夏の月外伝 幼少編 -合図-

前編

 七歳の那古野城主織田吉法師は喜怒哀楽を喪失した人間不信の子として近隣では評判だ。
 誰とも口を聞くこともなく、一日中一人で館の部屋に座っている。薄気味悪い子として使用人もとかく避け気味だった。
 こまめな吉法師の身の回りの世話は乳母の池田菜香がし、その子の藤三郎が小姓として吉法師についている。そして傅役が四人父信秀の命によりついているが、現在実質吉法師の傍にある傅役兼教育係は主席家老林通勝一人といえた。
「吉法師」
 臣下頂点にある主席は、吉法師に一切の敬意を払ってはいない。もとより主席は当主信秀とは従兄弟。主席の妻は信秀の末の異母妹という……織田家とは近い血筋を持っていることが所以でもあるが、そうでなくともこの男。人に敬意を払うこと、頭を下げることが好かぬ男である。当主一人ならばよい、といった思いがあるようだ。
「夕餉の時刻だ」
 おいで、と主席が手を差し伸ばそうとも、プイッと視線をそらして走り去ってしまう。
 誰にも懐かぬといわれているが、それ以上に吉法師は己に嫌悪感を抱いていることをよく主席は心得ている。
 重ねた手を振り払い、視線を合わせるのですら厭うとばかりにすぐにそらす。吉法師の目が明確に告げているのだ。
 ……傍にいて欲しくない。顔も見たくない。声を聞くのも厭わしい。
 よくぞここまで嫌われたものだ。
 むしろ感心する、と主席は館に駆けていった吉法師の背中を見ながら思った。
 これでもましになったのだ。二年前など徹底的に避けられ、声をかけても視線すらあわせてこなかった。それが憎しみであれ感情を現し、夜はあれだけ拒んだというのに今では素直に主席の傍らで眠る。
 闇を怖がり膝を抱えて壁に寄りかかって眠る子ども。時に自暴自棄となり夜中に発狂したかのように暴れる。
 落ち着かせるように抱きとめた主席に怪訝な目をむけ、抱きしめたまま寝かせようとするとなにかを恐れるように震えた。それが幾日か続き、主席に抱きとめられることになれたのか、恐怖よりも嫌悪が表に出、臥所から主席を追い出そうと暴れた。どれだけの時、暗黙の中での戦いを繰り広げたか。どれだけの時、振り払う手を無理やり握り締めて落ち着かせてきたか。
 いつごろからか吉法師は主席に背を向けて、おとなしく眠るようになった。
 触れることも許さず、どこまでも背中で拒絶している幼子は七歳。預かって二年。一度たりとも主席は吉法師が笑った顔を見たことがない。
 古渡では年若い主席に養育を任せているのは過ちとばかりに、免職すら囁かれている。また吉法師の母土田御前も、手元での養育を望んでおり、一度古渡に戻しては、と主席にそっと伝えてきた。
 七人の弟を父親代わりとして育ててきた主席といえども、子育ての難しさを今思い知らされている。
 わずか二十二歳の己では荷がかちすぎていたのだろうか。
 絶えず嫌悪をその目に宿す子どもと、どう関係を保っていけばよいか……。はじめより無理があったか。
 主席は自らの左手を見ながら、ため息をひとつ落とした。
 ……おいで吉法師。俺が傍にいよう。アイツが戻るまで俺が傍にいる。
 そうして差し伸ばした手に、そっと幼い手で触れてきた吉法師。
 二年が経とうともあの日からなにひとつ変わっていない。


