夏の月外伝 清州編 -魔王の誕生日-




 皐月十二日。旧暦のこの日は例年梅雨の真っ只中で、雨がしとしとと降り、熱気がじっとりと体に絡みつく。
 あと一月もこの梅雨と付き合わねばならないと思うと、気分も憂鬱となるのも致し方ないことなのかもしれない。
 清州の城の奥。この城では一番に涼しいといわれる日が差さない陰気な場所で、今日も織田信長は一人横になっている。
 手には扇。力なくパタパタと仰ぎ、屋根を激しく打つ雨の音を聞くばかりだ。
「御自分の誕生日ですのに、なんとも陰気なお顔ですこと。主殿」
 奥を預かる信長の正室濃姫が衣擦れの音とともに姿を現すと、信長の陰険はさらにその度を深めた。
「家臣たちに自らの誕生日を祝え、と傲慢にも言い放った方が……」
「後にはこの国のふれにしようと考えている」
「まぁ……おごり高ぶれば平家の末路と同じくならないとは言い切れませんことよ」
 気丈なる美女の一言には答えず、手にある扇で風を顔元に送っていると、
「ご機嫌斜めのようですわね」
 この梅雨の鬱々としたおりに、にっこりと空元気を見せる人間などいるのだろうか。
 現に信長は、この妻の夏用の薄い打掛を見るだけでも暑く、気分がさらに鬱々としてくる。
 あの柴田権六などは、こういう時期こそは鍛錬と、猪武者よろしく雨の中を槍を片手に駆けずり回っているようだが、それは例外の例外。稀なる人種と区分した方が良かろう。 しかも豪雨に打たれようとも風邪<ひとつ引かない。夏風邪を引くのは馬鹿だと言うが、柴田ならば引いてもおかしくない。むしろなぜに引かないのだ、と考える信長だったりする。
「例年通りに祝賀を致しましょう。この濃が手ずから料理を作りますことよ。権六殿がいつものように猪を捕獲してきますので……」
「いらん」
 濃姫の顔を見ているのも暑苦しく、信長は横向けになるため体を動かした。
「なにをふてくされていますの」
 避けるようにした横向きになったのが気に入らないのか。背を摩られ、触れ合っている箇所に急激な熱が押し寄せて来、信長はその手を振り払った。
「我は一人で此処で寝る。邪魔はするな」
「まるで子どものようね、主殿」
 その挑発にも乗らずに信長はその茶褐色の瞳を鬱陶しげに閉じた。
 確かにこの不機嫌の理由は単に梅雨の長雨にも、このじめじめとした空気にあるのでもない。単に信長の「面白くない」という感情が一番に由来している。
 皐月十二日。その日を信長は自らも「子ども染みている」と思うほどに何日も前から意識している。
 それは人からの祝いを期待しての意識などではない。
「通勝さまが居ないというだけで、毎年楽しむ誕生日がこうも変わるというのも困りものですこと」
「………」
「図星でございましょう。返す言葉はありませんの」
「お濃」
「なんでしょうか」
「騒々しい」
「然様でございますか。分かりました。退散してあげますことよ。せっかくの誕生日、そこで子どものように膨れて一日お過ごしになるとよろしいわ」
 人一人がこの場より消えることで、僅かだが空気中の熱が下がった気がした。
 仰向けになり、白き天井を見据え、
 目の前に今此処にはいない相手の顔をよぎらす。
 生まれて二十二年。その大半のこの日を共に過ごした男は、今日のこの日を忘れてか数日間顔一つ出しはしない。
 誕生日という概念を人に教え、特別な日たることを説き、子どもの頃からこの日には信長が欲しいものを贈ってくれた。
 たいていは子どものころは食べ物で、
『後に残らないという所がいいのだよ』
 と、冷たく笑った顔が思い出される。
 知っていただろうか。本当は知っていて、わざと「食べ物」など贈ってきたのだろう?
