夏の月外伝 清州編 -三月の空白-




 京の都は今が紅葉が最も美しき時期。
 休暇届を置いて、許可なく三月もの間ぶらぶらと……気ままな旅行は楽しいものだ。
 だが、それも今日を最後と考えただけでげんなりとし、心の中ではあと一月ほど休暇を続行しようかとよからぬ思いが過ぎり始めていた。
 八坂の紅葉を楽しんだ後、さてさて清水で茶と団子を食していこうか、と思ったときだ。
「みぃつぅけぇたぁ……」
 地獄の底から這い出てきたような声音に、瞬間的に逃げろと頭の中の声が告げ、今はもう走り始めている。
「待ってくださぁい。待ってくださいよぅ。逃げないでください、林さまぁ」
 嘆願でも哀願でも何でもしているといい。
 林通勝は、全力疾走で逃げにかかった。背後からは必死に追いかけてくる気配。そして前方の石段の前には。
(オイオイオイオイオイ……)
 これぞ前門の虎、後門の狼。
 通勝はゆっくりと立ち止まり、乱れた呼吸を正した。すると前門の虎は怒りを抑えているような、または心配げな顔をして通勝に近づいてきたのだった。
「お縄は受けたくないな、五郎左」
 ため息混じりにニヤリと通勝は笑う。
「御用がございます」
 落ち着き払ったその男の声音は、例えるならば粉雪が地へゆっくりと舞い降りるような……そんな静かな音色だ。
 普段に聞くならば、さして気にもならないが、今はこの声も影の薄い整った顔もあまり見たくはないな、と通勝は思っていたりする。
 背後の後門の狼もグッタリとした顔で追いついてきた。
「はぁやぁしぃさまぁ……。いつもいつも逃げてばかりでぇ、いつも権六は追いかけてばかりですぅ。あまり心配かけないでくださぁい」
「猪が何を言う」
「権六は猪ですけどぉ、、追いかけっこは苦手なんですぅ」
「俺も権六と追いかけっこをしたいとは思わぬ」
「でもでも、いつもけっこう追いかけっこではないですかぁ。権六は走るのが苦手なのにぃ走らせてぇ。疲れて疲れて早死にしたらぁ、林さまぁにとりつきますぅ。そして、いつもそのお顔を見ていますぅ」
 と、まんざらでもないのかニコリと笑った形相鬼の如し男は、権六。柴田権六勝家という。
「筆頭殿」
 ニコニコと強面だが人懐こい柴田に比べ、こちらの青年は泰然自若としてはいたが今日は怒りが面に乗っていた。いつもは温和な表情をしているのだが、今日はどこか鋭さを感じる。何かあったようだ。
 青年の名は丹羽長秀。通称五郎左。柴田とは幼馴染であり、親友同士である。
「俺は休暇中だ。お縄は明日以降にしてもらおうか」
 三月の休暇は今日で終了。ならば今日だけは最後の休暇を横臥させてもらいたいものだ。
「休暇は受理されていないはずです。ただ今の筆頭殿は無断欠勤者。見つけ次第、連れ戻せと御屋方さまより指令が出ております」
「………」
 当然、それは予想している。
「どれだけの罪になるかは存じませんが、覚悟を、と言っていました。が、それは表向きのこと。御屋方さまはお待ちになっております」
「ここで逃げたらどうする、五郎左よ」
 丹羽は刀の鞘に軽く触れた。
「剣の腕は筆頭殿に遠くおよびませんが、お止めします」
「……権六は林さまぁに刀は向けられないから、……素手で相手をしますぅ。でもでも権六は林さまぁと立ち合いたくはないですよぅ」
 と、両腕を広げて前方をふさいだ権六。
 通勝は呆れ顔となり、やれやれとばかりに、
「逃げはせぬさ」
「……筆頭殿のお言葉は信じないことにしています。………縛ってでもお連れ致します、筆頭殿」
 どうやら丹羽は至極本気のようだ。
 通勝は、はいはい、と億劫そうに返答し、それから覗くように丹羽の切れ長の瞳を見つめる。
「何かあったな」
 断定して尋ねてみると、丹羽の眼差しはゆっくりと揺れ始めた。そこで通勝はおおまかな検討をつけた。おそらくは……。