 主席の決断は早かった。己では無理だ、とこの男の長所の一つは自らの力量をよく心得ていることといえる。
 その天才的な頭脳を、全く世のために役立てることをせず持ち腐れといわれようとも飄々と笑っている男でも、いざ人間関係については潔く限界を認めることができる。
 吉法師を古渡に戻し、自ら傅役の職を返上した。
 我が子を五年間手元で養育できなかった母土田御前も精神生命我が子を可愛がり、わずかだが「母上」と笑顔で呼ぶ吉法師の姿に主席が安堵を抱いて数日後。
 縁で膝を抱えている吉法師の姿が主席の目にとまった。
「吉法師」
 名を呼んでも振り向いてくれないかもしれない。いつものように嫌悪しかない瞳を向けてくるかもしれない。だがそれでも良い。
 そっと傍らに寄ると、吉法師はゆっくりと主席に視線を向けてきた。
 視線が重なり、そのまま止まる。
 驚いたのは主席だ。吉法師の目には嫌悪感が宿ってはいない。静かでなにも考えていないようで、うつろうようでうつろわない。
 母に大切にされているのだ、と。吉法師自身しあわせに暮らせているのだろう、と悟った。
 これでよかった、と、主席は右手を差し出し吉法師の頭をくしゃくしゃとかき混ぜようとしたが、頭上でその手は止めた。
 人の優しさもぬくもりも知らなかったこの子に、どうにかして人というものの愛情を教えたかったが、それは人の愛情など全く見向きもしない己には無理というものだ。
 立ち上がりその場を去る時、ふと吉法師の手がたゆたうように宙に浮き、かするように主席の袖に触れた。
「………」
 後々にあの時なぜにわからなかったのか。
 そう悔いることは多々あるが、この時のこの一瞬が子どもの心からの「合図」だということに、不覚にも主席は気付かなかった。
 ただそれだけのこと。
 かすかに触れた手はすぐにそれていき、それはどこか頼りなげに、ましてや不安げに見て取れたことすら主席は一瞬で忘れ去ってしまった。


 精一杯の譲歩であり、それが吉法師にとって最大の勇気でもあった。
『古渡に行くか、吉法師』
 宵にそう尋ねてきた主席に、ただコクリと頷いたのには理由がある。母に会いたかったというのも多少はあったが、ほとんどの理由はこの頃多忙で古渡に詰めており、自分の前に顔も出さない主席のためといえた。
 古渡に行けば、いつものように主席の傍にいられる。
 あの宵の闇の時間も、主席の傍らで休むことができる。
 人には決して言わないが、吉法師は闇の中に一人取り残されるのは怖く、また他の誰がいようとも主席が傍らにいなければ不安になるのだ。
 大嫌いで、傍にいるのも厭わしく、さっさと追い出そうと思った傅役。
 毎日のように傍にいて、当然のように触れてきて、当然のように顔が見れて、手を伸ばせば届く位置にいた傅役。
 ある日を境に忽然といなくなった。乳母は多忙でというが、今までどんな時でも夜には戻ってきた傅役が戻ってこないことに吉法師は不安を抱き始めた。
 子どもでもわかる。なにかが変わろうとしているとき、なにかが自分の思惑より外れて動いていくとき、
 だがどうすればよいかなど考えるのは吉法師は苦手だった。
 主席がいない臥所は妙に寒い。いつも傍らにあったぬくもりがないことは予想以上に吉法師の心を苛み、気付いたら両腕で体を抱きしめて……それでも時折目が覚める。
 怖い、という感覚はここしばらく消えていた。
 どんなに宵に目が覚めようと、傍らには主席があったから。
 だから……怖いと思うことはなかったのだ。
 古渡に行けばいつものように主席は傍にいてくれるはず。
 そんな確信もない答えにいきあたり、吉法師は古渡行きを承諾した。
 ……ただ、それだけだった。
 思惑は見事に外れた。毎日母の傍で弟妹とともに過ごす日日は安らぎを与えようとも、吉法師の本当の求めるものを決して与えはしない。
「どうして……」
 もれる声はかすかに震えている。
 問う相手は傍にいないというのに。
 先ほど決死の思いで、主席の袖に触れたのに、
 あの男は何一つ気付かずに背を向けた。
 意味がわからなかった。ポカンと背中を見ながら、胸があつく目に熱いものがこみ上げてくるのをこらえて唇を噛み締めた。
 いつものように頭を撫ぜて、頬に触れて、ギュッと抱きしめる。それだけでいい。
 いつもと同様のことをどうしてしない。
(傍になどいなくていい。顔など見たくない。声など聞きたくない。おまえなど大嫌いだ)
 けれど……目に見えるところにいないと不安な心は抑えられない。胸がズキリと痛んで、体は寒い。
 知らないだろう。
 物心つく前から体を温めるのは自分の両腕だけ。夜の寒さも自分の体温で体を温めて、過ごした。
 この二年で知ったことは、自分のぬくもり以外にもこの体を温めることができること。人の肌は暖かく、抱きしめられるとやさしい気持ちになれた。
 もうこの両腕で自分の体を温めなくてすむのだと思った。
 獣のように体を丸めて、必死に温かさを逃さぬように眠ることをしなくていい。
 真冬の身が凍えるほどの日。背中から抱きしめる男の熱が……安らかな眠りを与えた。
 それが当たり前になっていて、それが続くことを疑わず、失うことなど考えもせず。
 今、この時、この手からその得たものが失われそうで、吉法師は怖い。
 泣くという感覚は吉法師にはわからない。寂しいということも怖いということも、二年前までほとんど知らなかった。
 あの男でなければならないという理由もない。
(どうしてだ)
 母の膝で眠ろうとしても、違和感が全身を駆け巡り、落ち着かなさですぐに飛び起きた。
 誰が夜に宿直として傍にいようと傍から遠ざけて、眠いというのに訪れるのは仮眠ばかり。
 それが続きに続いて、不覚にもようやく気付いた。
 大嫌いだというのに、傍にいてほしい。
 この手を伸ばせば届く位置にいて欲しい。
 無意識に吉法師は周囲を伺う。キョロキョロといつも誰かを探すように視線は動く。
 この数日、一度として視界に入らなかった主席が、自分から近づいてきた。うれしいという心がわかった。胸が騒ぐのが知れた。期待が全身を駆け巡り、声が聞けたこと、顔が見れたことだけでよくて……。
 なのにあの男が拒んだ。あの男が……自分を置いていった。
 どこかにいってしまうのだろうか。自分を一人にして、消えてしまうのだろうか。
 二年前に約束したのに。
 ……おいで吉法師。俺が傍にいよう。アイツが戻るまで俺が傍にいる。
 差し出された手を、あの言葉があったから、自分は掴んだ。



