皐月の肌に焼きつくほどの暑さは、織田信長は好かない。
この時期には昔からよき思い出はなかった。なにか「不運」なことは、この時期から夏にかけて起きることが多い。
「少しばかり顔色が悪い」
廊の片隅で壁に寄りかかり、腕を組んでこちら側を見据えてくる男の方が……この薄暗さからも分かるほどに顔色が悪かった。
信長はその男の前で足を止めた。いささか気になったことを否定はしない。
だが、それも束の間のこと。すぐに歩を進めたが、背中にもう一度注がれる言の葉がひとつ。
「顔色が悪いよ、信長殿」
初夏の若葉の若々しさが香るこの時期。
わずかに信長は体調を崩すことが多い。季節の変わり目が少しばかり苦手なことなど、もはや十数年の付き合いのこの男に分からぬはずもなかろう。
歩を止めて、なにが言いたいのだ、と振り返ろうとしたその目先に、
いつのまにか気配も消して寄っていた男は、自らの直垂を脱いで信長の肩にかけた。
「風邪を引かぬようにな」
不覚にも、そのまま身動きが取れなくなった我が身がある。
この世で一番に「憎む」と決めた男の直垂は……我が身を包み込むかのように温かい。こういうとき、どういう表情をすれば良いのか、時々信長は分からなくなる。
一昔前ならば、ただあまえるように胸元に頭をコテンと倒しただろう。そうすれば、何もせずにこの男はそっと我が身を抱きしめてくれたはず。
そんなことが……一年前のとある事件により信長にはできなくなってしまった。
直垂を肩に乗せたまま、その男は脇をすり抜けていく。
人は追い詰められると……真に欲する挙動を取れるのやもしれない。無意識に信長が握り締めてしまったのは、その男の右袖。
「少しばかり頭が痛いが」
と、朝方からの頭痛を訴えると、そのまま通り抜けることもできただろうに、その男は立ち止まって振り返った。
「どうして欲しい」
答えなど、言わずとも知れていよう。
ただ、信長はジーッとその男の漆黒の両眼と瞳を重ね続けた。
「このごろ信長殿は言葉を用いなくなった。ただ目線で訴えようとも知れぬこともある」
「おまえがか?」
ありえぬことだ。信長は自らよりもこの男の方が、自らの感情をよく心得ていることを知っている。
このごろは意識して避けている相手だったが、体調が悪いときに顔を合わせると自然と甘えが表に出てしまう。
それを責められようか。十年以上も体調を悪くなると、自らが気付く前に気付いて薬やらを飲まし、そっと看病をしてくれたのはこの男なのだから。
「で、どうして欲しいんだ」
今日はどうしてかこの男は意地悪だ。目を見ただけで「どうして欲しいか」など知れているだろうに。
視線を一切離さず、ただ見据えるだけにした。
するとこの男はニヤリとそのきれいな顔にはそぐわない歪んだ表情を見せ、そっと信長の体を横抱きに抱えた。
「信長殿が俺に甘えるのは久方ぶりだな」
甘えてはならない。今まで通りの保護者と養い子から脱却することを決めたのだ。この男との今までの関係は忘れる。なによりもこの男は自らのいちばんに憎む男。いちばん大切な人の死を見過ごし、「俺を憎め」と告げたのだから。
(それでも……)
顔も見ないと胸が痛くなる。声が聞けないと苦しくなる。どんなに避けようと、避けている限りは顔を見れて声も聞けている事実。
前のようにこの男の首元に両腕をかけることは、ならない。
適度に一線を持った関係でないとならないのだ。分かっている。それでも……。
「頭痛だな。薬を軽く調合してこよう」
傍にいて欲しい、というときはある。
どこにもいって欲しくはないという子供心がどうにもならないときがある。
もはや織田家当主として「子供」の心には見切りをつけたはずだというのに。そのオトナに成長していくその心が、時折悲鳴を挙げるのだ。
欲しいものがある。
何もかもを捨てても失いたくないものがある。
