の方が、子育てには向いているのでは、と口にしたのだが、信秀は主席家老を傅役として子育てをさせている余裕はないと却下したのだった。
おかげで吉法師はまったく愛情を受けずに育ち、ただ頬に触れられるだけでも過剰な反応をする。また、人のぬくもりに飢えてしまっていた。
二年前に傅役となり、一手に吉法師を預かったおり、はっきりといって通勝は苦労したものだ。
最初などは視線も合わさず、言葉も口にしなかったものだ。
それが二年で……ここまで懐かせたのだ。たいしたものだ、と思いつつも、通勝は頭を抱えていた。
(吉法師は俺を信じはしない)
誰よりも信じていた傅役に置いていかれた心の傷が、人間不信という心を生み出してしまったのだ。
「……吉法師」
膝を抱え、顔を伏せてしまった吉法師の前に座り、そっと通勝は七歳の子どもにしても小さな身体をギュッと抱きしめた。
「約束は守れなかったが、大丈夫だ。俺はおまえを置いていかない」
パッと吉法師は顔をあげる。
「どこにも行かないから心配するな」
おそらく約束通り野原に遊びにいけないことよりも、己が古渡に行くことが吉法師には面白くなく、心配なのだ。そう見当をつけて「大丈夫だ」、と通勝は繰り返す。
「なら親父殿のところになど行くな」
胸元の衣をギュッと握り締めて、吉法師は叩きつけるように言う。
「あの親父のところになど行くな」
「こら……俺はこう見えても主席だ。主席が当主の命令を無視したならば、その家の当主はいかに力がないと思われるだろう。それに俺は家禄分は働くことにしている。……おまえがわがままを言うのは可愛いが、それを聞いてやるわけにはいかない。ついでについてくるのもダメだ。この前のことで、どれだけ傅役不適格と老臣どもに責められたか」
「おまえなんて大嫌いだ」
「知っている」
「大嫌いだ、大嫌い」
と通勝の胸を何度も叩き、吉法師は走り出してしまった。
七歳。どれだけ通勝が愛情を注ごうとも、足りないのは分かりきっている。吉法師が愛情を注いで欲しいのは己ではない。父母でもない。そう置き去りにした傅役が戻ってきて、自分を気にかけてくれる……それだけでいいのだ。ただ、それだけで。
(俺はあいつの身代わりをすると誓った。あいつが与えなかったぬくもりをすべてやろう)
それでもおまえはアイツがいいと、夜、涙を流す。
七歳の子どもとしては利発で頭もいい。物言いも考えもはっきりしていて、将来はさぞや、と家中の者たちは期待もしている。ただ人間不信で……人とほとんど顔を合わせるのも言葉を交わすのを厭うのも、困ったところだと思っているようだが。
やれやれと今日何度目か分からない吐息を漏らしつつ、通勝は部屋を後にした。ふと吉法師を追って部屋に行こうかと思うのだが、首を横に振る。
(また駄々をこねられるだけだ。古渡に行くのが遅くなる)
林通勝。
彼は人間不信の吉法師を、誰よりも甘やかし、懐かせ、側に居る唯一人の傅役だ。
だが、たいていの人は最後にこう付け加える。
……どんなに甘やかしていても、優しくはない、と。
手を差し出し抱きしめ、温もりを与えながらも、離れるときには容赦なく突き放す。そんな冷たさが見受けられるから、吉法師も必要以上に彼から離れたくないのかもしれない。
いつか置いていかれるのではないか、と七歳の子どもの不安と恐怖。
そんな幼心を分かっていながらも……やはり林通勝は優しくはなかった。
暗い部屋の中、吉法師はひとり部屋の隅で膝を抱えていた。
このごろは此処で膝を抱えるなど滅多になくなっていたが、時折自分ではどうにもならないときに、こうすることがあるのだった。
「通勝……おまえなんか」
大嫌い、と口にしようと思い、あえて止めた。
『おまえの大嫌いはその逆の意味だ』
とニヤリと嗤って返されたことを思い出したからだ。
自分はあの男を大嫌いだと本気で心の底から思っているというのに、いなくなると胸がギュッと絞られた雑巾のようになってしまう。