「林さまぁ、逃がしませんよぅ」
 と、柴田が突如通勝の袖を力強く掴んだ。この猪武者に掴まれたが最後。たとえ通勝であろうと、そう簡単に逃げることはできない。
「権六は林さまぁの顔が見れなくて、毎日さびしかったんですぅ。もう、どこにも行かせたくはないですよぅ」
「逃げはしないといっているだろう。それより五郎左……」
「休暇届を権六になど渡したら、鼻紙にされるのが当然でしょう。見事に鼻紙にされ、あなたさまが消えたと御屋方さまは一月が経過したころからおかしくなりました」
 丹羽の声音が少しずつ低くなってきている。こういうときは怒りを抑えているときだ。
「権六はぁ休暇届なんて知らなかったんですう。机に置いてある見知らぬ紙なんて、権六にはぁ鼻紙しかないですよぅ」
 と、しくしく柴田は通勝の袖を握り締めていた。
 当然、通勝は鼻紙にされるなど予想している。一応は渡したという大義名分がほしくて柴田の机に休暇届を置いてきただけだ。ついでに追手を向けられる時を伸ばすための考えでもあった。
「突然あなた様が目の前から消えた……その御屋方さまのお気持ち察してあげてください」
「おいおい五郎左。おまえはアレの心が分かるのか」
「分かりません。ただ、筆頭殿ならばお分かりのはずではありませんか」
 それは違いない。
 この丹羽は賢い口の利き方をする。それは決して敵を作らず敵にならず。そんな性格な男だ丹羽は。
「御屋方さまはいつもとまったく変わりません。ただ、どことなく暗い影が付きまとっています」
「で?」
「紅葉を見つめながら、ぽつりとまだか、と言われるんです。暗い戦慄を覚える声で、です。それが、この五郎左には辛く聞こえます」
「別に何も重大事は起きていないのだな」
「起きています」
 丹羽は即答で答えた。
「何が、だ」
「まだか、と何度も言われます」
「ただそれだけだろう」
「評定に出ず、女好きの御屋方さまが一切女に手を出さず、奥で紅葉を見つめるばかり。これが重大事といわずにして何というのですか」
「あのガキが暗くなっただけだろう。ついでに女欲を抑えることを覚えたとはめでたい」
「筆頭殿。……御屋方さまはまだか、と言いつつずっと心配しているのです。待っているんです。この三月の間」
「よく分かっているな」
「ただ、そう思うだけです」
「いつも他人事だな、五郎左は。………権六、そこの茶店で団子でもどうだ」
 袖を掴んで離さない柴田は、団子に心惹かれた様子ですぐに「食べますぅ」と答えた。だが、丹羽の鋭いまなざしに恐れをなしたようで、 ぶるぶると震えて「いりません……」とシュンと呟くのだった。
「それでは連行させていただきます。お覚悟をなされ、筆頭殿」
 通勝は分かったとだけ答えた。せっかくの清水の茶店に行けなくなったが、それはまた後々に来ればいい。人には運や不運があり、見切り時というものも存在するものだ。
「休暇の見切り時は、八坂の紅葉か」
 もし、あの幼馴染の友ならば、短歌をひとつ詠むかもしれないな、と通勝は苦笑しながら丹羽に連行されていくのだった。……通勝は芸事全般に秀でてはいたが、なぜか短歌と絵だけはまったくといって苦手なのである。



 京の都より尾張清洲城に容赦なく連行された林通勝は、慣れ親しんだ清洲城の館に立ち入った習慣に違和感を感じた。
 異常なまでにシーンとしている。それも静かなシーンではなく、嵐の前の静けさと言えるような静寂なのだった。
 なんだなんだなんだ。
 通勝はげんなりとなってしまう。
 この緊迫感あふれる屋敷はどうしたのだ。しかも己に一心に注がれる陰湿な視線が、通勝を思いっきり不快にさせてくれた。
「これでは針のむしろではないか」
 当然です、と目で告げてくる丹羽の両腕は、今は通勝を押さえ込んでいた。それにもげんなりとしてしまった。