 この誕生日という日を特別とするならば、信長が心から欲するものなど一つしかない。
 ただ傍にいてくれれば良いのだ。たとえこの梅雨時期が人が傍に在ることすら鬱陶しいと思える時であろうとも、この手はただ一人を傍に、と欲する。
 毎年のように傍にいてくれればいい。
 贈り物など何一つ必要ない。
 回廊を渡りこの部屋に向かってくる足音を無意識に耳で拾う。
 望む相手の足音にのみ反応するだろうこの耳は、もう半日もピクリと反応しない。
(忘れているのか)
 けしからん。臣下として後見役として、保護者たる傅役として職務怠慢も甚だしい。
 畳に爪を立てる。網目に爪が食い込み、血が滲むかのような鈍痛が走った。
 何をしているのか、と自嘲が口元にもれる。
 親に大切な日を忘れられた子どもの心境か。
 それとも年が離れた恋人に待ちぼうけを食わされている心境か。
 本日、この場に必ず顔を出すという確証があるならば、胸を弾ませ、この梅雨など吹き飛ばしただろう。
 これから楽しきことがあるとわかれば、子どもさながらに鼓動を高鳴らせて待つのを誰が責めようか。
「たかが道具の一つ」
 人をすべて道具と割り切るのが、信長である。
 使える道具とガラクタを分別し、ほとんどの人間に無機質な目を向ける。
 道具はいずれ壊れる物に過ぎない。今はその場に「物」としてあるが、壊れれば単なる屑に等しい。
 それは人も同じではないか、と言い放つ信長を家臣たちは畏怖するが、
 この考えの何処に恐怖を人が抱くのか、今もって知れずにいる。
 そんな信長にも、昔から「物」と捕らえられぬ人間もごく僅かだか存在した。
 物同様に壊れることを望まない。壊れた姿を見たくはない。それが「物」として捕らえない唯一の感情ともいえる。
 ……ソノ人ヲ、待ツ。
 待っているのだ。濃姫が言うようにふて腐れ、面白からずの顔をしつつ、此処を動かずに待っている。
「御屋形さまぁぁぁぁ~~。猪捕獲してきましたよぉぉぉ」
 雨音だけが響き渡る館の奥に、一陣の大音声がこだました。
 いったいどれだけこの館を声だけで震撼せしめれば気が済むのだ。
 答えるのも疲れるとばかりに、吐息一つを漏らして、信長は再び目を閉じた。
「この日は猪と決まっているでしょう。猪の丸焼きですよぉぉぉ」
 このじとじととした暑苦しい日に、誰が丸焼きなど食そうか。
 ただでさえ食欲が減退する時だ。冷たい咽喉越しが良いものを唯一欲するというに、何が猪の丸焼きだ。
「一人で食え」
 到底、猪を捕獲して帰参した柴田には届かない声で呟く。
「みんなで御屋形さまぁの誕生日祝いながら食べてしまいますね。うまそうだぁぁ。久々に格闘し甲斐のある猪とめぐり合えた喜びぃ。林さまぁぁも食べましょうよ」
 いっそ眠ってしまえと思った信長の耳が、ピクリと反応した。
(今、柴田はなんといった?)
 最期の語尾に「林さまぁ」といわなかったか。
 目をぱちりと開け、今日もまた重く感じる体を起こし、信長は部屋よりようやく出た。
 回廊には雨に濡れる中庭の風情を眺めている濃姫の姿がある。
 信長の気配に気付いて顔を上げ、おもむろに振り返り、
 その唇にさも楽しげな笑みを乗せた。
(小賢しい)
 脳裏によぎる言の葉は、あえて声にはしない。
「宜しかったですわね、待ち人来るですこと」
「何のことだ」
「そうして素っ気無く何事もなかった顔をして。ふて腐れ、もしかしたら来ないのではないか、と子どものような心情で待ち続けていたというのに」
「お濃」
「はい、主殿」
「……猪はそちも食すのか」
「私はご遠慮いたします。さすがにこの食欲がわかない時期に猪はくど過ぎますわ」
「我もそのように思う。……だが、何ゆえこの日に柴田は猪を捕獲してくるのだ」
 数年前より毎年毎年猪を「誕生日の祝い」に素手で捕獲してくる柴田の心情が、謎である。
「きっと信仰するホジャモネラ教の教えには、祝いは猪とでも書いてあるのではなくて」
 柴田は大陸より伝わった異教「ホジャモネラ教」というものの熱烈な信者だ。
 話では一時は滅びた宗教であるという。それがこの時代にこの国に教えが渡り、柴田がどこからか仕入れてきた。