人間不信、猜疑心の塊と人は自らのことを呼ぶが、そんな自らにもただ一人だけ心を預けていた相手がいたのだ。
この人間だけが傍にいれば、他は誰もいらないというほどに大切な人間がいたのだ。
「どうした?」
尋ねなくとも分かっていよう。
幼いときは、こうして袖を握って「どこにもいくな」と言えた。
今はその一言を言ってはならないことを知っている。
「薬を調合してくる。少しの間だけ眠っているといい」
袖より外される手が……絶えまないほどに嫌な瞬間だった。
当主として「オトナ」であろうとする自らに、この男も合わせている。些細な甘えもゆっくりとはぐらかして行こうとしている。すべてを分かっているというのに。それでも胸がズキリと痛んで、どうにもならないときがあるのだ。
「主席」
あえて名で呼びはしない。
「なんだ、信長殿」
呼びなれてはいないだろう元服名で返してくる。
「薬など……いらぬ」
傍にいてただ手を握っていて、ともとめた。
今までとおりに病の時は傍から離れないで、と。
「憎む相手にそれでいいのか、信長殿」
耳元でなにひとつ抑揚のない声音が囁かれる。
「それではダメだと思っているのだろう」
どれだけ憎むと決めても、どれだけ恨もうと心に言い聞かせても、この男との今までの時間が消えることはない。
もう一度握り締めていた袖を目を閉じて外すと、その場からこの男が去っていく音が聞こえた。
病の時はどこにもいかないで、そっと傍らにいて体を抱きしめて眠ってくれた。
そうされると寂しさもない。ひどく安心して眠っていても病など忘れた。病になるのが嬉しかったときすらある。
離されると、二度と戻ってこないのではないか、と不安になることが多い。
「…………」
避けて一線を引いて、今までの関係は忘れると誓った。
ただの公的な当主とその後見人たる主席家老の関係であり続けると誓った。
時折さびしさが表に出て、そっと縁側で視線は合わせないが、肩元に寄りかかり軽いふれあいをもとめてもこの男はなにも言わずにそのままでいてくれた。
少しばかり悪寒が駆け巡り、体がだるさと睡眠をもとめはじめ、そのまま目を閉じたままけだるさを忘れるためにも眠ることにする。
「……通勝……」
病の時だけは昔のように甘やかして欲しい、というこの感情は、いけないものなのだろうか。
未だ織田信長は十六歳。
公的には人間不信の冷酷な当主を演じようとも、ただ一人甘えられる相手のもとでだけそれを崩したいと思わずにはいられない。
眠りの中でももとめる相手はただ一人で、ほんとうは一線など持たずに今まで通りの関係でありたいという思いもある。
憎くて憎くてどうにもならないほど憎くて……いとおしい。
もとめる手をすげなく振り払わないで欲しい。
そのまま眠りの中で、ふと手を優しく握る冷めた感覚があった。
あぁ傍にいてくれる。
これを子供の心だと、まだ幼さが抜けきらないという思いがあろうとも、それでも織田信長にとってこうして甘えられる相手はただ一人しかいない。甘さとは違うのかもしれない。こういうことを求めるのは、この男しかいないのだ。
目を開けたのは、周囲はすでに闇が覆い尽くす時刻だった。
「気分はどうだ」
額に乗せられているヒヤリとした拭い。
右手はこの男がずっと握っていてくれたのだろうか。手があてられている。
首を横に振ると、そうか、と軽い微苦笑をこの男は漏らした。
「信長殿は昔から生まれ月になると熱を出す。理由は甚だ不明だな」
「そしておまえがいつも看病をする」
「いつになったら、違う人間に看病を任せる気になるのか」
「無理だな」
即答が口元より漏れてしまった。
「おまえが一番に我の体を知っている。医者でも無理だといった看病を誰がかわれようか」
誰にも病で弱り目を閉じている自らの姿など見せられたものではない。
昔から、看病はこの男以外を受け付けたことはなかった。
「おまえで、いい」
視線を合わせずに信長は告げた。
「おまえが……いい」