「随分と見慣れぬ顔がいるな」
「筆頭殿が消えている間に新しく仕官をした方々です。後で御屋方さまから紹介されると思いますので、今はこの五郎左の口からは申しません」
「どうだ。いっそ俺を追い出して筆頭の座を狙ってみないか、五郎左」
「ご遠慮します」
「そう遠慮することもない職だぞ」
「……織田家の筆頭は、御屋方さまにとっては決して侵してはならぬ聖域でございます。今は筆頭殿以外の適任者もおりますまい」
「言ってくれるな」
「私が言わねば、誰が言うのでございますか」
「俺はいずれおまえに譲りたいと思っているのだが」
「ご遠慮いたします。私は自分の分というものを心得ているつもりなので」
 そつなく言葉をかわしながら、丹羽は通勝を逃がさぬようにしながら歩いていく。この男はいつも他人事のようだ。今まで、丹羽が自分ごとを全面に出したことをさして通勝は見たことはない。
「奥殿へお渡りください。……これより先は誰一人としてお通しいたしませんので、ごゆっくり」
「それはどういうことだ」
「いえ、決して深い意味はございません。ただ、ごゆっくり、と」
 と、奥殿へつながる廊下を差し伸べ、丹羽は通勝の身体を離し自らは二、三歩後ろへと下がる。
「一緒にどうだ、五郎左」
「何を嫌がっておいでなのですか。筆頭殿らしくもない。それに、御屋方さまの居室に勝手に入ることを許可されているのは筆頭殿唯一人にございます」
 さぁ早くさっさと行ってください。
 通勝は渋々奥殿へとつながる廊下を歩き始めた。はっきりといって気が進まない。
 あの暗く沈んだガキを手懐けるのはどれだけ手間がかかるか。できるならば、このまま回れ右をして逃げてしまいたい。
 ……それでもいつかは通らねばならない道ではある。
(置いていく気はなかった)
 たまには気ままに温泉旅行でもさせてくれてもよいだろう。いつもいつも屋敷に縛り付けられているのだから。
 それでも多少後ろめたさを通勝は感じずにはいられない。三月という期間は通勝には短いが、待つ方には長いものやも知れぬ。ましてや今まで三月も離れたことはなかったのだ。自分たちは。
 おそらく、ただこの広い館に残されたあのガキはどういう気持ちでいたのだろう。
 だが、二十歳をとうに過ぎた大人が己がいないだけで狼狽するなど。……いったいいつまで子どもの気分でいるのやら。
 この屋敷で一番暗いのではないか、と思われる部屋の前で、通勝はわずかな間立ち止まり静かに襖を開いた。昼間だというのに、この暗さは何だろう。一切の襖は閉じられ陰湿な感じさえあるこの部屋に布団を中央に敷き、寝そべる青年がこの屋敷の主。今、ある一部では戦国の風雲児と呼ばれている織田信長その人である。
 足音を忍ばせて枕元に近寄れば、眠っている信長の寝顔が見えた。
 それが安らかならば、そのまま立ち去ったかもしれないが、通勝はその場から動かなかった。
 そっと頬に触れ、頭を撫でてみる。明らかにやつれた顔貌が、自分のせいではないだろう、と考え、すぐに若干は自分のせいでもあるだろうな、と通勝は思い直した。
 眠りについてなお苦しげな顔をする信長を見て、通勝は眉をひそめてしまう。
 ……このガキが穏やかな顔をするのは、あの時しかないのだ。
 その考えを吐き捨てて信長の頬をペチペチと叩いた。すると、イヤイヤをするように目を開ける信長に、通勝はニッと笑う。
「今、戻った」
 と、いつものように告げた。
 すると信長はパチリと目を開け、二、三度瞬きをしてそっと右手を伸ばしてきた。
 何も言わずにその手を通勝は握り締める。
「馬鹿野郎が」
 それだけ口にするだけに信長はどれだけ苦労をしただろう。見れば、強がっているが今にも泣きそうな眼差しだ。通勝の指が、信長の頬に触れ唇に触れ、まぶたに触れ、もう一度頬をなでる。泣くな、と言いたいが、決して言ってはならない。