 月に毎日三度「ホジャモネラ」と祈りを捧げれば人また全て幸福なり、という教えがある。見事にいかがわしい。
「……主殿も食欲減退ですわね。猪は食べますの」
「もとより我は猪肉など好きではない」
 それでも柴田が猪の丸焼きをしている門前に向かうのは、ただの一点にある。
「主殿」
 歩き出した信長の背中に、濃姫の声が追ってきた。
「そこに傘があります。お使い下さい。それから……嬉しいときは嬉しいという顔をしなければ、思いは伝わりませんわよ。ましてや道具の一つなどと決して口にしてはなりませんわ」
 この女は壁に耳あり障子に目あり、だ。
 かすれるような一言すら耳に入るか、と信長は飽きれて物もいえなくなる。
 中庭におり、この雨では傘がなければすぐにも濡れ鼠と傘を差し、直結している館前の敷地にと向かう中、
 まるで火事かと思わせるほどの煙に、また盛大に猪を焼いているな、とため息が漏れる。いつかは猪焼きの火の粉が風に乗り、この館を燃え尽くすのではないか、という怪訝もなくはない。
「柴田」
 統制された抑揚のない一言を発すると、
 このジメジメとした空気も、降り続ける雨も諸共せずに、点火した火を大きな団扇で煽る柴田の異丈夫な姿が目に入った。
「中庭まで煙で充満ぞ」
「御屋形さまぁ。見てください、この猪の大きさ」
 今、棒に足首をつるし上げられ火でまさに燃やされている猪は、身の丈は四尺はあろう。
 柴田は出刃包丁を手に、さばく時を今か今かと待っている。
 その柴田の傍らに、木の椅子に座している青年が一人。周りを充満する煙を扇で振り払い、その漆黒の瞳は何処を見ているのか。焦点がない。
「……筆頭?」
 声をかければ、振り向いた青年、織田家筆頭家老林通勝は、「あぁ」と小さく声を漏らした。
 あぁ、ではない。雨に濡れるがままにし、なぜ座しているのか。
「見てくださいよ、御屋形さまぁ。林さまぁはまたこぉんなに痩せて。梅雨時になるといっつもですが、これは猪肉を食らって体力をつけてもらわねば」
「権六、俺は先ほどより食べぬといっているが」
「ダメですよぅ。権六が必死で捕獲した猪です。林さまぁには食べてもらいます」
 昔から柴田は筆頭に懐いている。
 この直情径行にして獣の世界での弱肉強食を身を持って実戦する男には、「美しきものは何をしてもいい」という主義がある。柴田に言わせれば目の前にある筆頭の人呼んで魑魅魍魎の如しここ数年容姿がまるで変わらぬ「奇麗」な姿は、美の極致に等しく、筆頭の顔を見るたびに涎を垂らして見惚れるほどだ。
 美しさだけが理由ではないだろうが、誰が見ても武者さながらの逞しい体格を誇る柴田が、華奢で貴公子風。どこかの学者か、と思わせる筆頭に僕よろしく付き従うさまは一種異様ではある。
 激しく雨が打つ中で、この二人は身を雨に覆われて、何を猪の丸焼けを見ているのか。
 信長は筆頭の真上に傘を差し出した。
 直垂も、その漆黒の真っ直ぐな美しき髪も濡れきっている。病的ともいえる白き肌は雨粒が滴るばかりだ。
「風邪を引く」
「……そうだな」
「柴田の猪の丸焼きなどに付き合うことはない。何ゆえ、此処で雨に濡れるがままになっている」
「暑いからな。雨にでも濡れれば少しは気分も晴れるかと思った」
「馬鹿め。梅雨時だ。雨とて生ぬるい」
 懐より懐紙を取り出し、筆頭の顔面の雨粒をぬぐいつつ、
「暴挙も甚だしい。体が弱いことを忘れているのか」
 筆頭の漆黒の瞳は一時は信長を見るのだが、すぐにどこかにそれていってしまう。
 相交わらないことに一瞬苛立ち、同時に悲しみが僅かに胸に刻まれ、無意識に信長は懐紙を掴んだまま筆頭の袖に触れた。
「……来ぬかと思った」
 雨音が消し去るかのような小さな叫び声に、筆頭は視線を戻し、その口元にフッと笑いを刻み、
「来ぬはずがないだろう。信長殿の誕生日だ」
 忘れるはずがない、と袖に触れた手に重ねられるよく見慣れた右手。
 この手をどれだけ望んでも得られなかったときもあった。
 この手を自らが振り払い、避け、離れていくのに胸が痛みながらも追わなかったときすらある。