何よりも大嫌いという言葉を、通勝の前でしか言いたくはないのだ。他の誰にも聞かれたくはなく、他の誰にも言いたくはない。
自分に始めて手を差し出してくれた人。自分を抱きしめてくれる……人。
『俺が側にいてやるよ。ずっと側にいてやる。おまえが必要とする限り、アイツの代わりをしてやるよ』
膝を力を込めて抱きしめた。
「うそつき」
このごろは側にいてくれはしない。自分を構ってはくれない。独りにして、自分はどこかに行ってしまうではないか。
置いて行くな。その言葉を吉法師は決して口にはできなかった。どんなに言葉にしようとしても声にはならない。それは、たった一人に対する思いだったからだ。
「どこにも行くな」
そう言葉にできれば楽になれるのだろうか。
どんなに瞳に込めて訴えても伝わらず、背中を向けて去っていってしまったあの人。二度とイヤだ、あんな思いに苦しむのはいやだ。
おまえだけは何処にもやらない。おまえだけは側から離してはやらない。そう……決して離してはやらない。
(おまえが手を差し出したのだ。もう……昔のように独りには戻れない)
誰もいらない。何も欲しくはない。ただ、おまえが側にいるならば、自分はどんなことでも捨てることができる。
知っているのか、もう自分はおまえを離してやれない。誰にも渡すこともできない。
(おまえは吉法師のものだ)
側から見えなくなるたびに不安に苛まれ、つい袖を握ってしまうのは怖いからだった。
どんな約束の言葉を聴いても、温かいぬくもりをもらっても信じられはしない。一度、置き去りにされた傷が、また今度もか、と疼く。
寂しいと言葉にはしない。怖い、と訴えもしない。側にいて、と甘えもしない。
けれど、どんなに言葉にしなくてもたいていのことは通勝は分かっている。何もかも見通すかのようなあの漆黒の瞳が、自分の心など簡単に見通してしまうだろう。
どんなに甘やかしても、あいつは優しくはない。
時にぞっとするほど闇よりも深き漆黒の瞳に、冷ややかな感情を漂わせる。
だからか信頼はしても信用することはできない。
あの目は置いていった傅役の目に……似すぎているから。
そのまま吉法師は柱に寄りかかってうとうとと眠りに入っていった。
途中、遊び相手の乳兄弟池田藤三郎が様子を見に来たのだが、心地よさげに眠っているので、風邪を引かないようにと身体に打掛をかけていったが、それさえも気づかず、ふてくされて、いじけて、目一杯眠って目覚めたのは……。
「こんなところで寝ていたら風邪を引くぞ」
耳元で冷ややかな声が聞こえたからだ。
ハッと目覚めたら、目の前に通勝がいた。
「な……なんで」
「もう夜だ。おまえ夕食も食べずに寝ていたな」
あたりを見回せば、蝋燭の炎がゆっくりと揺れている。館の中にも静寂が広がっていた。
「………」
あのまま自分は眠ってしまったのか。
駄々をこねてふてくされて膝を抱えて眠るなど、まるで幼い子どもではないか。
それに、どんな顔をして通勝を見ればいいのか吉法師にはまったく分からないばつの悪さだけがあった。
「お土産だ。ほら御手洗団子。好きだろう」
差し出された皿の上に団子が載っている。ちょうどお腹もすいていた。
「ついでだ。もう眠れないだろう。庭に出て月見をしつつ団子を食べようか」
通勝は自分の返事などまったく待たずに、ヒョイとその腕に自分を抱えた。慌てて首にギュッとしがみついたら、よしよしと背中をさすってくれる。
ヒヤリとする冷たい感触。雨の匂いがする。
嬉しいのか、それとも腹立たしいのか分からず、吉法師は通勝にしがみついたままになっていた。
そのまま庭の小さな東屋に下ろされたかと思うと、通勝は涼やかに笑み、吉法師の頭をぽんぽんと軽く叩く。
「明日の昼ごろまで戻らないのではなかったのか」
「用件はすんだ。たいした用件でもない。老臣どもに押し付けてきたよ」
また「天邪鬼主席」の名を不動のものにしてしまいそうだ。
「それに俺がいないと寂しいだろう」
そんな言葉をさらりと言って、通勝はニヤリと笑う。
「………寂しくなどない」