 すると焦れたように信長は起き上がり、抱きついてきた。強く、そして哀願するかのような哀しい抱きつき方で、通勝は黙って受け止めるだけだ。やはり三月の間、置き去りにしたのが何かしら心の振動になったようだ。
「おかえり、といってはくれないのか」
 通勝は珍しくニコッと笑って見せ、
「おかえりは? 吉法師」
「何がおかえりだ」
「帰ってきたんだが」
「……三月も消えていただろうが」
「小憎らしい物言いだな」
「馬鹿野郎」
「……おまえに馬鹿野郎とは言われたくはないな、吉法師」
 通勝は二人だけの時は、信長を幼名の吉法師で呼ぶようにしていた。
「馬鹿野郎に馬鹿野郎といって何が悪い」
 強がりを続けて、それでもギュッと抱きついたまま離れない信長の気持ちが通勝は痛いほど分かっているつもりだ。
 受け止めたまま、通勝はそっと布団に信長を寝かせた。そして自らも横になる。
「俺は疲れた。もう寝るぞ」
 と、信長をそのまま抱きしめ腕枕をいつものようにしてみせる。
「何が疲れた、だ」
「話は寝てから聞く。すべて聞くゆえ今は寝かせてくれ」
「おまえ、無断欠勤で厳罰が待っているんだぞ。それが……」
「そんなに俺に添い寝をしてほしくないのか。別にいいが」
 冗談のつもりで起き上がろうとすれば、イヤだと言うかのように抱きついてくる信長の熱が衣越しに伝わってきた。本当に駄々っ子だ。あの普段の威厳や畏怖はどこへ行ってしまったと言うのか。
「どこにも行くな」
 あまりに強く抱きしめられ、通勝は若干苦しくなり、少し離れろ、と耳元でつぶやいたのだが、
 まったく離れようとはしない。
 親のぬくもりから離れるのを嫌がる幼い子どもを、通勝は今抱きしめている感覚でいる。
「どこにも行かないよ」
 嘘だという強い眼差しが、少しは元気が出てきたな、と安心させられる。
「行かないといったら行かないよ」
「いつも、そういって嘘をつく」
「いつかはどこかへ行くかもしれないが、今は行かないからそんな哀しい顔はするな」
「おまえは信用できない」
「信用しなくていい」
「大嫌いだ、おまえなど」
「それでもいいから」
「いつもいつも不意に消えて唐突に帰ってくる。俺に不安だけを持たせて、何気ない顔で帰ってくるんだ」
「戻らぬほうがよいのか」
「誰もそんなことを言ってはいない」
「今はどこにも行かないよ」
「馬鹿野郎」
「ここにいてやる……よ」
 と、まぶたに口づけを与えれば、信長はピタリと叫ぶのをやめ、今度はなんともいえぬ顔となり通勝の胸元に顔を埋めてしまった。
 必要以上に人のぬくもりをほしがり、それが得られなければ捨てられた子猫のような顔をして下を向く。幼いころに親の愛情を得られず、それ以来愛情というものを知らずに育った子ども特有の病は、今通勝に一心に向けられている。ぬくもりがほしい、と。
「今はゆっくりと眠れ。目覚めてもちゃんと横にいる」
「………」
「ここにいるよ」
 信長は何も言わずに目を閉じた。その身体を優しく抱きしめ、いつまでも今日は抱いていてやろう、と通勝は思う。
 いつも自分が消えると寂しげな顔をして、縋るような眼差しをする幼子のような大人。五歳から今までの間、いつも着かず離れず側にいたのがいけなかったのか。人間、一人くらい本音を語れる人間がいたほうがいいと通勝も思ってはいるが、己の前ではすべての防御を消し去る信長の無防備さは時として危ういものを感じてしまう。
 もし己が側から消えたならば、このガキはどうするのだろう。あまり側にいないほうがいい。それが通勝の結論であった。だから、このごろは無謀なことばかりをして離れる。離れてしばらくして顔を出せば、不安を隠しきれない眼差しで縋ってくる信長。……その顔を見たら、また腕を差し出してしまうのだ。こんな関係で良いのだろうか。いつまで、こんな関係を続けられる。