「こまった甘えん坊な当主殿だな」
仕方ないという顔をして、この男はなにやら湯のみ茶碗を渡してくる。
「薬湯だ。まずは飲め」
嫌だ、というかのように少しだけ眉をひそめると「口移しがいいか」と言ってくるので、上半身を起こして湯のみを手に持つ。
この男が調合する薬は苦くて有名だ。ただの武人としてではなく芸に秀で医者の知識すらもあるこの男は、時折才能を持ち腐れしていると思わないことはない。
良薬は苦し、という言葉通りに苦味のある薬湯を飲み干し、渡された水を飲んでその場に横たわる。
じわりと額には汗が滲み、体の悪寒はさらに強くなってきていた。
「寒いか」
尋ねられ、素直にコクリと頷いておく。
「仕方ない当主殿だ」
と、そっとこの男も横たわり、片腕を信長の背に回した。
「寒いのだろう?」
もしも拒めば、なにひとつ口にせずにその手を解いてしまうだろう。
このままでいたいのだ。このまま甘えていたいのだ。
何も口にせずに目を閉じて、その男の胸元に顔を埋めていた。
いつもどおり……病になったときのあり方が戻っている。
「なぁ……」
「うん、なんだ」
「目が覚めるまで……ここにいろよ」
すると前となにひとつ変わらない表情で、この男は信長の頭を幼子にするようによしよしと撫でた。
「病のときは傍にいる。そう……不安にならなくてもいい」
「誰が」
「病のときは大の大人でもわびしくなるときもある。信長の当主はまだまだ子供のようなものだからな」
そんな子ども扱いが嫌になると同時に、恋しくてならない。
こうしてこの男が傍にいてくれるのは、自らが子供でなくてはならないことを自らは知っていた。
オトナになったならば離れていってしまう。公的な当主と主席の関係でしかなくなってしまう。
それが……著しく嫌だと言ったらどういう顔をするのだろう。
目を閉じて、襟元をギュッと握り締めて、
……どこにも行くな、という言葉を手の力に込める。
「そういえば信長殿。今日はおまえが生まれた日だったな」
そんなことをポツリとこの男はいった。
「毎年、この日になると体が極度に弱くなるなど、呪われているのではないか。おまえの誕生日というやらは」
そうでもない。
この日になると病になり、おまえが傍に居てくれるならば、
この誕生日という厄介な壱日は、自らにとって決して災厄とは言いがたいだろう。
「さして……悪いとは思ったことはない」
「病になることが悪くないとはおかしな奴だな」
この日、おまえと共に迎えられるならば、
それはそれで悪くはないのだ、なぁ……そうではないか?
もう一度目を開け、そっとあたりを見ると月光がこの男の顔をつめたく照らしている。
陽の光よりも月光に照らされることが、この男にはよく合う。
「……おかしくなどなかろう」
幼いときから夜中に目を覚まし、この月光に照らされた男の顔を見ると安心した。
宵を過ごすのは、誰の腕の中よりもこの男の腕の中が安心する。
安心の中で眠ることが、病人にはいちばんの「癒し」なのやもしれない。
……どこにもいかないで。
その言の葉は二度といえないかもしれないが、
それでもこの袖を握り締めて離すことはないだろう。
なぁ知っているか。
「……通勝」
目を閉ざしながら、この男の名をそっと呼んだ。
「この世でいちばんにおまえだけを憎む」
すると頭を撫でる手を止め、この男は軽く笑ったのが雰囲気から分かった。
「光栄至極、織田信長殿」
憎いというたびに、どことなく最たるあまい告白をしているようで……かるく胸の中が騒いだ。
月光の中、自らの手はただ……ギュッとこの男……林通勝の襟元を握り締めている。
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夏の月外伝 少年編-陽の光よりも-
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