「うそつきが。俺がいないと夜は眠れないガキが」
「そんなことはない」
つい頬を染めて言い切ると、ふと漆黒の瞳が冷たい感情を過ぎらせた。
キライだ。この目をするときの通勝は、たいていは公的の主席家老の通勝だから……。平然と自分を捨てられる通勝だから。
恐る恐る吉法師は通勝の袖に手を伸ばし、つかさずギュッと袖を握った。
「吉法師……」
「その目はキライだ」
「うん?」
「その目をするおまえは、いつもより大嫌いだ」
その目をしないで欲しい。まるで道具を見るような、何も価値もないものを見るような目はいやだ。
すると通勝はわずかに苦笑して後、懐より一本の横笛を取り出した。
「約束を反古にしたお詫びに曲をひとつ奏でてやろう」
それは、とても珍しいことだった。たとえ当主の父がせがもうと気が向かない限り奏でることはない笛。
笛師をして「見事」と賞賛し羨望の目を向ける卓越された通勝の笛の音。吉法師は笛の音など興味もなく、まして笛に熱中する通勝が気に食わないのだが、それでも単純に通勝が奏でる音はきれいだと思う。
「じゃあ夏の月」
「おいおい。その曲は……」
「一番難しい曲だ。だから、吉法師のために奏でろ」
ジーっと一心に見つめると、分かった、と通勝は笛を奏で始めた。
笛を吹いているときの通勝は無だ。何ひとつ感情がない。まるで月より舞い降りた精霊のような、そんな幻想的な表情をする。
夜の闇にしっくりと重なるかのような音色。音は抑えられ、おそらく自分の耳にしか届いてはいない。
だが……この曲は、やはり月を称える曲だった。まるで夜空にひとり孤高にある月。手を伸ばしても届かない象徴。それは……。
(おまえのようだ……通勝)
曲はいつもより流れが遅く、柔らかく響いていく。
そして最後に余韻を残して消え去ったとき、もとの通勝の表情に戻る瞬間、吉法師の胸はじくりと痛む。
(この男を独占することは誰にもできない)
きっと笛以外に、この男は何一つこの世に価値を見出さないのではないか。
そんな思いが無意識によぎり、瞬時に消え去るのだ。
「吉法師」
月のほのかな光に包まれる通勝は、いつもの通勝よりずっと奇麗だ。思わず見とれてしまうほどに。
「今日は……夜だけめいっぱい甘えさせてやる」
「……おまえは、いつも甘い」
「だから目一杯だよ」
「いらない。そんなのいらない。……だから」
「だから、なんだ」
(どこにも行くなよ)
言いたくてもいえない言葉。それは、いつも胸の中に留まり続け、いつまでも日のあたるところに出ないのかもしれない。
「今は行かないよ」
まるで心を読んだかのように通勝はそういった。
「時が来るまではな」
と、吉法師にも聞こえない小さな声で囁き、そして吉法師の身体を抱き上げた。
「なぁ吉法師。あの月に手は届かないかもしれないが、届かぬものを追いかけ続ける思いだけは忘れるな」
きっと忘れはしない。自分にとっての月はおまえだから……永遠に自分は月を追いかけるかもしれない。
失いたくはない、離したくはない。
この思いが何なのかは知らない。固執、依存、執着、独占。難しい言葉で表現するものもいるが、そのすべてに当てはまりあてはまりはしないこの思い。
ただ確かなのは、いつのまにか林通勝は自分にとって特別になってしまった事実。
誰にも顧みられず、ぬくもりも知らず、放っておかれた子どもが手に入れた唯一のぬくもりは、ヒヤリとするほど冷たい。それでも良かった。
「……通勝」
月を仰ぎ、そして通勝の漆黒の両眼を見つめる。
「明日、野原に連れて行けよ」
ふっと涼しげな表情が和らぎ、穏やかな顔のまま口元にニヤリとした嗤いを刻み、
「そういう時はお願いしますと言うんだよ、吉法師」
と、通勝の意地悪げな声音が月下のもと、少しだけ優しく聞こえたのは幻聴だったのか。
吉法師は通勝の腕に抱かれたまま、いつまでも月と通勝の瞳を見つめているのだった。
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