 いつかは離れなくてはならない、というのに、だ。
「……通勝」
 目を閉じたまま信長はボソリと告げた。
「おかえり」
 どこにいってもよい。けれど必ず戻って来い。戻ってきて俺の前で笑って「ただいま」と言うんだ。それが約束だろう。
 決して置き去りはするな。
 そう信長の目は暗黙に告げている。
 それだけを守れば何をしてもよいと通勝に言ったのは、猫のように引っ付いて離れようとはしない目前の信長その人だった。
「……悪かったな」
 お詫びに今日はこのまま腕枕をしていてやるから、三月分の付けを払うから、だからそんな寂しい顔をしないでくれ。
 こんな顔をするから完全に離れられないんだ、己は。
 袖を握って子どものような顔をするから、まるで置き去りにされたら息吹ができないという顔をするから、だから置き去りはできない。
 側にいて、と泣くから。
 独りでは生きられぬ、と叫ぶから。
 だから結局は最後に己が折れるしかないということを、通勝は認めている。
 ずっと側にいる、と約束したのは通勝だった。離れずに守り支えるから、決してこの手を離さないから。だから、真っ直ぐに生きていけ、とかつて通勝は口にした。生きる、と信長は言う。だから離れるな、と叫んだ。離れれば苦しくて寂しくてきっと息吹ができなくなる。そして、最後には息を止めるのだ、と。
 今、腕の中で眠る信長はとても安らかな顔をしている。
 知っているよ、と通勝は心の中でいった。
 己の前でだけは無邪気な幼子。決して何も偽らない子どものような信長。それは一種の歯止めであるのだった。
 信長は前へと進み行く道のりを、己がいるだけに後ろを振り向く。己の手を離さないために前へと進むのを躊躇い、あえて己が背中を押せば一歩も進まず己に向かって走り寄ってくるのだ。どれだけ前へと進みたいか。それでも己がいなければ走るのをためらう信長。まして前に進む行為を己が下を向くだけで、すべてを白紙に戻してしまう。
 あくまでも、この信長の成長を止めているのは己。いや逆行させているのかもしれない。だから、側に居てはならないのだ。本当は随分前に離れなくてはならなかった。ただ、それができなかったのはあの顔のためだ。
 泣きそうな顔で己を見るでない。
 己がいなければ生きてはいけぬ、と錯覚を抱くではないよ。
 本当はぬくもりをくれるならば誰でもいいのだろうが。
 だから、もう己を解放しろ。
 縛る鎖を緩めるだけでいい。
 それで離れられる。
 二度とおまえを躊躇わせることがない。
 腕に抱く信長の安堵の寝顔は無邪気でかわいらしいと思う。
 そっと頬に唇を当てれば、微かに信長はニッと笑ったような気がした。
 ごめんな、と通勝は唇だけを動かす。
 離れるその日まで……独りにはしないから……だから泣くな。


 後に魔王とも赤鬼とも呼ばれ都に……この国に君臨する織田信長にも、その数十年前には私生活においてただひとり甘えられる存在がいた。その人の腕の中にいれば、何も怖くなくなる。とまで言うほど信頼をした存在。
 五歳より幾年が過ぎ去ったか。
 常に着かず離れず側に居る。
 離すまい、と信長は思う。
 離れよう、と通勝は心に決めた。
 そんな二人の心のすれ違いがゆっくりと怒涛の時代に巻き込まれ、最悪の結果を生むその日まで二人は葛藤していくことになる。
 今はまだ葛藤の序曲。
 まだ魔王織田信長には心を預ける存在がいた。そんな戦国時代のある秋の一日のこと。
 いつしか二人とも心地よい寝息を立てて、スヤスヤ、と眠っている。


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  • 【初出】 2005年ごろ
  • 【修正版】 2012年12月02日(日)
  • 【備考】