 極度に口数が減り、表情から喜怒哀楽が一切消えた。
 部屋の隅っこで膝を抱えて、ただその膝の中に顔を埋めている吉法師をどう扱えばいいのか。誰もが頭を抱えた。
 何度も母がなんとかしようと立ちまわった。吉法師、とやさしく呼び、そっと手で触れると……怖がるように身を引く我が子に……母土田御前が深く傷つく有様だ。
 主席には二年前と同様のことでしかなく、またあの日日に逆戻りしようとは思いもしないことだった。
 こういうとき、どうすればよいのか。
 誰も知るまい。己とてそうしたことが今でも正しいのかどうかわからない。
 だが今はこうせねばならないことは、どことなくわかっていた。
「いえないか、吉法師。ここに来てたんと口数も増えたというのに、やはりいえないのか」
 部屋でまるで獣のように体を丸めて布団の中に縮こまっている吉法師が、どうしようもなく悲しかった。
「寂しい、と。傍にいて欲しい、とやはりいえないか」
 体を縮めながら震えている子どもを、どうしてオトナはわからないのだろう。
 涙は流していないが泣いているのだ。誰かにそっと抱きしめられたくて、必死に子どもは子どもならではの合図を送っている。
 背中からそっと抱きとめると、間髪をおかずに振り返って、吉法師は主席の胸元に顔を埋めてきた。
「吉法師」
「……どこにも…い…いくな」
 縋りつくようなその手は必死で、今の吉法師の気持ちを表していた。
 それは誰に向けた言葉だったのだろう。
 この期に及んで主席は吉法師が己に向けて合図を必死で送っているとは考えられず、
 これがこの後数ヶ月におよぶ、二人のすれ違いの日日を増長させることになった。
「……ひとりに…するな。なぁ……どうして」
 どうして傍にいてくれない。どうしてここにいない。
 求めたものはただひとつ。主席といつも通りの日日を送るだけだというのに、それに気付いてくれないイライラとした気持ちを、吉法師はどこまでも言葉で言い表せないため、 さらにドツボにはまっていくこととなる。
「ひとりにはしない。吉法師はひとりではない。大丈夫だ」
 大丈夫ではない、と心の中で叫びつつ、吉法師は主席の胸の中で今日は眠った。


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夏の月外伝 幼少編-合図- 1-1

夏の月外伝 幼少編-合図- 1

  • 【初出】 2007年ごろ
  • 【修正版】 2012年12月02日(日)
  • 【備考】