 雨に包まれた筆頭の手は、いつものヒヤリとする冷たさがない。雨の生ぬるさに染まったのだろう。
「柴田、猪はおまえと評定にある人間たちで食え」
「御屋形さまぁぁぁ。権六は御屋形さまぁぁぁとお祝いに」
「祝いに何ゆえ猪なのだ」
 すると柴田はエヘンと胸を張り、
「命を駆けて捕獲し得る食べ物ほど、価値ある贈り物はありません」
 柴田は縄文時代に生まれていたならば、無類の勇者として伝説にもなっただろう。
 いや、現在でも猪武者として名は馳せている。その戦振りは見事と拍手物だ。
「……その気持ちだけ受け取っておく」
 火事にせぬようにほどほどに火加減をするように。と言い渡し、信長は筆頭を引っ張って館に入れ、すぐさま湯殿に突き飛ばした。
「風邪をひいては一大事だ」
「俺が風邪を引こうが引くまいが信長殿には関係あるまいに」
「あぁ。関係ない。道具の一つが風邪で熱が出そうが……倒れようが苦しもうが……」
 関係などあるものか、と言葉を綴ることもできず、信長はその場から離れようした。
「信長殿」
「なんだ」
 檜の槽には湯が欠かさずに入れられている。湯船につかる音が聞こえ、これで少しは温まるだろう、と思った。
「……信長殿が生まれた日を思い出していた。今日のように濡れて……だが梅雨の中休みという感に産声と同時に晴れたよ」
 自らの誕生と同時に傅役に任じられた男は、懐かしげに語った。
「二十二年か」
「……筆頭」
「うん」
「……猪の丸焼きは咽喉に通らぬが、冷麦あたりは良かろう。少しは食べろ。また線が細くなった」
「信長殿はいつから俺に過保護になったのやら」
「おまえが……雨に濡れるからだ」
 風邪すら引かぬ柴田とはこの男は違う。風邪一つ引けば万病となる体の弱さをいったい自覚しているのか。
 こういう体に対する無頓着さがどうにも腹がたった。
 病に倒れ、呼吸も荒くなり、意識が遠のき、握り締めた手を決して握り返してこない恐怖。
 どれだけ味わわせば気が済む。喪失の恐怖をどれだけ身に宿せば、おまえは我の恐怖を取り除くのだろう。
「……ミチ」
 か細く呼んだ名は震えている。
「我を一人にはするな」
 湯殿よりは返答はない。ただ湯が跳ねる音が幾ばくか届くのみだった。


 今年の誕生日は最悪だ、と目の前にある猪の骨付き肉を見ながら信長はげんなりとしている。
 表情は無感情のままで一切動かないが、その風情が「面白からず」たることは誰もが承知だろう。
「権六の命がけの祝いだ。食べてやらないとな」
 回廊の縁側に座し、中庭の雨の風情を楽しんでいる筆頭が楽しげな声を響かす。
「お前も食したらどうだ。夏ばても治るかもしれぬぞ」
「権六は信長殿のために捕獲してきたのだ。信長殿が食すのが当然といえる」
 さすがの柴田も猪の肉半分ほどを平らげて後満腹感を訴え、見事に焼きあがった肉をさばいて清州城内にいる馴染みの人間に配った。
 とっておきの骨付き肉を信長と筆頭にと置いていったのだが、それを筆頭は見ようともしない。
「……一曲奏でよう」
 蝋燭の淡い灯火だけで、この闇夜を照らす。
 懐より愛用の龍笛を取り出した筆頭は、軽く振り返り「何が良い?」と目で尋ねる。
 嫌々ながらも猪肉を一つ平らげ、冷茶で咽喉を潤していた信長は、そっと筆頭の傍らに移動し、
「なんでも良い」
 コトリと筆頭の肩に頭を倒した。
「引っ付くと暑いな」
「僅かなときだ」
 ついでにわずかに袖をも握っておく。
 筆頭は苦笑を浮かばし、信長の知らぬ穏やかな曲を奏ではじめた。
 皐月十二日。
 この手が欲するのは、ただこの傍らにこの男の存在があること。
 雨音と笛の音が周囲を包む中、この耳を済ませると、わずかに聞こえるはこの男の心音。
 来年も笛の音を聞かせてくれ、その次の年も……その次も。


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夏の月外伝 清州編-魔王の誕生日-

夏の月外伝 清州編-魔王の誕生日-

  • 【初出】 2007年5月14日
  • 【修正版】 2012年12月02日(日)
  • 【備考】